初体験の夏休み 千早茜「ときどき わるい食べもの」
[不定期連載 はじめから読む]
illustration:北澤平祐
食べものの味がしないという経験は、誰しも数回はあるだろう。挫折や喪失ゆえだったり、好きな人との初めての食事という緊張からだったり、はたまた単純に体調が悪いせいだったり。
人見知りの私は、初対面の人との食事も茶も、ちゃんと味わえる気がしない。なので、極力逃げるが、どうしても避けられないこともある。
例えば、仕事での顔合わせ。新担当者とは出版社での会議室ではなく、喫茶店や「まあランチでも」という感じで食事の場で対面することがほとんどだ。そして、結婚の際の挨拶や顔合わせ。相手の家族に会うのも緊張するし、自分の家族を紹介するのも大変に落ち着かない。誰も彼もが居心地悪そうで、素の姿をだしている人はいないし、それもわかっている。私はそういう場では無性に靴下を脱ぎたくなる。なんだかむず痒いのだ。周りが、というより、猫をかぶっている自分がだ。
ああいうことは一生御免だな、と思っていたのに、再びすることになってしまった。まず恋人に私の両親に会ってもらった。それから妹家族を交えて、父が予約してくれた店で食事をした。日本庭園の見事な店だった。私ははらはらしていたが、隣で最愛の姪がいつもと変わりなく食べたり飲んだりしていて、ときどき飽きては「茜ちゃん、遊ぼうよう」と素のままでいたので、靴下を脱ぎたくなる衝動は幾分ましだった。
次の日は、恋人の実家へ行くことになっていた。正直、二日続けて互いの家への挨拶にしたことを後悔していた。ホテルの朝食からすでに味がしなかったから。活力を入れるために地域限定の餅を食べ、恋人の運転する車に乗った。
恋人の両親の他に、兄夫婦が二組同席することになっていた。私は新品の白いワンピースを着て助手席に座り、窓の外を眺めていた。恋人は「よくここでランニングしていた」などと地元の案内をし、「少し時間あるから散歩してみる?」と気を遣ってくれた。ふいに、黄色で視界が埋まった。向日葵畑が広がっていた。向日葵の花は人の顔ほどもあり、すべて同じ方向を向いていた。「わあ、停めて! 停めて!」と車を飛びだし、見惚れた。夏の塊が咲いていた。全国的に暑い日で、すぐに汗だくになった。車に戻って少し涼む。約束の時間が迫っているのに恋人は実家に向かおうとしない。「なんか嫌な予感がする」とぼそりと言う。「大丈夫?」と訊くと、いつもの笑顔に戻り「うん」と車を発進させた。
恋人は言葉少なに、畑や田があちこちにある住宅街を進み、「ここ」とハンドルを切った。車が門を入っていき、まず目に入ったのは、一度会ったことがある恋人の父親だった。ジャージにサンダル履きで、背もたれつきのアウトドアチェアで寛いでいる。ドン・コルレオーネ? 眩しい真夏の陽光の中、一瞬『ゴッドファーザー』のラストシーンがよぎる。いやいや、と目をこすれば、ドラム缶を半分に割って横に倒したようなものが見えた。もくもくと煙を吐くあれは――
「ああ、やっぱりバーベキューしてる……」と隣で恋人が頭を抱え、バーベキューコンロの横に立った背の高い男性たちが笑顔で手を振った。わけがわからないまま車を降りると、「いらっしゃい」と歓迎された。ガレージの中にはベンチやテーブルがあり、自己紹介を終えたお義姉さんたちが割り箸や紙皿を渡してくれた。「食べて、食べて、アヒージョもあるよ。日本酒、飲める?」と紙コップに透明な液体が注がれる。促されるままに飲んで、「おいしいです」と言うと、良かった良かったとみんなが笑った。
汗がつるつるとこめかみをつたった。よそいきの服を着て、初対面の人たちとバーベキューをしている現実に頭が追いつかない。太陽はぎらぎらして、ホースから流れっぱなしの水が銀色に瞬いていた。「井戸水だよ」とお義父さんが教えてくれ、触ると深く冷たい。「おにぎりもあるよ」とお義兄さんたちが塩むすびを焼きはじめ、「私、醤油、塗りたいです!」と立ちあがっていた。顔を火照らせながら焦げめをつけた炭火の焼きおにぎりは芳ばしく、ほくほくとして、採れたての大葉で巻いて食べるとすごく美味しかった。ガレージの奥には米専用だという大きな冷蔵庫があって、米専用なのにみんなそこからビールをだして飲んでいた。その冷蔵庫から干物や子持ちししゃもなんかをだしては焼いてくれる。すっかり酔っぱらってしまった。
ほどよいところでお暇して、近くの温泉に寄って汗を流して帰路についた。服と髪についた煙のにおいは家につくまで取れなかった。「びっくりしたでしょ」と恋人に訊かれ、「うん」と正直に頷く。「バーベキューって知ってたの?」と訊くと「一パーセントくらいの可能性はあるかと思っていたけど、まさかやるとは思わなかった。一周まわって、ありのままの姿を見せようということになったみたいだよ」と苦笑いをしていた。「でも、おもしろかったよ」と私は言った。初対面の人だらけだったけど、ちゃんと味がした。そして、違う家の人たちなのだと思った。違いを楽しめれば、それは最高の調味料だ。
「すごい、夏休みな日だったね」と言い合って「お疲れさま」とベッドに横たわった。次はスペアリブも焼いてみたい。仕込みをして持っていきたいな。ホイル焼きもいい。マシュマロも、明太子も焼きたい。焼き芋も作れないかな。新しい夏休みの過ごし方を見つけた子供のような気分で目をとじ、あっという間に眠りに落ちた。
【ときどき わるい食べもの】
不定期連載
千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『男ともだち』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『ひきなみ』など。エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『胃が合うふたり』(共著・新井見枝香)がある。
Twitter: @chihacenti