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No.13『私の好きな曲』吉田秀和 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 そろそろぼくと音楽との出会いについても書いておこう。
 中学2年生のとき、爆発的なラジカセ(ラジオカセットレコーダー)ブームがうちの学校で起きた。理由はよく覚えていない。とにかくクラスの男子は誰がどのメーカーのラジカセを持っているか、みなお互いに知っていた。
ぼくが近所のちいさな電機店で父に買ってもらったのは、サンヨーREC8000というモノラル機だった。当時ラジカセ貯金をしていて、ちょうど半分まで貯めたところで、父がいきなり買いにいこうと、わが家から数軒先にある店まで連れていってくれたのだ。その夜、枕元に置いたラジカセは、光り輝くようだった。13歳で初めて手にした宝物のようなラジカセで、ぼくはせっせとエアチェック(懐かしい言葉!)を重ねた。自作テープは90分のカセットで300本以上あったから、5000曲は溜めこんでいたのではないだろうか。一円でも安く生テープを買うために、週末は秋葉原の電気街をよく探検していた。カセットはすべて散逸してしまったけれど、音楽はすべて記憶のなかに残っている。

 1970年代前半、東京の中学生が聴く音楽はほとんどが洋楽で、まだ日本の大衆音楽は視野に入っていなかった。近年人気が再燃したシティポップやJ ロックが一般的になるには70年代後半まで待たなければならない。だが、それでも海の向こうの音楽だけで十分だったのだ。60~80年代のあたりがポップ・ロック・ソウルといった欧米の大衆音楽にとって、まさに黄金の絶頂期だった。音楽のジャンル、スタイル、曲想、アレンジ、録音技術、マーケット、流通方法といったすべての面で、ポップミュージックは年ごとに新たな地平を開拓し、成長を続けていた。同時期に青春を過ごしたぼくたちはラッキーというしかない。
 けれど、産業ロックという言葉が生まれた80年代なかばから、ポップ音楽は輝きを失っていく。どんなアートでも同じだが、市場規模が極大化し、経済性のみを最優先させるようになると、創造性は弱まり、ジャンル自体が衰退していくのだ。これは避けられない長期的な波動で、最近ならスーパーヒーローもので未曽有の興行収入を記録し、ピークを過ぎてしまったハリウッド映画が残念な参考例となるだろう。

 20代後半になり、何万曲と熱心に聴いてきたポップミュージックがつまらなくなった。クラシックが終わり、ジャズが終わり、ロックも終わった。楽曲のデジタル化とサブスクリプションによってとどめを刺され、創造性の絶頂期は過ぎ去った。みな過去の遺物になったのだ。それなら何世紀もの蓄積を有するクラシックの世界なら、きっと一番壮大な遺跡巡りができるだろう。そんな予感がしていたせいかもしれない。ぼくは西洋音楽を聴く前に、吉田秀和を読んだのである。
 クラシックを聴かない人には、耳慣れない名前かもしれない。だが文芸批評の小林秀雄と並び、音楽批評では第一人者が吉田秀和である。この人のどこに惹かれたのか。丸谷才一が新潮文庫版のあとがきで最初に書いている。みんなが、『何しろ文章がうまいからなあ……』と言ふのだ。」ぼくもこの素朴な意見に賛成する。
 吉田秀和が書くと、文章からまったく聴いたことのないその曲のメロディが聴こえてくるような気がする。文章自体が耳に心地よいので、クラシックをほとんど聴いたことのない人間にさえ、音楽批評を読ませる力があるくらいである。それはそのまま、批評が単独で文芸として成立している証明といっても、さしつかえないだろう。

 あらためて『私が好きな曲』を読み返してみると、現在稿を起こしているこの書評エッセイと非常に型が似ていることに驚いてしまう。「藝術新潮」に2年間にわたって連載された音楽エッセイなのだが、自分の好きな24曲を選び、自由に語るという音楽批評としては幅のあるスタイルになっている。懐かしい思い出半分、楽曲の紹介と解説半分という、ぼくのエッセイと同じ形式で、『私の好きな曲』は綴られていくのだ。
 例えばフォーレのピアノと弦のための五重奏曲第2番の章では、胸中に秘めた戦時下の思い出が語られる。大戦末期、戦局は日々悪化していく。サイパンとマリアナ群島が米軍の手に落ち、間もなく日本中の都市が空襲を受けるだろうという暗い予感が都市生活者の間で一般的になる。
 手回しの蓄音機で数すくないレコードを聴くのが、吉田さんの唯一の楽しみだったけれど、戦時下では音楽鑑賞もままならない。布団で蓄音器の箱を包みこみ、音楽が外に漏れないようにして、布団に頭を突っこんで聴くのだ。フォーレは枢軸国ドイツではなく、敵国フランスの音楽家なので、はばかることもあったのだろう。

 いよいよ空襲が近づいて、吉田さんは本と20枚ばかりのレコードをブリキ缶に入れ、台所の裏にある狭い庭に穴を掘って埋めた。戦争が終わったとき、この音楽が聴けなければ「とりかえしのつかない悲しみと後悔を味わうことになるだろう」と考えたからだ。
 奇跡的に生きて終戦を迎えたある日、穴からブリキ缶を掘りだしてきた。部屋に戻り「布団もかぶせず、レコードをかけるのは、何か月ぶり、いや何年ぶりだったろうか」。フォーレの音楽のなかにある「この愛撫の旋律は、一つの楽器からほかの楽器へと手渡しされながら、十何小節かにわたり、くり返される。そのあいだも、そうしてそれが終わってからも、涙はいくらでも出てくる。とうとう、私は、終わりまできき通すことができなかった」。
 ぼくたちは今、どこの国のどんな音楽でも、サブスクやユーチューブで自由に誰にも気兼ねせずに聴くことができる。それがどれほど幸福なことであり、同時に自由さに慣れきって、どれほど浅くしか音楽を味わえなくなっているのか、それはまったく皮肉で驚くべきことだ。すくなくともぼくは、フォーレの曲を聴いて、そこまで涙を流したことはない。

 ひとつのエピソードだけで長くなってしまった。もうひとつだけ書いておかなければならない恩義がある。ぼくがグレン・グールドを知ったのも、吉田さんの文章からだった。やけに肩入れしているピアニストがいるんだなあ。広告会社にいく前の朝の時間、推薦に従い買いこんでいたバッハのゴルトベルク変奏曲(輝かしい1955年デビュー版のほう!)をCDプレイヤーにかけた。淡々とした古雅なアリアに続く第1変奏で、ぼくはあっけにとられリビングで立ち尽くしたのである。ジャズやロックで、それまでテンポの速い曲はいくらでも聴いていた。けれどグールドのピアノのスピード感は、コンピュータ制御のどんな16ビートよりも速かったのだ。
 以前、このエッセイでデビュー作『池袋ウエストゲートパーク』はグールドのピアノをBGMにして書いたといった。グールドの聴き手への無関心さ、強弱を振り切る音量コントロール、でたらめに速いテンポ。あの演奏の自由さが手本になければ、ぼくのデビュー作はずっと平凡な作品になっていたことだろう。あのデビュー作はグールドのピアノの質感を、文章で再現するという、今思えばでたらめに高度な挑戦でもあったのだ。

 あの朝、第1変奏を聴いているぼくには、空を翔けあがる小鳥が見えた。ぐんぐんと速度を増しながら、鳥は高度を上げていく。いくらなんでもただの鳥だ。そろそろ上昇も止まるだろう。そう楽観していた45秒後、空の青さが暗く見えるほどの成層圏の高みに、星々のきらめきとともにその鳥はらくらくと翼を休めていた。このときの衝撃により、全米トップ40のチャート少年だったぼくは、数百年にわたりそびえるクラシック音楽の遺跡を掘り続けるクラシックの探検家になったのである。
 グールドの45秒が、耳を変えてくれたのだ。ポップミュージック一辺倒だったぼくを、クラシックの世界に導いてくれた。クラシックというのは不思議なもので、ある曲で一度心を動かされると、その作曲家のすべての音楽がすんなりと聴けるようになる。
 ぼくの場合、バッハではゴルトベルク変奏曲、モーツァルトではクラリネット協奏曲、ベートーヴェンでは交響曲第4番が、作曲家への扉となる音楽だった。歴史の暗がりに消えていくクラシックの長大な廊下には、それぞれ作曲家専用の無数の扉が続いている。そのすべての扉に通じる最初の一枚目の扉、それが音楽ではなく吉田秀和の文章だったというのは、ぼくにとって幸運なことだといわなければならない。

作品番号(13)
『私の好きな曲』   
吉田秀和
新潮文庫 1985年4月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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