【試し読み】加藤寛幸『生命の旅、シエラレオネ』第4回
3 喘ぎ
南スーダンから戻って以来、幾度となく夢に現れる少女がいる。
*
「プリーズ カム イン」という僕の声に応じて、南スーダン、アウェイル病院の診察室に入ってきたのは、透き通るほどに真っ白な布を身体に巻きつけたような民族衣装姿の幼い少女だった。その光景が見慣れたものと違っていることにはすぐ気づいたが、あまりに異様だったためか、何が起きているのか、すぐには理解できなかった。
ハーハーという喘ぎ声とともに、フラフラとした足取りで診察室に入ってきた少女の顔は黒く煤け、目が開かないほどに腫れ上がっていた。その顔を見れば、彼女が大変なやけどを負っていることは理解できたのだが、こんなひどいやけどを負った少女が自力で歩いて診察室に入ってくるという事実を、現実のこととして理解することができなかったのだ。いったい全体何が起こっているんだという疑問が頭の中を駆け巡り、僕の思考はひどく混乱していた。
少女の後ろから、赤ちゃんを抱えた女性が入ってきた。不安げな表情を見て、少女の母親であろうと推測した僕は、通訳を通して少女に何が起こったのかを尋ねた。通訳の問いに母親はためらうような様子で答えた。それを聞いた通訳は、顔色を変えることもなく、平然と訳してくれた。
家で家事の手伝いをしていた七歳の少女が三日前に、顔から胸にかけて大やけどを負った。しかし、近くに診てもらえるところがなかったため、炎天下を三日間歩いてここまでやって来たというのだ。
通訳から伝えられた内容は、さらに僕の頭を混乱させた。
こんなにひどいやけどを負った幼い少女が、三日間も炎天下を歩いて病院に来るなんてことが起こり得るのか? どうしても信じられなかった。
三〇年にわたる紛争ののち、二〇一一年にようやくスーダンから分離独立した、世界一新しい国、南スーダン。独立から二年足らずで内戦状態に陥り、その解決の糸口さえ見えない状況が続いていた二〇一四年の南スーダン。それは、大やけどを負った少女が、炎天下を三日間歩かなければ医療にアクセスできない、そんな国だったのだ。
彼女が床に崩れ落ちるようにしゃがみ込む姿が目に入り、僕は我を取り戻した。
そばにいた看護スタッフに、すぐに点滴と鎮痛剤を準備するように指示した。彼女をベッドに寝かせようと抱き上げた時、その身体が思った以上に軽いことに驚いた。こんな小さな身体で、痛みをこらえながら、照りつける日差しの中を歩き続けることは、どれほどつらかっただろう。彼女のまぶたに溢れる涙を見た僕の中には、絶望感と怒りが入り交じったような、これまでに経験したことのない感情がわき上がっていた。
幸い、やけどは彼女の命を奪うまでには至らなかった。
僕が南スーダンでの任期を終え、日本に帰国する頃にはかなり快復していたが、額と鼻の頭はやけどが深いため、皮膚移植が必要だった。僕が勤務していたアウェイルの病院では皮膚移植ができないので、治療可能な施設への搬送を準備していたが、紛争が続く南スーダンでは、安全な移動などどこにも保証されていなかった。
そんな彼女を残して帰国することに罪悪感さえ感じていた僕を、大きく手を振って見送ってくれた彼女の笑顔は今も忘れることができない。
*
南スーダンから帰国し、食事も睡眠もおぼつかなくなっていた僕の夢に時折、笑顔の彼女が現れた。南スーダンから豊かで平和な日本に逃げ帰ってきてしまったという罪悪感が、彼女を僕の夢に繰り返し登場させていたのかもしれない。
笑顔で手を振る彼女に起こされると、もう寝付くこともできず、ただただ暗闇を見つめ、夜が明けるまで時間がたつのを待つのが常だった。
▼作家・いとうせいこうさん×著者・加藤寛幸さんによるトークイベント 「紛争とパンデミックの時代に」の対談記事を集英社オンラインで公開中
【『生命の旅、シエラレオネ』試し読み】
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