岡田育×千早茜『しつこく わるい食べもの』刊行記念対談 第2回「コロナで生じた言葉の変化」(全5回)
登場人物に作者の食生活は透けてみえるのか問題
岡田 解像度の高いチハヤ・アイは、もともと小説を書く武器の一つとしてお持ちなんじゃないかと思いますね。私は短絡的な読者の一人なので、例えば何かが好物だというキャラクターが出てきたら、そうかきっと作者の人もこれが好物なんだろうなと思ってしまいます。でもエッセイを読むと、千早さんご本人にはまた全然違うところにこだわりがあって。小説を創作するというのは本当にすごいことなんだなと、逆にエッセイを読んで思ったりもしました。
千早 そういう作家さんも実際いますしね。作品にやたら麻婆豆腐が登場する作家さんがいて、「麻婆豆腐好きですか」と聞いたら「好き。なんでわかったの?」と。出てる出てる~! と思いました(笑)。
岡田 やっぱり出ちゃうことはありますよね。
千早 好きなものは自制できますが、限界はありますね。尾崎世界観さんと共作(編集部注:『犬も食わない』)をしたときに、主人公のひとりがコンビニの弁当を落としちゃうシーンがあって。私はコンビニ弁当を食べないんです。それで、ソースがじゅうたんについちゃった、みたいに書いたら、尾崎さんに「千早さん、コンビニのソースは別袋」と言われて……。本当に恥ずかしい。やっぱり駄目だ、ちゃんと体験しなければって反省しました。そういうことを見つけたくて、人と共作をするのかも。
自分の「変化」は怖いもの?
岡田 面白いですね。小説では存分に発揮されている、あのチハヤ・アイの威力を、ご自分に向けるのはちょっと苦手という。
千早 小説だったら、私は最初に語句統一リストをつくるんです。連作のときは特に細かく、この主人公の「おもしろい」は平仮名、この主人公の「寂しい」は漢字とか、言葉でキャラをつくっていくというか、人物に入り込んで進めていくんですよね。
それが普通モードなので、じゃあエッセイで「私の語句統一」となったときに、混乱するんです。今回、「わるたべ」1冊目と2冊目で、語句が合わなかったんですね。「こども」が、1冊目は「子ども」で、2冊目は「子供」だったんです。そこに私はものすごい動揺しちゃって、担当T嬢に、どうしようどうしよう、合わない、私が合わない! ってLINEして……。
岡田 合わないけど、漢字で書きたい。
千早 T嬢からLINEで延々と「生身なのだし正解はその時どきで変わっていくもの。これは変化としてそのままでいきましょう」みたいに説得されて、やっと、納得したんです。そこが岡田さんは自分で整理できているわけじゃないですか。『ハジの多い人生』文庫版でも、「今となっては正直、まるで自分自身とは思えない」とまえがきに書いてあって、ちゃんと自分を見つめて言語化されていますよね。
岡田 不思議ですね、性格の違いでしょうか。私も誤字や脱字は気になりますが、「時が経てば、文章が変われば、表記くらい変わるよ!」と、そこは大雑把で鷹揚かも。
千早 たぶん私、無自覚のうちに変化することが嫌なんですよ。自覚している変化ならいいけど。変化を自覚できてないまま世に言葉として出していたわけで、それは盲点じゃないですか。
岡田 完璧にご自分の語句統一リストができているに決まっている、という感覚が前提としてあるんですね。
千早 小説のときは絶対そうなので。それが生の言葉だと、コロナの前は「からだ」が「体」だったのに、コロナの渦中は「身体」になっちゃっている。心と体がくっつきだしちゃっていて、そういうのが無自覚に出てしまうエッセイが、私は怖い。
コロナで生じた言葉の変化
岡田 今の話、もうちょっと突っ込んでいいですか。コロナ以降は、「体」が心と結びついて、「身体」になった?
千早 心と体の距離が、コロナで近づいちゃったんです。
岡田 ははぁ、なるほど、そういう考え方もあるんですね。言われてみれば私も、漢字1文字の「体」は心と完全に切り離された死体の「体」みたいな感じ、というところまではわかるんですけど、「身」がつくと、「心」に近づくというのは……千早さんご自身に説明されなければ、気づけなかったと思う。2冊目が出た『わるい食べもの』、そんな視点からも読み比べてみたいです!
千早茜『しつこく わるい食べもの』刊行記念
対談 岡田育×千早茜(全5回)