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No.23『11/22/63』(前編)スティーヴン・キング/白石朗訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 スティーヴン・キングは故郷の山のような作家だ。
 近くに住む者は、誰もが意識せずに存在をありのまま受けとめ、そこにあることをすっかり忘れてしまう。エベレストやマッキンリーのような世界の名峰と比べられることはないし、たまに思いだすとき漏れる言葉は、あの山はいつも変わらないなあという、呆れとも親しみともとれる平凡な感想に過ぎない。おや、今年もまたキングが分厚いのを一冊だした。今度は超能力のある子どもの話か、『ファイアスターター』以来だな。
 同じようにキングは文芸評論の世界でも、非常に取り扱いが困難な作家だ。第一、50を超える長編(日本ではたいてい上下巻)をすべて読んでいるのは、熱狂的なキングマニアを除けば、担当編集者と妻のタビサだけだと思われる。かくいうぼくも指折り数えて10冊とすこししか読んでいない。専業作家は他の作家の書いた作品をさして読まないものだ。それほど暇ではないのである。

 最初の出会いは高校生のときに読んだデビュー作『キャリー』で、おもしろさと下品さに衝撃を受けた。同級生から執拗ないじめを受けたキャリーは、母親が狂信的なキリスト教徒で性教育をまったく受けていない。性は不浄なのだ。初めての生理による経血を学校のシャワールームで迎え、クラスの女子たちから手ひどくからかわれる。アメリカの学校のいじめは容赦がない。迎えた卒業式後のプロムパーティには、なんとか勇気を振り絞り、めかしこんだドレス姿で出席するが、生徒たちが注視するなか悪質ないたずらで頭からバケツ一杯のブタの血を浴びせられ、腹の底から怒りが爆発する。同時に目覚めたサイコキネシス(念動力)で、体育館につめかけた同級生を皆殺しにするという物語だ。しつこく陰惨ないじめとスプラッター映画顔負けの残酷な報復という読みどころのピークが二段階に重なった小説で、二度にわたり登場する血液の暗さが衝撃的だった。
 通常の作家なら、『キャリー』でのデビューを歓迎しないだろう。安っぽいティーン向けの学園ホラー作家というレッテルを貼られてしまうからだ。だがキングがひるむことはなかった。続く『呪われた町』は吸血鬼もの、勝負の第3作『シャイニング』は幽霊ホテルものである。怪奇小説の世界ではすでに使い古された設定に息を吹きこみ、新たに「モダン・ホラー」の世界を、ほぼ単独で切り拓いていく。文学的な評価など無視して、ブルドーザーのような筆力で毎回ペイパーバックの背表紙が1インチを超えるような大作を連打していくのだ。かくして世界中の読者から存在を認知されながら、誰も真剣に評価しようとしないスティーヴン・キングという巨大山脈がいつしか立ちあがった。

 それでもキングは偉大だ。そういうとき引きあいに出されるのは、3億5千万部を超えるとされる累計発行部数とか、映像化作品数(映画・ドラマをあわせて80本以上)なのだが、ぼくの評価は数字によるものではない。今から100年経って、とてつもない成功が生んだ嫉妬やホラー小説への蔑視といった同時代ゆえの曇った目線がクリアになれば、20世紀後半英語圏で最高最大の作家というきらめく王冠は、きっとキングの頭上に輝くことになるはずだ。さすがにそのときはぼくも生きていないので、後世の小説好きに検証を頼みたいのだが、この確信が揺らぐことはない。
 ノーベル文学賞作家10人分(なんなら20人分でもいい)よりも、遥かにおおきな影響を時代の文化全般に与え、映像の半世紀だったこの50年間つねに新たな映像的インスピレーションの泉となった(ある意味懐かしい)尖鋭性を有する偉大な表現者。こんな作家は他に存在しない。キングの小説を読んだことがなくとも、映画を観たことがない人は世界でもごく少数のはずだ。VFX(映像表現の進歩)と悪魔やモンスターは最高の相性なのだ。

 ホラー小説という点では、ぼくはキングのいい読者ではない。作品を通じて怖いと感じたことがほとんどないからだ。心霊や悪魔といったスピリチュアルな要素への評価が、日本人はキリスト教文化圏とは異なるという根本的な理由もあるのだが、ぼくにとってキングはつねに単純に「おもしろい」作家だった。
 電話帳でさえキングが書き直せばベストセラーになるといわれる作家の最大の魅力はなにか。あれこれと40年ほど、折にふれて考え続けて得た結論はこうだ。キング作品の最大の魅力はアメリカの「普通」の人々の暮らしの細部にある。政治や社会体制には辛辣な皮肉を吐きながら、家族の生活を支えるためにハードワークを続け、あけすけなほど正直で、恥をかこうが不名誉だとそしられようが、断固として誠実さを貫く中産階級の労働者の暮らしぶりのディテールが、最大の読ませどころなのだ。ぼくの20世紀前半英語圏のベストライターはジョン・スタインベックだけれど、キング作品は究極のところ「モンスターが登場するスタインベック」なのである。

 その辺りをキングの自伝的な創作にまつわるエッセイ『書くことについて』で振り返ってみよう。父ドナルドはキング2歳のときに失踪(ブルース・スプリングスティーンの『ハングリー・ハート』を思わせるエピソード)、母ネリーは毎日盛大にタバコを吸っては、いくつもの仕事を掛け持ちしながら、キングと兄のデイヴを育て上げた。キング家の流儀は自助自立を説く「自分のことは自分のこと」。風呂もテレビもない家で育ったスティーヴンはコミック本やSF、ホラー小説誌に熱中し、次第に自分でも書くようになる。生まれて初めての原稿料は4匹の不思議な動物(リーダーは白ウサギのミスター・ラビット・トリック)がかわいそうな子どもたちを助けていくという内容の連作短編によるものだ。計4本を書きあげた小学生のキングは母から一編につき25セントの原稿料を受けとった。この貴重な1ドルが中進国の外貨準備高のようなキングの莫大な収入の最初の一歩といってもいいだろう。
 大学を卒業した翌年には図書館のアルバイトを通じて知りあったタビサと結婚。すぐに子どもが生まれ、生活費を稼ぐためキングは織物工場や洗濯工場(シーフードレストランのテーブルクロスの臭いは最悪だそうだ)で働き、タビサはダンキン・ドーナツでピンクの制服を着て、遅番の仕事を続けた。この時期のことをキングは「生活保護の一歩手前で踏みとどまるのがやっとだった」と書いている。

 転機は映画化もされた『キャリー』の刊行で、ダブルデイ社の単行本契約金は2500ドル(刊行時は1ドル約300円なのでだいたい75万円)。この本の評判がよかったのだろう。アメリカでは単行本とペイパーバックの出版社は別なことが多いので、ダブルデイはシグネット・ブックスにペイパーバック権を40万ドルという高額(マリオ・プーヅォのベストセラー『ゴッドファーザー』と同じ)で売ったのだ。
 編集者からの電話でその知らせを受けたとき、キングは足の力が抜けて、その場にしゃがみこんだという。契約金はダブルデイと折半で、半分の20万ドルという大金が入ってくる。しばらくしてから着替え、若き作家は街に出る。夜のパートタイム仕事で生活を支えてくれた妻にプレゼントを買うためだ。だが、家賃90ドルの安アパートの近くには気の利いた店などなかった。若い夫はいつものドラッグストアをまわって、散々探した末にヘアドライヤーを買っていく。自宅に戻っていたタビサにドライヤーを差しだすと、生れて初めて目にしたような顔で妻はいう。「どういうことなの?」キング夫妻は幼い子どもを抱え、ヘアドライヤーがたいへんな贅沢品になるような暮らしを何年も続けてきたのだ。キングが40万ドルの契約金について伝えると、タビサは薄汚いアパートの部屋を見回したあとで泣き始めたという。
 このエピソードを読んだ人間の大抵は、胸を揺さぶられることだろう。貧しくとも誠実に生きる労働者階級の生活の細部。キング作品に背骨を通す魅力は、このエピソードそのものといってもいい。

 同じくキングの生涯から胸に迫るシーンをあげるなら、母ネリーの死の床だ。子宮ガンの終末期で30キロ以上も体重を減らした母親のベッドの両脇に、兄デイヴィッドとスティーヴンが寄り添う。時刻は朝6時。ふたりは交代でメンソールのタバコに火をつけ、働き抜いて生きてきた母の唇にくわえさせてやる。息を吸うのも苦しそうだが、母は兄弟を交互に見つめて、タバコを吸う。サイドテーブルにはデビュー作『キャリー』の校正刷りが置いてある。母ネリー・ルース・ピルズベリー・キングの最期の言葉は、「私の子供たち……」だった。 
 デビュー作が間にあって、ほんとうによかった。半世紀も過ぎた東の果ての東京で、ぼくは胸を撫でおろす。同じく作家志望だったぼくのデビュー作は、自分の母親の死には間にあわなかったからである。(後編へ続く)

作品番号(23)
『11/22/63』(上・中・下)
スティーヴン・キング/白石朗訳
文春文庫 2016年10月刊
※単行本は2013年9月刊


【引用】
『書くことについて』
スティーヴン・キング/田村義進訳
小学館文庫 2013年7月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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