こころを守るためにできること|信田さよ子『傷つく人、傷つける人』(4)【最終回】
傷つけられるとわかっていても、すぐには逃れられない人間関係もままあるもの。公認心理師・臨床心理士の信田さよ子さんの著書『傷つく人、傷つける人』を紹介する最終回は、そんなときにこころを守るための方法について、本文から抜粋してお送りします。「コンパートメント」を持つこととは、そして気づかぬうちに根を張っている「本当の自分」に対する思い込みとは……? 自信を持って生きていくためのヒントが詰まっています。
※文中に登場する例は実例をアレンジした創作であり、登場する人物名はすべて仮名です。
信田さよ子
『傷つく人、傷つける人』
(第5章「自信を持ってたくましく生きるために」より抜粋)
いじめを回避する方法
暴言のファイル保存
三〇歳のユカさんは、父親からの暴言に今でも悩まされています。「聞くに堪えない言葉は、聞き流すしか方法はないのですか」と私に質問しました。
ユカさんの父親は、中学校の校長という仕事のせいか、自宅に戻っても説教めいた言葉しか口にしません。
「おまえがヘンなのは、すべておまえ自身のせいだ」「おまえが弱いから人にもだまされるんだ」「努力すれば必ず報われるものなんだ。なぜもっと努力しない」「社会をなめてるのか。そんなことで一人前になったと思うんじゃないぞ」と、ことあるごとに娘に言うのでした。
幼い頃から、父親への口答えはタブーでした。必ずゲンコツで頭頂部を殴られるからです。殴ったあと、父親はいつも「ほっぺたを叩くと手が滑って鼓膜が破れるから、ゲンコツにするんだ」と、もったいぶって説明しました。
突き刺さるようなその言葉を聞き流そう、聞き流そうと努力してきたのですが、ユカさんはうまくできませんでした。
彼女のように父親からの暴言、あるいは職場でのハラスメントの被害を受けている人は、どうやって身を守ったらいいのでしょうか。
「気にしないこと」というのは、まず無理なことです。「聞き流しなさい、そして水に流しなさい」というのは常識的にしばしば言われることですが、まったく役に立ちません。そんなことはできるはずがないのです。なぜなら、私たちには記憶というものがあり、記憶を消せない限り、いやな言葉や体験が残っていくからです。
私は、ユカさんが父親から受けるダメージをなるべく小さくするために、ひとつの方法を提案しました。
それは、頭のなかに架空のファイルイメージをつくり、そこに投げかけられた言葉を保存するようにしていくことです。パソコンのファイルイメージそのものです。父親のファイルをつくり、いやな言葉を浴びせられている最中に、過去の言葉がよみがえるたびに、せっせとファイルに保存するのです。
話を聞いているような顔をしながら、いっぽうでパソコン画面をイメージし、「ファイルに保存しますか」「OK」をクリックするのです。これはイメージを利用した一種の情報処理です。
しかも、相手にちゃんと聞いていると思わせるために、女優になったつもりで神妙な顔で聞いている演技をするのです。このようにしながら聞いていると、受け止め方が少し変わり、こころのなかにグサリとは入ってこなくなるでしょう。
コンパートメントの効果
少数の弱者をつくり、その人たちを大勢でいじめることで、自分たちの集団を守るという構造が成り立つことがあります。学校にも、会社のなかにも、幼稚園のママ友にもそれはしばしば生まれます。
少数者を排除することで多数を守るのですから、いつも誰か標的になる人はいないかと探しているのです。これは差別の構造とつながっています。
そこには主導するボスがいるのですが、この集団がややこしいのは、政党や暴力団と違ってボスが誰かがわからないことです。はっきりと一人の首謀者が見えれば、抵抗したり怒ったりできるでしょうが、多くはそれが見えないようになっているのです。いじめられている側は、いじめている集団がどのような構造かいっさいわかりません。ときには周囲の全員がいじめに加担しているように思われます。
相手の姿が見えないいじめのなかで、孤独感をいっそう募らせ、おびえと卑屈さが増し、周囲に取り入り、笑いを取るようになります。それを見て、教師の多くは仲良くやっていると勘違いしてしまうのです。
もし、そういうなかに入ってしまったら、どうやって回避すればよいのでしょう。
大切なことは、卑屈になってはいけないということです。卑屈になったら相手の思うツボですから、よけい取り込まれるでしょう。どんなにこわくても、がんばって堂々としているキャラを演じましょう。
あるいは、「コンパートメンタライゼーション(区画化)」という言葉をご存じでしょうか。ヨーロッパの列車などにコンパートメントという、三人掛けの座席が向かい合った個室がありますが、そのように、自分を取り巻く人間関係をグループ分けするのです。
重要なのは、コンパートメントに優劣をつけないことです。いくつか別のキャラを持ち、それを使い分けていくことと、人間関係に複数のコンパートメントを持つことはつながっています。「本当の私はこうよ」などと決めつけずに、そのときどきにそれぞれのキャラとつき合うのです。
ヨシコさんは高校生時代、クラスの多くの女子から無視された経験がありました。ちょっと派手めのグループと地味めなグループの狭間(はざま)で日々過ごしていたところ、いつの間にか両方のグループから弾き出されてしまったのです。秋から無視され始め、翌年の一月までその状態は続き、ひとりでお弁当を食べる日々を過ごしました。
その苦しい状態をなんとかやり過ごせたのは、「私にはほかにも世界があるんだ」という自信でした。小学生のときに入っていたガールスカウト時代の友達がいる、塾の友達もいる。そういった友達の存在が支えになりました。
このように、自分を取り巻く人間関係に、コンパートメントがいくつあるか振り返ってみるのです。会社の人間関係以外にも、家族、高校のクラスメイト、習い事の友人などなど……。その数が多いほど、こころが豊かになります。
すべてと深くつき合う必要はありませんが、ABCDのコンパートメントがあれば、 AがいづらくてもBがあると思えるでしょう。ときにはCもあるし、たまにはDもいい。このように、自分にとってどれもが大切なコンパートメントを状況に応じて使い分けるのが、行き詰まらないコツなのです。
どのキャラも、すべてが、生きていくために必要なコンパートメントなのですから。
どれも本当の自分
コンパートメントについて、もう少し掘り下げて述べてみましょう。
まず、「本当の自分をわかってほしい」と考えるのはやめましょう。
自分のことをわかってほしい、理解してほしいと願うことは、それほど不思議なことではありませんが、問題は「本当の自分がどこかにある」と考えることなのです。このように考えると、私たちは、アリ地獄のような自分探しの旅にはまってしまいがちです。
なぜなら、「本当の自分」という見方の対極は、「嘘の自分」ということになります。「本当」「真の自分」と、「いつわりの」「嘘の自分」という二分法はわかりやすいですが、私たちの生き方をどんどん狭くしていくのです。本当の私はよくて、嘘はよくないととらえがちです。
本当の自分、真の自己を求めて苦闘する姿は、明治以降、近代の文学や思想などになじみ深いものでした。
自分に厳しくすることは、本当の自分を獲得するために必要なことであり、絶えず偽の自己を否定し続けることが、真の自己を確立するためには欠かせないと考えられてきたのです。いわゆる「近代文学」の主要テーマだったこの言葉が、こんどは心理学の装いをこらして、再登場したのです。
アメリカでは一九八〇年代に心理学ブームともいうべき現象が起こり、あらゆることを社会や歴史から切り離して、自分の内面を見つめ、過去の自分の虐待経験に由来するものだとする書物や、小説などがもてはやされました。「社会の心理学化」という言葉で、そのような流れを批判する動きもありましたが、そのわかりやすさにはかなわなかったのです。
いわゆるサイコホラーなども、凶悪犯は親から虐待を受けていたのだとして説明されました。映画も大ヒットした、トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』(一九八八年) に代表されるそれらの作品は、日本でも大いに人気を博しましたが、その際、真 (本当)と偽(嘘)という対比が盛んに用いられたのです。
この二分法は自分の外部でなく、自分のこころだけを見つめて、目標設定を自分の変化に置くことを勧めるものでした。本当の自分対嘘の自分というとらえ方は、視線の方向を自分のなかに向け、自分の内面で闘いを起こすものではないでしょうか。
自分で自分と闘い、自分で自分を否定していれば、外部の世界は必要なくなり、どうでもよくなるでしょう。
おそらく、他者や外部の世界への視線を持たなくてもいいように、自分の世界だけで閉じこもっていることを肯定するために、このような二分法は生まれたのではないか、と思います。
私たちは現実のなかで生きています。日々友人や家族と接触しながら、仕事をしたり旅行したり、ときには傷ついたり楽しんだりしながら生きています。そのなかで影響されたり、影響を与えたり、考え方を変えたり、自信をつけたりしていきます。
「嘘の」「いつわりの」自分などないのです。どんな自分も「本当」の自分であり、どれひとつとして否定しなければならないものではありません。
臆病な私、うぬぼれている私、友達からどう見られているかがいつも気になる私、自己主張が苦手な私、過ぎ去ったことばかり気にしている私……。どれもが「本当」の私なのです。
自分が嫌い、という人がいます。自分が嫌いでも、好きでも、どちらでもいいのではないでしょうか。「自分を愛せなければ人を愛せない」などと言われるかもしれませんが、そんな言葉を気にすることはありません。
「自分のことなんか嫌いです。でも、それが何か?」と堂々と胸を張っていればいいのです。
あえていえば、自分とはまるでカレイドスコープ(万華鏡)のように、多面的なものなのです。状況に応じて、保護色のように表情やキャラを変えることを、肯定的にとらえてみましょう。大切なことは、自分のキャラを把握している自分がいつも存在しているということなのです。
七つも八つものキャラを演じているとしても、それを知って自覚している自分がいれば大丈夫なのです。サッカーチームのように、イレブンを統括する監督が存在すれば、そのチームはちゃんとプレイすることができるでしょう。監督・統括する自分は、 本当か嘘かという軸を離れています。どうやってチームの結束を高めて、効果的にプレイするかを考えることは、どうやって多様なキャラを使い分けていくかということにつながります。
コンパートメントをたくさん持つことと、どれもが本当の自分であること、それを統括しマネージメントする自分を持つことは、つながっているのです。
(第5章「自信を持ってたくましく生きるために」より抜粋)
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信田さよ子(のぶた・さよこ)
1946年岐阜県生まれ。公認心理師・臨床心理士。原宿カウンセリングセンター顧問。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。精神科病院勤務等を経て95年に原宿カウンセリングセンターを開設、2021年5月まで所長を務める。AC(アダルト・チルドレン)、DV(ドメスティック・バイオレンス)、虐待、アルコール依存症など、家族問題についてのカウンセリングの経験から、多くの提言を行ってきた。著書に『母が重くてたまらない──墓守娘の嘆き』『共依存』『家族収容所──愛がなくても妻を続けるために』『母からの解放 娘たちの声は届くか』『〈性〉なる家族』『後悔しない子育て 世代間連鎖を防ぐために必要なこと』『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』など多数。
Twitter:@sayokonobuta