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女工と白米|湯澤規子「食べる歴史地理学」第2話

 前回のアメリカ・ボストンから、今回の舞台は100年前の日本へ。愛知県の織物工場でのフィールドワークと経営史料から、女工(じょこう)たちの食と暮らしを見ていきます。『女工哀史』や『あゝ野麦峠』に象徴される「女工=悲惨、可哀そう」のイメージ、果たしてその実態は? 彼女たちは毎日、どんなご飯を食べていたのでしょうか?
※前回の話を読む:第1話「ボストンのドーナッツ」

日本の女工は「貧しい」「悲惨」?

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「先入観にとらわれて」見えない。
 それを取り去ってみると見えてくるものがある。

「女工」と聞くと、まず、どんなイメージを抱くだろうか。
 学生たちに聞くと、やはり最初は「貧しい」とか、「可哀そう」とか、「悲惨」という言葉が並ぶ。それはきっと、これまで習ってきた社会科の教科書や有名な『女工哀史』(細井和喜蔵、改造社、1925年)や『あゝ野麦峠』(山本茂実、朝日新聞社、1968年)に描かれた世界像を、彼らが「知識」としてキチンと持っているからなのだろう。このイメージに対して、「本当にそうだろうか?」などと疑問を持つこと自体、一般的にみれば少し変わった発想で、かつての私自身も、そんなことは思いもしなかった。

 とある理由から、高校では「日本史」ではなく「地理」を選択し、歴史地理学という分野に進学した私があらためて「日本史」に出会ったのは、大学生になってからである。私に初めて本格的な日本史の手ほどきをしてくれた師匠は、今思えばユニークな視点の持ち主で、それこそ「女工は本当に悲惨だったのだろうか」(※注1)と教壇から問いかけてくるような人だった。
 私がその思いがけない言葉に「???」と戸惑っていると、講義の内容は彼が歩いた新潟県佐渡の村々の話、そこで出会ったかつての女工たちの昔語りへと展開していく。「工場で食べた白米の美味しかったこと」、「月給をもらって欲しかった着物を買った時には嬉しくて」などというエピソードを次々と紹介しながら、先生はもともとある理論や先入観で目を曇らせることなく、歴史の現場に足を運び、自分の目や耳で確かめて考えることの大切さを教えてくれた。それは、フィールドワーク好きの地理屋の私にはぴったりの発想だった。だから、オーソドックスな歴史学を身につけていないというコンプレックスを感じる暇もなく、私は一風変わった「足で歩く歴史の世界」にあっという間に魅せられ、のめり込んでいった。

愛知県・尾西織物業地域でのフィールドワーク

 そんなわけで、7年ほど前に愛知県の尾西(びさい)織物業地域(今の一宮市とその周辺)に足を運び始めた時にも、私はまず、女工たちの日々を具体的に知るところから始めようと思った。
 幸いなことに、膨大な工場経営史料の中には、今からおよそ100年前の食事、食材の買い物、食堂や炊事場の建物についての記録が必ずといってよいほど含まれていた。考えてみると、働く労働者たちは機械ではなく、「生きた人間」であったのだから、そこで彼ら、彼女らが「何かを食べていた」というのは、ごく当たり前のことではある。
 私はその痕跡を一つひとつ確認していく作業に夢中になった。なによりも、楽しかったのである。和紙になんとなく愛嬌のある墨文字で書かれた「カボ(カボチャ)」、「キリボ(切り干し大根)」、「キウリ(キュウリ)」、「アゲ(油あげ)」、「トフ(豆腐)」などなど。食べものの記録は読んでいるだけで不思議な臨場感があり、それだけでワクワクするのはなぜなのだろう。どんな風に料理されて、どんな味だったんだろう、お腹はいっぱいになったのかな、などと想像しながら史料を読み解いていく。

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現在も残る、かつての織物工場の街並み。光を取り入れるための「のこぎり屋根」が特徴。

 その史料の一つに、大正13年(1924)の9月、1ヶ月分の労働者たちの食事にかかった費用、食材の量などが記録されている「賄(まかな)い調査」というものがあった。いったい女工たちは1食にどのくらいのご飯を食べていたのだろうか。その史料には、例えば主食として、白米11石(こく)6斗(と)8升(しょう)、台湾米2石5斗、改良麦3石と記録されている。合計すると、17石1斗8升である。1石=10斗=100升=1000合なので(細かいですが、ちょっとお付き合いください)、私たちがいつも炊飯器でご飯を炊くときに使う「合」という単位に直すと、1ヶ月で17,680合のご飯が炊かれていたことになる。これを当時この工場で働いていた女工の人数152人で割ると116合となり、それを30日で割ると3.9合となる。つまり、約100年前のこの織物工場で働く女工たちは、1人あたり、1日に4合くらい、1食あたり、お茶碗で換算すると多めに盛り付けたご飯を毎食2~3杯は食べていたことになるのである。

女工の食事を復元してみると

 さあ、これは皆さんの毎日の食事と比べてみると、どうだろうか? 100年前の女工たちは、思った以上に、そして今と比べて驚くほどたくさんのご飯を食べていたことがわかる。ちなみに当時の調査によると、この頃、1日あたり、女性労働者は平均4合、男性労働者は6合のご飯を食べていたといわれているから、この工場の女工たちが特別な大食らいだったというわけではなさそうである。そして、これだけたくさんのご飯を食べるためにはきっと欠かせない一品だった「沢庵(たくあん)」が添えられていて、多くの場合はそこに「汁」や「煮物」がついていた。「汁」と書いてあるだけでは見えないが、史料を丁寧に読み解いていくと、それは季節の野菜が入った、「具だくさんの一品」であったと想像される。
 ある栄養学の先生がこの工場の史料をもとに、食事を復元した写真を見せてもらった。今、学生たちにそれを見せると、「あ、私のご飯よりずっといい」という感想があがり、ため息がもれる。確かに現代よりもおかずは少なく、肉や魚は含まれていないが、季節の野菜が食卓にのぼり、今なら「ヘルシーな」献立と称賛されそうである。

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残された史料をもとに女工たちの食事を復元すると、野菜たっぷりのこんな献立になった。

 今から100年以上前になるが、1912年9月15日のこと。宇野利右衛門という一人の啓蒙家が日本各地の工場の炊事担当者を集めて「炊事会」という会合を開いたという、ちょっと面白い記録がある(※注2)。毎日の食事を準備する炊事担当者が話す、「女工たちに評判がよかったおかず」という話題から、彼女たちが実際どんなものを食べていたのを知ることができる。

「塩鮭とか干魚とか、塩の強い魚を焼いたもの」、「ゴボウとこんにゃくと焼豆腐に赤小豆を入れて砂糖をたくさん入れて煮た、従姉妹(いとこ)」、「奴豆腐に花かつおを添えた一皿」、「ゆば、かんぴょう、氷豆腐を煮て、ちりめんじゃこを合わせてご飯にまぜた、かやく飯」、「茄子の油煮」、「牛肉、玉ねぎ、馬鈴薯の煮込み」、「ネギ、けずりゴボウ、油揚げを砂糖と醤油で味付けた煮うどん」(現代仮名遣いで表記)

 それぞれの工場の食卓が垣間見えるとともに、炊事係はただ漫然と食事を作っていたのではなく、女工の食べる姿から、好みを知ろうとしていたのだとわかる。

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モスリンという織物を生産する工場の食堂(写真絵葉書)。その規模の大きさに、驚かずにはいられない。

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織物工場の土蔵に眠っていた「共同炊事組合」の史料たち。献立表は戦後まで続く膨大な史料。

lunchがないアメリカ――女工の食事の日米比較

 ちなみにアメリカの織物工場では、食事はどんな状況だったのだろうか。  19世紀前半のボストン近郊、ローウェルの女工たちは、工場内に食堂がなかったのか、寄宿舎ですべての食事を食べていた。ローウェルで働いていたある女工が従妹に宛てた手紙によると(※注3)、お昼ご飯や夜勤前の夜ご飯は、工場から寄宿舎へ食べに帰り、そこから再び工場へ戻るという生活だったようである。工場からの往復も含めて45分間しかなく、とにかく大急ぎで食べなければならないから、いつもstomachache(腹痛)に悩まされていたことが綴られている。stomach(胃袋)のache(痛み)とはストレートな表現である。手紙には、朝4時30分に起床して働く彼女たちにとって、昼に食べるのがdinnerで、夜勤前の夕方に食べるのがsupperとある。これは博物館に展示されていた食事のレプリカの説明とも一致するので、寄宿舎での暮らしに共通していたといえそうだ。3食は食べているが、lunchがない。工場時間独特のライフスタイルである。
 彼女たちが一番楽しみにしていたのは正午に食べるdinnerだったらしく、ある日のメニューにはこうある。ローストチキン、ポテトのグレービーソース添え、ベイクドサーモン、カブ、ニンジン、玉ねぎ、トマトの酢漬け、コーンブレッドとバター、デザートにパンプディング、コーヒーか紅茶。
 なるほど、これを大急ぎで食べるなんて、さぞ残念だったにちがいない。

「女工」たちはいかに生きたか。彼女たちのお茶碗と一皿から見えてくるものが確かにある。ここから研究を始めなければと、やはり思わずにはいられない。

※注1:田中圭一『村からみた日本史』ちくま新書、2002年
※注2:宇野利右衛門編『職工問題資料』第1輯、工業教育会、1912年に再録 ※注3:The Lowell Mill Girls : Life in the Factory,1991

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第3火曜日更新予定
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湯澤規子(ゆざわ・のりこ)
食べながら歩く歴史地理学者。1974年大阪府生まれ。筑波大学歴史・人類学研究科満期退学。博士(文学)。法政大学人間環境学部教授。著書に『7袋のポテトチップス―食べるを語る、胃袋の戦後史』(晶文社)、『胃袋の近代―食と人びとの日常史』(名古屋大学出版会)、『在来産業と家族の地域史―ライフヒストリーからみた小規模家族経営と結城紬生産』(古今書院)など。

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