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No.15『複眼の映像』橋本忍 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 ぼく個人の映画の黄金期は、1970年代だった。
 レンタルビデオも動画配信もない時代である。もちろんCG、3D、IMAXなど影も形もなかった。おまけにルーカス、スピルバーグ、キャメロンはまだ監督デビューしたばかりで、彼らのつくるSF特撮大作による興行収入のドーピングに侵される以前であり、大人の観客向けのオリジナル脚本作品がメインという牧歌的な制作環境を謳歌していた。
 そんな時代に、ぼくがどこで名作にふれたかというと、わずかな小遣いしかない小中学生はテレビで映画を観ていたのである。「月曜ロードショー」「水曜ロードショー」「木曜洋画劇場」「ゴールデン洋画劇場」「日曜洋画劇場」。ゴールデンタイムには毎日のように映画が放映されていた。テレビ局の名はいちいちあげないけれど、オールドファンなら番組名だけでもきっと懐かしさに震えることだろう。

 ゴールデンだけでなく夕方や深夜にも映画はオンエアされていたし、NHKでも特別な枠をつくっては名画を定期的に流していた。動画配信のある現在のほうが視聴環境は充実しているという声があるかもしれないが、配信ではドラマに比して映画の数は案外すくないし、レパートリーも近作・話題作に限られている。ぼくが『市民ケーン』や『七人の侍』や『汚れた顔の天使』を最初に観たのは、すべてテレビの映画番組だった。当然、ラインナップは玉石混交で『エマニエル夫人』『恐竜100万年』『荒野の用心棒』といったB級の佳作もテレビで観られたのである(作劇術を学ぶという点では名画よりも定型のストーリーに則ったB級作品のほうがいいテキストだった)。
 もちろんテレビ映画には明らかな限界があった。洋画はすべて吹き替えだったし、2時間の放映時間の尺(実質90分強)にあわせて、ときに30~40分というむちゃなカットもしていた。ブラウン管ではせいぜい20インチ台後半という画面迫力の弱さもあった。けれど一日一本以上古今の名作を浴びるように観られたのは、テレビの洋画劇場のおかげである。ストーリーを考える仕事をしている現在、それがどれほど役に立ったか、もう感謝するしかない。

 毎日のようにテレビで映画を観ていたぼくも、中学生になるとひとりで映画館に通うようになった。祖父が東宝の株主だったので、株主優待券をもらっては有楽町にいき、映画を観てから銀座をぶらぶらと散歩する。中学の校則で頭は坊主刈りなのに、精一杯のお洒落でジャケットを着こんで銀ブラをしていたのだ。生意気だが微笑ましい14歳である。下町の中学生にとって日比谷映画劇場や有楽座、日比谷スカラ座など1000人のキャパを超える大型映画館でハリウッド大作を観るのは実に豪華な体験だった。
 こちらが表の映画鑑賞とすると、遥かにリーズナブルな裏道もあった。地元に近い小岩スカラ座は普段は洋物のポルノ映画をかけていたが、月に一度3本立ての名画座に変身していたのである。例えばこんな組みあわせだ。『燃えよドラゴン』『ダーティハリー2』『スティング』。素晴らしい名作揃いなのに、入館料はたったの150円だった。1970年代半ばとはいえ、中学生にさえ破格の安さで、これで果たして映画館は儲けが出るのか心配するほどだった。その頃、いっしょに映画を観ていた友人のひとりが、後に映画会社のトップになるなどとはまったく想像もしていなかった。日曜日の朝から自転車で足を伸ばし、夕方までたっぷりと映画を楽しんでは、痛いお尻でまた自転車を漕いで、焼けつくような夕日のなか家に帰る。そんな日曜日を何度も繰り返していた。それでいて、また夜になると淀川長治の日曜洋画劇場も見逃さなかったのである。一週間の終わりはいつもどこか哀愁を感じさせる「さよなら、さよなら、さよなら」で締めくくられた。動画配信のある現在より、さらにどっぷりと映画に浸かっていたあの頃が映画の黄金期なのは、ぼくにとって動かせない事実である。

 さて、小説でも欧米の翻訳ものが好きで、映画は洋画ばかり観ていたぼくに最初に日本映画の凄みを教えてくれたのがNHKで観た『七人の侍』だった。そこからレンタルで主だった作品を観ていくのだが、ひとつ不思議だったことがある。黒澤映画では、前期のピーク『羅生門』『生きる』『七人の侍』と中期のピーク『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』は、明らかに映画のナラティブのトーンが異なるのだ。前期の文芸路線と重厚なリアリズムから、中期のエンタメ重視とフィクション性の導入。同じ監督なのにどんな変化が起きたのだろうか(『影武者』以降の後期作品は残念ながら評価の対象外とする)。
 その疑問に答えてくれたのが、『羅生門』で脚本家デビューして、黒澤明と組んで『生きる』『七人の侍』と3本の名作を生みだした脚本の名手、橋本忍の『複眼の映像』だった。

 黒澤作品は初期と最晩年をのぞいて、ほぼ共同脚本で仕上げられている。そのメンツが違っていたのだ。具体的には黒澤明と小國英雄は同じだが、前期はそこに橋本忍が、中期には菊島隆三が加わっていた。3人いるうちのひとりの書き手が替わるだけで、これほど映画の実作に質的な相違が生まれてしまう。脚本という映画の設計図がもつ恐ろしさである。
 ぼくは日本の映画、ドラマ、アニメの世界で、もっとも弱い環は現在、脚本にあると考えている。世界はひとりで描くには多彩で情報量が膨大になり過ぎたのだ。小説では描く舞台が比較的狭いので、作家ひとりでもまだ今のところなんとかカバーできる。だが、小説の100~10000倍の大衆を相手にする映画ではそう簡単にはいかない。橋本忍がいうようにもっと共同脚本制を導入して、きちんと欠点を埋めた物語をつくったほうがいいのではないか。
 魅力的なテーマを3~4人の腕のいい脚本家を集めて叩きあげ、物語の連続性をしっかりと掴んだうえで、不合理や説明不足といった穴を埋めて、キャラクターを引き立てていく。人物を描くのが上手い、アクションシーンが得意、家族関係を無理なくしっとりつくれる。各人の得意分野を持ちよって、映画という最大スケールの表現の基礎設計をつくりあげる。映画でもドラマでも、韓国にレベル違いの差をつけられてしまった日本の起死回生の策のひとつが、共同脚本であるのは確かなことだろう。

 この本を手にとったとき、ぼくは自分が好きな表現物、小説・ドラマ・映画・マンガのうち、後半のふたつをまだ手掛けていないと思い、脚本の勉強をしようと考えていた。脚本が書ければ、映画の脚本やマンガの原作にも手を伸ばせるかもしれない。新しい仕事はいつだって楽しみなものだ。マンガの原作は現在、連載進行中だけれど、映画の脚本はとても手が出せない高い壁になっている。最初のテキストが名脚本家、橋本忍のものでは、ぼくの畏れも無理はないと納得してもらえるだろう。
 最後に『複眼の映像』でもっとも胸に沁みたエピソードを選んで、この文章の締めとしてよう。『七人の侍』を書きあげた橋本忍に、師匠の伊丹万作監督がいう。

「橋本よ、苦しい時や悩むことがあったら、その時には黒澤明を思え」
「?………」
「彼は今度の『七人の侍』は腰を据えて撮り、恐らくこれが彼の代表作になるだろう。彼自身にもこれ以上のものは無理で、これを超えるものは生涯にも作れない。しかし、彼はまだ四十三歳……これからもまだまだ監督を続けなければいけないが、何かを作るたびに、『七人の侍』を超えられない焦燥、重圧、虚しさ、苛立ちと人にはいえない異常なその強い懊悩は、……なんらかの優れた作品を作り、名声を得た者に与える……神の……神の天罰だよ」

 まだ映画になる前の脚本を読んだだけで、これだけの真実を見抜く伊丹万作(このエッセイでもとりあげた伊丹十三の父である)の思わず背筋が伸びる慧眼の恐ろしさ。『七人の侍』は通常作品の7倍の製作費をかけ、3時間27分の超大作として完成された。1954年の公開では記録的なヒットを飛ばし、現在も世界映画ベスト10(ユーチューブの各種映画チャンネルで確認できる)のリストから外れることがない歴史的名作は、監督にも脚本家にも超えることのできない呪縛として存在し続けたのである。

作品番号(15)
『複眼の映像』
橋本忍
文藝春秋 2006年6月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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