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No.04『異星の客』R・A・ハインライン/井上一夫訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 7歳で黄金期の欧米SFを発見してから、続く小中学生のあいだ、ぼくの読書傾向はほぼSF漬けになってしまった。そうなると、この人生の50冊で選ぶ本も最初の10年分はSFばかりという困った事態になってしまう。そこでこの時期を代表して、もっとも心を掴まれたSF作品をひとつだけ紹介しておこう。ちなみにその他の作品は「世界SFベスト10」と「日本SFベスト10」として、動画配信のぼくのチャンネルで発表しているので、興味のある人はぜひ、どうぞ。よければ登録もお願いします。

 ロバート・アンソン・ハインラインは、アイザック・アシモフ(『われはロボット』『銀河帝国の興亡』)、アーサー・C・クラーク(『幼年期の終わり』『2001年宇宙の旅』)と並んで3大SF作家と呼ばれることが多い。作風の幅は広大だ。日本で一番人気なのは、若き科学者と少女との時を超えたロマンチックな恋愛を描いたハッピーエンドのタイムトラベルもの『夏への扉』。この作品はつい最近、日本で映画化されたので記憶に新しいかもしれない。ちなみにハインラインが飼っていた猫ピクシーが、冬になるといつも開けてくれとドアをかりかりとひっかいていた。それを見たハインラインが、こいつはなにをしているんだ? といったところ、妻がひと言「夏への扉を探しているんじゃない」。ザ・ドア・イントゥ・サマー。タイトルはその場で決まり、長編はたちまち書きあげられたという。これほど素晴らしいタイトルの考案者なのだから、印税の3割は妻ジニーにあげてもよかったかもしれない。
 けれど、ハインラインの3大傑作は、日本人好みの愛らしい中編ではなく、思想も作風もまったく異なる『宇宙の戦士』『異星の客』『月は無慈悲な夜の女王』(発表順)となるだろう。アナポリスの海軍兵学校出身のハインラインらしい軍事SF『宇宙の戦士』は、パワードスーツを着こんで昆虫型宇宙人と戦うという典型的なパルプSF的なストーリーだ。パワードスーツというアイディアは「ガンダム」のモビルスーツにインスピレーションを与え、世界中のアニメとSF映画に多大な影響を及ぼした。集合意識に命じられ、自らの安全には無頓着に闘う宇宙人バグズという設定には、日本やベトナムなどアジアの兵士のイメージがあるのは間違いない。戦わない者には市民権はない、自由と安全を守るのは力(軍事力)であるという右派の思想がこの作品の中心にあるのだが、最後に明かされるのは主人公リコがフィリピン出身だったという、ひと筋縄ではいかない作品だ。

 続く『異星の客』は後半でとりあげるのでひとまず置いて、『月は無慈悲な夜の女王』は空気や水にまで重税を課せられた月世界市民の地球に対する独立戦争の物語である。ここでも素晴らしいアイディアが光る。まずコロニーのすべてを制御し、自意識を有するAIマイクである。残念ながら現在の生成AIは資料の検索ともっともらしいレポートの製作には優れているが、意識や感情の実装は原理的に不可能である。マイクのように冗談がいえるといい友達になれると思うのだが。月の独立政府最大の武器は、重力の井戸のうえから地球に落とす秒速11キロメートル近い、姿勢制御ロケットつきの岩の塊で、こちらも「ガンダム」のコロニー落としの原案であることはSF好きには有名だろう。世界中のメガロポリスを都市圏ごと吹き飛ばす非核の超高速度質量兵器である。数百万の命を奪った最初のハード・ロック作戦で、格子状に地球の夜に輝くダイヤモンドのような爆発を目撃したAIマイクはいう。これまで意味を知らなかった言葉がわかった。オルガスムス(性的絶頂)。あれが全部光ったときそうだった、と。よいSFは想像力の果てまでいけるのだ。
 ハインラインは『宇宙の戦士』で第二次世界大戦を書き、『月は無慈悲な夜の女王』で英国に対する独立戦争を、エンタテインメントSFの形にパラフレーズして描いた。主題をひと言でいうなら自由と自治権を求める戦い、その際必然的に生じる力の行使をめぐる物語といっていいだろう。アメリカの作家なので、つねにリバタリアニズム的絶対自由の立場に身を置き、軍事という強制力を他者に行使する側に回ることとなる。どの国の作家にも文明史的な限界はあるものだ。日本のシミュレーションSF戦記では、繰り返し太平洋戦争の敗北が否定され、超兵器による起死回生がこれでもかと描かれている。

 さて、そんなハインラインの最高傑作はどんなものになるのだろうか。新たな戦いは権威主義諸国との熱戦だろうか。だが、予想に反して『異星の客』には戦いはひとつも存在しない。文庫本で800ページ近い大作は、なんと一転して新約聖書の書き直しとなるのだ。しかも、60年代の異議申し立て運動に賛同するフラワー・ムーブメントの価値観を基底に据えたリベラルすぎる物語となる。
 第一次火星探査船の唯一の生き残り、ヴァレンタイン・マイケル・スミス(マイク)は火星人に育てられたが、地球に連れ戻される。世界連邦の法律では、火星という惑星の所有権はマイク(またもマイク!)のものである。火星人の視点で地球の文化、風俗、経済、政治を観察するマイクは『ガリヴァー旅行記』の旅人のようだ。異化作用は強烈で、人間の生き方、世界の在り方そのものを考え直さざるを得ないように書かれている。その過程でマイクは新たな宗教を起こし、怒り狂った群衆から石撃ち刑のように全身に投石を浴び、血まみれで殉教することになる。
 この世界にある命はすべて平等にして「神」であるという汎神論、一夫一婦制よりもグループ婚をよしとする火星的な婚姻制度、大切な人が亡くなったときは埋葬するのではなくスープにして食べることで、その相手を真に認識(火星語でグロク=食べる)するという人肉食志向と、さまざまな奇想天外のアイディアをちりばめた大長編である。物語の最後ではキリスト教からマイクが創立した新宗教「すべての世界の教会」へ、地球の霊性的な主導権が移行していくことを予感させつつ、SFというよりは哲学的寓話に満ちたファンタジーは幕を閉じる。内容は非常に進歩的で、『宇宙の戦士』とは180度異なり、ヒッピーたちの聖書としてベストセラーになったといえば、ハインラインの持つ幅の広さをイメージしやすいだろう。右と左、どちらからも熱狂的に支持される作品が書ける作家、分断が極限まで進行した現代アメリカの文学界では、もうハインラインのような作家は生まれてこないかもしれない。

 この本を読んだとき高校生だったぼくは、なによりも小説のなかでこんなに自由に、誰にも気兼ねすることなく自分の考えを好きにいえるのだという奔放さに驚いた記憶がある。『異星の客』発表時にハインラインは50代半ばで、長らく続けてきた職業作家の仕事のあいだに溜まった思考や人生観(あるいは老廃物)を一度すべて吐きだしてしまいたかったのかもしれない。どこに掲載された記事か忘れてしまったが、ハインラインはいっている。自分は頭ではなく、身体の奥にある腺で小説を書いている、と。胸腺やリンパ腺のように肉体の深くからじわじわとにじみだしてくる分泌液のインクで書く小説。多くの読者は勘違いしているが、頭脳で書かれた小説よりも、リンパ腺で書かれた小説のほうが、この世界では多数を占めているし、傑作は腺で書かれた小説のほうが多いものだ。

 キリスト教の歴史が長い西洋には聖人伝の形を借りた名作が数多くある。ヘッセの『シッダールタ』、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』、フローベールの「聖ジュリアン伝」、ジュースキントの『香水』も反聖人伝という意味では、このジャンルに入れてもいいかもしれない(あの殉教も見事だった)。だが多数の聖人伝のなかで、もっとも読みやすく自由闊達で、多数の論争を呼び起こし、この世界の在り方を根本から考えさせる力がある小説は、この『異星の客』であるといっておこう。
 カリフォルニアにはこの作品に登場するマイクの教会の教義を丸々なぞった新興宗教があったという。信者はハインラインの小説のようにおたがいを水兄弟と呼びあい、グループ婚を推奨した。事実は小説より奇なりというけれど、ときに奇の果てにある小説が事実を生みだすこともある。

作品番号(4)
『異星の客』
R・A・ハインライン/井上一夫訳
東京創元社 1969年2月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira


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