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No.23『11/22/63』(後編)スティーヴン・キング/白石朗訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 アメリカの普通の人たちの溢れだすような気高さ。キング作品を読んでいるときはいつも、圧倒的な恐怖の対象に足を震わせながら、勇気と知恵を振り絞って立ちあがる「普通」の人たちに感心させられたものだ。その文脈における近年の代表作が『11/22/63』(2013年刊)といっていいだろう。
 この作品は初期作『デッドゾーン』を裏返しにした構造になっている。あの作品では未来予知ができる平凡な高校教師が、将来熱核戦争を引き起こす偽善的なナイスガイ風大統領候補を暗殺しようとする。村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』にすくなくない影響を与えた佳作で、それから30年以上経って、キングは再び大統領暗殺の物語に立ち戻ったのだ。
 ジェイク・エピングは離婚したての高校の英語教師。肺ガンで急激にやせ細ったいきつけのダイナーの店主アルと会話を交わすうちに、重大な秘密を打ち明けられる。ダイナーの食品庫が過去につながっているというのだ。古いコインやドル札も用意してある。ジェイクは携帯電話と現代の紙幣を手放し、疑いながら目を閉じて食品庫の階段をおりていく。
 するとダイナーは消え失せ、世界は1958年へと一変する。お馴染みのスポーツ賭博で大金を稼いだりと、黄金の50年代を優雅に楽しむジェイクだが、アルの願いを聞き入れ1963年11月22日に起こるジョン・F・ケネディ暗殺を止められないかと考えるようになる。ひとりの平凡な人間が、アメリカという国の転換点となる大統領暗殺事件を阻止できるのか。正義のための暗殺から、同じく正義のための暗殺阻止へと、物語は反転する。

 こうしてゴールデン・フィフティーズの「旧き良き」アメリカで、ジェイクの冒険とロマンスが開始される。暗殺阻止がメインプロットになるのは、全1400ページ(文庫本3冊!)の中盤以降なので、それまではたっぷりとキングが描く普通の市民の暮らしの滋味を味わうことができる。なかでも白眉は、高校図書館の司書セイディー・ダンヒルとの出会いである。
 キングは恐怖だけでなく、ロマンチックなムードを描く筆力も素晴らしい。ふたりは輪になった生徒たちが拍手するなか、グレン・ミラーの「イン・ザ・ムード」で見事なステップを踊る。ダンスは人生だ。3分ほどのスイング・ジャズで激しい恋に落ちるのだ。セイディーは180センチはある長身でナチュラルな美人だが、男性への恐怖を内心に抱えこんでいる。別れた夫ジョニーがストーカーになり、セイディーの行方をしつこく捜しているせいだ。このストーカー事案はナイフと銃による襲撃という最悪の形で決着するのだが、セイディーはその過程で深い傷を負う。キングの台詞はあい変わらずよく切れる。

フランケンシュタインの花嫁も、わたしとならべばリズ・テイラーね

『11/22/63』下巻より

 ジェイクは並行して狙撃犯リー・オズワルドの身辺も調査をすすめていく。どうやらケネディ暗殺は単独犯ではないらしい。破綻しそうなセイディーとの恋の行方と、大統領暗殺の陰に潜む謎の力とは。じりじりと物語は運命の暗殺の日11/22/63へ、逆らうことのできない勢いで流れ落ちていく。最後にはキングらしいサスペンスフルなどんでん返しと、別の時間軸に移ることによる『時をかける少女』にも似た悲しくも甘い恋の別れが待っている。命がけの暗殺阻止の果てに、ジェイクとセイディー、そして未来のアメリカにどんな悲劇が待っているのか。

 さあ、ここまでエッセイを読んだら、後は近くの書店にいくだけだ。できることならいつもの店で、紙の文庫本を3冊買ってもらいたい。きっと後悔することはないはずだ。たっぷりと1週間は、キング的な「普通」の人物がヒーローとして立ちあがるアメリカの良き時代を楽しめることだろう。
 ぼくにとってスティーヴン・キングは何年かに一度旅行に出かける街の名物レストランのような存在だ。馴染みの店主は元気かな。味は変わっていないだろうか。なにか新奇なメニューが増えているのかな。定点観測をするのが、楽しみになるような地元の名店である。
 3~4年に一度くらい書店の片隅で手にとって(翻訳ものの海外小説の扱いは、どの書店でも客がほとんど足を運ばない不遇な場所になってしまった)、キングが今どんな位置にいるのか確かめておきたいのである。作家にとってもできることならすべてを支持してくれる熱狂的なファンよりも(それはそれでうれしいのだが)、すこし距離を置いた形で静かに見守ってくれるような本好きがありがたいのである。そういえばキングをしばらく読んでいなかったな。70歳を過ぎても子どもを書くのは抜群に上手い人だから、新しい『異能機関』でも読んでみるか。そうして気がつけばこの40年ほどで10作を超える長編を拾い読みしている。オリンピックの開催ごとに周期的に手を伸ばす旧い友達のような書き手。こうした大人の読みかたが、量産するタイプの作家との麗しいつきあいだと、ぼくは信じている。

 それにしても、ひとつ心配なことがある。現代アメリカにおいてキング的な中産階級、労働者階級の人々の暮らしが荒廃してきていることだ。もう自分たちが勝つことはないのではないか。アメリカの歴史上初めて、子どもたちが親よりも貧しくなる世代になってしまうかもしれない。白人の労働者階級の平均寿命は縮み、鎮痛剤(といってもほぼ麻薬)の依存症で亡くなる人も数多い。毎日、汗を流しながら懸命に自動車とハンバーガーをつくる人たちが、将来の不安に駆られている。それではアメリカの国力とソフトパワーが落ちていくのを止めることはできない。いくらネットで情報を独占し、デジタルな数字の形で巨額の利益を積みあげようと、IT産業だけでは超大国を浮上させるには力不足だ。キングの小説の最大の美点が過去のものになるとき、それはアメリカの世紀の終わりを意味するだろう。

 さて、どのような人間にも運は平等だという説がある。職業作家として、あらゆる栄誉と巨富を得たスティーヴン・キングにも不運は漏れなく巡ってくる。1980年代にはアルコールと麻薬の依存症になり、離婚寸前までいっている。タビサに治療をするか、家族と別れるかと迫られたのである。キングは86年に『トミーノッカーズ』を書いているとき、コカインのやり過ぎで鼻血が止まらなくなり、鼻の穴に脱脂綿を詰めてキーボードを打ったという(なんというあけすけな正直さ!)。その後、依存症治療を受け、なんとか最初の危機を脱した。
 そして二度目の悪運は1999年6月、背後から50代になったキングを襲った。敵はライトブルーのダッジ・ヴァン。運転していたのは交通違反で10回以上捕まっている危険運転常習者だ。そのときは助手席に乗せていたロットワイラー犬が後部座席に置いてあった肉の入ったアイスボックスに飛びついたので、犬を止めようと後ろを見ていたという。キングは跳ね飛ばされ、脚だけで十数箇所の骨折、肋骨4本の骨折、背骨は8箇所の剝離骨折、そして頭部には二十数針を縫う裂傷という致命的な重傷を追う。
 乗りあわせた救命救急士はこう回想する。

おれはこの仕事を二十年やってるんだがね。溝に倒れていたときの状態と、怪我の程度を見て、これは病院までもつまいと思ったよ

『書くことについて』より

 なぜアメリカ人は市井の人間まで、映画のように切り詰められた切れのいい台詞を吐くのだろうか。見事なものだ。脚の手術をした外科医はまたいう。キングの右の下腿かたいは「おはじきが詰まった靴下」のように骨がばらばらに砕けていたと。
 その脚をつなぐために5回の長時間の手術を受け、さらに数回の手術を重ねた後、地獄のようなリハビリと物理療法フィジカル・セラピーが始まった。だが、キングはホラーだけでなく、苦痛に耐える粘り強さにおいても「帝王」だった。5週間後には、再び書き始めたのである。
 執筆復帰した最初のときの仕事時間は1時間40分。書いたのはここで何度も引用している『書くことについて』。小説なら1日10ページもすすむキングが(あの分厚い小説の初稿がほぼ3カ月で仕上がるのだとか!)、ノンフィクションとなると一字一句が苦痛だったという。仕事を切りあげたときには汗まみれで、車椅子に座っているのも厳しいほど。

腰の痛みは世界の終わりの一歩手前のようだった。このときの最初の五百語は、生まれてはじめて書いた文章かと思うほど拙いものだった。(中略)インスピレーションは湧かず、そこにあったのは、書くという決意と、続けていればきっとよくなるという希望だけだった。

『書くことについて』より

 これが20年以上前、世界最大のベストセラー作家の身に起きたことだ。運が平等だというなら、人をうらやむことはない。キングはそれからも書き続け、希望通りにインスピレーションも甦り『11/22/63』のような傑作をものしている。他にも『ドリームキャッチャー』『セル』、名作『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』などの作品があるが、ぼくのセレクトは断然『11/22/63』だ。ホラー味が強い作品より、もともと『スタンド・バイ・ミー』や映画『ショーシャンクの空に』の原作『刑務所のリタ・ヘイワース』のような、一般小説に近いキング作品が好きなのだ。恋愛場面の切なさでも『11/22/63』はキングの他の作品より抜きんでていると、ぼくは思う。
 スティーヴン・キングは、哲学的な難題にとらわれ、絶望して自殺したり、書けなくなるような類の作家ではない。恐怖とモンスターばかり好んで描きながら、人生の輝くサニーサイドをつねに見つめ続ける稀有な書き手だ。執筆中はAC/DCやガンズ・アンド・ローゼズ、メタリカといったハードロックをがんがんにかけるという、当年とって76歳の鍛え抜かれた肉体労働者のような作家である。あなたの年齢がいくつだとしても希望がもてる気にならないだろうか。キングは今日も書いている。自分ももうすこしがんばろうと。
 最後は『書くことについて』の結語で、いつもの倍量にふくらんでしまった文章を締めておこう。

書くということは魔法であり、すべての創造的な芸術と同様、命の水である。その水に値札はついていない。飲み放題だ。
腹いっぱい飲めばいい。

『書くことについて』より

 ありがとう、スティーヴン。ぼくたちもまだキング作品をすべて読み切っていない。好きなだけ、懐かしい恐怖の世界とそこに生きる普通の人たちの誇り高い活躍を読めばいいのである。

作品番号(23)
『11/22/63』(上・中・下)
スティーヴン・キング/白石朗訳
文春文庫 2016年10月刊
※単行本は2013年9月刊

【引用】
『書くことについて』
スティーヴン・キング/田村義進訳
小学館文庫 2013年7月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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