恩田陸「草の城」第1回
半年前に夫を亡くし、ひとりでひっそりと暮らす七十代の女性・天野弥生(あまの・やよい)。遠い昔に作った「ツユクサの押し花」を見つけたことをきっかけに、彼女は過去の自分を訪れるようになるのだが……。
構想から30年。ついに描かれる、時を超えた愛の物語。
[毎月金曜日更新]
歳を取るということは、身体の中に、混ぜたり並べ替えたりできる記憶が増えていくということだ。
時は、概ね一方方向に流れているけれど、しばしば例外が起きる。川の流れが、地理的条件や天候に左右されるのと同じだ。澱んだり、堰き止められたり、溢れたりし、ところどころで小さな渦を巻いたり、逆流したりする。
大きく蛇行している箇所では、思いがけないくらい近くに過去の岸辺があったりするし、ひっそりと小さな三日月湖が取り残されていたりもする。
攪拌される記憶が増えるにつれ、時系列はいよいよ曖昧になっていく。
常に心のどこかで過去をピックアップしては並べ替える、という行為を無意識のうちに繰り返しているので、それこそ過去の岸辺に立つ自分と、今の岸に立つ自分とがふと隣り合わせに立っていることに気付かされることもある。
*
風の匂いが変わった。
長かった夏が、そろそろ終わろうとしている。
いつのまにか手を止めていた。
耳を澄まし、何かを待つようにかすかに身構えている。
人は待つ。いろいろなものを待つ。何かが始まるのを。あるいは、何かが終わるのを。誰かが帰ってくるのを。良い知らせが来るのを。シチューが煮えるのを。
けれど、今の私は何を待っているというのだろう。もう帰ってくる人もいないし、良い知らせの来るあてもないというのに。
誰かが家の前の坂道をやってくるのが分かった。
影が射し、ゆっくりとした足取りで進んでくる。
最近、ちょくちょく見かける男性だ。私と同年代か、少し上、くらいだろうか。
いつも、やや広めのつばの付いた灰色の帽子をかぶっているので、顔に影がかかってよく見えない。
長身で、姿勢はいい。
なんとなく、病み上がりか、もしくは最近伴侶を亡くした人なのではないか、という気がした。かすかな同情心を感じた直後、あ、最近伴侶を亡くした、というのは自分のことでもあるのか、と気が付いた。
反射的に家を振り向いたのは、なぜだったろう。家の中に、まだ彼の気配を感じているからか。
もうすぐ半年になろうとしている。
ふと我に返ると、庭で土の匂いを嗅いでいる、ということが増えた。
手を動かしながら、というのは、意外とものを考えるのに向いている。手に馴染んだ作業は、放っておいてもルーティン・ワークを済ませてくれる。
たいして広い庭ではないけれど、一人で毎日作業をするにはちょうどいい。
私は、綺麗すぎる庭は好きではない。
丹精され、よく管理された庭は美しいけれど、どこか息苦しく人工的だ。
一見自然に近いように見えるが、実はそれなりに手が入っている、というくらいの雰囲気がいい。
そのことについて話し合ったことはなかったが、彼もまた、手入れしすぎない、ということを念頭に置いて庭仕事をしていたのは私と同じだったと思う。
どうしても、彼を呼び捨てにできなかった。
名前を呼ぶのも抵抗があって、結婚してからもずっと「宇佐見君」と呼んでいたのだが、彼が「他人行儀だ」と嫌がるので、「彰さん」に落ち着いたのだ。同い年だし、本当は呼び捨てにしてほしかったのは分かっていたが、これで精一杯だ、ということは彼にも理解できたらしい。
その癖、彼も「弥生」と私の名前を呼ぶ時は、どこかに遠慮のようなものがあった。
子供の頃から、どんな占いを観てもらっても、必ず言われることがあった。
家族運がない。
それは決まり文句のようなもので、私にとっては生まれる前から知っていたような、既成事実だった。あまりにも身体に馴染んでいて、当たり前のことをわざわざ指摘してくれなくてもいいのに、と思ったくらいだった。
そして、「家族運がない」と言われると、ふっと鼻先を甘い匂いがかすめ、麦わら帽子をかぶった、髪の長い女性の白い手を思い出す。
それは、私の中にある母の数少ない記憶で、明るい庭先で、私がしゃがんで小さなスコップで地面をつついている脇で、母がゆっくりと庭仕事をしているところだった。
もはや、顔は思い出せない。
にこやかに微笑んでいる、ということだけは覚えているのだが、口元の微笑のみが残っていて、顔の部分は完全にぼやけてしまっている。
そして、母の笑みを思い出すと、決まってぼんやりとした、薄あおいろの、川べりの風景が目に浮かんでくる。
私が「川のお城」と呼んでいた風景。
それは、川べりの崖に自生していた萩の木が、古い石垣の上を這うように覆いかぶさっているシルエットだった。遠くから見ると、まるで西洋の古い城塞のように見えたのだ。
周囲の寒色めいた、淋しい色彩のせいもあったろう。
古い風景画のような、淡い水彩画のような、どこか絵本みたいに浮世ばなれした光景だった。
子供の頃、世界は遠かった。
どこにも行けない、狭い場所にいて、いつも遠いところに憧れていた自分、ただ眺めているだけで、足を踏み出そうとしない自分。それを象徴するようなあの風景は、あの遠さが私の中に碇のように固定されてしまっている。
今も変わらない、と思う。
私はどこかに行けたのだろうか。遠かった世界に「行く」ことができたのだろうか。
どこかに行ったと思ったら、またぐるりと回って元の場所に戻ってきてしまった。結局、私はどこにも行けなかったのだ。そんなふうに思う。
そして、一人。
気が付くと、いつも一人だ。
今もこうして、一人で庭いじりをしている。
もしかすると、私は生まれた時からずっとこうして庭いじりをしていて、誰かと一緒に過ごしたことのほうが単なる幻か夢だったのかもしれない。
記憶の中の川べりで、川のお城を眺めていた自分だけが真実の記憶で、もしかすると父や母やそれ以外の人たちも、私がでっちあげた空想だったのかもしれない。
鏡を見ると、もはや加齢と共に眉の上の傷跡が薄まってしまい、ほとんど分からなくなっていることに驚く。
自分の顔として認識していた、顔の一部だった、赤紫にえぐられた傷跡。
中学時代、密かに男子のあいだで「句読点」と呼ばれていたと後で知った。
なるほど、うまいこというな、と鏡を見て思ったものだ。
正確には読点(、)だったが、涙の形を少し反らせたような形をしているので、そう言われているのを知って以来、私自身、読点にしか見えなくなったほどである。
若い頃は、ファンデーションを塗っても、えぐれているのは一目瞭然で、皆、決してあからさまな視線は向けないものの、見るともなしに観察されているのを感じていた。
放っておかれた子供の常で、私は自尊感情に乏しかったから、女の子なのだし、傷跡のことを気にすべきなのだろうが、今ひとつ自分のこととして考えられなかった。
それ、今なら形成手術でぜんぜん目立たなくなると思うよ。
大学時代、仲良しだった、医学部の雅美にさりげなく言われたことがあった。彼女は一浪していたので、同学年でも一歳年上だった。
弥生、美人なんだから、治しちゃえば?
うーん、と私は首をひねった。
なんかもう、アイデンティティの一部? みたいになっちゃってるから、今更治そうという気もしないんだけど。
弥生って、そういうヒトよね。
雅美があきれたような顔で言ったものだ。
なんか、何事にも執着がないというか、自分のことでも他人事みたいだよねえ。
あー、そうかもしれない。
でもね。
雅美が声を潜めた。
ゴメン、実はね、正直に言うと、気を悪くしないでほしいんだけど、あたし、弥生のその傷、嫌いじゃないんだ。それをひっくるめた弥生の顔、すごく好きだしキレイだと思う。
雅美は、言葉を選びつつそう言ってくれた。そう本当に思っているのだという、真摯な響きがあった。嬉しかった。
そう? 雅美がそう言うんなら、ますます治す気にはならないね。
なんだろ、複雑な気分。
笑いあった彼女の姿は、永遠に若いままだ。
彼女はもう何十年も前――四十代の若さで、亡くなってしまった。夜勤明けに、クモ膜下出血を起こし、あっというまに。あんなに生命力に溢れた、パワフルな彼女が、私よりもずっと先に逝ってしまうなんて。
そっと、傷跡を指で撫でてみる。
銀座のレストランで、店員に案内されて現われた時、彼は私に気付くとハッとしてこの傷跡に目をやった。
まあ、初対面ではパッと目に入るだろうから、見られても仕方ない、と思った。
が、彼は私の傷跡から目を離さなかった。じっと食い入るように見つめて、何かを考えている様子だった。
私は、全身がカッと熱くなるのを感じた。
取引先に、いい青年がいる。彼をぜひ紹介したい、とレストランでのこの場を設けてくれた、私を可愛がってくれている上司の田宮さんが、彼の視線に気付いて、動揺し、色をなすのが分かった。
句読点。
顔に読点のついた、キズのある女を紹介された。取引先の相手に、不良品を押し付けられた。彼はそう考えているのだろうか。
田宮さんは、ちらっと私を見た。
私は平静を保っていたと思うが、田宮さんが私を気遣っているのは明らかで、いたたまれなくなった。田宮さんに恥をかかせたようで、申し訳なかった。
田宮さんは、怒りを込めた笑顔で、「紹介するよ。僕の課の、娘とも思っている大事な秘蔵っ子なんだ」
と彼に顔を向けた。
私は苦笑した。田宮さんの目が、「すまない」と言っていた。
見込み違いの男だった。こんな失礼なことをする男だとは思わなかった、と。
「――天野さん」
不意に、目の前の青年が口を開いた。
「え?」
田宮さんと私は同時に彼を見た。
彼は、もう傷を見てはいなかった。私を正面からじっと見て、思い切った声で言った。
「天野弥生さんでしょう?」
田宮さんと私は顔を見合わせた。
名前を教えたんですか? と私は田宮さんに目で尋ねたが、田宮さんは小さく首を振った。いや、教えていない。
彼は、青ざめていた。そして、テーブルの上に身を乗り出した。
「僕、宇佐見です。A市のK小学校で一緒だった、宇佐見彰です」
えっ、と私はもう一度声を上げていた。
言われてみれば、確かに面影があった。あの、色黒でぶっきらぼうな、ちょっと暗い表情をした少年。
「すみませんでした。あの時は、本当に、申し訳ありませんでしたっ」
彼はいきなりがたんと席を立ち、テーブルに顔がくっつくのではないかというくらいに頭を下げた。
田宮さんが面喰らっていた。
「君たち、知り合いだったの?」
そう、宇佐見彰は、私の顔に「読点」の傷を付けた張本人だったのだ。
本当に、済まなかった。
彼が最初にキスしたのも、眉の上の傷跡だった。
あの時は、いきなり田宮さんがおっかない顔になったから、「どうしたんだろう」と思ったよ。
あなたが顔を合わせるなり、いきなりジロジロ傷跡を見てたからよ。
そっか、失礼だったよね。ごめん。でも、僕は記憶の中の君の顔と名前を思い出すのに必死で。
だから傷跡から目を離さなかったのだ。
銀座のレストランで紹介されたその日に連絡先をきかれて、すぐに二人で会うようになったけれど、久しぶりという感じがしなかった。
かつて、小学校で出会った時にも感じたように、彼とは気持ちの高さがとてもよく似ていた。
二人とも、家族に恵まれず、常に孤独を友としていたからかもしれない。
自尊感情の低いところも、人や物事に執着しないところも、欲のないところも、説明を必要としないほど、そっくりだった。一緒にいて、全く疲れなかったし、ずっと黙っていても平気だった。
つきあって、ひと月もしないうちに結婚を決めたので、そのつもりで紹介したはずの田宮さんですら驚いていたし、こちらがびっくりするほど、涙を流して喜んでくれた。
もちろん、田宮さんに仲人を頼み、ごく親しい人たちだけで小さな結婚式を挙げた。私も彼も、親戚というものが全くいなかったからだ。
なんか、雰囲気似てるわね、あんたたち。
雅美に彼を紹介した時、彼女は不思議そうな顔をした。
会わせなさい、弥生を幸せにしてくれる男かどうか、このあたしの目でチェックするから。
怖い顔でそう言われて、彼に頼んで、三人で喫茶店で待ち合わせたのだ。
雅美が好きだといったこの顔になった因縁の相手、と聞いて彼女は驚いていた。
弥生が形成手術をしなかったから、幼馴染だって分かったわけか。これもまた運命ってやつかしら。それとも、なあに、責任取らなきゃって思った?
雅美が冗談めかして彼にきくと、彼は真顔で答えた。
僕なんかに、責任を取らせてもらえるなんて、本当にありがたいことだと思っています。
その声があまりにも真剣だったので、雅美と私は思わず顔を見合わせてしまった。
いい人じゃない、許す。
彼が勘定に立ったところで、雅美がこっそり私に言った。
ホントに弥生のことを大事に思ってるのね。
安心したようにそう呟き、ふふっと笑う。
それに、なかなかのハンサムよね。あのちょっと人を寄せつけないストイックな感じも素敵だし、モテそう。
そう、ね。
私は、会計レジのところにいる彼の生真面目な横顔を見た。
初めて彼に会った時に目に入ったのも横顔だった。
とても静かな、おとなっぽい横顔。
自分と同い年だとは思わなかったし、まさか同じクラスになるとも思わなかった。
頭の良さそうな、整った顔の男の子だな、と思った。
彼は、川べりの、大きな石に腰掛けて、古ぼけた文庫本を読んでいた。
なんの本かは分からなかった。カバーもなく、茶色い表紙の端っこが丸まっているのが目についた。
四月になったとはいえ、北国の春はまだ肌寒い。風も冷たく、時折吹き付ける強い風に、私は小道を首をすくめて耐えながら歩いていた。
が、彼は風に動じる気配もなく、いっしんに本に集中していた。
たった一人の世界にいて、それ以外のあらゆるものを拒絶している。
なんだか、怖そう。
私は、迂回することにして、そっと引き返そうと回れ右をした。
その時、足が何か柔らかいものをぐにゃりと踏んだ。
「ひっ」
思わず声を上げたのは、それがにょろっと動いて、灰色の細長い蛇だと気付いたからだ。
慌てて飛びのいたが、蛇はしゅるしゅると動いてこちらに向かってくる。
「やだっ」
パニックに陥った私は、泡を食って逃げ出そうとして、誰かにどんとぶつかった。
「どいて」
そう低い声で言い、私を押しのけると、流木とおぼしき木切れで素早く蛇の頭を押さえ、巻きついてきたのを持ち上げて速足で川辺に向かい、枝ごと遠くへ放り投げたのは、文庫本を読んでいたあの男の子だった。
助けてくれたのだ、と気付くまでしばらくかかった。
どぎまぎしてしまい、かすれた間抜けな声しか出なかった。
「あり――ありがと」
「毒はない」
弱々しい私の声と、ぶっきらぼうな声が重なった。
「ありがとう」
もう一度言うと、彼は、じっと私の顔を睨みつけるように見つめてから、ぷいと顔を背けて、文庫本を載せた石のところに戻っていった。
あんな大昔のことを思い出すなんて。
少年時代の彼の横顔を思い出しながら、不思議な心地がした。
蛇を踏んだ瞬間の足の裏の感触まで、鮮明に蘇った。
これのせいだろうか。
段ボールの中にぎっしり詰まった、スケッチブックやクロッキーブックに目をやる。
子供の頃から持っているものはほとんどないのに、「お絵かき帳」だけは、度重なる引越し先でもずっと持ち歩いていた。
道端の花を写生するのが、唯一の趣味だった。
一人ぼっちの子供の趣味としては上出来ではないか。いつも時間だけはたっぷりあったのだから。
一番古いスケッチブックは、まだ母が生きていた時のものだ。
母が「弥生ちゃんはお花を描くのがじょうずね」と言ってくれたことだけは覚えている。その記憶にしがみついていて、写生することに唯一の母との繫がりを感じていたのかもしれない。
今では段ボールひと箱。
これが、多いのか少ないのかは分からない。とにかく、アルバムよりも、多いことは確かだ。
いわゆる終活ではないけれど、あちこち家の中の片付けを始めていた。
六十歳を過ぎて、彼も私も勤めを辞め、嘱託のような仕事に就いてからは、そろそろ家の中を一緒に片付けようと提案したのだが、彼はそれを嫌がった。
僕が生きているうちは、このままにしておいてくれ。
彼は必死の表情で、切実な声で言った。
後生だから、僕の前で君のものを片付けたり、処分したりするのはやめてほしい。わがままを言っていることは分かってる。弥生の負担が大きくなるだけで、ひどいことを頼んでる。だけど、これだけは、お願いだ。
なぜ片付けたくないのかは知っていた。
私に直接言ったことはなかったけれど、部下を家に呼んだ時や、誰かと電話で話している時に、いつも彼はそう言っていたからだ。冗談めかしてはいるけれど、本音だということが、私には分かった。
僕のただひとつの望みは、女房よりも早く死ぬことだよ。
確かにひどい、と思った。
あなたが一人ぼっちになりたくなかった気持ちはよく分かる。
だけど、あたしが一人ぼっちになることは?
あなたを看取って、あたしが一人ぼっちになることは、構わなかったの?
彼の遺影に向かってそう問いかける。
すまない、という声を聞いたような気がした。
むろん、私も分かっていた。
私は耐えられる。けれど、あなたには耐えられない、と。
「お絵かき帳」。
段ボールに詰めたままにするか、処分するか悩んでいた。
処分するなら、一冊ずつ燃えるゴミに出すか。それとも、まとめて資源ゴミに出すか。
クロッキーブックもスケッチブックも、リング状になった金具部分を外さなければならない。
印刷物ならともかく、手書きの紙の束は資源ゴミ扱いになるのだろうか。判断がつかないのでここはやはり、リングを外して、燃えるゴミに出すしかなさそうだ。
手書きのものを処分するのは、けっこう勇気が要るが、自分がいなくなったあとに、手書きのものが残っているのもどこか抵抗がある。
段ボールから数冊取り出してはみたものの、私は途方にくれていた。
先週は、一部を除いて、写真を大量に処分した。
温泉旅行の写真とか、似たようなものばかり大量に溜まっていたので、大事な写真だけを残して、思い切って捨てたのだ。
最初は、いちいち家庭用のシュレッダーにかけていたのだが途中でやめた。今更顔写真が流出したところで、何かに使われるとも思えないし、なんといっても作業が面倒だったのと、シュレッダーのけたたましい音が煩わしくなったからだ。それからは、ロクに写真も見ずに封筒や紙袋に入れ、ガムテープでぐるぐる巻きにして、まとめてどさっと捨ててしまった。
昔のフィルムのネガとか、何かの記念写真を貼った厚紙とか、捨てても捨ててもまだまだ出てくるのにはうんざりした。
すっきりした一方で、過去を失くした人間になったような、寄る辺ない気持ちにさせられたのは意外だった。
自分のことを、感傷など持ち合わせない人間だと思っていたからだ。
写真でこれなら、スケッチブックを処分するのは更につらそうな気がした。
とはいえ、そうも言っていられない。まあ、とりあえず、ざっと見てみようか。
即決せずに、しばらく近いところに置いておいて、パラパラめくってみてから処分すればいい。
片付け指南の本にも、効率よくモノを処分するには、迷ったものを一時入れておく箱を作るべし、というアドバイスがあったはずだ。
段ボールから、順番に中のものを取り出す。
大きいスケッチブックに、小さいクロッキーブック。手帳サイズの黒いスケッチブック。よくもまあ、こんなに溜め込んでいたものだ。
サイズがまちまちで、リングの部分がデコボコしているので、水平に積み上げるには工夫が必要だった。
和室のローテーブルの上に、一冊一冊、積み上げていく。
と、段ボールから取り出した時に、ひらりと畳の上に落ちたものがあった。
あっ、と思った。
カサカサになった、しかし、小さな花弁にほのかにまだ青みがかった色が残っているもの。
ツユクサの押し花だった。
そっと、掌に載せるようにして取り上げる。
そうだった、学生時代までは、写生をしつつ、時々押し花も作っていたんだった。
なんと、ゆうに半世紀以上になる。よくぞこれまで残っていたものだ。
カラカラに乾いて、ミイラみたい。そう思って、スケッチブックに挟もうと、開いた瞬間だった。
ンな、花のミイラなんか作ってどーすんだよ。意味分かんねー。いや、花の干物か? 干物なら食えるけど、ンなショボいもん、ウサギのエサにもなんねーだろ。
突然、頭の中に、歳月を切り裂いて、懐かしい声が響いた。
(つづく)
連載【草の城】
毎月金曜日更新
恩田 陸(おんだ・りく)
1964年宮城県出身。92年第3回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞と第2回本屋大賞、06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎賞、17年『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞と第14回本屋大賞を受賞。その他の著書に『鈍色幻視行』『夜果つるところ』『spring』など多数。