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No.22『スローターハウス5』カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤典夫訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 カート・ヴォネガットは、ぼくの学生時代、気の利いた本好きなら必ず読んでおかなければならない作家のひとりだった。爆笑問題の太田光が、自分たちの事務所の名前を長編第2作『タイタンの妖女』からとって、タイタンとつけたのは有名な話だ。そういうハイブロウなセンスでは日本の芸能界を生き抜いていくのは、きっと気苦労の多いことだろう。
 ヴォネガットとの出会いは、1975年に翻訳されたデビュー作『プレイヤー・ピアノ』だった。ぼくは高校一年生で、その頃ハヤカワの海外SF文庫はすべて買っていたので、そのなかの一冊である。ヴォネガットという名前に馴染みはなかったし、さして期待せずに読み始めた。すべてが機械化され、人々が仕事を失っていく近未来に起こるサボタージュ運動をテーマにしたディストピア小説で、まあまあおもしろかった。
 その文庫本の解説で代表作『スローターハウス5』が、ぼくの好きなジョージ・ロイ・ヒル監督によって映画化されると読んで、俄然興味が湧いたのだ。すでに翻訳が出ていたその作品をすぐに読んで、ノックアウトされたのである。これはSFと文学の中間に広がる無人地帯に建てられた分類不可能な傑作だ。それからは翻訳が出るたびに真っ先に読むことになった。ぼくにとってヴォネガットは、高校から大学にかけての読書生活のハイライトのひとつになった作家である。

 スローターハウスとは、食肉をつくるための工場のことだ。独ドレスデン市にあった第5食肉工場に、ドイツ軍の捕虜になった若きヴォネガット自身が収容されていたのだ。第一次世界大戦後のアメリカでは、ドイツ系市民は自らドイツ文化を封印し、肩身が狭い暮らしをしていたのに、太平洋ではなくドイツ戦線に歩兵として送りこまれ、ヴォネガットは有名なバルジの戦いで敵国ドイツの捕虜となってしまう。運命の皮肉というしかないが、運命はさらに過酷な第二幕を用意していた。
 1945年2月13日、ヨーロッパでは広島・長崎の原爆投下と比較し語られる古都ドレスデンへの無差別爆撃が開始されたのだ。投下された爆弾・焼夷弾は3900トン。3度にわたる徹底的な空襲で、ドレスデンの市街地の約85パーセントが破壊され尽くした。死者数はよくわかっていない。大戦末期という背景もあり、東欧から逃れてきたドイツ系難民で、市の人口は倍にふくれあがっていたからだ。この大空襲をヴォネガットは捕虜として実体験することになった。
 空襲が始まると、捕虜たちは地下2階にあるおおきな食肉貯蔵庫に押しこめられたという。ヴォネガットはそのときのことをこう回想している。

なかはひんやりして、動物の死骸がそこらじゅうにぶら下がっていた。あとで階上へ出たとき、ドレスデン市は消えていた。

『パームサンデー ー自伝的コラージュー』より

 捕虜たちは翌日から廃墟の街で、遺体の回収と埋葬という業務を与えられ、延々と防空壕から死体を運びだすことになる。自分たちが所属するアメリカ軍から空爆を受け、自分と同じバックグラウンドをもつドイツ市民の遺体処理という重労働に就く。この壮絶にして皮肉な経験から、代表作『スローターハウス5』は生まれた。ヴォネガットはその後帰国し、生まれ育ったインディアナポリスの地元紙を確認するのだが、数万人が亡くなったドレスデン空襲については2、3行だけの掲載で、記事の内容は「わが軍の飛行機がドレスデン上空を飛び、うち二機を失った」というものだった。

 この目がくらむような落差を、どうフィクションにするか。そのままリアリズムに徹しても破壊力抜群の戦争小説になったことだろうが、ヴォネガットはそんな王道はとらなかった。SF仕立ての黒いユーモアに満ちた寓話的なファンタジーとしたのである。同業者のひとりとして、この蛮勇には驚かざるをえない。SFは当時まだ小説界の下位ジャンルで、文学性を評価されることは稀だった。そこで自分にとって生涯のキラーテーマになるはずの大切な素材を使用してしまうとは。それほど衝撃的な体験なら、何度でも書けばいいという読者もいるかもしれない。だが、小説では最初に書いた作品の新鮮さを超えることはまずないのだ。同じテーマを使用した場合、2度目以降はたとえ表現が多少洗練されるとしても、最初のときのような迫真力をもつことはないのである。

 この作品については、あらすじを書くことはほぼ無意味だが、簡単にまとめておこう。ドレスデン空襲に遭った元米兵ビリー・ピルグリム(巡礼者!)は、トラルファマドール星人に拉致され、美しくグラマーなポルノ女優とともに人間動物園で飼育されることになる。異星人は人間の生態に興味津々なのだ。ビリーの精神は四次元的存在である異星人の影響を受け、時間という檻から解き放たれ、振り子のように過去・現在・未来を行き来するようになる。人生のあちこちの時間に散らばる、さまざまな皮肉で暗い断片を、予期せぬ形でつぎつぎと見せつけられるビリーの口癖はこうだ。

そういうものだ。

『スローターハウス5』より

 この言葉がしつこいほど繰り返され、万華鏡のような多彩な味わいをもつようになるのだ。諦め、絶望、皮肉、受容、しみじみとした喜び。いつしか読者も高級な一発ギャグにも似た“So it goes.”を待ち望むようになるだろう。なにが起きても、もう人類の愚かさと運命の皮肉には驚かない。そういうものだ。

 この作品はヴォネガット特有のざっくばらんな文体で書かれているので、お馴染みの4文字言葉が出てくる。おまけにアメリカ軍が実施した不名誉な無差別爆撃が重要なモチーフのひとつだ。ヴォネガット手描きのおっぱいのイラストも登場する。そのためアメリカ各州の保守的な教育委員会から禁書扱いを受けているという。ノースダコタ州のある学校では、委員会の命を受けた用務員が、焼却炉の炎のなかに『スローターハウス5』を実際に投げこんでいるのだ。ヴォネガットはこの野蛮な行いに抗議の手紙を書いたという。ぼくなら『池袋ウエストゲートパーク』か『娼年』が学校図書館から放りだされても、たぶん手紙など書かない。肩をすくめて、そういうものだ、で済ませてしまうだろう。生涯を通じて戦うことを辞めなかったヴォネガットらしいエピソードである。
 ちなみに後になって観た映画版『スローターハウス5』は、名匠ヒル監督にしては、ぼくの評価は今ひとつの出来というもの。あまりに文芸路線に走り過ぎたのかもしれない。小説では大切な要素になっている黒いユーモアが抜け落ちているのだ。だが、そのおかげもあってカンヌ映画祭では審査員賞という(微妙な?)評価を獲得している。ヴォネガット作品はあまりに奇想天外すぎて、残念ながら映像化で成功を収めることはなかった。これは作者にとって、名誉であるといってもいいのだろう。ハリウッドの最高の撮影技術をもってしても、映像の枠内で描き切ることが不可能な世界を、作者は悠々と描いたのだから。

 ヴォネガットが活躍した1960~70年代は、アメリカという国にとって多難な時代だった。泥沼化したヴェトナム戦争、ドラッグの蔓延、黒人の公民権運動と各地で多発する暴動、ヒッピーに代表される若者たちの過激な異議申し立て。直視するには生々しすぎる現実を、SFの皮をかぶった暗黒寓話として描くヴォネガットは、戦争と政治の季節を生きる若者を中心に幅広い支持を集めた。
 現在では、読者にある程度の高度なリテラシーを求めるヴォネガット作品の受容は、なかなか難しいのかもしれない。『スローターハウス5』を読んでいるという若い読者の話は、ぼくは寡聞にして知らない。
 さまざまな問題が不景気とそこから生まれる経済格差に収斂しゅうれんしていく現代ニッポンで、ヴォネガットが再評価される可能性は低いだろう。亡くなってから15年以上経つので、本国アメリカでも過去の作家になりつつあるのもしかたないことだ。

 作家自身が聞き手になった約40年前のインタビュー(自分の質問に自分で答えるインタビュー形式のエッセイ)の最後で、アメリカ合衆国における出版の悲しむべき現状について質問され、ヴォネガットはこう返答している。

優秀な作家はちっとも不足していない。われわれに不足しているのは、頼りがいのある読者層だ。

『パームサンデー ー自伝的コラージュー』より

 太平洋のあちら側でも、こちら側でも、出版問題の根本はまったく変わらない。
 ヴォネガットのキラーフレーズで、この稿を締めておこう。
 本の世界はいつでも「そういうものだ」。

作品番号(22)
『スローターハウス5』
カート・ヴォネガット・ジュニア/伊藤典夫訳
早川文庫 1978年12月刊

【引用】
『パームサンデー ー自伝的コラージュー』
カート・ヴォネガット・ジュニア/飛田茂雄訳
早川文庫 2009年1月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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