No.01『地底世界ペルシダー』E・R・バロウズ/佐藤高子訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」
子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]
photo:大塚佳男
人生の50冊の記念すべき最初の一冊が、ほとんど誰も知らない作家の、なかでも知られていないシリーズなのは、自分でもすこし残念である。けれど、この本でなければならない理由が、当然ながらあるのだ。
1960年代半ばの小学生が置かれた文化的な状況を振り返ってみよう。テレビでは『鉄人28号』や『8マン』といった草創期のSFアニメが大人気だった(どちらもモノクロ)。実写ものでは『ウルトラQ』が惜しまれつつ終わり、なかでも子どもたちに大好評だった巨大怪獣を軸に据えた『ウルトラマン』(ここからカラー放送)が新たに始まり、あっという間に人気をさらっていた。ぼくもその熱気に巻きこまれ、毎週オンエアを楽しみに待っていたのである。
けれど時間は残酷で、どんなにおもしろい特撮番組でも30分で終わってしまう。もっとあの世界に浸っていたい。まだ貧しかった東京下町の冴えない暮らしではなく、海外や宇宙を飛び回り、未来のジェット機や光線銃で恐ろしい怪獣を倒しながら、素晴らしい冒険をしてみたい。
そう熱望していた小学2年生のある日、父といっしょに駅前のちいさな書店をのぞいてみた(あの頃はどの街角にも家族で経営するちいさな書店があった! 素晴らしい時代)。巨大な恐竜がジャングルのなか悠然と移動していく胸躍るイラストの一冊を書棚で見つけた。これはもしかしたら、『ウルトラQ』の怪獣回のような話かもしれない。ぼくはどきどきしながら、その本を父に買ってもらった。我が家では本に関してはこづかいの範囲外で、いくらでも好きなように買ってもらえたのだ。
その日、帰りのバスのなかで夢中になって読んだのは、こんなストーリーである。
20歳の青年デヴィッドは鉱山技師ペリーがつくった地底探査機「機械モグラ」に乗りこみ、探検に出かける。だが、地下世界に広がっていたのは巨大な空洞で、その世界を支配するのは翼竜を祖先にもつマハールという体力知力ともに最強の種族だった。人類はそこでは、ただの食糧でしかない。マハールは生きたまま人を喰らうのが好きで、痛みを和らげるためこれから食べようという人間に、慈悲深くも催眠術を使ったりする。『進撃の巨人』も真っ青の残虐さだ。多くの被支配種族と手を結び、マハールの圧政を倒し、デヴィッドが地底世界にペルシダー帝国をつくりあげていくという冒険と革命の物語である。
7歳だったぼくには刺激が強過ぎるほどの世界だった。最も堅いという樫の木でつくられた分厚いドアを、マハールが嘴で破り、主人公が隠れる部屋に突入してくる。そんな場面を読んでいるときは、興奮でてのひらが汗でぬるぬるになったものだ。
著者のエドガー・ライス・バロウズはアメリカのペーパーバック作家。得意な分野は秘境や宇宙での冒険小説である。最も有名なのは誰もが知っている「ターザン」シリーズだろう。ハリウッドで何度も映画となり、21世紀になってからもCG多めで映像化されている。次いで有名なのは「火星」シリーズだろうか。こちらは謎の力で火星に瞬間移動した青年が活躍する物語だが、火星の大気には酸素があり、普通に呼吸できる設定になっていた。この時代のSFは科学的な設定がまだまだ甘かったのだ。
だが科学技術の詰めがいくら甘くとも、この時代の「サイエンス」には夢があった。子どもたちの多くが、持ち運べる小型電話機、巨大な壁掛けテレビ、空飛ぶ自動車、火星探査船といった空想上のテクノロジーに夢中だった。あの頃、科学技術が指し示すのは、明るい未来そのものだった。今の調子でがんばれば、誰もがもっと豊かになり、想像もできないくらい便利でカッコいい未来を生きることができる。サイエンス万歳! 現代では当時の夢のプロダクトの多くが実現したけれど、未来への希望は子どもたちの間でさえくすんで魅力を失ってしまった。進歩するごとに薄れていく夢。ここに科学技術というものが本来持っている避けられない反比例の法則が働いているのかもしれない。夢のテクノロジーも商品になった途端、新たな問題を生みだし、魔法のような魅力は消え失せ、ただの現実と日常になってしまう。
作者のバロウズが心臓病で亡くなったのは1950年。数年後に作品はすべて絶版となるのだが、時代の波とはわからないもの。60年代に入ると突然再評価が巻き起こり、全米で1年間に売れたペーパーバックの30冊に1冊が、バロウズ作品となったという。泉下の作家もどうせなら生きているうちにブームがきてくれたらと、嘆いたことだろう。
この『地底世界ペルシダー』を皮切りに、小学校2年生だったぼくは、活字だけの本のおもしろさに目覚めることになった。似た本を探して、図書館の児童室でさらなる発見をするのは、2週間後のことである。そこに並んだ50年代SF黄金期の海外の名作を、夏休みを丸々かけて書棚2段分読み切ることになる。午前中に図書館にいき、読んだ本を返して、次の本を借りる。夕方までにその本を読みあげて、また図書館に返却にいき、夜読むための本を借りてくる。1日2度の図書館通いが習慣になったのだ。
そんなある日の図書館の帰り道、胸に本を抱えて歩いていた2年生(Tシャツに短パン、脚は膝までのハイソックス)は、橋の途中で素晴らしいアイディアを思いついた。
「読むだけでこれほどおもしろいなら、自分が書いた本で人を楽しませられたら、それはきっと素晴らしい仕事に違いない。よし、大人になったら、作家になろう」
当時7歳で、原稿料も印税も知らなかった。小説を書いて、どうやって食べていくのかもわからなかった。それでも作家の仕事の核心となる動機は、しっかりと掴んでいたようだ。その決心は幼い頃の夢のつねで、いつの間にかうやむやになってしまうのだが、30年後バロウズの再ブームと同じように突然再燃して、新人賞の応募へとぼくを向かわせることになるだろう。
ペルシダーは本という広大な世界に入るための扉になる一冊だった。地球空洞説がすたれてしまっても、主人公がなぜか美女と簡単に結ばれても、パルプ作家の3番手のシリーズで、現代ではもうほとんど読者がいなくとも、そんなことはまるで問題にならない。
この本との出会いがなければ、ぼくはきっと作家という仕事を目指すことはなかっただろう。すべての夢にはきっかけがある。そのなかには必ず、手に汗握るスリルや、快哉を叫ぶような冒険がある。なにより幼い心に火をつける、原初のまばゆい火花がある。それは本のおもしろさという火花だ。その光にふれてしまったら、もう誰も後戻りなどできない。
記念すべき作品番号①として、無名の作をここに取りあげるしかないのは、実に個人的な理由なのだった。
【小説家・石田衣良を育てた50冊】
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石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira