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平山夢明「Yellow Trash」第2回 あんたは醜いけれどあたしには綺麗(2)

平山夢明『Yellow Trash』シリーズ、完全リニューアルして再始動‼
毎週金曜日掲載!
illustration Rockin'Jelly Bean

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「壁に〈心に太陽、くちびるに歌〉と書いてあるはず。それが家(や)の目処(めど)じゃ」
 爺さんに行き先を尋ねるとそう答えが返ってきた。
「あんたにしちゃ随分と洒落(しゃれ)た目印だな」
「近くの若者(ヤング)がしてくれた。或る日、『爺ちゃん、人に判るようにマークしとこかぁ』っと云っての。ほんに厭(いや)になるぐらい可愛い奴らでの」
「け。奇特(きとく)なガキもいるもんだ」
「この辺りでは世間ズレした大人より、ちんまいヤングのほうがよっぽどマシじゃ」
「そうかねえ。おれに云わせりゃ、下衆(げす)な野郎に旧(ふる)いも若いもねえけどなあ」
「ほっほっほ。あんたはよそ者じゃ、よその者じゃから。そんな都会じみた目線(アイライン)になる」
「別に都会じみたわけじゃねえけど近頃は都会も田舎も碌(ろく)でなしばかりだからよ」
 それから少しトボつくと棄(す)て田の端(はた)に、へばりつく爺さんの掘っ立てがあった。壁には大きく〈人くいごきじるじじいが、にらみます〉と落書きがある。
「わかったか。儂の家が……」
「ああ。ちょぼくれとなくな」
「そうじゃろ……そうじゃろ……愛らしいじゃろ」
「まあおれには難しすぎてわからんよ」
 爺さんの掘っ立て小屋は豚小屋の成れの果てのようだった。外壁のあちこちが土砂崩れし、竹の骨(・)が覗き、先程の落書きの他にも壁の内外が派手に血を吐くチンコやらマンコやらの画で埋められていた。
 蝶番(ちょうつがい)がガタガタの戸を捲(めく)るようにして入ると、丸められていた布の団子のようなものの上に爺さんを転がし、それから欠けたコップに水を汲(く)んでやった。
 爺さんは噛むように〈ん、ん〉と頷きながら呑むと指を突き出した。
「た、棚に酒が」
 其処には埃をかぶったハバナ・クラブがあった。
 爺さんはそれを口に含み飲み下すと、長い溜息(ためいき)を吐いて静かになった。
「少しは楽になったか」
「津波から潮騒(しおさい)になった」
「それはなにより」
 爺さんは所謂(いわゆる)、〈明(あ)き目が不自由〉だった。なので凝(じ)っと黙って見られると居心地が悪い。おれは爺さんに今夜の宿と、できれば飯を頼まなければならなかった。一昨日(おととい)からまともなものは口に入れていなく、此(こ)の儘(まま)じゃ、猿吉(えてきち)か何かに先祖返りしちまいそうだった。
「あんた……バターン死の行進を知っとるかの」爺さんが呟いた。
「物凄く大きな音がしそうだな」
「そうなんじゃ」
「爺さんがしたのか」
「んにゃ。ただ酷く疲れたり憂鬱(ゆううつ)になると、この言葉(わーず)が頭に浮かんで離れんようになる……〈バターン死の行進〉。若いうちは〈房総ペコペコ節〉か〈津軽シコシコ節〉だったんじゃが……此も寄る年波かの」
「どうだろう。おれは難しい話は苦手でね」
「ばたーんしのこうしん……」
「雑炊か何か作ってやろうか?そろそろ夕飯時分(じぶん)だぜ」
「要らん。喰えば腹が膨らんで、また減る。減るはヘル、つまり地獄の始まりじゃ。故に飯は喰わん」
「喰わんって……どういうことだよ」
「動くから死ぬ。動かずジッとしていれば、人間そう簡単に死にはせん」
 そう云うと爺さんは大きな屁をした。
「ちっ。おれは何も喰ってねえんだ」
 すると爺さんが手をひらひらさせた。
「なんだよ」
「掴(つか)んでみ。儂の手を」
「なんで」
「握れ(ぐらぶ・みー)。握ればわかるさ」
「なんでだよ」
「黙ってやれ(さいれんす)」
「なんだか面倒臭い爺だねえ、おまえは」
 おれは爺さんの手を握ってみた。
 爺さんは見えない目を閉じると深呼吸を始め〈そうれ~そうれぇ~〉と呟きだした。
 おれが枯れ木のような爺さんの手と繋(つな)がっていると遠くでマフラーを外したバイクが走り抜けていく。酷く世間から置いてけぼりにされた気がした。
〈そうれぇ~そうれ~此処~そうれぇ~〉
 おれが頭をふた巡りして部屋を眺め回しても、まだ爺さんはおれの手を離さない。
「おい。なんだよ、爺さん。なあ、なにしてんだよ」
「わかるか?」
「わかるかって……なんにもわかんねえよ」
「黙って!ちゃんと儂の手を。ちゃんと味わってみろ。わかるから……」
 爺さんの声が昔、ストーブで焼いた十円を握らせる女先生みたいに厳しくなった。
――烏(からす)が鳴くのが聞こえる。
 爺さんの手はいつまでも砂で擦(こす)った後のようにかさかさで、ヒンヤリじみていた。
「なあ。いい加減教えろよ。なんなのこれ?」
「甘い?」
「ん?」
「手じゃ。甘いジャロ?みんな、握ると甘いと云う」
 おれは手を離した。
「莫迦。握れ握れっつぅから。なにか出てくるのかと思ったら……なにが甘いだよ。そんなかっさかさの便所紙みたいな手ぇしやがって」
「何もそう怒ることはない。感じんのはおまえの責任じゃ。儂のせいじゃない。おまえの心根の問題よ」
「心根?」
「酸いも甘いも心の奥からやってくる。そんな気持~ちっ、分か~るでしょ」
「わかるか」
 おれは小屋を出ると地べたに打(う)っ遣(ちゃ)ってあった自転車で荷馬車が去った方向に漕ぎだした。

(つづく)

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連載【Yellow Trash】
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平山夢明(ひらやま・ゆめあき)
小説家。映画監督。1961年神奈川県出身。94年『異常快楽殺人』刊行。2006年に短編「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞短編賞受賞。翌年同短編集「このミステリーがすごい!」第1位。2010年『DINER』で第28回日本冒険小説協会大賞、11年に第13回大藪春彦賞受賞。

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