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第8回 いってみようやってみよう 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 さとるは中学2年生になった。
 新しいクラスには、見船美和みふねみわ上野原涼子うえのはらりょうこもいたが、数少ない友人とは、離ればなれになってしまった。
 しかし悟はとくに気にすることもなく、始業式を終えたばかりの、まだぎこちない教室の中ですごした。
 座席は出席番号順だったので、悟の横には上野原が座っていた。上野原はまっすぐな目で教壇を見つめていた。
 担任教師は若い女性だった。
「ええと、2ヶ月後には、大尻湖おおじりこで宿泊学習があります。まだ新しいクラスになったばかりだけども、むしろ、宿泊学習で親睦を深めて、仲良くなっていきましょうね。宿泊学習の班やプログラムなどは、明日から決めていきますので、とりあえず今日は、みんなで自己紹介をしましょうか。それじゃあ、前の席から……ではまず、浅葉あさばくんからおねがいしますね」
「はい……。浅葉悟です。趣味はとくにないですが、仲良くしてください。よろしくおねがいします」
 ふだんであれば抵抗のある自己紹介というイベントも、日常の大切さに気づいた悟は、そつなくこなした。
 次は上野原の番だった。
「みなさん、はじめまして、上野原涼子です。部活には入ってないけど、小さいころから水泳をやっていたので泳ぎは得意です。このクラスは卒業までいっしょだから、みんなでずっと、楽しくやっていけたらいいなって思ってます。気軽に声かけてくださいね! よろしくおねがいします!」
 そして見船の自己紹介は最悪だった。
「話しかけないでください……」
 以上だった。
 悟には、そんな見船の態度が、ほほえましいものとして映った。
 あいつはおれとちがって、ふつうの毎日がどれだけ貴重なのかを、まるでわかっちゃいないのだ。だからこんなふうに、自分の日常を壊すようなめちゃくちゃがやれるのだ。そんなふうに思った。
 見船の自己紹介は、新しいクラスをほんの少しだけざわつかせたし、若い担任の笑顔をひきつらせて、「そ、そんなこと言わずに、仲良くしましょうね!」と言わせたが、それくらいだった。
 チャイムが鳴り、その日は午前で解散となった。
 バス停で上野原を待つ必要もなくなった悟は、カバンを手にして教室を出た。
「浅葉くん」
 見船に呼び止められる。
 ひさしぶりに声をかけてきた見船は、薄ら笑いを浮かべていた。
 見船は悟の正面に立った。
「浅葉くん、聞きたいことがあるの」
「……なに」
「あなた、大島雫おおしましずくの生首を見つけたでしょう? どうして教えてくれなかったの。水臭いじゃないの」
「あ? なに言ってるの?」
 悟はそう言ってやった。
 見船は一瞬だけ、目尻を上げた。
「……なるほど、なーるほど。とぼけるつもりね。つまらないことはよして」
「見船さんこそ、わけのわからないことを言うのをやめてよ」
「証拠を突きつけたら、あきらめて話してくれる?」
「そんなものないでしょ」
「浅葉くんが生首を発見したとき、私、たまたま、近くにいたの……と言えば、観念してくれますか? くひ、くひひ」
 見船は頬の筋肉を、おかしな調子に歪ませて、
「ねえ、私に隠しごとはやめましょうよ。あなたはいつだって、私に見られているようなものなんですから」
「僕はなにも見てない」
「まだとぼけるの? みんなばらしてやりますよ」
「好きにすれば」
「本当に? 浅葉くんが血のついたコートを燃やしていたことや、浅葉くんのお父さんが人殺しかもしれないことを、新しいクラスの前でばらしてやりますよ」
「まともに自己紹介もできない陰気なやつが、みんなの前でぺらぺらしゃべったりできるとは思えないけどね」
 自分の口から、ずいぶん気の利いた皮肉が出てきたことにおどろいた。
 すると見船は、怒るでもとまどうでもなく、むしろ心配でもするように、
「浅葉くん……ずっと、やる気ないですよね。私との『作戦会議』には出ないし、お父さんのアリバイもしらべないし、学校がはじまっても声をかけてくれないし……。事件を解決する気はないわけ?」
「ない」
「捨てばち? 投げやり?」
「もういい。僕はもう抜けた。まだ事件が気になるなら、見船さんだけで調査してくれ」
 悟は廊下を歩き出す。
 見船が背中に声をかける。
「あなた、本当にそれでいいの? 犯人がお父さんでもいいの?」
 それでもよかった。
 どうでもよかった。
 悟はふつうの人生がほしかった。
 宿泊学習にわくわくできるような人生がほしかった。
 生首のことなど、考えたくもなかった。

 4日前。
 生首を見つけた悟は、全身を凍りつかせていた。
 鶏荷橋とりにばしの下にあった生首に見つめられ、金縛りにあったようにその場から動けない。逃げたくても逃げられず、目を離したくても離せない。
 悟と生首は、たがいをじっと見つめていた。
 正確には生首の目玉は腐り落ちて、暗い穴ぼこがあるだけだったが、悟からすればおなじことだった。永遠につづくかのように長い時間が流れた。
 そのとき、
 わん!
 犬の鳴き声がした。
 悟は我に返り、顔を上げた。
 そこには中型犬と、犬を連れた若い女性が立っていた。
 どちらも、橋の下で固まっている悟を、不思議そうに見下ろしていた。
「どうしたの?」
 若い女性が声をかけた。
 シラを切ろうかとも考えたが、そんな余裕も必要もなかったので、悟は動かせるようになった腕をのばして、生首を指差した。しかし橋が死角になっていてよく見えないらしく、「ねえ、なにかあるの?」と言って、若い女性は犬とともに川辺まで降りてきた。
 そして生首を見つけた。
 若い女性は声なき声を上げると、犬を連れてもときた道を引き返した。逃げ出したのかと思ったがそうではなく、近くの電話ボックスに飛びこむと、あわてた様子で電話をかけはじめた。通報しているのだろう。
 警察がくるまでに、悟にはやらなければならないことがあった。
 悟は電話ボックスに注意を向けつつ、そっと腰をかがめた。そして足もとに落ちているマンガ雑誌……自分をこの川辺に呼び寄せた『ありす・くりーむ』をつかむと、自転車をとめた方向に思いきり投げた。湿って重くなったマンガ雑誌は、フリスビーのようによく飛んだ。それを見た犬が興奮して前脚を上げたが、それだけだった。
 まもなく数台のパトカーがやってきて、中から警察がぞろぞろ出てくると、目撃者である2人と1匹をパトカーに乗せた。
 鶏荷川にほど近いところに、鶏荷警察署はあった。
 犬を連れた若い女性とは、ロビーで別れた。
「大丈夫だよ、大丈夫……」
 別れ際、若い女性はそう言った。
 いい人だったのかもしれないと、悟は今さら思った。
 警察は1人になった悟から、さっそく話を聞きたがっているようだったが、未成年の事情聴取は保護者同伴の必要があるらしく、自宅の電話番号を教えるようにまず要求した。
 すでにそれが事情聴取じゃないのかと悟は思ったが、警察相手にそんな口を叩けるはずもなく、素直に電話番号を伝えた。
 1時間ほどして、父親が警察署にやってきた。
 母親がくると思っていた。
 浅葉家では、こうしたものはつねに母親の仕事だった。授業参観も予防接種も、カードダスの交換でトラブルになった友人の家にいっしょにあやまりにきてくれるのも、いつだって母親だった。
 なので警察の事情聴取にも母親が同伴すると思っていた悟は、父親を見て混乱しつつ、なぜ母親がこなかったのかを考えた。
 いっぽうの父親は、警察にかこまれた息子を見ても、とくに表情を変えず、
「遅くなりました」
 歯医者に遅刻したような口調で言った。
 父親とともに、取調室に入った。
 警察の質問には素直に答えたが、橋の下にいた理由だけは、カラスがやけに鳴いていたので気になって橋を降りたと嘘を吐いた。
 担当した警察はなにを言っても、「ううむ」か「ふうむ」しか返事をしないので、嘘がバレたかどうかはわからなかった。
 事情聴取はすぐに終わった。
 しかし、
「お父さん……浅葉圭介けいすけさん、ちょっとよろしいですか」
 父親だけが取調室に残された。
 廊下に置かれたベンチで父親を待ちながら、悟はおそろしい考えにとりつかれていた。というのも父親は、少女連続殺人事件の犯人とおなじく、白いワゴン車に乗っていたし、なにより、血のついたコートを隠し持っていた。警察はじつは父親のことを前から疑っていて、とうとう逮捕するのではと本気で不安になった。
 20分ほどして、父親が取調室から出てきた。
「父さん、なんの話をしていたの?」
「べつに」
「べつにって……」
 こんな状態になっても秘密をつらぬくその態度に、悟は思わずいらついたが、父親はいつもの調子で、
「これからも事情を聞くことがあるかもしれないから、連絡先を教えてほしいとか、マスコミには話さないでほしいとか、そんなことを言われただけだよ」
「…………」
「悟、いっしょに帰るか」
「自転車あるから、1人で帰る」
 悟はせめてもの反抗としてそう言った。
「わかった」
 父親は警察署を出た。
 エンジン音が聞こえなくなるのを待ってから、悟も外に出た。
 薄暗くなりつつある空の下、鶏荷橋まで歩いて戻った。橋の下には規制線が張られていて、制服姿の警察官が立っていたが、自転車のそばに落ちていたマンガ雑誌を前カゴに入れる悟のことを、気にしているようには見えなかった。
 自宅にもどってきた。
 なんとなく覚悟を決めて、ドアを開ける。
「悟!」
 リビングに入った瞬間、母親が抱きついてきた。
 次の瞬間、まるで幼児退行でも起こしたみたいに、悟の全身から力が抜けた。
 そんな悟を抱きしめながら、母親は泣いていた。
 父親ととおるが、2人の様子をだまって見ている。悟は少しだけ恥ずかしかったが、母親の腕に抱かれるほどに、日常という幸福、家庭という幸福が、たっぷりと充満していくのを感じた。暗くなる前に帰り、家族とテレビを見ながらカレーライスなんかを食べるタイプの美しさと安心に、はっきりと呑まれたのだった。
 その日は、家族全員で夕食を食べ、風呂に入り、行儀よくパジャマに着替えて、きちんと、「おやすみなさい」と言ってから、透と子供部屋で眠った。
 そして真夜中、えたいの知れない情欲に駆られて目を覚ました。
「透……おい、透」
 2段ベッドの上に声をかけても、返事はない。
 弟が寝ていることを確認すると、悟はベッドから出た。
 子供部屋の窓を開け、ひそかに外へと抜け出すと、自転車のカゴに入れてあるマンガ雑誌、『ありす・くりーむ』を手にして戻ってくる。
 まだ湿っている雑誌を開くと、ぱらぱらと砂がはがれるような音がした。
 窓から差しこむ月明かりの中、こみ上げる「期待」とともにそれを読む。
 ぼんやりとイメージしていたのは、去年の夏、透の友だちである佐久間勇人さくまゆうとの家でかくれんぼをしたときに、勇人の父親の部屋で見つけた雑誌だった。
 そこには、小学生のヌード写真が掲載されていて、悟自身もまだ気づいていない欲望をはげしく刺激したものだが、いっぽうの『ありす・くりーむ』は、どうもそういう本ではなかった。
 掲載されているのはマンガばかりでグラビアページはなく、マンガの内容も、性的ではあるが実写ほどの異様さで悟の心を揺さぶりはしなかった。きちんと勃起はしたが、興奮したからというよりも、勃起しておかないともったいないからという貧乏根性に近いものだった。
 ……ただのマンガだな。
 この雑誌を手に入れるため、生首と鉢合わせまでしたのに、割に合わなかった。悟の「期待」はすっかり萎縮していた。とはいえ、捨てるには惜しい。
 悟はしばらく考えてから、机の抽斗ひきだしの奥にマンガ雑誌を隠した。
 やっていることが父親といっしょだなと思った。

 見船を無視して学校から帰ってきた悟は、そんな自分がほこらしくて上機嫌だった。
 自宅のリビングでくつろぎながら、ポッキーをかじる。透が水泳教室から帰ってくるまで、家にはだれもいなかった。悟はテレビをつけた。
 鶏荷橋が映っていた。
 マイクをにぎったリポーターが叫び立てている。大島雫の生首が見つかったことで、少女連続殺人事件の報道は、ひさしぶりの盛り上がりを見せていた。
 そんなテレビを見ても、悟の心が乱れることはなかった。穏やかでさえあった。ついに殺人事件というものが、自分から本格的に離れたように感じた。ポッキーをこんなに美味しく食べるのはいつぶりだろうと思った。
 もう少し食べたくなった。
 近所の『倉橋くらはし商店』で駄菓子でも買おうと思い、私服に着替えた。
 小銭でもないかとポケットに手を入れた瞬間、すべてを思い出した。
 まだ少し湿っているそれを取り出して、ゆっくり開く。
「手紙でトモダチになろう 文通コーナー!」と書かれたページは、「男の子の投稿欄」と「女の子の投稿欄」に分かれていて、そこには名前と学年と自己アピール文、さらには自宅の住所が載っていた。
 
  ♡マンガ大スキ! ここにのってるみたいなマンガ知ってる人、文通しましょう。上杉良子(中1)
  ♡キモチが沈んでます。はげましてくれるお兄さんいませんか。なるべく背の高い人がいいです。樋口洋子(高3)
  ♡なんでも教えてくれる年上の男性をさがしてます。すこしフトってますがお気になさらず……。乙瀬真希(高1)
  ♡テニス部です。好きなものはホットケーキ、キライなものは犬です。優しい人募集してます。浜名沙友理(高2)
  ♡最近ナヤミが多い乙女です。すっきりさせてくれる人いないかな? 車が好きな人とオトモダチになりた〜い。湯浅恵(中1)
 
『ありす・くりーむ』の誌面にあった、文通コーナー。ここに書かれた住所に送れば手紙がとどくという単純な事実が衝撃的だった。
 もちろん悟は、文通がどのようなものかは知っていたが、それにしても無防備すぎるように感じたのだ。
 相手のことを、あまりにも信じすぎている。
 たとえば30歳や40歳の男が、学生のふりをして送ってきたとき、どうやってそれを嘘だと見抜けるのか。
「自分は中学生です」、「大学生です」、「高級車に乗っています」、「身長が高いです」、「つらいときにあなたを助けます」という嘘など、いくらでも書けるではないか。
 さらに悪意のある大人ならば、より巧妙な文章を使ってくるだろう。そうして少女たちをだまし、だまし抜いた結果、すっかり信頼させて、会うこともできるだろう。
「えっ」
 悟は自分の発想におどろく。会うこともできるだろう?
 それはつまり……。

(1日目)
・湖畔ハイキング(お弁当)
・映画鑑賞
・炊事(カレーライス)
・キャンプファイヤー
・きもだめし
・テント就寝
 
(2日目)
・朝食(お弁当)
・ラジオ体操
・カヌー体験
 
 翌日。
 宿泊学習のプログラムが黒板に書き出されるのを見て、悟は単純にわくわくした。自分のまわりにただよう異様な世界観が消えて、楽しく輝く学校生活が浮かび上がるのをたしかに感じた。
「では、みんなで見たい映画とか、キャンプファイヤーのときに歌いたい歌があったら、みなさん言ってください」
 実行委員の男子(悟はまだ名前をおぼえていない)が言うと、新しいクラスの中でも活発なタイプの連中が、あれこれと好きなことを言った。『子猫物語』、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『トップガン』、『グーニーズ』、『霊幻道士』、『リーサル・ウェポン』、『エルム街の悪夢』、『ベスト・キッド』、『ヒドゥン』、『帝都物語』……。
 映画を知らない悟はそれを聞いても、「また『トップガン』か」くらいしか思わなかったし、歌となるとタイトルすら知らないものばかりだった。
 ふと視線を向けると、隣の席にいる上野原が手を挙げながら、悟の知らない歌手の名前を楽しそうに口にしていた。
 今月いっぱいは席替えをしないという話だったので、まだしばらく上野原の隣でいられた。
 ぼうっと見つめていたら、上野原と目が合った。
 悟はあわてて視線をそらした。
 すると上野原は顔を寄せて、悟にだけ聞こえるような声で、
「きもだめし、ちょっとこわいよね」
「え……あ、うん」
「私、おばけだめなのよ。助けてね?」
 そう言って笑った。
 たちまち幸せになった。
 家に帰りたくなかった。
 宿泊学習だの、上野原だの、さまざまに楽しいことがある学校を出て、1人で家の中にいたら、またあの世界観に引きずりこまれてしまう。
 余計なことを考えてしまう。
 いらぬことを思いついてしまう。
 だけどクラスに友人のいない悟は、学校が終わったら家に帰るほかなかった。
 玄関ドアを開けて、リビングを見る。
 今日もだれもいなかった。
 テレビをつける。
 今日も鶏荷橋が映っていた。
 リポーターがしゃべっていた。
「発見された生首は、これまでに体しか見つかっていなかった大島雫さんのものと特定されて……」
「生首は長いこと放置されていたようで、ずいぶん腐敗が進んでいたと、警察関係者の情報が……」
「被害者となった4人の少女に接点はなく、警察はそれぞれの事件の関連を洗い直すとの話を……」
 悟はテレビを消した。
 しかしそれは家を出るためだった。
 私服に着替えて自転車に乗った。
 テレビ中継はもう終わっていたが、鶏荷橋のまわりにはマスコミと、大勢の野次馬がいた。
 ……くそっ。
 悟は毒づく。
 いったい自分はなにをやっているのか。
 事件のことは忘れたんじゃなかったのか。
 路肩に自転車をとめて、鶏荷橋の上にやってきたが、だれも悟に注意を払わなかった。警察が布いた箝口令のおかげもあり、悟が生首の発見者ということは極秘だった。
 ではなぜ、見船にバレたのだろう。
 そしてもし、見船以外の人たちにもバレたとき、自分はどうするのだろう。
「生首? そんなどうでもいいことより、聞いてください! 僕の父さんの机から、血のついたコートが出てきたんです! 父さんは人殺しかもしれない! だれか助けてください! 殺される! 殺される!」とでも白状するのか。するかもしれなかった。
「あそこで殺されたんじゃないよ」
 突然、そんな声が聞こえた。
 野次馬の中に、よれよれのコートを羽織った若い男がいた。
 その顔を覚えていた。
 草壁奏一郎くさかべそういちろう
 母親が通っている、『草壁ジャズダンス教室』の馬鹿息子だ。
 そしてその横にくっついているのは、日菜子ひなことかいう女子小学生。
 悟は先日、この奇妙な2人組を、『草壁ジャズダンス教室』の屋根の上で見たのだった。
 奏一郎と日菜子は、このときもべったりと寄り添いながら、鶏荷橋から川辺を見下ろしていた。
「えー、橋の下で殺されたんじゃないの? あそこなら、だれにも見つからないよ」
 日菜子は物騒なことを言った。
「いいかな日菜子ちゃん、きみは知らないと思うから、とっておきの秘密を教えてあげるけど、大きな動物を殺すと、いっぱい血が流れるんだよ。首なんて切断したら、なおさらだ。日菜子ちゃん、豚を殺したことある?」
「なにを殺したって?」
「豚だよ豚」
「あんたはあるの?」
「やめてよ……縁起でもないことを言わないでくれ。日菜子ちゃんは、いつだってびっくりさせるねえ。いつだってだよ」
 奏一郎はコートの襟を強くつかみながら、
「ともかく、橋の下で殺人なんてナンセンスだねえ。騒がれたらまずいし、首を切るのだって時間がかかるし、血も出るし、体だって持って帰らなきゃいけないし……。べつの場所で殺されたと考えるのが自然だよ」
「ねえ、なんであそこに首があるの」
「捨てたからでしょ」
「なんで捨てたの」
「捨てる理由か。うむ、それはね、ひとつしかない。いらないから捨てたんだよ。バナナの皮やスイカのタネを捨てるのと、こいつはまったくおなじ理屈だねえ」
「私、スイカのタネを埋めたことがあるの、お庭にスイカ畑を作りたくて」
 日菜子は奏一郎を見上げながら言って、
「いつもはスイカのタネなんて捨ててたけど、でもそのときはちゃんと取っておいたよ。だからさ、大事にしておく理由ができたら、生首だってそうするんじゃない?」
「日菜子ちゃんは天才だねえ。そして僕は本当に愚か者だねえ。そんなこと考えもしなかった」
「でも私、生首なんていらない」
「犯人もそうかもしれない。生首の持ち主のナントカって子は、たしか小尻湖に体を捨てられていたからね。犯人は、頭も体もいらなかったのかもしれない」
「どうせ捨てるなら、まとめて捨てればよかったのに」
「日菜子ちゃんは天才だねえ。首と体は最初からつながっているんだから、わざわざ切り離してから捨てるなんておかしいよねえ」
「だから、理由があったんじゃないかって、私はずっと聞いてるんだけど」
「日菜子ちゃんは天才だねえ」
 まるで意味のない会話だ。
 しかし2人のやりとりを聞いた悟は、かえって元気になった。
 どんなに深刻ぶってみたところで、まわりからすれば、自分は今、彼らの会話と大差ないようなことを思い悩んでいるにすぎない。それならべつに真剣にやる必要もないし、もっと言ってしまえば、自分の思いつきがまちがいだったところで、だれにも迷惑はかからない……。
 とりあえず、確認してみよう。
 悟は本屋に向かった。

 商店街の端っこに、『ブックスいいじま』はあった。
 そこは中学1年生のときのクラスメイト、飯島いいじまの家族が営む書店で、悟はたまにマンガなどを買いに行ったりしていた。
 店に入ると、いつもの老人が店番をしていた。この老人が、飯島の祖父なのかどうかは知らなかった。悟はそういうことが気にならなかったし、気になっても質問しないタイプの人間だった。
 ほかに客はいなかった。
 それは都合がよかった。
 悟は店にある雑誌を、かたっぱしからチェックした。マンガ雑誌。オートバイ雑誌。料理雑誌。パズル雑誌。旅行雑誌。音楽雑誌……。とにかく中身を見てみた。
 その多くに、文通コーナーがあった。
 予想していたことではあったが、予想以上の事態に、悟はおどろく。
 文通できるチャンスが、これほどまでに開かれていたとは。
 鶏荷町に生まれた自分が、新しい人と出会うには、大人になってここから出なければならないのだと漠然と考えていたが、どうもそうでもなさそうだと認識を変えた。
 雑誌の文通コーナーに応募すれば、東京や大阪といった、テレビでしか見たことのない都会に住む人と、接点が持てるかもしれない。
 新たな出会いがあるかもしれない。
 でもそのとき、文通相手を……どこまで信じていいのだろう?
 文通相手というのは、しょせんは文字だけの存在だ。手紙の中で、「16歳の高校生です」と書いてあっても、40歳かもしれないし、60歳の可能性だってある。「東京の学校に通う女子中学生です」と書いてあっても、青森に住む男子大学生かもしれないし、埼玉で暮らす主婦かもしれない。100歳の老人かもしれない。
 なにより文字だけで、相手の本心をさぐり当てるのはひどくむずかしいものだ。
 たとえば、「おなじ趣味を共有したいです」とか、「親友になりたいです」とか、気持ちのいいことが書かれていたところで、本当の気持ちなどわかるはずもなく、文通相手はよからぬことを考えているかもしれないし、そしてその、「よからぬ」ことというのが……。
「おっほん」
 咳払いが聞こえた。
 店番をしている老人のものだった。
 悟はあわてて雑誌を戻すと、べつにほしくもなかったマンガ本を贖罪しょくざいのように買い、そのまま店を出た。

 この町をにぎわせている、少女連続殺人事件。
 岸谷真梨子きしたにまりこ(10歳 鶏荷小学校4年)。
 飯田幸代いいだゆきよ(10歳 鶏荷小学校4年)。
 倉橋詩織くらはししおり(13歳 蓮ヶ丘はすがおか中学校1年)。
 大島雫(15歳 公成こうせい高等学校1年)。
 犯人と被害者4人をつなぐ接点は、いまだに発見されていなかった。
 だけど、
 
 もしかしたら犯人は、被害者たちと文通で知り合ったのでは?
 
 メッタ刺しにされた、岸谷真梨子と飯田幸代。
 バラバラになって発見された、倉橋詩織。
 首なし死体で見つかった、大島雫。
 犯人は4人の少女と文通を通じて知り合い、うまくだまして仲良くなり、実際に会ったのでは。そして殺したのではというのが、悟の考えだった。
 根拠はない。
 マンガ雑誌の文通コーナーを見ているうちに浮かんだ、たんなる思いつきにすぎない。
 それでも悟は、自分がすっかり満足するまで、この思いつきの裏取りをしてみたかったし、そのためにはバックナンバーが必要だった。
 文通コーナーに、被害者の名前が載っているところを見てみたかった。
 悟はそのために自転車を走らせた。
 駅前の大通りを突っ切ると、大尻湖へ向かう国道に入るが、その脇に古本屋がむかしからあった。今にもくずれそうなボロ屋だったこともあり敬遠していたが、意を決して入ってみた。ほとんどが洋書ばかりで、雑誌のバックナンバーはなかった。
 店を出た。
 しかし悟の知るかぎり、鶏荷町にはもう古本屋がない。
 なので遠出することにした。
 国道をひたすら進むと登り坂になり、そこを越えると、急に緑が広がった。
 このあたりは、隣町である菱坂町ひしさかちょうとの境で、住宅はほとんどなく、手つかずの自然と農園ばかりだった。しばらく進むと、「菱坂ゴルフリゾートへようこそ!」とか、「菱坂スキー場まであと10キロメートル」とかいった看板が目立つようになってきた。それとともに、「ゴルフリゾート建設反対!」、「ふるさとの水を汚すな!」などといった手書きの看板も増えてきた。
 やがて通り沿いに駐車場が現れた。まわりにはいくつかの住宅があり、その中にある一軒が、「レコード 古本」という色褪せた幟を立てていた。
 道に面した窓をのぞくと、たしかに本がならんでいる。
 こんなところに古本屋が?
 望んでいたものがあったとはいえ、なんだかキツネに化かされたような心地だった。
 自転車をとめて、店に入ってみた。
 店内はわりと小綺麗で、入り口の横には中古のレコードとCDがならび、奥にある本棚には、たくさんの本が詰まっていた。雑誌のバックナンバーもあった。
 本棚に突撃をかけようとすると、
「いらっしゃいませ」
 店員が声をかけた。
 そして悟はおどろく。
 自分の理解を超えたことが起きたせいで、どう反応すればいいのかわからない。
 いっぽうの店員は、まあこんなこともあるだろうというような顔つきだった。
「な、なんで、こんなところに」
「それはこっちのセリフだけど」
「……バイトしてるの?」
「ちがいますよ。これは家の手伝い。自営業のこどもって、なかなか大変なんですよ。それで……どんな本をおさがしですか? お客さま」
そう言って、見船は小さく笑った。

 カウンターに座る見船は、制服の上からエプロンをつけていた。見船の手もとにはマグカップが置かれ、キキララのキャラクターが印刷されている。私物だとすれば、まるで似合っていなかった。
 悟は混乱の中、それでも会話の主導権を手に入れようとして、むりやり質問した。
「ここは……見船さんの家なの? それなら学区がちがうから、べつの学校に行くはずじゃないの?」
「お気遣いなく。一応、私の家と呼べそうなところは、鶏荷町にあります。ここは、私の父親が営んでいる古本屋なんです。『古書サンカク堂』にようこそ」
「サンカク堂?」
「このあたりの住宅地って、森の空間を利用して作ったせいで、上から見たら三角形なんですよ。ところで浅葉くんは、私とそんな話をしたくて、ここにきたわけ?」
「…………」
「こんな辺鄙なところにある古本屋にきたということは、あなたは今、本をとっても必要としているはず。私のことは気にしなくていいから、どうぞご自由に。それとも、私が見つけてあげましょうか? 浅葉くんが夢中になりそうな本を」
 さて。
 どうするべきか。
 悟は必死に考える。
 なにもせず、さっさと帰るか。
 あるいは、すべてを話してしまうか。
 だがそんなことをすれば、悟が好奇心に突き動かされていることを、だれよりも知られたくない相手に知られてしまうことになる。それは耐えられなかった。
 耐えられなかったが、背に腹は代えられない。
「思いついたことがあるんだ」
 悟はすべてを話した。
 文通コーナーに住所を晒す少女たちの存在。犯人はそんな少女たちを狙っているのではという仮説。その証拠を見つけるには雑誌のバックナンバーが必要ということ……。
 話を聞き終えた見船は、くだらないと笑い飛ばすでも、ふたたび調査をはじめた悟を茶化すでもなく、
「犯人と被害者の接点も、被害者同士の接点も、どちらもまだ見つかっていません。『失われた環ミッシング・リンク』が文通というのは、悪くない仮説ですね」
「え、じゃあ」
「悪くない仮説と言っただけです。必要なのは、仮説を立証させるための証拠。今から、この店にある雑誌のバックナンバーを確認しましょう」
「いいの?」
「いいもなにも、浅葉くんはそのために、ここにきたんでしょう? お客さんなんてだれもこないから、私もいっしょにしらべてあげますよ。ただし、質問に答えてちょうだい」
「……なに」
「あなた、大島雫の生首を見つけたの?」
「…………」
「見つけたの?」
「……うん」
 悟は答えた。
 すると見船は鼻を鳴らして、
「そうら、ごらんなさい。思ったとおりじゃないですか。いいですか浅葉くん、私におとぼけは通じませんからね」
「ねえ、どうしてわかったの?」
「始業式であなたを見たとき、ピンときましたよ。浅葉くんの顔色、とーっても悪かったから、ずいぶんといい目に遭ったんだなあって思いましてね。くひひ、見たのね……生首を。大島雫の生首を」
「見たよ。悪いかよ」
「大変でしたね。怖かったですね……くひひ、あーおかしい。くひひひひ」
 見船は大島雫と知り合いだったという話だが、ならば生首が見つかってどうして笑えるのか意味不明だった。なので悟はだまってその様子を見ているほかなかった。
 やがて見船は満足したのか、すうっと笑いを引っこめると、
「さて……はじめましょうか。お茶、いれてきますね」
 それだけ言って、バックルームに消えると、ふたつのマグカップを盆に載せて戻ってきた。「どうぞ」と言われたが、口をつける気にはならなかった。
 見船は本棚の前に立った。
「雑誌のバックナンバー関係は、このへんの本棚です。ではとりあえず、事件がはじまる2年くらい前、1986年あたりの雑誌からしらべるとしましょうか」
 こうしてふたたび共同戦線を張った2人は、雑誌をあさりはじめた。
『ブックスいいじま』で確認したときと同様、やはり多くの雑誌に、文通コーナーがあった。女子小学生が読むような少女マンガ雑誌にもそれはあり、「あなたの顔写真を見せてね!」とか、「ずーっとヒマしてます。仲良しになりたいな」とかいった雑な自己紹介のあとに、本名と住所が記載されていた。
「こういうのって、危なくないの?」
 悟は雑誌をチェックしながら思わず言った。
「危ないとは?」
「だってさ、文通コーナーに応募したら、名前も性別も住所もみんなバレちゃうんだよ」
「それはそうですが、でもこれが、文通というものですからね」
「こんな危険をおかしてまで、文通なんてしたいものかな……」
「だれだって、自分を本当に理解してくれる人がまわりにいないことに苦しんでいるし、理解してくれる人が、世界のどこかにいると夢想するものです」
「はあ」
「手紙を入れたボトルを海に投げこむという文化があるでしょう? 文通相手を求める人たちはみんな、どこにとどくかわからない自分の手紙に、希望を託しているわけですよ」
「見船さんも、文通とかしたことあるの?」
「まさか。私を理解できるのは、私だけ」
 見船は雑誌をぱらぱらめくりながら、
「でも多くの人は、そうは思わない。『シンデレラ』や『白雪姫』じゃないですが、白馬に乗った王子さまが、いつか自分を迎えにきてくれると夢見るのは、そして文通相手にその夢を託すのは、ちっとも変なことじゃありません」
 これはけっして、見船の警戒心が薄いわけではなく、むしろこの時代においては、きわめて平均的な感覚だった。
 文通にはたしかに危険はあるにせよ、こどもから大人まで、だれもがふつうに使っている「出会いの場」のひとつにすぎなかった。
「くひっ」
 不意に見船が吹き出して、
「やっぱり浅葉くんは、いいですね」
「なんの話?」
「だって、浅葉くんに指摘されるまで、文通がそんなにも危ないなんて考えたこともなかったから……。浅葉くんはさっきからずっと、文通を悪用する犯罪者側の視点で語っていますよね」
「……ほめてないだろ」
「ところで、犯罪者の気持ちにくわしい浅葉くんは、いったいなにをきっかけに、文通なんてものに注目したんですか?」
「生首があった近くに雑誌が落ちていて、そこに文通コーナーがあったんだ。それで、もしかしてって思ったんだ」
「なんて雑誌?」
「たしか、『ありす・くりーむ』だったかな……」
「おやまあ、『ありす・くりーむ』ですって? それならたしか、このあたりに……」
 見船は慣れた動作で店内を回り、本棚の一角から雑誌の束を持ってきた。
 そのすべての表紙には、『ありす・くりーむ』というタイトルが書かれていて、幼い少女のイラストがあった。
 見船が説明した。
「これは比較的メジャーな、よくあるロリコン雑誌です。といっても、そこまで過激じゃないし、どちらかといえば耽美系なマンガが多く掲載されていますけどね」
 ロリコン雑誌というものが、「よくある」ものだということも知らなかったし、それを読んだ自分の感想が、「ただのマンガだな」というのもおかしなことなのはわかっていたので、悟はなにも言わなかった。
 見船は『ありす・くりーむ』のバックナンバーを適当に開いて、
「あら本当だ。ここにも文通コーナーがあるんですね。ふうん……生首のそばに、この本があったわけですか。もしかしたら、大島雫の持ち物だったかもしれません」
「えっ」
「あの人、こういう本が好きだったから」
 見船は言った。
 大島雫のことなどなにも知らなかったが、それでも悟は意外だなと思った。ならば大島雫は、だれにも言えない趣味に共感してくれる相手を求めて、文通コーナーに投稿したかもしれない。
 いっぽうの見船は、小馬鹿にするような調子で、
「まあ私は、この手の本は小学校のときに卒業しているから、あまり響きませんね。あーやだやだ。幼稚すぎますね」
「じゃあ見船さんは今、どんな本を読んでるの?」
「最近は、『怪物の解剖学』を読んでいます。あとは熊楠とか。衒学げんがく趣味はきらいじゃないけど、『博物誌』はちょっと退屈でしたね。浅葉くんはプリニウスは読みました?」
 なんだかいけ好かなかったので、悟は無視して作業に戻った。
 そしてひたすら雑誌をチェックして、『ムービーデータ』という映画雑誌を開いたとき、ついに見つけた。
 
 ホラー映画が好きです。お気に入りは『サスペリア』と『フェノミナ』です。アルジェントの話ができる人いませんか。倉橋詩織(小6)。
 
 自分でそれを見つけておいて、悟は信じられずにいた。
 その雑誌に書かれていた名前は、3人目の被害者である倉橋詩織と同姓同名だったが、それでも信じられずにいた。
「やりましたね、浅葉くん」
 見船はそう言ったが、悟はまだ半信半疑の心地で、
「倉橋詩織なんてめずらしい名前じゃないし、あと住所もちがうような気がする」
「倉橋詩織は栄北町えいほくちょうにある蓮ヶ丘中学校に通っていました。だけど、ここに書いてるのは……」
見船はそう言って、『ムービーデータ』に書かれた倉橋詩織の住所を指で追う。そこには、「S県鶏荷町遠鷺とおさぎ3‐2‐12」とあった。
 悟の家の近くだった。
 ある予感がした。
 見船もおなじものを感じ取ったのか、いそいでバックルームに戻り、電話帳を持ってきた。
 
 倉橋商店 鶏荷町遠鷺3‐2‐12
 
 電話帳を照会して現れた住所は、やはり悟の家の近くにある、『倉橋商店』だった。
 見船は電話帳を閉じた。
 そして、あわただしくエプロンをはずしながら、
「浅葉くん、あなたここまで、自転車に乗ってきた?」
「え……うん、そうだけど」
「乗せてちょうだい」
「は?」
「私、自転車に乗れないの」

 うしろに見船を乗せて、悟は自転車を走らせる。運転はむずかしかった。きちんとバランスを保たないとハンドルがとられるし、なによりペダルが重かった。
 自転車を二人乗りしたのは、このときが人生ではじめてだった。
 荷台に乗る見船はさきほどから、ぶつぶつと念仏のようなものをとなえていた。
 悟にはそれがひどく気味悪かった。
「あの、見船さん……さっきから、なにを言ってるの?」
「練習」
「なんの?」
「じゃましないで。もっといそいで」
 怒られた。
 とはいえ二人乗りでは速度が出せず、さらには見船の古本屋から目的地までは、ずいぶんと距離があった。悟は必死に自転車を走らせたが、すでに外は暗くなりつつあった。
 やっと『倉橋商店』についたときには、日が暮れていた。
 小さな商店の入り口からは、明かりが漏れていた。
 見船は自転車の荷台から降りた。
 そして、ごしごしと両目を強くこすってから、店の引き戸を開けた。
 悟もいっしょに店に入った。
 店内はこの日も、線香の香りがただよっていて、「倉橋のばあさん」が店番をしていた。あいかわらず背中を丸めて、100年前からそうしているように座っていた。
 見船は迷いのない足取りで店内を進み、倉橋のばあさんの前に立った。
 2人は無言で見つめ合っている。
 いったいなにがはじまるのか、悟は不安でいっぱいだった。
 見船はしばらくだまっていたが、いきなり背中を震わせて、
「うええええん」
 泣きまねをはじめた。
「うう、ううー、あの、私は、詩織ちゃんとは年齢も学校もちがうんですけど、ペンフレンドだったんです。ううう……それで仲良くなって、実際に何度か遊んだこともあって、とっても仲良しの親友になれて、それなのに、うう、それなのに、ううう……」
 なるほど。
 倉橋詩織の文通仲間という設定か。
 しかし問題なのは、見船の演技力がゴミレベルということだった。大根役者だ。あまりにひどい。やはり、ふだんから人とコミュニケーションをとっておくのは大事だなと悟は思った。
「うーうー、私たち、すごく気の合う親友でした。学校の話とか、映画の話とか、いろんな話をたくさんして、本当にすばらしいお友だちを持てたってよろこんでいたのに、それが、こんなことになってしまって、ううー、ううー」
 見船は腰をくねくね動かしはじめた。まさかあれで「悲しんでいる演技」をやっているつもりなのかと、悟は戦慄した。
「詩織ちゃんのことは、その、テレビを見て知りました。本当は、お葬式にも出たかったんですけど、私はただのペンフレンドなので、おじゃまになると思って遠慮してたんです。でも、う……ううー、やっぱりがまんできなくて、こうして、ご挨拶にまいりました。ううーううー」
 クズのような演技をつづける見船を、倉橋のばあさんは無言で見つめていた。顔に刻まれたしわが震えていた。怒っているのでと思ったが、しかしそうではなかった。倉橋のばあさんは、「ありがとなあ」と言って泣き出した。悟は『倉橋商店』に通って長いが、倉橋のばあさんが口を開くのも感情を出すのもはじめて見た。
 倉橋のばあさんは涙の粒を落としながら、孫娘の友だちがやってきてくれたことへの感謝を述べた。
 見船は泣きまねをつづけて、
「ううー、それで、じつはですね、前に詩織ちゃんと遊んだときに、本を貸したんです。でも、返してもらう前に、こんなことになっちゃって……あの、私、どうしても本を返してもらいたくて。ふつうの本ならべつによかったんですけど、貸したのが、大事な本だったので……」
 見船がそこまで言うと、倉橋のばあさんは顔をぬぐって、自分は本のことはわからないから、孫娘の部屋から持っていってくれと言った。
 そのあとで、悟をちらりと見た。
「あ、私の恋人です。1人だと心細かったので、ついてきてもらいました」
 見船がそう言ったので、悟は頭を下げた。
 倉橋のばあさんは反応しなかった。
 店の2階に案内された。
 廊下の突き当たりが、倉橋詩織の部屋だった。
 下で待っているから本を見つけたら戻ってくるようにとだけ言って、倉橋のばあさんは階段を降りた。
「私の演技力があれば、ちょろいものですよ。さあて、やりましょう」
 見船は部屋に入るなりそう言って、室内をあさりはじめた。
 倉橋詩織の部屋は、それといった特色のない、「女の子らしい部屋」とでも形容するほかない内装だった。あるべきところに机があり、あるべきところにベッドがあった。『ムービーデータ』の文通募集には、ホラー映画が好きだと書いていたが、その手のポスターが貼られていることもなかった。
「ちょっと浅葉くん、のんびりしてないで、あなたも動いてちょうだい」
 見船はタンスを開けながら言った。
「いや、でも、なにをさがしてるの?」
「想像力が腐ってるんですか? なんだっていいんですよ。倉橋詩織と事件をむすびつけるものなら」
「そんなこといわれても……」
「あの老婆が、またいつ戻ってくるからわからないんだから、ほら早く」
 見船はこんどは、ベッドの下に手をのばした。
 倉橋のばあさんにこんなところを見られるのはまずいと思い、悟はさっさと作業を終わらせることにした。
 いささか気が引けたが、倉橋詩織の机を開ける。
 抽斗の中には、缶ペン、においつき消しゴム、キャラクターのついたキーホルダーなどが入っていた。
 隣の抽斗を開けると、青い顔の女がいたので叫びそうになった。
 よく見るとそれは映画のパンフレットで、『フェノミナ』というタイトルが書かれていた。悟は抽斗を戻しながら、ちがうと思った。本当に隠しておきたいものを、こんなところに入れるはずがない。
 ではどこに隠す? 自分ならどうする?
 悟は少し考えてから、机のいちばん下の抽斗を開けて、その奥に手を突っこんだ。
 手応えがあった。
 取り出したのは紙束だった。
 封筒とハガキが、ピンクの輪ゴムでまとめられていた。
 悟はゴムをはずし、ハガキの裏表をすばやく確認する。
 その中に、見慣れた文字列を発見した。
 
 浅葉圭介
 
 まずい。
 隠さないと。
 そう思ったが、見船がぬっと顔を突き出して、「おや、大発見」と言った。
「もしかして浅葉くんのお父さん?」
 そうではないことを祈ったが、ハガキに書かれた癖のある文字には見覚えがあったし、住所は悟の家のものだった。このハガキはまちがいなく、悟の父親、浅葉圭介が書いたものだった。
 自分の父親が、倉橋詩織と文通をしていた?
 耳の裏の血管がドクドク鳴った。
 思考は今にも沸騰しそうだった。
 父さんはやはり、人殺しなのか?
 でもどうしてそんな。どうして。
「ここでなにをしているの?」
 急に部屋のドアが開かれた。
 悟はおどろくよりも、戸惑った。
 なにひとつ理解できず、思考が停止した。
「ここでなにをしているの?」
 相手はくり返す。
 それはこっちのセリフだと、いきなり部屋に入ってきた上野原涼子を見ながら、悟はそう思った。

(つづく)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato

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