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恩田陸「草の城」第2回

半年前に夫を亡くし、ひとりでひっそりと暮らす七十代の女性・天野弥生(あまの・やよい)。遠い昔に作った「ツユクサの押し花」を見つけたことをきっかけに、彼女は過去の自分を訪れるようになるのだが……。
構想から30年。ついに描かれる、時を超えた愛の物語。
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 おい、そこのナミダ。

 最初、そう声を掛けられた時は、自分に向かって言われているのだと分からなかった。
 おい、おまえだ、ナミダ女。
 今度は、明らかに私に向かって言っているのだと気付き、声のするほうを振り向いた。
 長テーブルに並んでいる三人の男女が目に入った。
 真ん中のがっちりした男が立ち上がって手招きをしている。その両脇に、顔をしかめて彼をこづいている男と、あきれ顔の女。
 テーブルに貼ってある紙には、そっけなくこう書かれている。

 ハイキング同好会

「あのー、ナミダってこれのことですか?」
 私が自分の顔の眉のところを指さすと、がっちりした男は大きく頷いた。
「そうだ」
 いきなり顔の傷跡について面と向かって言及されたのは初めてで、気を悪くするというよりも、ある意味「勇気あるなあ」と感心してしまった。
 両脇の男女が慌てて男をたしなめる。
「ごめんなさい、こいつ、ホントに失礼な奴で。おい、やめろよ」
「ほんと、申し訳ない」
 両脇の男女が恥じ入るように頭を下げる。
「なんで謝るんだ? 身体的特徴を認識しただけだろ」
 ガタイのいい男は、不思議そうに左右の男女を見る。
「これを涙って言われたのは初めてですね」
 私はその男を見た。
 濃い顔、というのが第一印象だった。
 太い眉、大きな目、高い鼻。彫りが深い、というのはこういうのを指すのだろう。
 無精髭が生えている。髪はやや天然パーマらしく、ゆるくうねっていた。
 がさつで率直なものいいだが、不思議と悪意のような嫌なものは全く感じなかったし、怖いとは思わなかった。
「でも、涙はなんだか淋しいんで、他の呼び名にしてもらえますか」
 私がそう言うと、男はきょとんとした顔になり、次に「そうか」と考えこむ表情になった。
「んー、セミコロンとか?」
 そう呟いたが、やがてパッと顔を上げた。
「コンマだ、コンマ。コンマでいいだろ」
 私は苦笑していた。やはり「句読点」を連想するのか。
「ええと、私には天野って名前があるので、普通にそちらで呼んでもらってもいいんですけど」
「何言ってんだ、本名なんてつまんねーだろ。やっぱ渾名だよ、渾名。人は渾名で呼ばなくちゃ。よし、コンマ、ここに名前と住所を書け」
 要は、入部を勧誘されたのだった。

 押し花を見ながら、私は呆然としていた。
 あまりにもくっきりと当時の記憶が蘇ったので、一瞬、今自分がどこにいるのか分からないくらいだった。
 そして、別のことにも呆然としていた。

 忘れていた。
 彼のことを、忘れていた。
 彼の声も、忘れていた。
 ずっと、思い出さなかった。

 そのことが衝撃だった。
 胸の奥に、古い感情が、歳月を超えて鈍い痛みと共に蘇る。

 かつては私のすべてだった彼を――彼を失い、もう二度と立ち直れないと思ったことを――きれいさっぱり、すっかり忘れてしまっていた。

 いつしか、私は苦笑していた。「は、は、」とくぐもった笑い声すら洩らしていた。
 つまりは、そういう人間なのだ。
 根っこのところで、私は冷たい人間なのだ。だから、夫を見送っても平気でいられる。一人でいても、平然と過ごせる。
 ふと、庭に目をやった。
 だが、心は安らかだ。そのことはまごうことなき事実で、自分の冷たさに感謝したいような心地になった。私だけでなく、それは誰にとっても救いなのかもしれない。
 ね、そうでしょう?
 むろん、返事はない。
 私は今、誰に呼びかけたのだろう。

 結局、「コンマ」という渾名で呼び続けたのは彼だけで、サークルの他のメンバーからは「弥生ちゃん」と呼ばれていた。もっとも、彼は、みんなを自分が付けた渾名で呼んでいたが、定着していたのはそのうちのごく一部で、あとは専ら彼だけが使っていたので、そう珍しいことではなかったようだ。
 なんのかんのいって、ギデが勧誘したのって弥生ちゃんだけじゃん。
 自分の好みの子をスカウトしたのよ。
 入部してしばらく経ってから、あの二人――ギデこと山際英樹やまぎわひできの両脇にいた男女――はそう呟いた。
 私は入部のきっかけになったあの三人と一緒に過ごすことが多くなっていた。同学年に女子がいなかったから、というのもあっただろう。
 ギデというのも、英樹が自分で付けた渾名だそうだ。
 ヒデでもいいのに、なんでギデなんですか?
 そう彼に尋ねたことがあるが、「濁音二文字のほうが強そうだろ」という分かるような分からないような返事だった。

「うちは、元々理学部の連中が中心になって作ったサークルでね。地学とか生物とかに興味がある人間があちこち歩いて観察したり調査したりしてるうちに、ハイキング部になったわけ」
「伝統的に理系の人間が多いんで、名前から予想してた大学サークルとはちょっとノリは違うかもしれないけど、真面目なサークルよ」
 新歓コンパの時、ガタイのいい男の両脇を挟んでいた男女は、ガタイのいい男とは全く違ってとても感じがよかった。
 医学部三年の松岡悠太まつおかゆうたと、薬学部二年の高森苑子たかもりそのこ。二人はつきあっているそうだ。
 そして、あいつは山際英樹。工学部三年。
 ちらっと悠太が振り向いた目線の先で、あのガタイのいい男が大声で、他のメンバーと話していた。
「弥生ちゃんって、肝が据わっているっていうか、度胸あるよね」
「ギデにいきなりあんなふうに声掛けられたら、普通、びびって逃げるか、うんと気を悪くするかなのに、平然と受け答えしてたものね」
「しかも、渾名を訂正させたのって、初めてじゃないか?」
「確かに。大物だわ、弥生ちゃん」
 二人はボソボソと話し合っていた。
「僕とギデは、高校一緒なんだよね。腐れ縁」
 松岡は自分を指差した。
「どこの高校ですか?」
「新潟。つっても、僕んちもギデんちも転勤族だったんで、たまたま高校時代が新潟だった。ギデのルーツは山口だったかな。僕は静岡。今、ギデの家族は、大阪にいるはず」
「お二人とも関西訛りないですものね」
「子供の頃は、ペルーとかブラジルとかアメリカとかにも住んでたらしい。あいついわく、ものすごくおとなしい子だったのに、海外でいろんなひどい目に遭って、自我が破壊されて今の性格になったんだと」
「自我が破壊――ねえ。単に、本来がああいう性格だったんじゃないの。外国暮らしでそれが露見しただけでしょ」
「いろいろ面倒臭い奴なのは確かだな。決して悪い奴じゃないんだけど」
「だから厄介なのよね」
 二人は溜息をついた。

 山際英樹は、ともかく強烈な人だった。
 その存在感たるや、彼が部屋に入ってきただけで室温が上がり、きゅうくつになる。
 声がでかい。身振り手振りも大きい。間髪容れず喋りまくる。
 忖度なし、気遣いなし。
 それが、よいほうに振れれば才気煥発、気の利いたユーモアでみんなを笑わせ、場を盛り上げ、楽しませてくれる。しかし、悪いほうに振れると、露悪的でサディスティックな、狭いところに入っていって自爆する。割合からいくと、悪いほうに振れるほうが七対三くらいで多かったように思う。
 どちらに振れるのも本人には制御不能らしく、行き着くところに行っては、時々げんなりして自己嫌悪に陥っているのを見かけた。
 落ち込むくらいなら最初から何も言わなきゃいいのに、と思っていたが、彼の観察力は鋭く、頭のいい人であるのは確かだったので、その辛辣さが自分に向けられない限りは面白く聞けた。
 しかし、それを圧力や不愉快に感じる人も少なからずいたのは確かで、彼に不本意な渾名を付けられた新入生の中には、泣かされたり、辞めてしまったりした子もいたし、サークル内にうまの合わない人間もいた。
 結局、彼を理解しつつ、うまくつきあっていたのは、やはり松岡悠太と高森苑子の二人だった。
 ある時、突然、何かのスイッチが入ったらしく、彼が家族の悪口を言い始めたことがあった。
 彼の父親は、プラントを設計する技師だそうで、世界各地で仕事をしていた。何もないところに一から作る仕事なのだから、過酷な環境のところも多かったらしく、つきあわされる家族はあちこちを転々として苦労させられたという。
 多感な子供にとってはつらかっただろうな、と自分のことを思い出して共感したものの、あしざまに親を罵る内容が、「朝起こしてくれなかった」とか、「夕飯がずっとコーラとアイスクリームだった」とか、「犬と納屋で留守番させられた」とか、あまりにも小さい子供の駄々みたいな理由だったので、思わず「あはははは」と噴き出してしまったことがある。
 彼は、ムッとした顔でたちまち私に矛先を向けた。
「なんだ、コンマ? 何がおかしい?」
 おっと、と慌てて口を押さえたが、遅かった。
 英樹は「ふん」と鼻を鳴らした。
「さぞかしてめえんちは素敵な親が揃ってんだろうな? ああん? 日曜日によそゆき着てデパートの食堂で飯食ってピアノの上に博多人形飾って今日はみんなで誰々ちゃんの演奏聴こうねとかいって電話にレース編み掛かっててサイドボードに馬鹿高いウイスキーが入っててお母さんたまにはオマエも一杯どうだい、みたいな家に住んでんだろ」
 すごい妄想に、ますます笑ってしまった。
「いえ、羨ましいな、と思って」
 英樹はますますいきりたつ。
「ふざけんな、どこが羨ましい」
「家族と世界中に行けて、羨ましいです」
 彼は思い切り不機嫌な顔になる。
「はあ? いったい今まで何を聞いてた? 親に僻地へきちを引っ張り回されて、未開地遠征ツアーがいかに迷惑だったかって話だったろうが。耳かっぽじってやろうか」
「私、家族いないんで」
「え?」
 それに反応したのは、他の二人も同時だった。
「あ、私、一人なんですよ。母は小学校に上がる前に死んじゃったし、父も高校の時に病気で。ずいぶん長いこと、誰かがいる家に帰ったことがないです」
「弥生ちゃんちって、そうだったの? あたし、てっきり、どこかいいところのお嬢様だとばっかり」
 苑子がおろおろした顔になった。
 この話題は、やはりみんな引くな、と内心苦笑する。もうちょっと先にすべきだったか、と後悔したが、始めてしまったからには仕方がない。
「お嬢様どころか、きょうだいも、親戚もいません。というのは、うちの両親はどちらも孤児で、児童養護施設で育ってるんで。そこの幼馴染で、一緒になったそうです。だから、どっちの親戚もいないんです」
「でも、大学入るのに、保護者とか保証人とか要るでしょう?」
 悠太が尋ねた。
「はい。だから、父の友人の、父が亡くなった時にもお世話になった弁護士さんと、私の高校の教頭先生が保証人になってくれました。まあ、生命保険金とか、預貯金とか、父が遺してくれたもので、なんとか大学は卒業できそうですけど」
 私は肩をすくめた。
「文字通り、天涯孤独ってやつです。意外と会ったことないでしょ? 私も、今のところ、私以外にそういう境遇のヒトに会ったことないです」
「そうだったのかあ」
「人は見かけによらないっていうか」
 悠太と苑子が、フォローに困っているのが分かったので、「でしょう」と明るく笑ってみせた。この手の反応には慣れている。過度に同情されるのも、「みなしご」というレッテルを貼られるのも、願い下げだった。それしか知らないのだから、比べようがない。
「もうそういうもんだと思って、慣れてるので、気にしないでください」
 小さく手を振る。
「もちろん、ひどい親とか、ろくでもない親がこの世に存在するのは知ってますけど、とりあえず、文句を言えるような家族がいるっていうのは羨ましいです」
 笑いながら何気なく英樹を見て、ギョッとした。

 そこには小さな子供がいた。その子供は、ものすごく恥ずかしそうな目をして、うなだれていた。
 あれっ、と思った。
 この人、もしかして――実はとても繊細な、優しい人なのでは?

 が、次の瞬間には、またいつものガタイのいい、ふてぶてしい英樹に戻っている。
「ふーん。ナンダナンダコンマ、こっちこそすっげえ羨ましいぞ。誰にも邪魔されないのびのびしたゴーイングマイウエイ人生っての? 児童文学とか、皆そうじゃん。すげえ、ヒロインじゃんか」
「ギデ、おまえなー」
 悠太が顔をしかめたが、私は気にならなかった。
 今、直感した性格が、彼の本当の姿であると確信していたからだ。

 それ以来、彼はちょくちょく私に声を掛けてくるようになった。
「おい、コンマ、飯おごってやる」
「どうしたんですか」
「バイト代が入った」
「先輩、なんのバイトしてるんですか?」
「塾の先生」
「ええーっ」
 心底驚いた。
 英樹はムッとした顔になる。
「なんだよ、ムンクの『叫び』みたいな顔で驚きやがって」
「だって、先輩が、子供に教えてるところなんて想像できないです。大丈夫ですか? 子供、泣かせてません?」
「失礼な。俺様が教えるんだから、優秀な教師に決まってるだろ」
 今いち話がかみ合っていない。
 が、英樹が意外と子供に好かれる、というのは何度か目撃したことがあった。
 公園で休んでいたり、町中で彼がベンチに座っていたりすると、どこからともなく子供が寄ってくるのだ。
 一見、こわもてでとっつきにくい見てくれなのだが(実際、大人は全く彼に近寄ってこない)、なぜか子供たちはまとわりつく。
「うっせーな、このヒマなクソガキどもめ。しっしっ、あっち行け。俺は今忙しいんだ」
「ねえねえ、どこ行くの?」
「これなんの地図?」
「あっ、靴に穴開いてるー」
 子供相手でもお構いなしの口の悪さだが、子供たちは全く気にせず、彼の全身にしがみついてくる。
「なんで先輩には子供が寄ってくるんですかね」
 背中によじのぼる子供に「クソ重たい。子泣きじじいかおまえは」と文句を言う英樹に「子泣き爺ってなーに?」と尋ねる子供たちを遠目に眺めつつそう尋ねると、悠太が「ふん」と笑った。
「自分と同レベルの相手だと直感するからだろ」
 あはは、と思わず笑ってしまった。
 確かに、彼は口は悪いけれども、誰とでも対等に口を利く。見下したり、悪意を隠し持っていたり、といった裏表が全くない。それが子供にも分かるのだろう。
「あの複雑なのか単純なのか分からない謎の性格って、ご両親ゆずりなんですか?」
 そう尋ねると、悠太は首を振った。
「いいや、あいつだけ。何度かあいつの家族に会ったことあるけど、ご両親は極めてまともな、穏やかで感じのいい人たち。妹も可愛くていい子だし、あいつの性格だけオリジナル」
「へえー」
「僕が思うに、子供の頃はおとなしかったというのはホントだね。恐らく、自分の繊細さを嫌悪するあまり、過酷な海外生活になんとか適応しようとして、必要以上に過剰に適応しちゃったんじゃないかと」
「ご家族に対しても、あんな感じなんですか?」
「うん、あんな感じ」
「ご家族の反応は?」
「僕たち以上に慣れっこだったよ。英樹はああいう面倒臭い子なのに、親しくしていただいてありがとうございます、つきあいにくいと思いますけど、決して悪い子じゃないんで、どうかこれからも息子の友達でいてやってくださいって、僕、高校の卒業式の時に、あいつのお父さんとお母さんに頭下げられた」

 他人を笑わせたり怒らせたりしているくせに、彼自身はあまり笑わないな、と思っていた。
 なんというのだろう、照れなのか警戒心なのか、彼はいつも過剰に身構えているところがあったのだ。本来、生真面目な性格なのだろう。
 ある時、彼が一人で歩いているところを見かけて、やけに無防備で疲れたような顔をしていたことがあった。
 もっといえば、なんだか淋しそうに見えた。
 私は引き寄せられるように近付いて、「ギデさん」とその背中に声を掛けていた。
 彼はギョッとしたように振り向き、私に気付くと、いつものように身構えて、ふてぶてしい顔つきになった。
「なんだコンマか。脅かすなよ。俺の後ろにいきなり立つんじゃねえ」
「ゴルゴ13ですか」
「俺がアメリカの警官なら、フリーズ、ガッデム、てんで拳銃ぶっぱなしてたぞ」
「ここ、日本ですし」
「一年の奴ら、最近、俺の顔を見ると逃げるんだよな。さっきもシマジが逃げたんで追いかけた」
 無理もない、と思った。
 シマジというのは、これまた英樹が入部の際に付けた渾名で、本当は佐々木一馬ささきかずまという立派な名前があるのだが、英樹が付けたのは「縞模様のシャツ着た地味な奴」というのを縮めた渾名なのだった。不幸にも、なぜかこの渾名はサークル内で定着しつつあり(実際、彼の雰囲気はいかにも「シマジ」という感じなのだ)、一馬はその渾名について複雑な思いがあるらしく、当然その名付け親である英樹に対しても、鬱屈したものがあるのは明らかだった。
「いじめないでくださいよ、シマジ――じゃなくて、佐々木君のこと」
「いじめてなんかいないぞ。後輩と親睦を深めようとしただけだ。俺、足速いからすぐ追いついたけどな。そのあと一緒にコーヒー飲んだ」
 英樹は長身だし、高校時代は四百メートルハードルの選手だったらしい。小柄な一馬とは勝負にならない。
 いったいコーヒーを飲みつつ何を話したのだろう。たぶん、例によって英樹が一方的にまくしたてていただけかもしれない。
 英樹はジロリと私を見た。
「なのに、コンマは俺様の死角、斜め後ろから狙ってきやがった。不覚にも気付かなかった。できるな」
「何も狙ってませんって」
 私は苦笑した。
 と、英樹が足を止め、表情を強張らせるのが分かった。
 彼の視線の先を見ると、三人の男子学生が歩いてくるところだった。彼らもまた、英樹に気付くと足を止め、険悪な表情になる。
 この時は知らなかったが、彼らは英樹と同じ学部の学生だった。
 かつては、まだキャンパス内でも複数の政治活動団体が表立って活動していた。学園祭の入場料をその活動資金に流用しているという噂の団体もあったし、後に社会問題になるような、いくつかの新興宗教団体も、堂々と学生を勧誘していた。
 田舎育ちの私は、キャンパス内の立て看板の文字の字体や、たまに耳にする政治的演説の抑揚はどうして皆同じなのだろう、という素朴な疑問しか持たなかったが。
 そして、英樹はそういう集団主義的な団体を、蛇蝎だかつのごとく嫌っていた。何より、同調圧力というものを心から憎んでいたのだ。
 そういった相手に、しばしば英樹は喧嘩を売っていた。
 今顔を突き合わせている彼らは、まさに某政治活動団体に所属しているらしく、それまでもちょくちょく衝突していたようだ。
 たちまち英樹と彼らのあいだで、因縁の応酬が始まったのである。
 体制の犬め、そっちこそしょせん暴力組織の走狗だろ、飼い慣らされやがって、尻尾振って金集めてくるだけだろ、犬はどっちだ、とねちねち不毛なやりとりが交わされる。
 私はハラハラしながらそのやりとりを眺めるしかなかった。
が、ふと叫んでいた。
「犬!」
「なんだとぉ?」と英樹と彼らが同時に凄い剣幕でこちらを振り向いたので、私は指差した。
「そこに、犬が」
 三メートルほど先に、ハッハッハッ、と舌を出した黒い柴犬がいて、こちらを見上げていた。
 英樹たちが絶句する。
 当時は、リードをつけていない犬も多かったし、キャンパスの中は誰でも出入りできた。近所の住民が、犬をつれて散歩する光景も珍しくなかった。
「迷子かしら」
 あっけに取られる英樹と彼らのあいだをすりぬけ、私は犬の前でしゃがみこんだ。
 毛並みは綺麗だし、あしもソックスを穿いたように真っ白。大事にされている飼い犬なのは明らかだった。
 黒い体毛のあいだに、赤い首輪が覗いている。
「首輪は付いてるね。どうしたの、一人で。君のご主人はどこかしら?」
 頭を撫でると、人に慣れているようで、嬉しそうに尻尾を振る。
 その顔を見てピンときた。
「なるほどー、あのお兄さんたちが、犬、犬、って何度も連呼してるから、自分が呼ばれたと思ったんだねー」
 私はちらっと英樹たちを振り返った。
 皆が、毒気を抜かれたような顔でこちらを見ている。
 私は感心した。この犬は、自分が「犬」という生き物のテリトリーに収まっていること、あるいは「犬」という単語が自分に関係のあることを分かっているのだ。
「ごめんねー、あのお兄さんたちが呼んだのは、君じゃないの」
「クロ!」
 離れたところで、叫び声がした。
 そちらを見ると、飼い主らしき老人と子供がこちらを見て手を振っている。
 クロと呼ばれた犬は、いよいよ大きく尻尾を振って、「ワン!」と吠えるとパッと駆け出していった。
 犬と合流した二人は、私のほうを見てお辞儀していた。私もお辞儀を返す。
「よかった、飼い主が見つかって」
 私が「ねえ?」と振り向くと、決まり悪そうな顔で、あの三人がそそくさと去っていくのが見えた。
 英樹はというと、なにやら複雑な、中途半端な表情で突っ立っている。
「あの犬、賢いですねえ。自分が『いぬ』だってこと、ちゃんと理解してましたもの」
 英樹のそばに戻ると、彼は俯いて、肩を震わせていた。
「先輩?」
 どうかしたのかと声を掛けると、突然、彼は天を仰いで大声で笑い出した。
 あっはっはっはっ、という、カラッとしたものすごい笑い声。そのあまりの音圧に圧倒されて、思わず後退あとずさりするほどだった。
「犬!」
 彼は涙を流して笑っていた。
「本物の犬が来るなんて」
 ゲラゲラと愉快そうに笑う彼の顔に、私はどきっとした。
「あ、あいつらの、あのきょとんとした間抜けヅラといったら――」
 腹を抱えて笑う彼の、初めて見る心からの笑顔は、とても可愛らしかった。
 それまでも、たぶん予感はあった。
 ちらりと見せた恥ずかしそうな顔。一人で歩いていた時の淋しそうな顔。
 けれど、あの笑顔を見た時に、私は彼に恋したのだ。                 

(つづく) 

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連載【草の城】
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恩田 陸(おんだ・りく) 
1964年宮城県出身。92年第3回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞と第2回本屋大賞、06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎賞、17年『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞と第14回本屋大賞を受賞。その他の著書に『鈍色幻視行』『夜果つるところ』『spring』など多数。

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