第十一話 小満 早川光「目で味わう二十四節気〜歴史的名器と至高の料理 奇跡の出会い〜」
器・料理に精通した早川光が蒐集した樂吉左衛門、尾形乾山、北大路魯山人などの歴史的名器に、茶懐石の最高峰「懐石辻留」が旬の料理を盛り込む。
「料理を盛ってこそ完成する食の器」
二十四節気を色鮮やかに映し出した“至高の一皿”が織りなす唯一無二の世界を、写真とともに早川光の文章で読み解くフォトエッセイ!
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Photo:岡田敬造、高野長英
第十一話「小満」
2024年5月20日〜2024年6月4日
「小満」とは、陽の光を浴びて、野山の草木が成長し、花も鳥も虫も、あらゆる生命が天地に満ち溢れる頃のこと。
この時期には、前年の秋に蒔いた麦が金色の穂をつけ、実りの時を迎えます。ゆえに「小満」という言葉は、麦の穂が順調に育ち、農家がひと安心する、つまり「小さく満足する」ことが、その由来とされています。
そして「小満」の頃には、桐の木が淡い紫色の花を鈴なりに咲かせます。桐には瑞鳥(吉兆とされる鳥)の「鳳凰」が宿るとされ、また花の紫が高貴な色であることから、古来、幸福と繁栄をもたらす吉祥文として、着物や器の意匠に用いられてきました。
そんな「小満」の器は、尾形乾山(1663〜1743)の『銹絵染付白彩 桐菊文 角向付』。
今から三百年以上前の元禄から宝永年間(1688〜1711)の頃に、京都の鳴滝(京都市右京区)の窯で作られた器です。
生乾きの素地を型にかぶせる「型打ち」と呼ばれる技法で成形され、そこに銹絵(鉄釉を用いた絵)と染付で桐の花を、白彩で菊の花を描いています。
桐の花は、三枚の葉の上に花を左右に三つずつ、中央に五つ配した「五三桐」の形になっています。これは豊臣秀吉の家紋として知られる、由緒正しき文様ですが、それを「型紙摺り」という手法によって、判子のようなタッチで表現しているところに、乾山の遊び心を感じます。
器に盛る『懐石辻留』の「小満」の料理は『口取 穴子鳴門巻 車海老黄味焼 一寸豆塩ゆで』。
口取とは「口取り肴」の略で、酒肴にふさわしい小さな料理をひとつの器に盛り合わせた和食のオードブル。
「穴子鳴門巻」は、ぬめりを取り、皮目に片栗粉をつけて巻いた穴子を、日本酒、濃口醤油、みりん、生姜のつゆで炊いたもの。「車海老黄味焼」は、茹でて殻をむいた車海老を包丁で開き、炭火で焼いてから卵黄を重ね塗りしたもの。そして「一寸豆塩ゆで」は、大きさが一寸(約3センチ)程度の空豆の塩ゆでで、いずれも夏にぴったりの、極上の酒肴です。
『懐石辻留』では、裏千家の茶懐石の作法に倣い、海のもの(穴子と車海老)を手前、山のもの(一寸豆)を奥に配置します。灰茶色の器の中で、車海老の朱色と一寸豆の萌黄色がくっきりと際立つ、美しい盛りつけです。
もうひとつの器は、古伊万里・柿右衛門(延宝)様式『色絵 桐花文 八角小鉢』。
こちらは尾形乾山の器よりさらに前の、延宝年間(1673~1681)に作られたもの。
柿右衛門様式の特徴のひとつである「濁手」の素地に、赤、緑、黄、青の色絵で「五三桐」と「五七桐」(花を左右に五つずつ、中央に七つ配した意匠)が描かれています。
「濁手」とは純白に近い白磁素地のこと。それ以外の古伊万里の白磁が青みがかっているのに対し、柔らかく温かみのある白色であることから「乳白手」とも呼ばれます。
濁手の器の多くは1670年代から輸出され、ヨーロッパの王侯貴族の間で人気を博しました。しかし1700年代に入ると急速に数を減らし、やがて途絶えてしまいます。
その理由は定かではありませんが、濁手は焼成時の破損や歪みが多く、歩留まりが悪いため、採算が合わなかったことが原因と考えられています。ゆえに濁手の皿や鉢は、古伊万里の中でも特に稀少なものとなっています。
器に盛る料理は『酢物 めいも ささみ 黒胡麻 三つ葉』。
酢を入れたお湯で茹でてから水にさらし、だしと薄口醤油で炊いた芽芋(里芋などの若芽を軟白栽培──野菜の茎葉を柔らかくて白く育てるため、光を遮って成長させること──したもの)と、酒蒸しにしてから身をほぐし、蒸し汁につけた鶏のささみを、二杯酢で和え、黒胡麻と三つ葉を彩りに加えた料理です。
『懐石辻留』では、二杯酢の酢のかわりに柑橘の果汁(今回は柚子)を使うことで、さっぱりとした味わいに仕立てています。
濁手の乳白色を背景にして、芽芋の白茶色とささみの赤香色、そして三つ葉の若苗色が浮き立ちます。夏にふさわしい、清涼感のある盛りつけです。
プロフィール
早川 光(はやかわ・ひかり)
著述家、マンガ原作者。『早川光の最高に旨い寿司』(BS12)の番組ナビゲーターを担当。『鮨水谷の悦楽』『新時代の江戸前鮨がわかる本』など寿司に関する著書多数。現在は『月刊オフィスユー』(集英社クリエイティブ)で『1,000円のしあわせ』を連載中。
ブログ:「早川光の旨い鮨」
懐石辻留料理長・藤本竜美
初代・辻留次郎が裏千家の家元から手ほどきを受け、1902年に京都で創業した『懐石辻留』。その後、現在に至るまでその名を輝かせ続け、懐石料理の“名門”と呼ぶに相応しい風格を纏う。北大路魯山人のもとで修業した3代目店主・辻義一氏から赤坂の暖簾を託されたのが、料理長の藤本竜美氏。「食は上薬」を肝に銘じて、名門の味をさらなる高みへと導いていく。
HP:http://www.tsujitome.com
注釈/尾形乾山
尾形乾山(1663〜1743)は江戸時代を代表する陶工のひとり。京都の裕福な呉服商「雁金屋」に生まれ、琳派を代表する絵師・尾形光琳(1658〜1716)を兄に持つ。
樂吉左衞門家四代一入(1640〜1696)と野々村仁清(生没年不詳)から陶技を学んだとされ、元禄12年(1699)京都鳴滝に窯を開いて作陶を始めた。
作風は和歌に題材を得た王朝趣味溢れる風雅なものから、中国の磁州窯やオランダのデルフト窯の器に影響を受けた異国風の図柄のものまで多岐にわたる。色絵、染付、銹絵、金彩を自在に使いこなし、後の時代の陶工たちに多大な影響を与えた。
師の仁清が主に茶碗や茶器などの茶道具を手掛けたのに対し、乾山の作品の多くは食器であり“食器を芸術にした陶工”とも評される。その中の「銹藍金絵絵替皿」や「銹絵寿老人図六角皿」など数点は、国の重要文化財に指定されている。
注釈/古伊万里
古伊万里は有田、三川内、波佐見などの肥前国(現在の佐賀県および長崎県)で、江戸時代に生産された歴史的価値の高い磁器の総称。伊万里の名がついているのは、江戸時代にこれらの磁器が伊万里港から出荷されていたためである。
古伊万里はその制作年代によって焼成や絵付の技術、釉薬などに違いがあるため、研究者によって細かく分類されている。
肥前国で磁器製造が始まった1610年代から1630年代頃までの器を「初期伊万里」、続く1640年代から1670年代頃の器を「古九谷様式」、1670年代から1680年代頃の器を「柿右衛門(延宝)様式」などと呼ぶ。
古伊万里が技術的に成熟し、最も充実していたとされるのは、芸術や文芸が花開いた元禄年間(1688〜1704)で、この頃に生まれた「金襴手様式」の器はヨーロッパへの輸出品としても人気を博した。
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