【試し読み】加藤寛幸『生命の旅、シエラレオネ』第3回
ボーの事務所に入ると、すぐに各自が荷物をカイラフンから迎えに来ていた車に載せ替えた。荷物を積み終えると食堂に通され、急いで食事を摂るように言われた。
食事は一人分がすでに皿に取り分けられ、ラップをかけた上に名前を書いた紙が貼り付けてあった。エボラ以外の活動では、積まれた皿を各自が手に取って、鍋に準備された食べ物を自分で取り分けるようなスタイルだ。
だがここではエボラの感染を防ぎ、熱帯地域では珍しくないさまざまな感染症を避けるため、徹底した衛生管理がなされていることに驚かされた。エボラのない地域であれば、熱が出ても、マラリアかなんらかの寄生虫、もしくは風邪だろうということで済まされるが、ここでは一度発熱すればエボラの可能性が否定されるまで、つまり中二日空けた血液によるPCR検査(Polymerase ChainReaction/ポリメラーゼ連鎖反応:病原体遺伝子の検出を行う確定診断のための検査法)二回で陰性が確認されるまで、エボラ感染を想定して、厳格な隔離が必要となる。
自分の名前が書かれた皿を受け取り、早々に食事を済ませると、またすぐに皆、車に乗り込んだ。
ボーを出て三〇分もすると、舗装された道から砂利道に入った。それでもドライバーはほとんどスピードを落とさない。後方は砂埃で何も見えなくなっていた。さらに一時間ほど砂利道を進むと、いよいよ本格的な悪路に入った。それまでとは違い、車のスピードはぐっと遅くなった。おそらく時速二〇〜三〇キロくらいではなかろうか。時に、高低差数メートルのアップダウンを進んだかと思うと、その次には、泥水ゆえに深さの見当がつかない不気味な水たまりを回避しながら進んでいく。そんなアップダウンやスラローム(蛇行)を二時間ほど繰り返すと、小さな村に入った。
ドライバーからは、「ここからは道がさらに悪くなるから、シートベルトをして手すりにつかまっているように」と指示が出た。
村を出てすぐの分岐を右に折れると、そこからがいよいよ本番だった。道幅は車が一台なんとか通れるぐらいで、両側には鬱蒼とした森が広がっていた。車の窓には、常に木の枝がバチバチと当たっていた。
運転していたのはカイラフンのドライバーの責任者で、この道を毎日のように往復しているとのことだったが……。
二つ目の分岐に差し掛かると、ドライバーは一旦車を止めて、「ここからが一番の難所だから。手すりから決して手を離さないように」と僕たちに改めて警告した。
そこは道ではなく、溝だった。深さも幅も車とほぼ同じくらいで、泥水が溜まっている。それが一〇〇メートルほどにわたって続いていた。こんなところに車を進めるなんて正気とは思えなかったが、この辺りのことを熟知しているベテランドライバーなら大丈夫だろう、任せるしかないと諦めの気持ち半分で、手すりをしっかり握りしめた。
ドライバーはアクセルを何回か空吹かししたあと、勢いをつけて深い溝に突っ込んだ。タイヤは半分ぐらいまで泥水に浸かって泥水を撒き散らし、ランドクルーザーは轟音と白煙を上げた。スリップしながらもなんとかゆっくり前に進んでいたが、溝から抜け出すまであと一〇メートルぐらいのところで、ついに車は止まってしまった。ドライバーはなんとか抜け出そうと、さらにアクセルを踏み込む。エンジンは耳を覆いたくなるほどの轟音を響かせ、マフラーは黒い煙を噴き上げるが、タイヤは空回りを繰り返すばかりだった。
悪戦苦闘していたドライバーだったが、一〇分ほどして諦めたようにエンジンを止めた。外に出るにも両側とも溝に挟まれていてドアが開かないため、彼は窓から這い出るようにして車を降りた。
凄まじい音を聞きつけたのだろうか、車の周りにはどこから集まってきたのか、大勢の人だかりができていた。ドライバーは再び車に乗り込んできた。彼らに押してもらってこの溝から抜け出そうとしているようだ。大きな声で合図をしながら一〇人近い男たちが車を押している。タイミングを合わせてアクセルを踏み込むが、タイヤは泥水を男たちに浴びせかけるだけで一向に前に進もうとはしなかった。
ドライバーは再び車を這い出て、どこからか石や太い枝、乾いた土を運んできてタイヤの下に押し込んでいる。それまでは、エボラが蔓延する国ということもあって、静かに車の中で様子を見ていた僕たちだったが、汗まみれ泥まみれで作業する彼らを見るに見かねて、後部観音開きのドアから車を這い出てその輪に加わった。
集まってきたこどもたちは思いがけない騒ぎに喜び、はしゃいでいた。長靴もスコップもない中で溝に入り込んで作業したことで、MSFのスタッフもすっかり泥だらけになっていたが、明るいうちになんとかカイラフンに入らねばと皆必死だった。一時間以上もトライ・アンド・エラーを繰り返したが、車は一向に前に進まなかった。結局、自力での脱出を諦めて、カイラフンのMSF事務所からウインチの付いた車を派遣してもらうことになった。
幸い動けなくなったところはカイラフンから一時間ほどのところだったため、真っ暗になる前には応援が到着した。ドライバーはばつが悪そうにしていたが、応援に来たスタッフは何も言わず、車に装備されたウインチを溝にはまり込んだ車に掛けると、一気に引っ張り出した。辺りに歓声が上がった。
手伝ってくれた地元の男たちは車が無事に引っ張り出されると、何も言わず、泥まみれの笑顔で散っていった。
日本でこのような状況になることはあまり多くないだろうが、もし同じようなことがあったら、こんなに大勢の人が泥まみれになりながら笑顔で手を貸してくれるだろうか? などと余韻に浸る間もなく、車はカイラフンに向けて出発した。
辺りはすでに薄暗くなっている。本来、夜間の移動は禁じられているが致し方ない。幸い、そこからはトラブルなく進んだ。カイラフンの事務所に辿り着いた頃にはすっかり日が暮れ、空には星が輝いていた。アムステルダムを発っておよそ三〇時間が過ぎていた。
アムステルダムから一緒に来たメンバーは、そのまま食堂で行われている全体ミーティングに出席するように言われた。
毎週水曜日には二〇時から全体ミーティングが行われているとのことだった。すでに会議は始まっていたが、僕たちが食堂に入ると歓声が上がった。歓声を浴びて悪い気持ちはしなかったが、それは僕たちが泥だらけだったからのようだ。
会議ではPC(プロジェクト・コーディネーター:カイラフンのMSFの活動全体の責任者)から、ここ一週間の入退院者数、感染者数、死亡者数、患者の地域別分布や新たな活動方針などが報告されたあと、一〇分程度の質疑応答があり、最後に新顔である僕たちが自己紹介をした。全体で五〇分程度だった。会議が終わるとそのまま食堂で食事を摂るように言われた。明日から始まる活動のため、無理してでもという思いで、なんとか焼いたチキンウイングとマッシュポテトをビールで胃袋に流し込んだ。
食事をしている間に、部屋の番号が書かれたキーが配られた。「じゃあ、また明日」と言うだけで、皆、足早に自分の部屋に入っていった。僕も自分の部屋に向かった。
部屋は完全な個室で、トイレとシャワーまで付いていた。至れり尽くせりの設備に驚いたが、泥まみれの身体をシャワーで洗い流そうと思いながらも睡魔に勝つことはできず、そのまま眠ってしまった。
八月に南スーダンから帰国して以降、ずっと眠れない夜が続いていた僕は、疲れ果てて眠ることの幸せを嚙みしめていた。
疲れていれば、時差や不安に邪魔されて眠れない夜を過ごさなくてもいい。数カ月続いた眠れない夜が噓のように、夜中に目を覚ますこともなく、エボラとの戦闘前夜は静かに過ぎていった。
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