恩田陸「草の城」第3回
半年前に夫を亡くし、ひとりでひっそりと暮らす七十代の女性・天野弥生(あまの・やよい)。遠い昔に作った「ツユクサの押し花」を見つけたことをきっかけに、彼女は過去の自分を訪れるようになるのだが……。
構想から30年。ついに描かれる、時を超えた愛の物語。
[毎月金曜日更新 はじめから読む]
気が付くと、既に陽が傾きかけていた。
洗濯物を畳みつつ、いつのまにか過去の記憶に浸っていたらしい。
一人暮らしだと、思うぞんぶんぼんやり物思いに耽ることができるのはありがたいけれど、そのいっぽうで、いくらでもだらしなくなれる。食欲がなければ、簡単なインスタント食品で済ませられるし、だらだら夜更かしすることも、さっさと布団に入ってしまうこともできる。
もっとも、この歳になると、規則正しい生活のほうが、よっぽどラクだ。そんなイレギュラーなことをする気力は、なかなか湧いてこない。たまに変わったことをすると、身体のほうが戸惑って、元に戻るのに時間が掛かってしまう。
ふと、家の前の坂道を行く人影に気付いた。
あの人だ。
灰色の帽子を深めにかぶり、ゆったりとした動きで散歩する同年代の男性。
そういえば、しばらく姿を見なかったような気がする。単に私が見逃していただけかもしれないけれど。
我が家には仏壇がない。
彰さんの写真も、小さな額に入れたスナップ写真、それも、何か作業をしている彼のバストアップの横顔、というもの。
葬儀の時の大きな遺影は、そのよそよそしい写真が彼に思えなくて、どこかにしまいこんでしまった。
なので、彼を偲ぶよすがにしているのは、棚の上の小さなスペースに置いた、小さな花瓶とそのスナップ写真だけだ。
庭に咲いている、ささやかな季節の花を、折々に活けている。
彰さんも、私も、写真を飾る、という習慣がなかった。そもそも、写真を撮る、という習慣がなかったのだ。
それはやはり、二人とも家族に恵まれなかったせいだろう。
写真を撮ってくれる人も、撮る対象となる人もいなかった私たちが、写真を撮る、あるいは飾るという習慣を持たなかったのは当然だった。
誰かの家に行くと、所狭しと家族写真が飾ってあるのを、いつも不思議なもののように眺めていた。
田宮さんの家に二人で行った時も、彼が居間に飾られた家族写真を、奇妙に醒めた目付きで眺めていて、あっ、今の私も彼と同じような目付きをしているのだろうな、と考えたことを思い出す。
私たちは、結婚する前もあとも、互いに写真を撮り合うようなことはしなかった。
自分には縁がないもの。無意識のうちに、そう考えていたのだろう。
なので、二人で写っている写真も少なく、結婚式の時の記念写真ですら、やはりどこかにしまいこんだままだ。最近処分した写真は、すべて誰かが撮って、譲ってくれたものばかり。
私の父も、写真を撮るという習慣を持たなかった。
いや、母が亡くなる前までは、たくさんの写真があったのだ。母と幼い私を撮った写真はたくさんあったのに、母が病に倒れてからの写真が全くない。
そのことについては、長いあいだ考えてみたことがなかったが、今頃になって、ようやく分かったような気がする。
恐らく、父は、母を失ったことから終生立ち直れなかったのだ。
父もまた、ものごころついた時からずっと、家族に写真を撮ってもらうということがなかった。
さぞかし、自分の家族というものを持ちたかっただろうし、家族写真を撮りたかったはずだ。
それが、実現した。
妻を得て、娘が生まれた。紛れもない、自分の家族。
家族ができ、撮る対象ができた喜び。これからは、家族が増えてゆくだろう。父となり、祖父となり、どこにでもいる平凡な家族のひとつになるだろう。
そんな喜びから一転、妻が病に倒れる。
その時の、父の恐怖と嘆き、ましてや、若くして妻に先立たれたショックはいかばかりだったことか。
父は、妻の喪失を認められず、それ以降写真を撮ることをやめてしまったのだ。
娘の成長すらも、彼にとっては妻の不在を確認することでしかなかった。だから、私の子供の頃の写真も、父が撮ったものは全くといっていいほど、ない。
子供時代の写真のない者。
それは、子供時代がなかった者とイコールのような気がする。
私が若い頃、カメラのフィルムのコマーシャルで、「あなたの恋人は、自分が小さい頃の写真を見せてくれたことがありますか? 見せてくれたなら、大丈夫」というコピーがあったのを覚えている。
見せようにも、写真がない。
あのCMを見た時に、真っ先にそう思った。
世間一般では、子供が家を出る時に、小さい頃に撮った写真のアルバムを持たせてくれるものなのだ、ということも知らなかった。
そのことは、山際英樹が私に子供の頃のアルバムを見せてくれた時に知った。
子供の頃の英樹、妹、家族写真。家庭の行事。四季折々の行事。誕生日、ひなまつり、端午の節句、七夕、クリスマス、お正月。外国と思しき写真。旅行の写真。
ああ、彼は、普通の家の人なのだ。普通の家庭のアルバムというのは、こういうものなのだ。
そう痛感させられた。
そして、彼がさんざん照れながらもアルバムを見せてくれた時は、「なるほど、こういうことか」とあのコマーシャルのコピーを思い出したものだ。
見せてくれたなら、大丈夫。
そう。
確かに、大丈夫だったのに。
今では、父の顔もおぼろげだ(なにしろ、これまた父の写真もほとんどないし)。
真面目で几帳面な顔。ちょっと近寄りがたい、地味で実直なスーツ姿しか記憶にない。
家で寛いでいる姿も、笑っているところも記憶にない。
典型的な会社人間だった父は、授業参観にも来たことがなかったし、三者面談にも来られなかった。
家庭訪問の時はどうしていたのだろう?
先生がうちに来ていた記憶がないので、ひょっとしてうちには来なかったのかもしれない。
何より、子供の扱いが得意ではない人だった。
あまり長い会話を交わしたことがなく、いつも距離があったような気がする。
大人になった今では、父も親というものを知らなかったがために、自分の子供ともどう接すればよいのか分からなかったのではないかと思う。
そして、やはり――父は、私を見ると、妻の不在を思い知らされるのがつらかったのではないだろうか。
ぼんやりと覚えているのは、父が私を見る時の、複雑な表情だ。哀しみと淋しさとやりきれなさみたいなものが入り混じった、なんともいえない表情。
私はあの表情が苦手だった。
父のあの顔を見ると、私までなんだかつらく、沈んだ心地になってしまうからだ。
子供の頃は、家政婦さんが通いで来てくれていて、めったに夕飯を一緒に食べたことがなかったし、遊びに連れていってもらったこともなく、正直、「お父さん」という実感があまりなかった。
父の知り合いの弁護士さん――秦野さんを、父が亡くなる前に紹介された。何かあったら頼るように、というのが唯一父から与えられた指示だった。
父とは、大学が一緒で、同じところの奨学金をもらっている、という共通点で親しくなったそうだ。
秦野さんは、中学時代に父親を亡くして母一人子一人で育った人だ。
秦野さんいわく、父は、捨て子だったことをとても気にしていて、舐められたくない、馬鹿にされたくない、という意識が強かったという。
父が捨て子だった、というのはその時初めて聞いた。
いっぽう、私の母の母は、シングルマザーで、出産後の体調が戻らないところに過労が重なり、母が幼い頃に亡くなり、父と同じ養護施設に入ったらしい。
とにかく、どちらも親戚らしきものが全くいなかったのは確かなようだ。
父は人付き合いもあまり得意ではなく、家政婦さんたちとも反りが合わなかった。
というのも、父は、サービス業の人を下に見るきらいがあったからだ。
恐らく、子供の頃の境遇のせいだったのだろう。みなしごだからと馬鹿にされたり、見下されたりしてきたことがあまりにも多かったために、自分を大きくみせたがり、命令し、見下す側に回ることを切望していたのだ。
日曜日は家政婦さんがお休みなので、父が夕飯は外食に連れていってくれるのだが(洋食屋さんとか、お蕎麦屋さんとか)、子供心にも、給仕の人など店の人に横柄な態度を取るのが、とてもイヤだった。
家政婦さんに対しても、顔を合わせるなり、挨拶抜きでこまごまと頼み事や仕事への文句を言うだけ言って、お礼を言わないのがイヤだった。
家政婦さんも、私がそういう父の態度を嫌悪しているのを察知していた。
「お父さんは忙しいのよ」とフォローしてくれる人もいれば、「弥生ちゃんはいい子なのにねえ」と、父への反感を隠さない人もいた。
正直いって、父との食事は楽しくなかった。
ろくに会話もなく、学校での様子をおざなりに尋ねるだけ。「残さず食べなさい」「綺麗に食べなさい」と言われたことしか覚えていない。
長いこと会話しながら食事をする、という経験がなかったので、大学に入って、皆で賑やかに飲むのが当たり前になったのは、とても新鮮だった。誰かと飲み食いするのがこんなに楽しいことだとは知らなかった。
とにかく、ものごころついた時から一人でいるのが当たり前だったので、当然、私は人に甘えるということを知らないままに成長した。
「淋しかったでしょう」と大人になってからよくきかれたけれど、それが普通だったので、「淋しい」という感覚はなかった。
もっとも、自立心は早く芽生えたかもしれない。
自分が子供という不自由な立場で、いつも誰かに何かをやってもらわなければならない、というのを窮屈に感じ始めたのは早く、家政婦さんにいろいろ教えてもらい、家事のてほどきを受けて、自分の身の回りのことを少しずつできるようになって、自分で自分の生活を管理できるようになるのは嬉しかった。
人が何かをしているところを観察するのは好きだったので、料理も見よう見真似で手伝わせてもらい、小学校高学年になる頃にはある程度作れるようになったのだが、父には内緒にしていた。私が料理を手伝っていることを知ったら、父のことだから、家政婦さんに対して「何のために給金を払っているんだ」と言い出しかねないからである。
父は、世渡りもうまくないようだった。
とにかく、頭を下げる、謝る、感謝する、ということが苦手な人だった。
真面目で几帳面な仕事ぶりだったが、頑固で意固地なところもあり、おべっかを使うとか、根回しをするとか、そういうことができないらしく、大手電機メーカーに勤めていたが、私が小学生の頃にA市に引越したのは、上司と対立して「飛ばされた」ということのようだった。父の部署で、地方に異動させる、というのはかなり珍しいことらしいので、よほどのことがあったのだろう。
父の転勤はそれ一度きりだったというのも、かなりイレギュラーな処置だったというのを表している。
もっとも、A市にいたのは一年間だけで、翌年再び東京に呼び戻された。
会社勤めをするようになると分かるが、大きな組織というのは、必ず派閥やグループがあって、微妙な力関係があって、常に水面下で綱引きをしている。どこかにほころびができると、あっというまにバランスが変わるので、人事は時の運みたいなところがある。
どうやら、A市への異動も、要は社内の派閥争いのとばっちりだったらしい。懲罰人事というのは反動も大きいもので、一年もするとまた勢力が変わって、揺り戻しがきた、ということのようだ。
どのみち、A市に住んでいた頃は、父はひどく暗く、鬱屈したものを溜め込んでいて、家の中の雰囲気も暗かった。父の影響があったのかどうかは分からないが、私も、A市での生活には、あまりいい思い出がない。
済まなかったな、弥生。
父の言葉が蘇る。
誰も彼もが、皆、私に謝って私の元を去ってゆく。
ううん、いいの。大丈夫。後は任せて。心配しないで。
私が彼らの望み通り、そう答えることをみんな知っている。
父とまともに話をしたのは、亡くなる前の数ヶ月だけだったような気がする。
父親らしいこと、何もしてやれなかった。
落ち窪んだ目で、父は苦笑した。
向こうに行ったら、お母さんに叱られちゃうな。弥生を頼む、と言ったのに、なんでこんなに早く弥生を一人にするのって。
あの時初めて、父の顔をはっきり見たような気がする。
ああ、私は父親似だったんだ、と思った。
奨学金を返すのが、思ったよりも大変でね。
父はコホ、と乾いた咳をして、顔を歪めた。
いっぱい残業もしたし、特別手当の出るような仕事もなるべく引き受けたんだが、あまり貯められなくて、弥生にたくさんおカネを残してやれなかった。治療費も掛かってしまって――本当に、済まない。
胸を衝かれた。
後で秦野さんからも聞いたけれど、父や秦野さんが受けていた奨学金というのは、返済義務のあるもので、利子も含めてかなりの額になり、受給者の多くは返済に多くの年月を要するのだという。返済に苦しみ、更に借金を背負う人も少なくないらしい。
会社人間、仕事人間だと思っていたのは、そういう理由もあったのだ、と初めて気が付いた。
ほったらかしだったのに、いい子に育ってくれて、感謝してる。
父の口から、「感謝」という言葉を聞いたのはそれが初めてだった。
いつも距離を感じていた父だが、終わりの日々は穏やかで、決してたくさん話したわけではなかったが、それなりに理解しあえたような気がする。
砂時計の砂が落ちていくように弱っていく父を見るのはつらかったが、右も左も分からなかった母の時とは違って、きちんと看取れたのはありがたかったし、看取れる、というのは幸せなことなのだ、と思った。
天涯孤独となった私は、心細さと同じくらいに、奇妙な解放感を覚えていることに気付いて、困惑した。
もちろん、喪失感や哀しみは大きかったけれど、同じくらいに安堵している自分がいたのだ。重石が取れた、とでもいうような。フワっと身体が軽くなったような。
その時、初めて、私は冷たい人間なのかもしれない、と思った。
どこかで何かが欠落した、人に対して愛情というものを抱けない人間なのかもしれない、と。
父が亡くなったのは、高三の夏だった。
本来であれば、すぐに社宅を出なければならなかったのだが、父の勤めていた会社が、私が高校を卒業するまで住むことを許してくれた。
私は受験勉強をしながら、少しずつ家を片付けていった。一人暮らしをするには家財道具が多すぎたので、父の衣類や家具などを、秦野さんに協力してもらい徐々に売ったり処分したりして、社宅を出るまでに身軽になっておきたかったのだ。
その時も、なんの躊躇もなく父の遺品を処分できた自分に、やはり私は冷たいな、と思った。
高校に入学してからは、「もう家政婦さんは頼まなくていい」と父に言い、家の中のことは一切合切私がやるようになっていたので、特に混乱したり戸惑ったりすることはなかった。むしろ、生活のすべてをコントロールできるようになったので、楽になったと感じたほどだ。父の生命保険金と預貯金を合わせると、一人暮らしをしつつ大学を卒業するには、食費の分くらいはバイトをして、贅沢をしなければじゅうぶん可能な額だった。
ただ、未成年である、ということはネックだった。何かといえば、秦野さんに相談しなければならなかったし、サインを貰わなければならなかった。早く成人したい。それが、当時の私の唯一の望みだった。
庭の隅にある、萩の花が咲き始めた。
赤紫色の、さりげない、小さな花。
枝垂れた枝に線香花火の火花のように花がついているさまは、なんともいえない風情がある。
彰さんも、私も、萩の花が好きだった。
萩の花が咲き始めたね。
彼は毎年必ず、初秋になるとそう私に告げた。
どこか懐かしそうな表情で告げる彼の顔も、好きだった。
そうね。
私もそう答える。
花の盛りに二人で夕暮れどき、縁側にお盆を出して、日本酒を酌み交わしつつ、しばらく萩の花を眺める、というのが秋の恒例行事だった。
はっきりと口に出したことはないけれど、二人が庭の萩の向こうに、子供の頃にA市の川べりにあった、萩の群生を思い浮かべていたことは間違いない。
薄あおいろの、「川のお城」。
私があの萩の茂みをそう呼んでいたことを、彼に打ち明けたことはない。
けれど、彼は、私がよく一人でぼんやりとあの茂みを眺めていたことを知っていたし、彼もまた、本を読んでいない時は、あの茂みを見ていた。
そもそも、あれが萩の木だと教えてくれたのは、彼だった。
あれは、萩の木だよ。
いつのまにか、近くに来て、静かに立っていたのは、このあいだ蛇をつかまえてくれたあの少年だった。
ハギ?
うん。ヤマハギかな?
少年は、ちょっと首をかしげた。
萩の木はとても丈夫だし、暑さにも寒さにも強いから、どんどん伸びるし、花が咲く頃には重みで垂れる。あそこは、昔の砦の跡らしいんだけど、石垣の上に萩の木が覆いかぶさってるんだ。
へえー。近くまで行ける?
私が尋ねると、少年は首を左右に振った。
今は、あの辺りは、中洲みたいになってるんだ。周りは川だし、足元が悪い。危ないから、近寄らないほうがいい。
そうなんだ。
受け流しながらも、私は自分があの「川のお城」の近くに行くことはないことを知っていた。遠くから眺めるだけ。それが自分らしいと分かっていた。
このあいだは、ありがとう。
そう言うと、少年はなんでもない、とでもいうように首を振った。
見ない顔だけど、どこの小学校?
K小学校。
え、同じだ。
少年は驚いたように私を見た。
転校してきたの。この春から通う。
道理で、と彼は頷いた。
女の子一人で、こんなところに来ないほうがいいよ。
大人びた口調で、彼が言った。
どうして? あなたも一人じゃない。
僕はいいんだ。どうせ、誰も心配しやしない。
その乾いた声に、思わず横顔を見てしまった。が、とても落ち着いていて、表情も変わらない。
時々、ヘンな奴がうろついてる。人さらいかもしれない。
えーっ。
思わず、周囲を見回してしまった。誰もいない。自転車をのんびり走らせている、おじいさんがいるだけ。
赤いジャンパーを着た、小太りの男がいたら、逃げたほうがいい。
少年は、大人びた口調で続けた。
分かった。
急に、怖くなってきた。確かに、こんな人気のないところでさらわれたら、誰にも分からない。
どこから転校してきたの?
少年が尋ねる。
東京。
そうか、と少年が頷く。
子供は、みんな、あなたみたいに喋るの?
私は恐る恐るそう尋ねた。
実は、引越業者のスタッフが喋っている方言が全く聞き取れず、話しかけられても意味が分からず、密かに恐慌状態に陥っていたのだ。
どうしよう、学校で言葉が通じなかったらどうしよう。
そう真っ青になっていたところに、この少年に出会ったのだ。少年の声には全く訛りがなかったし、普通に会話ができた。
僕も、二年前に神奈川から引越してきたんだ。
ああ、そうなんだ。
だいじょうぶ、子供はそんなに方言がきつくない。
私はホッと胸を撫で下ろした。
その後も、二人でしばらく「川のお城」を眺めていた。
この子は、一緒にいても、ぜんぜん気詰まりじゃない。
そう気が付いたのは、この時だった。当時はうまく言葉にできなかったが、気持ちの高さや、性質が似ている。そう思ったのだ。
そっと、少年の横顔を見る。
彼の視線は、「川のお城」だけでなく、更にその先、どこか遠くに向けられているような気がした。
何の感情も読み取れない、ただただ静かな、乾いた横顔。
それが不思議だった。
そうだった。
私は、彼の横顔が好きだった。私を見ていない彼、遠くを見ている彼の横顔が。
記憶の中の彼は、いつも横顔だ。
チラッと、花瓶の隣の彼のスナップ写真に目をやる。
だから、無意識のうちにこの写真を選んだのかもしれない。
転校初日の朝の恐ろしさは、今でも鮮明に覚えている。
なにしろ、初めての体験だったし、友達ができるかどうか、とにかく不安でたまらなかった。
教室に入り、前に立つ。
起立、礼、と日直が叫ぶ。
先生が、黒板に「新しい友達」とチョークで書き、「天野弥生さん」と振り仮名を振った私の名前を書いてくれる。
「天野弥生です。よろしくお願いします」
上ずった声で挨拶し、頭を下げる。
顔を上げた瞬間、好奇心でいっぱいのみんなの顔が目に入り、その直後いちばん後ろの席の、驚いた顔をした、あの少年が目に飛び込んできた。
同じクラスだったなんて。
私も驚いた顔をしていただろう。
が、見知った顔が一人でもいたのは、単純に心強かった。
同じクラスでよかった。
この時は、そう安堵していたのだ。
よもや、その数ヶ月後には、同じクラスであることを呪うことになろうとは、全く想像もできなかった。
(つづく)
連載【草の城】
毎月金曜日更新
恩田 陸(おんだ・りく)
1964年宮城県出身。92年第3回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞と第2回本屋大賞、06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎賞、17年『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞と第14回本屋大賞を受賞。その他の著書に『鈍色幻視行』『夜果つるところ』『spring』など多数。