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No.14『パイドロス』プラトン/藤沢 令夫訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 小説家と哲学は相性の悪い組みあわせだ。
 小説家には、ある本を、ストーリーとキャラクターと文章の良し悪しで読む職業的な習慣がある。ということは、現代に近づくにつれ、論理的な厳密さを追求するあまり、難解さが格段に増し、読ませる文章としての適切なテンポを失っていく哲学というジャンルは、どうしても苦手にならざるを得ないのだ。ぼくはヘーゲルの弁証法やラッセルの論理哲学を読むのが趣味だという小説家には会ったことがない。まあ、少々頭が粗雑にできているくらいのほうが、小説を書くには向いているのだ。
 けれど、安心して欲しい。小説家の(それは一般読者のといってもいいだろう)読みかたでも、すんなりと抵抗なく読める一群の哲学者が存在する。そのすくなくはないグループのなかでもっとも偉大で、最古のひとりが、プラトンである。

 プラトンという哲学者は、ぼくが高校生のとき『ソクラテスの弁明』を読んではまり、連作小説でも読破するように対話篇のほとんどを読みあげることになったヨーロッパ哲学の主要な源流である。英国の哲学者ホワイトヘッドはこういっている。「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である。」
 おや、なんだがムズカシそう、ちょっとこの先を読むのはよそうかな。気の早い判断をするのは、しばし待って欲しい。今回、紹介する『パイドロス』のテーマは恋(エロース)なのだ。しかも反論しなければならないのは、次のような皮肉で逆説的な命題である。「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである。」当時大人気だった高名な詭弁家きべんかリュシアスが提唱した恋の逆説である。

 ときは紀元前5世紀、場所は古代ギリシャ・アテナイ郊外。よく晴れた8月の日盛りに、プラトンの師匠ソクラテスとハンサムな若者パイドロスが出会う。パイドロスは詭弁家の見事な弁論を聞いてきたばかりで、興奮してソクラテスに恋の逆説を伝える。ふたりはイリソス川のほとりを散歩して、プラタナスの木陰に座りこみ、恋していない相手に身をまかせるのが正しい恋なのかという不思議な命題が、真実か否かを、果てしなく話し続けることになる。
 大学生のぼくは授業をさぼり、井の頭公園のベンチでこの岩波文庫を読んでいた。『娼年』でも書いたとおり、セミの鳴き声がやかましい夏の午後だった。のんびりした川べりの会話を読みすすめていると、なんだかソクラテスも同じだと思ったのである。2500年ばかり時間を隔てているし、地球の反対ギリシャの出来事だけれど、きっとソクラテスが腰をおろした木陰でも、セミの鳴き声がやかましかったはずだ。夏草の匂いがして、空は吉祥寺と同じように青かったことだろう。人類の歴史なんて、ひと跳びで届く隣の芝生のようなものだ。そう直感したのである。

 哲学の大河の始まりの一滴が、これほどカジュアルで、難解さの欠片かけらもなかったことに、ぼくは素朴な感銘を受けていた。プラトンの対話篇は、哲学や論理学のテキストであるだけでなく、見事な脚本であり、政治的なパンフレットであり、小説でも詩でもあるという、ほとんど奇跡のような文章である。ヨーロッパの手強く偉大な文明が、ここから流れだすのだ。
 ソクラテスは若い友人に、つねに気軽に呼びかけ、相手のいい分をきちんと聞き、すこしずつ問題を腑分けしていく。恋の定義とはなにか、真実とはなにか、真実を知らずに「真実らしきこと」を語ることは可能か。弁論術とその危険性について。そして、最後に書くこととはなにか。
 もちろん紀元前5世紀なので、ソクラテスの解答には限界がある。真実もエジプトやギリシャ神話、それに当時のアテナイの常識から導きだされたものが多く、首を傾げたくなることもある。そもそも古代ギリシャでは、恋は男性と男性の間にあるもので、異性愛でさえない。けれど、ここで大切なのは「答え」ではなく、そこに至る筋道なのだ。

ひとつひとつの事柄について、その真実を知ること。あらゆるものを本質それ自体に即して定義しうるようになること。定義によってまとめた上で、こんどは逆に、それ以上分割できないところまで、種類ごとにこれを分割する方法を知ること。

 困難は分割せよというデカルトの手法は、これほど昔に遡れるのだ。こうして現在でも哲学や科学で通用する解析的な手続きを踏みながら、ソクラテスが証明しようとするのは、詭弁家の逆説とは反対にある命題である。

すなわち、この恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられるということだ。

 なんだかカッコいいではないか。こんなテーマの恋愛小説を読んでみたいものだ。この命題がいかにして証明されたのかは、140ページほどの中篇『パイドロス』に、直接当たってみて欲しい。

 どうですか、一編の謎解きミステリーとしても、実におもしろそうでしょう。プラトンの対話篇は、ひとつのテーマを巡って、ソクラテスが友人と会話を重ねる形になっている。誰にでも親しみやすく、ていねいに読んでいけば無理なく理解でき、文章は平易な語り言葉で難解さはなく、それでいて古典だけが持つ素晴らしいバランスと澄んだ深さを兼ねそなえている。いや、ぼくなどが推薦するまでもない世界の名著のひとつだといっておけば、それで済むのかもしれない。
 プラトンはアテナイ王族の血を引く一族に生まれたが、本名さえわかっていない。体格が立派だったので、広いとか豊かという愛称をレスリングの師匠からつけられ、それが25世紀ものあいだ歴史に残ることになった。日本名なら「ヒロシ」か「ユタカ」といったあたりだろうか。こんな名前が人類史の続く限り不滅になるなんて、実に不思議でおもしろい偶然ではないだろうか。

 さて、書くことについて、プラトンはどんな考えをもっていたのだろう。小説家には気になる問題である。

もしそういったものを書くに際して、真実がいかにあるかを知り、自分の書いた事柄について訊問されたときに、書いたものをたすけてやることができ、そして、書かれたものは価値が少ないものだということを、みずからが実際に語る言葉そのものによって証明するだけの力をもっているならば、そういう人は、それらの書き物からつけられる肩書で呼ばれてはならない。

 なるほど作家や詩人や脚本家というのは、あまりよくない呼び名なのだ。この時代、書かれた言葉(文章)よりも、語られた言葉や語り手の生の知恵のほうが、遥かに重要視されていた。大量印刷もないし、ベストセラーリストも、電子ファイルもない。だから、プラトンも師ソクラテスの教えを、すべて話し言葉の形で書き残したのだろう。知恵は抽象的に存在するのではなく、ある特定の人から湧きいずるもので、その人を離れては存在しなかった。もう失われてしまった知恵の楽園のような時代だったのかもしれない。ぼくたちは無数の知識や科学法則を知っているけれど、すべて自分とは無縁の無味乾燥な記号に過ぎなくなってしまった。それらについて、生きいきと魅力を増すように語ることも到底できない。小説家として、このあたりは反省しなければいけないだろう。
 プラトンは書かれた言葉を自分の生の言葉で、より豊かに語れる人のことを、こんなふうに呼びたいという。

これを『知者』というのは、パイドロス、どうもぼくには、大それたことのように思われるし、それにこの呼び名は、ただ神のみにふさわしいものであるように思える。むしろ、『愛知者』とか、あるいは何かこれに類した名で呼ぶほうが、そういう人にはもっとふさわしく、ぴったりするし、適切な調子を伝えるだろう。

 ここがフィロソフィー、知を愛する学問としての哲学が生まれてくる現場である。ぼくたちのあらゆる学は、透きとおった最初の一滴から始まる。そのことをもっと誇りにしていいし、敬して遠ざけるだけでなく、もとの本にふれて、その一滴を気軽にのみほすべきなのだ。プラトンの対話編はそんな気づきを、大学の留年生にも優しく与えてくれた。
 それは確かに大学を4年で卒業することも、企業に就職することも大事かもしれない。だが人間の生き方は2500年経っても、これほどまでに変わらないのだ。ソクラテスやプラトンに比べたら、たとえスマートフォンを使いこなし、電気自動車に乗っていたとしても、知的にはずいぶんと後退しているのかもしれない。一度レールをはずれたのだから、のんびりじっくりと自分の人生に向きあおう。誰のどんな人生も、あの夏のセミのやかましい鳴き声のなかで、きれいさっぱり忘却されていくのだから。
 二十歳そこそこで得た感慨は、さらに40年の経験を重ねた現在も、まったく変わらない。

作品番号(14)
『パイドロス』
プラトン/藤沢 令夫訳
岩波文庫 1967年1月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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