第7回 たんけんぼくのまち 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」
北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月最終火曜日更新 はじめから読む]
illustration Takahashi Koya
1
「わわっ、浅葉くんだ。今、バス待ち?」
「あ……うん」
「じゃあさ、いっしょに帰ろ?」
「うん、いや……」
「どっち?」
「あ、うん。帰ろ」
「バスの中って死ぬほど退屈だから、だれかいると助かっちゃうな。浅葉くんはバス好き?」
「さあ、考えたこともないけど」
「私のまわりって、意外とみんなバス使うんだよね。パパ……あっ、お父さんの患者さんとかも、バスでくる人が多いし」
「患者さん?」
「ウチって病院やってるんだよね。私のお父さん、病院の院長なの。知らなかった?」
「知らなかった」
「だよね。浅葉くん、私のことなんにも知らないもんね」
「学校じゃ、あまり話さないから……」
「それなのに、バスに乗るときだけお話するなんて、秘密の友だちみたいでおもしろいね! ふふ、ふふ」
上野原涼子はそう言って、なにがおもしろいのか笑い出した。
悟にはわけがわからなかった。
どうしてこんなに、幸せになってしまったんだ。
2
3学期がはじまり、2週間がたった。
悟は毎朝、父親の車で、祖母の家から学校まではこばれて、バスで帰った。まだ小学生の透は、自宅の修繕が終わる春まで学校を休むことになった。
そんな生活を送っていた悟は、帰りのバス停で、上野原と会うようになった。
上野原はクラスでも目立つ女子だが、悟はいてもいなくてもだれも気にしなかったので、ふたりに接点はなかったが、バスの中ではぽつぽつ会話をした。
学校では買い食いが禁止されていたが、上野原はいつもどこかで駄菓子を買ってきて、バスの中でそれを食べた。
「浅葉くんも一口いる?」
上野原は、かじりかけのうまい棒を差し出した。
「あ、あ、いや、大丈夫」
悟はどぎまぎして答えた。
「おいしいよ?」
「でも、大丈夫」
「おいしいのに」
「上野原さんは、よく食べるね」
「私、食べるの大好きなの。あと、いくら食べても太らないんだ。なんでだと思う?」
「体質?」
「わかんない。水泳やってるからじゃないかな。幼稚園のころから、プール教室にかよってるんだ。おかげで25メートルなんて、6歳から泳いでたもん。かわいいでしょ?」
「え? あ……」
「でもそのせいで、背中の筋肉すごいの。ちょっとさわってみて」
上野原はうまい棒をくわえて、コートを脱いだ。
背中を見せてくる。
茶色がかった艶のある髪と、華奢な背中をつつむセーラー服が、視界いっぱいに広がった。
「ほえ、あうほおうお?」
うまい棒をくわえたまま、上野原がうながす。
悟はおそるおそる、上野原の背中に手を置いた。
異性に触れたのは、母親をべつとすればこれが最初だったが、緊張しすぎたせいで、このときの感触を、悟はまったくおぼえていなかった。
「なかなか、お上手ですなあ」
上野原は茶化すと、
「あげましょう」
と言って、うまい棒の残りを渡した。
悟はうまい棒を手にしたまま、途中のバス停で降りた。
上野原はバスの中から悟を見下ろしながら、車窓になにかを書いた。それは「バイバイ」の文字だった。
悟はまるで人間の生活をはじめて見た野生児のようにおどろき、去っていくバスを見つめた。
祖母の家に帰ると、ひまをもてあました透が、犬のように出迎えてくれた。
「兄ちゃん、おかえりなさい。学校、楽しかった?」
「べつに」
「兄ちゃんはいつも、『べつに』だね。ぼくなんてずっとおばあちゃんの家だし、このへんはなにもないから、すっごいひまで」
「父さんが、本を買ってくれただろ」
「全部読んだ」
「もう?」
悟の記憶では、10冊ほど本を買いあたえられていたはずだった。
「だから……すっごいひまなの」
透はふてくされたような声を出した。
悟は答えず、居間に入った。
祖母が台所からやってきて、「悟ちゃん、おかえり。おやつがあるよ」と言い、エンゼルパイを出してくれた。それを見た透が、「おばあちゃん、ぼくもまた食べたい!」と言った。
帰り道に食べたうまい棒の味を忘れたくなかった悟は、甘い菓子を緑茶ですばやく流しこんだ。
それでさっそく、やることがなくなった。両親はどちらも仕事で夜まで帰ってこないし、祖母や透と遊ぶのにも飽きていた。
テレビをつけた。
年明けは天皇崩御のニュースしか流れなかったが、このころにはプログラムが戻っていた。しかし内容といえば、平成とは名ばかりの、昭和を引きずったものばかりだった。
この町で起きている少女連続殺人事件の報道が、また復活しつつあった。
一刻も早く忘れたいのに、そうはさせないとでもいうようにくり返し現れて、悟はげんなりした。
こんな報道、早く消えてくれと思った。
悟の願いは、案外と早く叶うことになる。
ただしそれは、毒をもって毒を制すという感じではあったが。
3
2月初旬、埼玉県で女児が行方不明になっている家の前に段ボール箱が置かれ、中から人骨片と歯が出てきて、さらに犯行声明文が新聞社に送られたことで、ニュースはその奇怪な事件一色に染まった。
犯行声明文の差出人は、「今田勇子」という名前で、テレビのコメンテーターたちは、「子供を亡くした女性が犯人ではないか」とか、「『いまだからゆうぞう』のもじりではないか」とか、適当なことをならべ立てていた。
「本当に気色悪い」
夕食の席で、母親は食事を取り分けながらテレビに毒づいた。
「やんなっちゃう。世の中には、こんなクズしかいないわけ? あと、こいつらは馬鹿なの? 犯人が女なわけないでしょ」
「こわいねえ」
祖母がつぶやいた。
「新聞社に送った犯行声明文の名前には、今田勇子って書いてあったらしいよ」
悟が指摘すると、母親はいやそうに片目だけを細くして、
「あのねえ悟、犯人が本名を使うわけないでしょ。どうせ男にきまってるわ。小さな子しか襲えないおっさんが犯人よ」
母親はテレビのチャンネルを回した。
ブラウン管に映るのは似たようなニュースばかりで、最終的にテレビが消された。
無音の食卓で、母親は文句をつづける。
「どこもかしこも変態だらけよ。母さんが通ってるジャズダンス教室にもね、そういうやつがいるの。草壁千代子さん……ウチのジャズダンス教室の先生に、奏一郎って一人息子がいるんだけど、その馬鹿息子が、大学サボって昼間からうろうろしてるのよ。まあ、それだけならいいんだけど、小さな女の子に声をかけたりしてるんだって。草壁先生ったら、それを知ってるのに注意しないの。母親としてまちがってるでしょ。ほかにもあれ……近所のビデオ屋、『サンセット・ビデオ』だっけ? あの店にも、気持ち悪いうわさがあるでしょ。変なビデオを裏で売ってるとかさ。どうしてみんな、やっちゃいけないことがわからないわけ? あのチラシ配り男だってそうよ。仕事だろうとなんだろうと、やらしいチラシを人ん家の郵便受けに入れるのは、本当にやめてほしい。こんど見つけたら、水でもぶっかけてやろうかな」
延々とつづく母親の文句は、どれも正当なものだったが、食事中に話さなくてもいいような気がした。
透も父親もすっかりだまっているし、祖母は壊れたテープレコーダーのように、「こわいねえ」をくり返すばかり。
悟は食べ物を口いっぱいに入れて、しゃべれないふりをつづけた。
その夜、悟と透は二階の物置部屋に布団を敷いた。物置部屋には段ボール箱が積み上がっていて、地震でも起きたら悲惨なことになりかねないが、空いている寝床はここしかなかった。
豆電球をつけて、布団に入る。
薄暗い中で見る段ボール箱は、妙に気味が悪かった。悟はこのひとつひとつに、歯や骨がぎっしり詰まっている様子を幻視しかけた。
「兄ちゃん」
隣で眠る透に呼ばれた。
「どうした」
「さっき、母さんが言ってたことなんだけども」
「さっき?」
悟はとぼけてみせた。
「いやほら、ご飯を食べてるときに母さんが言ってたこと……。あれって、本当なのかな」
「どういうことだよ」
「この世の中って、母さんが言ってたような変な人が、本当にそんなにたくさんいるのかな」
いる。
少女を惨殺したり、血のついたコートを隠したり、小学生のヌード写真に興奮したり、殺人事件に嬉々として首を突っこんだりする変態が、この町だけでも、うじゃうじゃいる。
そしてだれもがそのことを隠して、人間社会を生きている。
悟はそれを知っていた。
それを知るくらいには汚染されていた。
だがせめて、賢くて幼い透くらいは、最後まで汚れずに、きれいな世界を見ていてほしかった。
「母さんはいつも、大げさなんだ。変な人が、そんなにいっぱいいるわけないだろ。大丈夫だよ」
悟は嘘をついた。
それでうまくいくと思った。
しかし透の反応は、どうにも不可解だった。
「どうしよう。ぼく、まちがったのかもしれない。やっぱり、大丈夫じゃなかったのかも……」
透はそれきり、なにも言わなかった。
4
空気。
悟の学校生活を一言で現すことば。
授業で発言することも、それ以外の時間で目立つこともなく、ノートをとり、給食を食べ、下校するだけの毎日。とはいえ悟はそれを苦痛に感じていなかった。
おそらく見船美和もそうだろう。
悟とおなじか、それ以上に空気としてすごしているが、本人が気にする様子はない。
休み時間、見船はこの日も、読書をしていた。
スカートからのびる脚を開き、適当に刈ったような黒髪をかきながら、本を読んでいた。
ひどい格好だと悟は思った。
見船は暗く湿った目で、ページを追っている。
表紙には『堕落論』とあったが、読書家ではない悟には聞き覚えがなかったし、視線に気づかれたらバツが悪いので、机に伏して寝たふりをした。
新学期になってから、見船とはあいかわらず話をしていない。
なんの問題もなかった。
見船が接触してこなければ、事件のことを思い出さなくてすむし、なによりこのときの悟には、見船に心を砕いているひまなどなかった。
下校のチャイムが鳴ると、悟は学校を出て、その裏手にあるバス停に立つ。
そうしてバスの何台かを見送っていると、
「やほー、浅葉くん、今日もいっしょに帰ろ?」
週に一度、多ければ二度、上野原がバス停にやってくるのだった。
悟はずっと疑問だった。
なぜ上野原はバスに乗るのだろう?
上野原の自宅がどこなのかは知らないが、学区の関係上、鶏荷町内なのはまちがいない。その証拠に、上野原と悟はおなじ小学校出身だった。上野原はそのころからよく目立つ女子で、悟はそのころから目立たない男子だった。
「あのさ、上野原さんは、バスでどこに行ってるの?」
3月のある日、隣り合って座る上野原に、悟はとうとう質問した。
上野原はおどろいたような顔で、「言わなかったっけ……」とつぶやいて、
「水旗町に、おじいちゃんがひとりで住んでるんだけどね、あんまり体調がよくないの。それで、お見舞いに行ってるんだ」
聞いてしまえば、なんということもなかった。
「あそこって、なにもないよね」
水旗町と聞いて思い浮かぶのは、それだけだった。
すると上野原は強くうなずいて、
「そうなのよ! 鶏荷町だってなにもないけど、そんなレベルじゃないからね。駅前にでっかい空き地があるからね。浅葉くんも、水旗町に行ったことあるの?」
「いや、前に車で通っただけだけども、なにもなかったから」
「おじいちゃん、あんな町にずっと住んでるんだよ。信じられない……。お見舞いに行っても死ぬほど退屈だから、私いつも、本を読んでる」
「本、読むんだ」
「本くらい読むでしょ」
上野原はさも当然のように言ってから、
「おじいちゃんの部屋に、大きな本棚があってね、そこからいい感じの本をひっぱり出して読んでる」
「たとえば?」
「サガン」
「おじいちゃん、何歳くらい?」
サガンを知らない悟は話題を変えた。
「さあ……60歳? 70歳かも。ずっと元気だったんだけど、脚を悪くしてから、あんまり外にも出なくなっちゃって。ちょっと心配なんだ」
「そうなんだ」
「元気づけてあげたいんだけど、お見舞いに行っても、べつにしてあげられることもないし。どうすればいいかなーって」
「プレゼントなんてどうかな」
サガンの話題から遠ざかるためだけの提案だったが、案外と上野原には響いたらしく、
「それ……名案かも! プレゼントもらっていやがる人はいないもんね!」
「うん、きっとよろこぶよ」
「お年寄りって、なにが好きなんだろ。浅葉くん、わかる?」
「ウチのばあちゃんは、甘いお菓子が好きだけど」
「かわいい」
「戦争中、甘いものが全然食べられなかったから、そのぶんたくさん食べるって……」
「あっ!」
上野原はいきなり叫ぶと、
「小学校のとき、そんな先生いなかった? ほら、戦争中に白いお米が食べられなくて……」
「ああ、いたいた。あれだよね、4年生のときに定年になった先生」
「そうそう! 頭が禿げてて、ちょっと太ってて、チョッキみたいな服を着てて……名前はわすれたけど、その先生、いつも給食のとき、ご飯を用意してもらってたでしょ」
名前は悟も思い出せないが、その教師の言い分だけはおぼえている。
戦争中、白米を満足に食べられなかったので、これからは死ぬまで毎日白米を食べたいと言って、パン食の日も、給食センターから特別にご飯をとどけてもらっていた。
「みんなは先生になにも言わなかったけど、私ね、ああいうのよくないって思ってたの。あんなわがままが、学校の中で通るなんて、ゆるせない」
上野原がそんなことを言ったので、正義感や平等心を刺激されたのだろうと悟は思ったが、つづく主張は、そういうことでもなさそうだった。
「特別あつかいされて、ずるい。それなら私だって、毎日ご飯をたくさん食べたかったよ」
「上野原さん、そんなにご飯が好きなの?」
「なに言ってるの。そんなわけないでしょ。みんなが給食でパンを食べてる中で、ひとりだけご飯を食べていたいの」
「なんかそれ、目立ちそう」
「馬鹿ねえ。目立ちたくてやるんじゃないの」
「じゃあ、なんで?」
「特別がもらえるなら、そのチャンスにあずかりたいってだけ」
「はあ……」
悟にはピンとこなかった。
上野原はしばらく悟を見つめていたが、不意に小さく笑うと、
「ねえ浅葉くん、じゃあたとえば、私といっしょに買い物に行こうって言われたら、どうする?」
「え、あ、えっ?」
「こんどは、『たとえば』はナシね。私といっしょに買い物に行こう?」
「…………」
「すぐ答えて」
「行く」
「じゃあさ、おじいちゃんのプレゼント、いっしょにえらんでくれる? 約束だよ。はい、げんまーん」
上野原は悟の手をとり、指切りをした。
悟は呆然としてバスを降りた。
5
3学期が終わり、春休みがはじまった。
その日は朝から晴れていた。しつこい根雪がようやく解けはじめ、道路は洪水が引いたあとのように濡れていた。駅前には大きな水たまりができて、野良犬がそれをなめようとしている。水たまりの表面には鶏荷駅の駅舎がぼんやり映り、駅舎の前を横切る国道をしばらく進むと、大型のスーパーマーケット、『ハッピー』がある。
その日、悟と上野原は、『ハッピー』の店内にいた。
隣を歩く上野原は、買い物かごを元気に揺らしながら、悟に笑顔を見せた。
悟は必死に笑顔を返した。
そして思う。
クラスで人気の女子と、春休みにお買い物。
この状況は、いわゆるデートではないのか。
どうしてこんなに、幸せになってしまったんだ。
ただデートといっても、上野原の祖父へのプレゼントをえらぶという目的があったし、そのようなものがスーパーマーケットにあるとも思えなかったが、悟は店内を見回して、老人が好きそうなものをさがした。
「浅葉くん、なんかすごい顔になってるよ。気楽にやろうよ」
上野原は白くてふわふわした、悟には描写ができないタイプの服だったが、それでも上野原の私服姿は新鮮で美しく、さらにはいい香りがした。
そんな上野原と、ならんで歩いている。
この様子を、クラスメイトに目撃されたいという気持ちが芽生えた。
それは恋心とか鬱屈とかいったものとは似て非なる、ひとつの欲だった。
結局、独居老人にプレゼントすべきものが中学生に見つけられるわけもなく、ふたりはあきらめて『ハッピー』を出た。
商店街に移動する。
多くの店には、シャッターが降りていた。
この町には、この町で生きる人々が求めているものが、なにひとつ売っていなかった。
「わあ、かわいい!」
「わあ、おもしろい!」
にもかかわらず、上野原は開いている店に突撃をかけて、気味の悪いぬいぐるみや、不可解なかたちのヘアピンなどを、いくつも買うのだった。悟にとってはなんの価値もないそれらも、上野原の目を通すと、「かわいい!」か「おもしろい!」という評価になるのだった。
買い物を終えて、喫茶店に入った。
上野原は鼻歌交じりでメニューを見ているが、こういう店に不慣れな悟は緊張しどおしで、缶ジュースで飲んだことのあるレモンスカッシュを注文した。上野原は紅茶とパフェを頼んだ。
「……いっぱい買ったね」
悟はとりあえず、目についた大きな紙袋を見て言った。
「そう? いつもこんな感じだけど」
だとすれば、中学生にしては金遣いが荒い。上野原の意外な一面を見た気がした。
上野原はやってきたパフェを食べて、幸せそうに目を細めてから、「あとそれに」と言って、
「今のうちに買わないと損でしょ。来月には、消費税がはじまるんだから」
4月1日から施行される消費税法により、すべての商品に3パーセントの税率がかかるということで、世間は大変なさわぎになっていた。近隣でもっとも都会の笠馬市では、反対デモが行われたらしい。
上野原はつづける。
「なにを買っても3パーセント取られるなんて、どうかしてると思わない? このパフェ、今は580円だけど、消費税がはじまったら……ええと、597円かな? ほとんど600円になるんだよ。ひどいでしょ」
「そんなに変わらない気がするけど」
「変わるよ。30000円のものを買ったら、30900円だよ。大革命だよ!」
「はあ」
物欲がなく、必要なものは親に買ってもらっている悟は、上野原の文句に共感できなかった。
話題が尽きた。
上野原はパフェを食べている。
悟は沈黙の中、レモンスカッシュを飲み干し、意味もなくストローのゴミを丸めたり、また広げたりしていたが、とうとうたえられなくなって、さほど知りたくないことを質問した。
「あの、さっき上野原さんが買った本って、どんなもの?」
商店街に向かう途中、上野原は駅前の書店で、「おじいちゃんには、本がいいんだよ結局」と言って、祖父へのプレゼントを買ったのだった。
「『ノルウェイの森』だよ。村上春樹の」
「ノルウェイ?」
「嘘。知らない? 去年、ものすごく流行ったでしょ」
「あんまり、本を読まなくて」
「浅葉くんは、毎日が幸せなんだね」
「なんで?」
「本を読まないってことは、自分がいる世界に満足してるってことだから」
たしかに自分は本を読まないし、物語という別世界を欲してもいない。
とはいえ、この現実に満足しているのかといえば、そうでもない……ような気がする。
このときの悟はまだ、自分の中にある「渇き」のようなものを、うまく言語化できなかった。そしてなぜ言語化できないかといえば、本を読んでいないからだった。
だが、そんな悟でも、わかったことがある。
それは上野原が、自分がいる世界に満足していないということ。
上野原の「渇き」とは?
なんだか自分はそれを……ずっと前から知っているような気がする。
「4月から、2年生だね」
上野原はパフェを食べ終えた。
「そうだね。もう2年生だね」
「もう? 私は長いけどなあ。まだ中2かよーって感じ。人生、長いわ」
「…………」
「浅葉くんと、またいっしょのクラスになれたらいいな。学校ではあんまり、浅葉くんと話さないけど、でも私ね、バスとかの……」
「上野原さん」
「ん?」
「上野原さんは前にさ、ほしいものがあるって僕に言ったよね」
「わあ、よくおぼえてるね! クリスマスのときでしょ」
……私、ほしいものがあるの。
去年のクリスマスイブ、『ハッピー』でケーキ販売のアルバイトをしていた上野原は、たしかにそう言った。
「上野原さんのほしいものって、なに? すごく高いもの? それとも貴重なもの?」
「……そうじゃないんだよね」
上野原は紅茶に口をつけて、カップをテーブルに置いたあと、急に挑むように顔を突き出して、
「私ね、死ぬほど退屈なの」
「うん……?」
「私ね、私がほしいものがほしいの」
「どういうこと」
「ねえ浅葉くん、私がほしいものを教えてよ。それを買うから」
6
4月2日。
春休みもあと少しで終わる日曜日、ようやく家の修繕が終わった。
玄関ドアを開けて、家族とともに家の中に入った瞬間、悟はありえないほど強烈な違和感を抱いた。
それは、「なにか足りない」というものだった。
目の前にあるリビングはしかし、以前のそれと大きな変化はない。
テレビや家具は新しいものになっていたが、間取りも壁紙もいっしょだった。
だけど悟には、取り返しのつかない致命的な部分がうしなわれたように見えた。和室や書斎も同じく、前のそれといっしょのはずなのに、なにかが足りないように感じてしまうのだった。
「前と変わらないわね」
母親がそう言ったので、見ているものがこんなにもちがうのかと、悟は愕然とした。
「前の家といっしょで、安心するよ」
透までそんなことを言った。
悟は自分の部屋に移動した。
炎の被害を浴びなかった子供部屋は、本当の意味でなにも変わっていないはずだったし、実際にそうだった。毎日使っていた2段ベッドも、家を抜け出すために使った窓も、たしかにそのままだった。
だけど悟にはやはり、以前と同じには見えなかった。新築物件でも見ているような気分だった。
「書斎に机を入れないとな」
子供部屋から出ると、リビングにいた父親がそう言ったのが聞こえた。
よくもまあ、そんな軽口が叩けるものだと悟はショックを受けた。
あの机に血のついたコートがあったのが、すべての元凶だというのに。
これ以上、家族といっしょにいるのがつらくなった悟は、「ちょっと遊びに行ってくる」と言った。
母親がなにか叫んでいる。
かまわず外に出た。
自転車を走らせる。
雪の大半は解けかかっていたが、日の当たらない木陰や、人が足を踏み入れない路肩などには、まだ雪が積もっていた。
悟はすがるような思いで、上野原とデートしたスーパーマーケット、『ハッピー』に入った。
店内の様子は、前回きたときと同じように感じた。変わった点といえば、店の壁に、『消費税導入のお知らせ』と書かれた紙が貼られていることと、商品の値札が改められていたことくらいだった。
悟は店を一周して、もう一周したあと、外に出た。疲れていた。息が上がっている。少し熱っぽい。いったい自分はなにをしているのだろう。
自動販売機をさがした。
無性にコーラが飲みたかった。
炭酸をバチバチ入れて気分を変えたかった。
そのとき、『ハッピー』の駐車場に、意外な人物を見つけた。
長ネギや卵のパックが入った買い物袋をぶらさげて、地面をこするような足取りで歩いているのは、チラシ配り男だった。
チラシ配り男は、駐車場にとめてある車に乗りこむと、国道を走り去った。
いつもふらふらやってきては、いやらしい宣伝の書かれたチラシをポストに入れて回るあの男が、スーパーで買い物をしている……。
悟の目にはそれが、なんとも奇妙な光景に映った。
チラシ配り男は、このまま車で家に帰るかもしれない。ひょっとしたらそこには妻や子供がいるかもしれない。買ってきた食材でチャーハンを作るかもしれない。そういう生活があるかもしれない。
あの男にも暮らしがあり、人生がある。
そんな当たり前のことを、これまで考えたことがなかった悟は、頭がくらくらした。
自動販売機は見つからなかった。
7
コーラを求めて路地を曲がり、見知らぬ住宅街に入ったところで、『草壁ジャズダンス教室』という看板を見つけた。
悟は思わず自転車をとめる。
母親がジャズダンス教室に通っていることは、もちろん知っていた。しかしそれ以上のことを知る気はなかった。母親がなにを習おうとどうでもよかった。
だからこんなところに、母親が通うジャズダンス教室があることも、その教室が入っているとおぼしき民家の屋根に、異様なものが座っていることも、悟はこのときはじめて知った。
大学生くらいだろうか。薄手のコートを着た若い男と、小学生にしか見えない女子が、屋根の上にならんで座っている。
ひそひそ話でもしているのか、ふたりは顔を近づけて笑い合っていた。親密な空気が、かえって不自然だった。
悟は思う。
あの若い男が、母親の言っていた馬鹿息子……草壁奏一郎なのだろうか。そして本当にそうだったとして、だからなんだというのだろうか。
若い男と女子小学生は、悟が見上げていることなど気にもせず……いや、世間のすべてを気にもせず、ふたりきりの会話に集中していたが、不意に若い男の視線が動いた。
悟をとらえる。
こちらを見ているはずなのに、焦点が合っていない。
思わず気後れして、逃げるタイミングをうしなった。
「やあ」
「…………」
「んんー、きみはだれかなあ? 日菜子ちゃんのお友だち?」
「あんなやつ、知らない」
隣に座る女子小学生が首を振った。
「なんだあ、ちがうのか。うーん、僕の友だちでもないみたいだし……忘れてるだけかもしれないけど。あれ、そういえば今日って、何月何日だっけ」
「4月2日」
隣に座る女子が教えた。
「4月2日……それってまさか、4月2日ってこと?」
「そうでしょ、どう考えても」
「『光陰矢の如し』だねえ。『老齢は明らかに迅速なり』だねえ。ちっとも気づかなかったよ。もう4月か。どうりで暑いわけだなあ」
「まだ寒いでしょ」
「いや、暑いよ。あるいは僕らは今、屋根の上にいるだろう? 地表から少しでも遠ざかれば、そのぶん、太陽に近づくわけだから、やっぱり暑いんだよ」
「じゃあ、脱いだら」
「なにを?」
「その変な色のコートを」
「あれえ、こんなコート、僕はいつのまに着ていたんだ?」
「奏一郎くん、最初から着てたよ」
「そうだっけ。ちっともおぼえてない。僕はね、なんでもすぐ忘れちゃうんだ」
奏一郎と呼ばれた男は、曖昧な視線をふたたび悟に向けて、
「ねえ、なぜだかわかる?」
「…………」
「きみに聞いてるんだよ。ねえ、なぜだかわかる?」
「し、知らない」
「それはねえ、僕の頭が、ここにはないからだよ!」
奏一郎は自分のこめかみを指さして笑った。
なにがおもしろいのか、隣に座る女子小学生も笑った。
ふたりの笑い声が空に反響した。
悟はあわてて自転車を走らせた。
笑い声はなおも響き、なんだか馬鹿にされているようで不快だったが、しかし悟には逃げるしかなかった。
なんだあいつらは。気味が悪い。どいつもこいつも気味が悪い。そしてあんな連中にも生活があって、自分はあんな連中といっしょにこの町で生きているのか。そう思うと、また頭がくらくらした。
いやな気分をかかえたまま、あてもなく町を走った。コーラはまだ見つからない。『ハッピー』で買っておけばよかった。
また笑い声が聞こえる。
上野原の声に似ていた。
悟は自転車の速度を落として、そんな馬鹿なと思いつつも、あたりを見回した。
すると、通りに沿って建ちならぶ家から、「もぉ、そんなんじゃないですよう」という上野原の声がたしかに聞こえた。
甘ったるい声だった。
やがて、通りに建つ家々の、ひときわ大きな白い家の前で、上野原を見つけた。
知らない男と話していた。
悟の胸は瞬間的につぶれかけたが、それでも顔を隠して距離をちぢめた。
白い家はしかしただの家ではなかった。大型の看板には『上野原メンタルクリニック』と書かれていた。
……病院?
上野原の父親が、病院の院長ということは聞いていたが、こんな場所にあったとは、あんなに大きな看板が出ているのに知らなかった。
だが知らないといえば、上野原のことなど本当になにも知らない。だから悟は、上野原と話している男の正体も知らない。
まだ若く見えるその男は、ジャケットを羽織り、長めの髪をしきりになでつけていた。へらへらと口もとをゆるませて、上野原がなにか言うたび、大げさに肩をすくめている。悟は一瞬にして、この男がきらいになった。
会話の内容までは聞き取れなかったが、上野原の態度を見れば、どれほどの仲なのか一目瞭然だった。
上野原は男を見上げて、にこにこしていた。
ふだんより甲高い上野原の声が、風に乗ってこちらにとどく。
「えー、だからちがいますって! 私、ふつうにいい子なんですよう」
「はい……はい。もちろんです! 笠馬南なんて楽勝で受かりますから、安心してください」
「じゃあ先生、また来週おねがいします! さよならー!」
上野原がおじぎをすると、若い男はさっと片手を上げ、赤い車に乗りこんだ。
車が去っていくまで、上野原はずっと見送っていた。
悟は道を引き返した。
よけいなことをした。
よけいなものを見た。
見たくなかった。
知りたくなかった。
幸せになんて、ならなければよかった。
だが悔やんだところで記憶は消えず、見なかったことにもならず、そして思考はとまらない。むしろその後悔をエサに、ぐんぐんと進行していく。
さきほどの「笠馬南」という言い回しは、学生が使う場合、笠馬市にある笠馬南高校を指すのがほとんどだ。
上野原が成績上位者なのはなんとなく聞いていたが、笠馬南高校をねらえるほどの学力があるとは知らなかった。笠馬南高校は難関学校で、悟の知能ではとうてい受かりそうもないところだった。いや、悟の頭がよかったところで、なにかが変わることもなかった。
あの「先生」と呼ばれた若い男は、病院の先生ではなく、家庭教師だろう。
上野原はあきらかに、あの家庭教師に気があった。あんな顔で、あんな声で、悟に接してはくれなかった。
結局、上野原と自分の関係は、なんでもなかった。
わかりきっていた事実だ。
そんな、わかりきっていた事実をあらためて思い知った悟は、ほんの少しだけ、泣きそうになった。
もう帰ろう。そう思った。
8
家に帰るために自転車をこいでいるのに、悟の両脚はそれを拒絶していた。あの家に戻ったところで、家族がまたおかしなことを言っているのを聞くだけだ。
帰りたくなかった。
しかし悟には、自宅のほかに行くべき場所がなかった。
せめてもの抵抗に、遠回りした。町の中心部に戻って鶏荷駅をぐるりと回り、雪の残る細い路地をえらんで自転車を走らせた。だがすぐに、見覚えのある大きな通りに出てしまう。この小さな町は、悟に遠回りさえゆるさなかった。
悟はあきらめた。
鶏荷川に沿って造られた、慣れ親しんだ道を走った。
鶏荷橋にさしかかる。
川の両端には、雪が豊富に残っていた。
あたり一面、まだ冬のように白かった。
なので悟は、その本を見つけることができた。
雪の上に捨てられたその本は、死んだカラスのように目立っていた。
悟は本を見下ろしながら鶏荷橋を通過して、また戻ってきた。
それから橋の脇に自転車をとめて、なんでもないという素振りを演出しつつ、川辺におりた。雪に足首まで埋まり、スニーカーはたちまち濡れたが、かまっていなかった。
悟は本を回収すると、橋の下まで移動した。
それはマンガ雑誌のようだった。
毳毳しいピンク色で、『ありす・くりーむ』というタイトルが書かれていた。
表紙には、犬のぬいぐるみを抱いた小学生くらいの少女が描かれていた。それだけだったが、なんとなく不穏だった。
『ありす・くりーむ』は長いこと放置されていたらしく、カラーページは貼りつき、うまくめくれなかった。
悟はもどかしい気持ちをおさえきれず、とりあえず、容易にめくることのできるモノクロページを開いた。
そこには、「手紙でトモダチになろう 文通コーナー!」とあった。
「女の子の投稿欄」
♡スポーツが好きで、ひょうきんなオモシローイ子。お手紙まってます。奥野優子(高3)
♡同学年の子と文通したいでぇす。キミの学校のことなんかを教えてね。橋本香織(中2)
♡バンドに興味があって作詞作曲できる人。私といっしょにデモテープ作りませんか? よろしくネ。野井明日香(中2)
♡マンガ大スキ! ここにのってるみたいなマンガ知ってる人、文通しましょう。上杉良子(中1)
♡キモチが沈んでます。はげましてくれるお兄さんいませんか。なるべく背の高い人がいいです。樋口洋子(高3)
♡なんでも教えてくれる年上の男性をさがしてます。すこしフトってますがお気になさらず……。乙瀬真希(高1)
♡テニス部です。好きなものはホットケーキ、キライなものは犬です。優しい人募集してます。浜名沙友理(高2)
♡最近ナヤミが多い乙女です。すっきりさせてくれる人いないかな? 車が好きな人とオトモダチになりた〜い。湯浅恵(中1)
♡この本に出てくるような特別な恋愛してみたい〜って思ってます。広い世界に連れて行ってくださいネ。本田有希(高2)
♡『あいす・くり〜む』にのってるマンガが好きです。将来はマンガ家になっていろんな話をかきたいです。河合早耶(中3)
♡一人さみしくしてます。ユーウツを消してくれる方はお手紙ください。あなたのお手紙待ってます。楠見智恵(高1)
♡サンタクロースを信じてます。岸辺絵里子(中3)
♡背が高くてカワイイ人はいませんかー? 私はマンガと昼寝が好きです。いろんなアイデア考えてるよ。寺崎愛(中2)
このような文通募集の文章といっしょに、それぞれの住所が記されていた。
悟は反射的にページをやぶり、ポケットに突っこんだ。
頭が沸騰していた。
うまく呼吸ができない。
はじめての衝撃に、心臓がはげしく脈打っている。あらゆる理解が遠ざかり、今までの常識がくずれようとしている。
ようは悟はこのとき、カルチャーショックを受けていたわけだ。
悟はしばらくのあいだ、ポケットの中に手を入れたまま放心していたが、どうせなら雑誌ごと持っていけばいいと思い直して、『あいす・くり〜む』を持ち上げた。
冷たく湿っていて、重かった。
さすがに、このまま持って帰るわけにはいかないと思い、雑誌を隠せるものはないかと、悟はあたりを見回した。
橋の下には雪が残っておらず、濡れた地面がむき出しになっていたが、ビニール袋や捨てられたバッグのような、都合のいいものはなかった。
あきらめておくべきだった。
悟は周囲をさがしつづける。
「……あ、ああ、あああああ」
そしてまたしても、よけいなものを見てしまう。
「それ」は、コンクリートで作られた橋脚に置かれていた。
「それ」は、橋の下にやってきた悟を、ずっと見ていた。
「それ」は、これまで発見されずにいた、大島雫の生首だった。
(つづく)
連載【妻を殺したくなった夜に】
毎月最終火曜日更新
佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
Twitter:@yuyatan_sato