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第6話 連載のはじまりと作品選び 後編|ほしおさなえ「10年かけて本づくりについて考えてみた」

活版印刷や和紙など古い技術を題材にした小説を手掛ける作家・ほしおさなえが、独自の活動として10年間ツイッターに発表し続けてきた140字小説。これをなんとか和紙と活字で本にできないか? 自主制作本刊行に向けての模索をリアルタイムで綴る記録エッセイ。
illustration/design 酒井草平(九ポ堂)

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4 作品選びどうする?

 わたしの方は、エッセイの執筆と並行して、本に掲載する140字小説を選ぶ仕事がありました。わたしの140字小説は、Twitter上にはすでに800編ほどあります。このうち、今回の本に掲載するのは100編か120編。80編分は活字があるので、全部で100ならあと20編、120なら40編と考えていました。
 しかし、すでにカードになっている作品以外の720編から20編または40編を選び出す……? とにかく10年かけて書いてきたものですから、最初の方の話はもう忘却の彼方です。最初からひとつずつ読んでいくしかありません。
 1編が140字といっても、720編あれば十万字以上あるわけで、軽めの本1冊分はあります。さらに、これまでのカードには入れられなかったけれど、なんとなく覚えていて愛着のある話を数えただけでも20編ではおさまらない気もして、途方に暮れてしまいました。

 

5 これまでの活版カードについて

 まずはこれまでカードにしてきた作品についてまとめておこうと思います(逃避)。

 こちらが第1期の5枚セットです。
 このころはまだ140字小説も150編くらいしかありませんでしたので、Twitter上で「記憶に残っている140字小説」をつのって、人気のあるお話を選びました。そういうわけで、わりといろいろなタイプのお話がはいっています。
 5枚セットにしたのはキリがいいということもありましたが、予算的なところも大きかったです。100枚作るために10,000円程度かかりますし、当時は売れるかどうかすら分かっていませんでした。表紙カードもなく、お話だけのカードを市販のポチ袋に入れて販売しました。
 でも、それが文学フリマでわりと売れたのです。行けなかった、という人のために通信販売をすることになり、ただポチ袋に入れただけでは味気ないので、専用のケースを作ることにしました。布小物を作っている妹(当時はリバティの生地を中心に布小物を作って販売していて、いまはオリジナルの絵柄をプリントした布で布小物製作をしています)に相談したところ、「じゃあ、布製で本みたいに見られるケースがいいんじゃない?」という話に。布製で本みたいに見られるケース? どういうものかよくわからず、見本を作ってもらうことにしました。
 
妹のブランド「ヌイヌイトコネコネ」のサイト
https://www.nuinuitokonekone.com

 140字小説はカードの上半分に印刷されているので、下半分がはいるポケットをつけた本のような形にしたケースにおさめると、小さな本みたいになる。妹の発案で開発されたブック型ケースがこちらです。

 なかは無地の布、表紙はリバティ製のプリント布を使い、なんとスピン(栞紐)までついた超絶かわいいケースができました。

表紙にはいろいろな柄の布地を採用しました。

 布ケース入りを特装版として20個限定で通信販売したところ、たちまち完売。しかし作成に手間がかかりすぎ、特装版はこれ以上の増産は無理でした。とはいえ、文フリの参加費などを差し引いてもそれなりに利益も出ましたし、5枚セットで通常版と特装版を作るというのがちょうどいい規模かな、ということで、その後も新たな5枚セットを作っていきました。

その後の活版カード(2期〜15期。3期だけ10枚作ったので、3-1・3-2に分かれています。
表紙のイラストはすべて九ポ堂によるもの)

 特装版を作る際はほかの作家とのコラボレーションにして、コラボの相手にこれまでに作った140字小説のなかから作品を選んでもらうことにしました。2期は九ポ堂とのコラボで九ポ堂がデザインしたポチ袋をつけ、3期は美術作家の大槻香奈さんとのコラボで箱入りセットを作りました。
 4期になると140字小説の数も300近くなっていて、さすがにすべて読んでもらうには迷惑な数になっていたので、4期は植物、5期は鳥、というようにその都度テーマを定め、それに見合った作品だけを抽出してから相手に渡して選んでもらうスタイルにしました。
 7期のコラボ相手だった音楽家のヲノサトルさんはご自身でそれまでのすべての作品を読んでくださり(500編以上あったのにすごい!)、そこから24編の作品を選び出し、そのすべてに1分程度のオリジナル曲を作ってくださいました(すごすぎる!)。7期ではその曲のピアノ演奏と朗読のコラボイベント「fragments」を開催して、ピアノ演奏を納めたCD付きカードセットも限定販売しました。
 
ヲノサトルさんの楽曲音源
https://ototoy.jp/_/default/p/69398
 
 特装版はいつも数量限定で、発売してすぐに完売することが多く、その後は通常版のみの販売になります。6期のセットは通常版のみの販売だったのですが、発売の際、表紙カードをつけることを思いつきました(6期の表紙カードのイラストは初回はサボテンで、増刷していくなかでいまの観覧車に変わりました)。
さかのぼって以前の5枚セットにも表紙カードをつけ、いまのような形になりました。表紙のイラストはすべて九ポ堂によるものです。


6 ふたたび、作品選びどうする?

 5枚セットにはそれぞれテーマがあるため、そのテーマに合わせて以前作った作品から持ってくることもあり、その時期に作った中でいちばん気に入っている話でもセットに入れられずカードにできない、ということもありました。
 しかし、今回の140小説本に載せる作品にはそういった縛りはありません。これまでの5枚セットをすべてばらばらにし、まったく別の順番に並べ替えることもできます。自由ではありますが、テーマなどをすべて取っ払って作品を選ばなければなりません。
 覚悟を決めてふたたび720編に向き合い、どれを載せるか考えることにしました。どれもそのときの思いを綴ったものなので愛着はありますが、いま読むと、ひねりが甘いと感じられるもの、自分の気持ちを整理するために書いていて作品としてのまとまりに欠けるものなども多々ありました。数日かけてそうしたものを外していったのですが、それでも結局半分しか減らず、カードにしたものを含めて400編近く残ってしまいました。
 140字小説も短いとはいえ小説ですから、読んだ人によって受け取り方が異なります。これまでもコラボの際、コラボ相手が自分が思っていたのとまったく違うお話を選んでくることも多く、そのたびに驚いていました。人が何を好むのかはわからない。自分の考えもあてにならない、と思ったり。
 いずれにしても、400編残ったお話を120編まで減らさなければならないのです。ここからさらに280編減らす……。なにを基準に選べばよいのか、わからなくなってしまいました。


7 140字小説ってなんだろう?

 そこで、あらためて140字小説ってなんなんだろう、と考えてみることにしました(ふたたび逃避)。
 わたしは大学で小説創作の授業を持っています。そちらの授業でも、導入の際に学生たちに140字小説を書いてもらうときがあります。以前はカルチャーセンターで140字小説の教室を持ったこともありましたし、いまは星々の活動でも140字小説コンテストを開催しています。
 それで、140字小説の書き方について語ることがしばしばあり、そういうときは、もちろん例外はあるけれど、たとえ140字であってもいわゆる起承転結のような構造があります、とお話ししています。

 たとえば、その1は分解するとこのようになります。

海のなかの町に行った。(起)
海沿いにあるさびれた遊園地の裏の狭いガードを抜けると、水中に商店街が続いている。古いボタン屋に貝のボタンが並んでいた。全部この海で取れた貝ですよ、と店のおばあさんが言った。(承)
ボタンを三つ買って地上に戻った。(転)
どこかから海の匂いがして、まだ海のなかにいる気がした。(結)

140字小説 その1

 800編まで真ん中あたりにある402の場合はこんな感じ。

人の背骨にはその人の真の名前が書いてあるんですよ。言葉ではない別の形で。(起)
僕の一族はそれを読むことができるんです。祖父母の名も両親の名も死んではじめて知りました。(承)
でも、本人が死なないと見られない。僕も自分のは見ることができない。(転)
気になるけど仕方ない。真の名とはそういうものなんです。(結)

140字小説 その402

 比較的最近作ったその795でもこの構造は同じです。

マチノヒと呼ばれる草がある。(起)
ふだんは目に見えないが、月のない夜に咲き、ぼんぼりのように光る。それが一列になってあの世に続いている。(承)
さまよっている魂はそれを町の灯だと思って安心し、導かれるようにあの世まで行くのだそうだ。(転)
ほんのりなつかしい光で、オカエリ草と呼ばれることもあるらしい。(結)

140字小説 その795

 起で世界を提示し、承で世界を描写し、転で見方を変え、結で世界を閉じる。あらためて自分の作品を読み返してみると、この形式をとっていることが多いな、と気づきました。
 
 よくよく思い出してみると、わたしは小説を書きはじめたころ、短い詩のような小説のようなものを書いていました。1995年のことですからTwitterができるより前のことです。そのころ書いていた作品が2003年に西岡千晶さんとの共著の詩画集『くらげそっくり』(青林工藝舎)として刊行されているのですが、そのなかに納められている作品の多くが140字から200字くらいのものでした。

蛇口
蛇口をきつくひねっても、なにかが流れ出して行ってしまう。透明な水のときもあるし、それ以外のもののときもある。石の塊のようなものも出てきて、下水がつまってしまうのではないか、と不安になった。水道屋を呼ぼうとするが、電話も壊れていて、声以外のものしか伝わっていかない。(132文字)

『くらげそっくり』より「蛇口」

配達
日ざしが照りつける中、巨大な魚を背負っている。どこかに届けなければならないのだが、どこに届けるのか思い出せない。魚も汗びっしょりになっていて、早くしてくれ、という。クラゲやヒトデの形のビルが見えるのでこれは夢なのだと思うが、覚めるための呪文が思い出せない。早く届けなければ共倒れになってしまう、とあせっている。(155文字)

『くらげそっくり』より「配達」

 当時の作品には140字ぴったりのものもありましたし、上の作品も推敲すれば140字ぴったりにすることもできるでしょう。そしてこちらもやはり起承転結の形になっています。
 Twitterがなくてもこういうものを作っていた……。140字で世界を作る、というのが、そもそも自分に合っていたのかもしれない、と感じました。でも、だからどれも似ているのかもしれない、とも思いました。同じ味わいがある、ということなのでしょうか。いくつ作っても、違う要素を入れても、結局この形式から逃れられない。それが自分の限界なのかもしれない、と思ったのです。
 
 しかし、そんなことを考えながら、いま星々で開催している140字小説コンテストの入賞作を読んでいると、どの作品にも起承転結のような構造があり、その人なりの発見が転のひねりを生んでいる、と気づきました。
 
星々のサイト
https://www.hoshiboshi2020.com
 
 140字小説を小説らしくしているのは、「承」の部分です。この部分がしっかり書けていると、その世界が豊かにふくらみます。分量的にもいちばんここが長くなりますが、140字という上限がありますから、限りがあります。その世界を深めていくのに的確な言葉を無駄なく選択しなければなりません。
 そして作品の要となるのは「転」。140字小説をオチのあるショートショートのようにとらえて、転と結で世界をひっくり返すタイプの作品を書く人も多いですが、わたしは世界が180度回転する話をあまり好みません。ひっくり返ってそれで終わり、という気持ちになってしまうからです。読んでいる人が、あ、なんか変わった、でもどう変わったのかよくわからない、という気持ちになるくらいのひねりが良いと感じます。
 140字小説は短いので、「転」と「結」が合体していることも多いのですが、どの作品にもそうしたひねりがあります。ひっくり返すことが目的ではなく、その人が生きていく中で出会った発見によって自然と「転」が形作られる。わたしはどうやらそうした作品に魅力を感じるようです。
 形が整っていること。その人独自の発見から生まれた「転」があること。そうした作品は鮮やかで、人を引き寄せる力があるようです。
 そう考えると、こうした形になるのはわたし個人の癖ではなく、なにかもっと普遍的なことをはらんでいるのかもしれない、と思いました。短歌にも俳句にも形式があります。五七五や七七といった言葉のリズムによるものですが、定型詩はその形式を踏むことによって、短い言葉の奥に世界が大きく広がっていくように感じられます。
 140字小説は小説ですから、リズムで縛ることはできません。でも小説としての構造がある。ありきたりのように思えても、それがあることによって人に伝わる力が強くなるのかもしれない、と感じました。


8 三たび、作品選びどうする?

 そんなことをつらつらと考えながら、140字小説本の作品選びについてはしばらく寝かせていたのですが、ある朝突然、こうやって消去法で減らしていてもらちがあかない、ずっと記憶に残っているもの、ぱっと見た印象でいいと感じられるものだけを拾い上げる方法で選んでみよう、と思い立ちました。
 自分の作品だということを横に置き、思い入れも捨てて、読者として見て面白みのあるものだけを選ぶ。ひとりの人間が作っているものですからひねり方が似ていることも多く、1編で読んでまあ良いかな、と思っても、似た趣向のものがあれば、そのなかでいちばん出来が良いものだけを残してあとは捨てる。どれもそのときの気持ちを含んだ自分としては思い入れのあるものですが、客観的に見て良いと思えるものだけを残すようにしました。
 140字小説を通して読むことは、自分の歩んできた10年をもう一度たどるようなものでした。子どものころは、人は大人になったらもうそのまま変わらないものだと思っていましたが、そんなことはないのです。人生の半ばを過ぎた40代から50代にかけてであっても、人はこんなに変わる。わたしが生きていて、わたしの中で細胞が活動しているあかしだと思いました。
 
 どんどん作品が減っていき、残ったのは60編。理屈ではなく直感で選んだつもりでしたが、選んだものをみるとやはり形式が整い、転に力があるものが多いように思いました。
 活字のある80編と合わせて、140編まで絞りました。しかし120編にするなら、あと20編は減らさなければなりません。ここまでくるとどれも捨てられない……。ほかと毛色の違う作品を捨てることも考えましたが、そうすると作品集として単調になってしまう気もしました。
 いっそ140編にするか。140字小説が140編というのも面白いかもしれない、などと考えていたとき、ふと、すでに活字がある80編をすべて使わなくてもよいのではないか、と思いつきました。あたらしい作品を増やすということは、あらたに活字を購入することになり、活字代は上がります。でも、紙代や印刷代、製本代はそのままです。それなら、それでもよいのではないか。
 活字のあるなしにかかわらず、ここから20編減らす。そういう考えで、もう一度作品を見直しました。あたらしく選んだものももう一度読み返し、吟味しました。
 そうして、ついに120編を選び出すことができました。
 活字のあるものから66編、あたらしいものが54編。
 およそ半数近くがあたらしいカードということになり、これまで活版カードを購入してくださった方にとっても、これが良い形なのではないか、と思ったのです。

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連載【10年かけて本づくりについて考えてみた】
毎月第2・4木曜日更新

ほしおさなえ
作家。1964年東京都生まれ。1995年「影をめくるとき」が群像新人文学賞小説部門優秀作に。
小説「活版印刷三日月堂」シリーズ(ポプラ文庫)、「菓子屋横丁月光荘」シリーズ(ハルキ文庫)、「紙屋ふじさき記念館」シリーズ(角川文庫)、『言葉の園のお菓子番』シリーズ(だいわ文庫)、『金継ぎの家 あたたかなしずくたち』(幻冬舎文庫)、『三ノ池植物園標本室(上・下)』(ちくま文庫)、『東京のぼる坂くだる坂』(筑摩書房)、児童書「ものだま探偵団」シリーズ(徳間書店)など。
Twitter:@hoshio_s

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