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【試し読み】加藤寛幸『生命の旅、シエラレオネ』第2回

エボラウイルス病の過酷な治療現場で、こどもたちの治療にあたった「国境なき医師団」の小児科医・加藤寛幸さんによる渾身のノンフィクション生命いのちの旅、シエラレオネ』の試し読みを公開します。
世界各地で絶えることのない紛争や、貧困によって、最低限の医療すら受けることができないこどもたち。理不尽な現実に打ちのめされながらも「命」の格差と闘い続ける著者の記録です。明るさを失わず、けなげにふるまうこどもたちの姿に読者も著者と一緒に涙することでしょう。
紛争、気候変動、感染症、貧困など数々の問題に直面しているいま、地球と私たちの未来のために一人ひとりができることとは…。

2 夜明け

 ボートは暗闇の中を二〇分ほど疾走すると、徐々に速度を落とし始めた。すると、しぶきに濡れた窓越しに、自分たちの乗るボートが、多くの船が停泊している港の中の狭い隙間をすり抜けるように進んでいることがわかった。ボートを操縦する人たちにとっては庭のようなものかもしれないが、たとえそれが暗いせいでそう感じられるとしても、通り過ぎていく船との距離のあまりの近さに肝を冷やした。ボートがエンジンを止めて惰性に任せて進むようになって、僕はようやく胸をなでおろした。ボートが横付けされたのは、木製の小さな船着き場だった。自分の荷物を受け取ると、きしむ桟橋を歩き、駐車場に向かった。
 
 同行しているのは、アムステルダムでトレーニングをともにしたカナダ人医師のブルース、日本人の彼女がいると話してくれたイギリス人アドミニストレーター(人事、財務、総務などの担当)のトリスタン、それからカナダ人ロジスティシャン(医薬品に限らず、あらゆる物資の管理・供給から、電気、水道工事、車両の整備まで担う)のクリス、オーストラリア人の精神科医ケイトの四名だったが、誰も口を開こうとはせず、無言で歩いていた。
 
 駐車場の隅には、闇の中で、街灯のわずかな光にぼんやりと照らし出されたMSFのロゴが待っていた。MSFとは、国境なき医師団を意味するフランス語、Médecins Sans Frontières の頭文字を取ったもので、そのロゴは、私たちの想いを象徴する、患者さんのもとへ走って駆けつける人をかたどった〝ランニング・パーソン〞である。
 MSFの活動で現地入りする場合、治安の悪い地域も多いことから、ほとんどの場合、MSFの車でMSFのスタッフが空港や港まで迎えに来てくれる。フリータウンに到着したのはまだ夜明け前だったが、一二時間の移動と暗闇のクルージングのあとに、MSFのロゴを見つけて救われたような気がしたのは、僕だけではなかっただろう。
 人数を確認すると、現地スタッフのドライバーは無言で車を出した。エボラ対応が始まって以来、毎日のように、夜明け前に現地入りするスタッフを迎えに来ているのだろうか。ドライバーの横顔にも疲れがにじんでいた。
 動き出した車は、これが首都かと目を疑うほどのひどいデコボコ道をゆっくりと上ったり下ったりしながら二〇分ほど進んだ。
 アフリカの国々では、夜明け前の暗い時間から歩いて仕事に向かう人々の姿を目にすることも珍しくないが、エボラ流行の影響なのか、それともただ夜明け前だからなのか、通りを歩く人を一人として目にすることはなかった。
 少し広い通りに出て急な坂道を上ると、MSFのロゴが描かれた大きな鉄の扉の前に到着した。ドライバーがクラクションを鳴らすと、扉に付いた小さな窓が開き、守衛の男がMSFの車であることを確認すると、のそのそと両開きの鉄の扉を開けた。ドライバーがその動きにイライラしているのが見て取れる。
 エボラ患者の診療に直接当たっているスタッフだけでなく、ドライバーや守衛を含めて、この国で活動するスタッフ全員に疲れがたまってきているであろうことが容易に想像された。

 着いたところは白く塗られた洋館で、エボラ以前はMSFの事務所だったようだが、エボラの活動でシエラレオネに入ってくるスタッフが増えたために、一部を宿舎として使っていた。外階段を上がっていくと、車の音を聞きつけたのか、玄関に一人の女性が出てきた。「握手やハグはできないけど、ようこそフリータウンへ」と笑顔で迎え入れてくれる。フランス人によって設立されたMSFでは、スタッフどうしはフランス式にハグやキスで挨拶するのが常だが、エボラが蔓延するここシエラレオネでは、国中でNo Touch Policyノータッチポリシー が徹底されていた。つまり、キスやハグはもちろん、握手を含めて、身体の接触は一切禁止されていた。MSFも、もちろん例外ではない。
 それでも、彼女の穏やかな表情と言葉は、疲れと苛立いらだ ちを隠そうとしないドライバーや守衛を見ていた僕たちの気持ちをなごませてくれた。彼女とて毎日のように海外からのスタッフを迎え入れなければならず、疲労がたまっていても不思議はないのだが、その笑顔に皆、救われた思いだった。
 十数時間の移動などMSFでは珍しいことではないが、だからといって疲れていないわけではない。それでも、「疲れた」と口にする者はいない。長年MSFの活動に参加してきた経験から、皆同じように疲れていると知っているからかもしれない。あるいは、どうしようもない状況に直面することの多いMSFの活動を通して、言っても仕方のないことを口にしないという、省エネモードが身についているのかもしれない。
 
 ようやく明るくなり始めたテラスに通された僕たちは、テラスから見えるフリータウンの景色に目をみはった。小高い丘の上に立つその洋館からは、フリータウンの港を見下ろすことができた。うっすら白みつつある夜明け前の海は静かにいでいて、エボラ騒動とは無縁のように感じられた。その一方で、眼下の家々の多くはまるで建築中のようにあちらこちらが壊れていたり、崩れたりしていて、この国の貧しさを突きつけられるようだった。元々豊かとはいえないこの国の未来に、果たしてエボラはどれほどの大きな影響を及ぼすことになるのだろう。
 
 出迎えてくれたのは、フリータウンの事務局で人事を担当しているオランダ人アドミニストレーターの女性だった。彼女は僕たち全員のパスポートを預かると、その代わりとでもいうように、一人ひとりにシエラレオネでの活動と生活に関する注意書きが記された書類を配り、台所に行って、紅茶を用意して戻ってきた。渡された書類には一般的な注意事項が書かれていた。ノー・タッチ・ポリシー、体調管理の重要性、同意なしに患者やその家族の写真を撮ってはならないこと、緊急時の連絡先などなど。
 しかしながら、さすがに長時間の移動直後でもあり、内容はなかなか頭に入ってこない。周りを見回すと皆同じようで、書類を手にしたまま、視線は、徐々に明るくなる海に注がれていた。
 そんな様子を察したのか、彼女は「一休みしてからでいいから、一度はしっかり目を通しておいて」と言うと、エボラの対応が始まって以降のフリータウンのMSF事務局の様子について話してくれた。エボラの活動が始まって以降、事務局のスタッフは二倍近くに膨れ上がり、出入国をするスタッフの数も一気に増え、いくら人手を増やしても追いつかない状況だと。ほとんどのスタッフは一カ月程度の短期間の任務で入国していることを考えると、人事を預かる彼女の大変さは想像に難くなかった。
「三カ月の任期終了まで残すところ、あと一週間よ」と言った時の彼女の笑顔が心に残った。安堵あんどの気持ちが表れているようなその笑顔は、逆にここでの任務の厳しさを思わせた。

 事務局でのやりとりは一時間あまりだっただろうか。ここからはMSFのランドクルーザーに乗り換え、いよいよ活動地である東部州のカイラフン県に向けて出発である。再び荷物を車に積み込むと、彼女にお礼を言って僕たちはフリータウンを出発した。
「Good mission. Stay safe.」と、彼女は笑顔で手を振った。
 デコボコ道の上り下りを繰り返しながら一時間あまり走ると、車は市内を出て、日本の田舎にも似たのどかな景色の中、舗装された片側一車線の道を疾走し始めていた。
 これから四時間かけて、MSFのエボラ治療センターの一つがある南部州のボーに向かう。予定では、そこで昼食を摂り、目的地であるカイラフンから迎えに来ている車に乗り換える。このやり方は、kissmovement と呼ばれ、フリータウンとカイラフンから車が中継地点のボーに向かい、そこで人や荷物を移し替えることで、それぞれのドライバーが出先で夜を過ごさなくてよくなるというものだ。
活動地はどこも車の台数が限られていて、夜間の移動制限があることから、こういった工夫が生み出されたのだろう。
 時速一〇〇キロ近いスピードで車を走らせながら、現地スタッフであるドライバーはアフリカなまりの英語で、「俺はボーからフリータウンに引き返すから関係ないけど」という前置き付きで、「ボーからカイラフンまでの五時間は、ジャングルとドロドロの悪路を走ることになるから覚悟しておいた方がいいぞ」と、口元に笑みを浮かべながら話した。
 
 初めは車窓の景色に見入っていた僕たちだったが、一時間もすると皆、目を閉じていた。移動の疲れに加え、これからの活動のために休める時には休んでおきたかったからだろう。しかし、ドライバーは時折車を止め、そんな僕たちに車から降りるように言った。そこは政府が管理しているチェックポイントで、車を降りると一人ひとりの体温が測定され、発熱がないことを確認したのち、靴の裏と手の消毒を行い、歩いてチェックポイントを通過する。ドライバーのみ車に戻りチェックポイントの先まで車を進ませ、僕たちを乗せて再出発するといった具合だ。そんなことをおよそ一時間おきに繰り返すので、ゆっくり休むことはできなかったが、ほぼ予定通り、約四時間でボーに到着した。

シエラレオネ、カイラフンのエボラ治療センターに入る国境なき医師団の車
©️Hiroyuki Kato / MSF

加藤寛幸(かとう ・ひろゆき)
小児科医。人道援助活動家。1965年、東京都生まれ。北海道大学中退、島根医科大学(現・島根大学医学部)卒。シドニー・ウエストメッドこども病院、静岡県立こども病院などで小児救急、小児集中治療に従事。タイ・マヒドン大学にて熱帯医学ディプロマ取得。2003年より国境なき医師団の活動に参加し、アフリカやアジアの他、国内の災害支援にも従事。2015年〜2020年、国境なき医師団日本会長。2022年、ウクライナでの活動に参加。

▼作家・いとうせいこうさん×著者・加藤寛幸さんによるトークイベント 「紛争とパンデミックの時代に」の対談記事を集英社オンラインで公開中

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