【試し読み】加藤寛幸『生命の旅、シエラレオネ』第1回
1 入国
ボートは轟音を立てながら、飛び跳ねるように夜明け前の海面を突き進んでいた。シエラレオネ共和国のルンギ国際空港に到着したのは、二〇一四年一一月一〇日の午前三時過ぎ。モロッコ・カサブランカでのトランジットを含めるとオランダのアムステルダムを発ってからおよそ一二時間が経過していた。空港から首都フリータウンまでの移動手段は、小型のモーターボートだ。
疲れと眠気でぼんやりしたままオレンジ色のライフベストを着せられ、押し込まれるようにしてボートに乗り込んだ。ボートは夜の闇を切り裂くように猛烈な勢いで進んでいた。その凄まじい音と振動に、眠気を忘れて恐怖心をおぼえているのは僕だけではないはずだが、怖いからといってどうすることもできない。皆、諦めにも似た思いで目を閉じているように見えた。
*
数カ月前の記憶が蘇ってきた。二〇〇七年から静岡県立こども病院の小児救急センターに勤めていた僕は、それまでほとんど使うことがなかった有給休暇に加えて、一週間のボランティア休暇、さらには、出発前の半月と帰国後の半月の勤務を全て夜勤(一六時間勤務)にすることで捻出した約一カ月の休みを合わせて取ることで、二〇一四年五月から八月までの三カ月間、国境なき医師団のメンバーとして南スーダン共和国の活動に参加した。二〇一一年の東日本大震災以来の久しぶりの活動でもあり、満を持しての参加だった。
年間総活動費が二一〇〇億円を超える国境なき医師団の活動の中でも有数の大規模な活動のメディカル・チームリーダー(MTL:医療活動全体の責任者)を任されたこともあり、意気揚々と南スーダンに乗り込んだのだ。だが、結果は惨憺たるものだった。
連日押し寄せる数百人にも及ぶマラリア患者、年間六〇〇〇件の分娩、周辺地域から搬送されてくる紛争による外傷患者、バタバタと死んでいくこどもたち、その全てに翻弄されるばかりで、正直言えば何もできずにシッポを巻いて逃げ帰ったようなものだった。
スーダンは、二〇〇三年に僕が初めて国境なき医師団の活動に参加した思い出深い国なので、久しぶりの活動参加が、スーダンから二〇一一年に独立した南スーダンであることには、少なからず縁を感じていた。しかしながら、現実はそんな悠長なことを言っていられるものではなかった。南スーダンのあまりにも過酷な状況を目の前に突きつけられ、「お前なんかの手に負える国ではない」と叩きのめされたように感じた。
帰国後は、翌日から連日の夜勤が始まり、疲れや眠気があるはずなのに、仕事を終えて家に帰っても眠れない日が続いた。眠ろうと酒を飲んでもまんじりともせず朝を迎え、食事も喉を通らなかった。
同僚が、「痩せたというより、やつれたね」と話しているのを耳にした。
国境なき医師団日本事務局とのデブリーフィング(活動終了後に行われる、報告と相談のためのミーティング)で、体調や精神面の問題の有無を問われ、ミッション(活動)に何度も参加した経験や医師であるという自負から、「相談しなければならないような問題は特にない」と回答した。
だが、あとになって考えれば、あの時の状態は、紛れもないPTSD(心的外傷後ストレス障害)であったように思う。眠れず、食べられない日々は続き、昼間でもブラインドを閉めきって酒を飲むような毎日だった。そして、いつの頃からか、死にたいという思いが僕の頭をよぎるようになっていた。
同僚や友人に南スーダンの状況を聞かれると、僕はこう答えた。
「They have nothing.(彼らは何も持っていない)」と。
三〇年以上にわたる紛争により、彼らは、医療はもちろんのこと、教育も家も家族も、そして生きる気力さえも失っているように感じられた。
国境なき医師団を志して二〇年、活動に参加するようになってからでも一〇年以上の時間がたっていた。家族、日本での仕事、国境なき医師団の活動の三つのバランスを取りながら、自分のペースで活動に関わっていこうと考えていた僕だったが、南スーダンから帰国後、そのあまりの惨状に頭が混乱し、どうしていいかわからない状況に陥っていた。
家族、日本での仕事と国境なき医師団の活動のバランス?
果たしてそんなのんきなことを言っていていいのだろうか。今この瞬間も、何も持たない南スーダンの人々は生命の危機に瀕している。それなのに僕は、日本での仕事をこれも大切だと自分に言い聞かせながら続け、家族のためにと家を建て、中古とはいえ高級外車に乗って通勤するような生活をもう何年も続けていた。
帰国して約二カ月、悩んだ末に静岡県立こども病院を辞職した。というより、すでに、肉体的、精神的に仕事を続けられる状態ではなかった。大きな車を売って小さなオンボロ中古車を購入した。長年、わだかまりを抱えていた妻と離婚した。そして、生きていく糧を得るためだけに夜間の救急当直のアルバイトを始めた。アルバイトから帰ると、必死に酒を飲んで眠りにつくという生活が続いた。
アルバイトを始めて一カ月が過ぎようとした頃、国境なき医師団からエボラウイルス病対応のためのシエラレオネへの派遣要請が来た。果たして今の自分に責任を果たせるのか、そんな不安が脳裏をよぎったが、悩んだ末に僕は活動への参加を決めた。与えられ、今も生かされているこの命を、少しでも有効に使えるのであればと。
*
遠くに見えるフリータウンの灯りを見ながら、ここに至るまでの数カ月を思い返していた。この数カ月で、これまで大切にしてきたもの、必死に守ろうとしてきたもののほとんどを投げ出した。人生の目標を見失い、生きることへの疑問を感じながら過ごした日々だった。
波がぶつかるたびに小さなボートは大きな衝撃とともに跳ね上がった。エボラ感染が拡がるフリータウンの街が目の前に迫っていた。僕はもう後戻りできないことを悟った。
▼作家・いとうせいこうさん×著者・加藤寛幸さんによるトークイベント 「紛争とパンデミックの時代に」の対談記事を集英社オンラインで公開中