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第4回 吉永小百合と山口百恵にも勝った『伊豆の踊子』映像化第1位は、あの最強アイドル 姫野カオルコ

幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
[毎月第4金曜日更新 はじめから見る



 川端康成の短編小説『伊豆の踊子』は、関東大震災の3年後、大正15(1926)年に、雑誌『文藝時代』に発表されて以来、平成半ばまでの長きにわたり、何度もビジュアル化(映画・漫画・演劇など視覚的な表現)されてきた。
 *原作は〈踊子〉であるが、この項では以下、〈踊り子〉と表記する。*

 主役が若い男女ゆえ、その時々の時代で人気No1の芸能人が配役される定番原作であった。

 映画が6度、準映画の単発TVドラマが4度、アニメ1度も含めると、計11度も映像化されている。ミュージカル化さえされている。

 とりあえず映像化作品のみにしぼって、だれのバージョンの『伊豆の踊子』がいいか、フェアをして決めることにした。

 審査員は一名(筆者のみ)な上、上映館・配信・販売ソフトが無く、未観のものもいくつかあったりするので、fair(品評会)であっても、fair(公正)ではない。

 令和5年の3月までは、審査員(一名)は、1974(昭和49)年・西にしかわかつ監督の、山口百恵版を第一位としていた。

 フィルムの色あいがきれいだし、なにより百恵ちゃんが踊り子の雰囲気にフィットしている。三浦友和も旧制高校生(*)の雰囲気にフィットしている。
 *現代の学制では、高校生は「生徒」であるが、旧制に則して、この項でも以下、「学生」と呼ぶ。*

 ただし原作の外見描写からすれば、内藤洋子の外見が(令和5年3月までは)一番合っている。

 原作には、踊り子のに注目した学生の心象描写がある(後述する)。形状についてのみ比較すると、百恵ちゃんの目の形状は、どちらかというと原作描写とは反対なのである。

 目だけに限定すれば、過去に踊り子役をした、吉永小百合、栗田ひろみも肉迫だが、内藤洋子は、目ばかりでなく、毛量も原作に合っている。

 額と骨格も、原作につまびらかな記述があるわけではないのだが、行間から漂ってくる雰囲気(額が丸くて広い、長身ではない、いかり肩ではない、乳房と臀部とふとももの肉付きはボリューミーではない)に合っているかんじがする。

 年齢は原作に明記されている。14歳である。内藤は、出演時に高2だが、童顔なので、高1時出演の百恵より幼く見える。

 美空ひばりも内藤と同年齢で踊り子役をしているのだが、9歳のころから後年のとおりの大人の顔だちで、声にも貫禄がどっしりあり、内藤と比べると(同年齢なのに!)母娘くらいのビジュアル差がある。敗戦後10年VS20年という時代差換算(*)をしてもなお(注・年数は概算として)。
 *時代差換算=詳細は『顔面放談』参照*

 人気絶頂のころの内藤は、「丸いおでこ」の代名詞でもあった。日本芸能史に残るキュートなおでこである。丸いおでこは童顔の必須アイテムだから、学生が《子供なのだ》と、ほほえんで拍子抜けする露天風呂のシーンにも合っている。

 赤ちゃんの顔を頭に浮かべてほしい。丸顔で、おでこの面積の配分が多いと幼く見える。目と目が離れていると幼く見える。内藤の顔は、この配置を全て備えている。
 *この配置の例はほかに、安室奈美恵、井上真央、宮﨑あおい、など。*

 この配置の顔をした人は、幼さを「かわいい」「無邪気」と捉えられ、大衆から好かれるので、女性芸能人にはけっこういる。

 だが、内藤のチャームポイントは、この配置の顔に、「かげり」というソースがかかっていることだ。

 この翳りソースは、内藤本人が持ち合わせたものというよりは、ベストセラー小説『氷点』の連続TVドラマに出演したことによって、見手(みて)の側がかけてしまうものであろう。

 TV版『氷点』は、なんと平均視聴率30%超え、最終話は43%(四捨五入)の連続ドラマであった。

 こんな国民ドラマで、内藤は、養女にもらわれてきた家のママにいじめられるのである。「かわいそうな美少女」「薄幸の美少女」を、毎回毎回、国民に見せ続けたのである。

 令和現在でも、このイメージをそのまま内藤洋子として胸に刻んでいる人は多いはずだ。作中の少女の役名は「ようこ」、内藤の名前も「ようこ」であることで、よけいにイコールになっているはず。
 *「陽子」と「洋子」で字は違うが、映像で見ている側には同じ音で耳に入るため、ひょっとすると、原作の少女も「洋子」だと思っている人も多いのでは?*

 『氷点』を見ていない(我が家ではチャンネル権は強権の家長にあったため)私でも、小学校低学年のころに、『なかよし』巻末読み切り(*)の映画『その人は昔』の漫画化での「かわいそう」なイメージが、そのまま内藤洋子のイメージである。
 *'60年代半ばの『なかよし』の毎月の巻末は、松井由美子先生の読み切りコーナーで、舟木一夫主演映画の漫画化が何作か掲載された。*

 こうしたしだいで、審査員一同(一人だが)、踊り子役の一位は、内藤洋子か、百恵ちゃんかで、手に汗握る接戦だった。

 さて、司馬遼太郎先生を猿まねして、いったん脇道に逸れる。

 【(文化・学問ジャンルにおいて)偉い年配の男の人●●●●●●●●が、Aを絶賛することで、自らの若さと発想の柔軟さを、彼らが無意識では自分より下に見ているみんなにアピールする】という現象がある。

 Aは、あるモノであったり、事件であったり、表現物や人物であったりする。大新聞が若い(できれば女性の)漫画家やコメディアン(*)を利用するのも、ごめん、起用するのも、この現象の一端である。
 *お笑いの人、とか、お笑い芸人という呼称は、靴を左右反対に履いたような心地悪さがあり、コメディアンと呼ぶ。*

 Aは、偉い年配の男の人によく起用されるいっぽうで、コメディアン的なタレントが、「こう見えて実は知性派」と見られたいために用いることもある。

 訂正する。「実は知性派に見られたい●●●●●」というより、「実は知性派であるという自負のあるコメディアン」が、本心から好んだり●●●●●●●●、そういうコメディアンの芸風そのものがAである。

 Aに不可欠の要素は? 「一回転ひねり」だ。

 羽生結弦や内村航平みたいな超絶ひねり超絶ジャンプはダメダメ。「おっ、今、ジャンプして、それから一回転したぞ」と肉眼でわかりやすいジャネット・リンくらいの跳びひねり。すなわち、わかりやすい度合いの屈折と暗さが、Aには不可欠である。

 淳子・昌子・百恵のトリオと同世代の私は、高校生のころ、百恵ちゃんのAの要素が大嫌いだった。いや、百恵ちゃんが嫌いなのではなく、自分はまだ若いぞよ、発想が柔軟じゃぞよというアピールのために、なにやらことさら大げさに百恵ちゃんを絶賛する偉い先生が大嫌いだった。

 そのせいで、罪のない百恵ちゃんまで嫌ってしまった。伊豆を旅する学生の表現を借りれば、《(まだ)子供なのだ》だったのだ。申しわけないことをした。

 この反省もあって、内藤VS百恵で接戦の末、踊り子役の第一位は百恵ちゃんの勝ちにしたのだが、決定理由のメインではない。

 「かわいそうな雰囲気」のが、内藤洋子と百恵ちゃんでは、百恵ちゃんのほうが原作の踊り子のそれに合っているからだった。

 内藤洋子のコレ(かわいそうな雰囲気)は、『氷点』のソレなのである。
「わたしのほんとうのお母さんはだれ?」系の木内千鶴子先生か望月あきら先生の少女漫画である(正しくは逆で、貸本時代の少女漫画の流れをくんだ'60年代の少女漫画のほうが、『氷点』を参考にしているのであるが)。

 『氷点』のソレ(かわいそうな雰囲気)は、深緑のビロードと白いレースのカーテンが二重になった窓のある応接室、お手伝いさん、「医院」の「医」が「醫」になっているお家、ピアノかバイオリン等々、こうしたアイテムの散る●●●●●●●「かわいそう」である。

 こうしたアイテムが散る質のかわいそうさに合うのは、だんぜん内藤洋子で、実娘(喜多嶋舞)と元夫との子が、DNA鑑定の結果、元夫の子ではなかったという、『氷点』をちょい地で行くような実生活のおまけまでついている。

 百恵ちゃんの「赤いシリーズ」も、『氷点』の系譜にある。「赤いシリーズ」は、特撮で十代の内藤にらせたら、百恵ちゃんより、おそらくハマったはずである。

 いっぽう『伊豆の踊子』のソレは、旧制高校に進学できるということ自体がそのまま特権階級だった時代の、《ものい旅芸人村に入るべからず》という立て札のあった時代の、『氷点』のソレとは違う薄幸さである。

 百恵ちゃんの雰囲気は、こちらに合っていて、さらに、アイドル映画であることで、アイドルとしてのイメージも残さないとならなかった(アイドルとしてのイメージを壊すなという事務所からの要請があったであろう状況下での)演出のもとでの演技、であったことがかえって、原作の叙情によく合っていた。

 踊り子は、我が身の薄幸さにラスト寸前まで気がつかない。そこが彼女のさらなる薄幸で、その薄幸さに、大尽でもない自分は何らの行動もおこせないという、孤児あがりの学生の忸怩たる感情。この二つを淡々と綴った原作の叙情に〈アイドル〉をとどめた百恵ちゃんは合っていた。

 だからこそ、ソレが『氷点』のソレである『風立ちぬ』は、百恵ちゃんにはどうも合わないし、逆に、もし吉永小百合が『風立ちぬ』に主演していたなら合おう。

 吉永小百合は、出てくると背景に『氷点』アイテムが並ぶ人である。『氷点』のソレ(かわいそうな雰囲気)ではなく、『氷点』のアイテム(深緑のビロードと白いレースのカーテン/お手伝いさん/「醫」の看板のある家/ピアノ/バイオリン等々)が。

 なので『キューポラのある街』は、主人公の家庭の経済状況が、小百合には合わないのであるが、ジュン(キューポラ主人公)が、「勉強ができる少女」「先生から励まされる少女」という設定なので、ここで帳尻を合わせている。

 『氷点』のアイテムが背景に並ぶ中、廊下に飾るために摘んだ野の花と、黒い学級日誌を持ち、(公立高校の)職員室前に白い木綿のソックスを二つ折りにして、学校規定の黒い靴を履いて立つクラス委員●●●●●

 これが、この先、たとえキンさんギンさんより長寿におなりになられようとも、吉永小百合様の不動のイメージである。原節子は〈永遠の処女〉、吉永小百合は〈永遠のクラス委員〉。

 山陰のひなびた温泉町で夢千代というお座敷名で芸者をしても、そのたたずまいは、クラス委員が、クラスの恵まれない生徒(たとえば百恵ちゃんのような)のために、芸者をして募金活動をしているような、銅像級、旧文部省選定級の、不動の清純美。

 ううむ、『伊豆の踊子』に、これほど合わない人はいない。

 *川端康成先生は、吉永小百合お嬢様の踊り子役に《なつかしい親しみを感じ》て、彼女のお誕生日会にも出席されたというが、それは氏が、ごくスナオに「小百合ちゃんキレイ~♡」と、そばに寄れるのが嬉しかったのであって、踊り子役に適任と思ったわけではないと思う。美空ひばりのお誕生日会には出席されたのだろうか? 審査員、未調査につき、関心のある方は調べてください。*

 インターネット上の映画レビューには、サユリストとおぼしき人が、《どの映画化も吉永小百合版には足元にもおよばない》との旨を投稿している。小百合版以外の出演者は《全員が役不足(ママ)》なのだそうだ。

 間違いやすい日本語の典型的な例で、このサユリストさんの「役不足」と「力不足」の混乱誤用を、ストレートにほほえんで教えてさしあげなさるクラス委員が小百合様なので、このサユリストさんにおかれては、『伊豆の踊子』にかぎっては、再考をお願いしたい。

 さらに日活の小百合版は、相手の学生役が、また合わない。
 高橋英樹が演っているのだ。

 後に大河ドラマの織田信長、『桃太郎侍』といった武士役で茶の間に顔を知られるようになるが、『伊豆の踊子』出演時には19歳。ハイティーン男性特有の、削ったようにシャープな頬のラインが美しい。

 お父さんが校長先生だったのが影響しているのか、ストレートな正義漢の造作。181cmの長身。

 高橋と小百合が寄り添うと、
「戦後から男女共学になった××県立高校で、このほど卒業式がおこなわれました。卒業生代表を務めるのは、男子は高橋英樹くん、女子は吉永小百合さん」
 と、昭和38年のNHKのニュースで映像が流れそうなカップルぶりである。ぜんぜん『伊豆の踊子』に合わない。

 ラストシーン、岸から手をふる小百合踊り子に、船のデッキから、肩の三角筋を大きく動かし、上腕二頭筋の発達した腕をふる英樹学生は、野球ラグビー剣道なんでもござれな運動神経抜群の青年に見え、「大島にはぜったい行くからねーっ」と笑って手をふっているように見え、翌月にもすぐ、どこかの新聞社主催の遠泳大会で大島まで泳いでいけそうなたくましさ。暗い性格という設定の一高生にぜんぜん見えない。

 内藤洋子版が総合点で百恵ちゃん版に負けたのも、先述の「かわいそうな雰囲気」の質の違いが、多少はあるものの、そう問題ではなく、決定的な敗因は、これまた、つづら折り学生役である。

 黒沢年男(現「年雄」)が演っているのだ。

 後に『ザ・ハングマン』など、TVのアクションドラマで茶の間に顔を知られるようになる、石立鉄男とともに「日焼けサロンではなく自然光による日焼けをしている系」の元気なイメージの俳優である。

 実は彼は長く癌と闘病している。だが、元気に前向きに闘病していて、その闘病の著書は多くの癌患者に励ましを与えている……くらい、役柄ではなく実生活でも人柄が元気な人のようだ。

 彼に好感を抱いている人は多い。とくに男性に多いのではなかろうか。石立と黒沢を「男らしくて、なんか好きだな」という男子生徒が、(私が)中高生だったころには、時々いたよ。

 「好きだ」じゃなく、「なんか、好きだな」。

 「なんか」が付く心理は、黒沢年男は男の坂口良子(若い世代で譬えるなら杉咲花、榮倉奈々なのかなと想像)。「美人っていうんじゃないけど、かわいいよね」と言われて、「こんなふうなヘアスタイルとメイクにすれば、わたしって坂口良子にちょっと似てるんじゃないかな」と、非芸能人の女性が錯覚しやすいタイプの男版。

 むろん、(勝手に)錯覚してたのは(当時の)クラスメイトたちであって、黒沢年男が好感度の高い芸能人なのは事実である。

 ただ、つづら折りの道を一人で旅する暗い性格の一高生には、(私には)見えない。

 では、三浦友和が、暗い性格に見えるかと問われれば困るが、芸能界で長期にわたり主要な役を得る存在になれるような人間に、そもそも暗い人はいないと思うのである。暗い人間は、生き馬の目を抜く、競争はげしい芸能界で、主役(や目立つ役)をコンスタントにゲットしてはゆけまいと。

 だから、暗い性格にはあまり(かなり?)見えないものの、三浦には、大衆が「当代の人気アイドル(である百恵ちゃん)の相手として許す」と認めるに足る清潔感があり、それが童貞臭とまでは言わないまでも、女慣れしていない感を漂わせて、たしかに原作の学生の持つ翳りとは違うけれども、アラウンド1930年の時代に、旧制高校に進学できるような環境にある青年に、ちゃんと見えるのである。

 後年の三浦は、頬のラインが緩くなり、日活版で踊り子を演った小百合様を姦する悪徳巡査を演って、芸の幅を広げることになるのであるが、映画デビューである『伊豆の踊子』では、まだ年齢的に頬のラインが細い。

 頬のラインだけでなく、〈踊子〉出演時の三浦の声と背格好は、原作のファッション(旧制高校の帽子、こん飛白かすりに袴、下駄)に限れば、歴代の映像化中、もっとも似合う。後述するX版の学生役より。

 こうした次第で、審査員(一名)は、『伊豆の踊子』映像化版の第一位を、フィルムの色合いも美しく、一高生ファッションの似合う友和と、原作の踊り子の人生に雰囲気の合った百恵ちゃんの、1974年・西河克己監督のバージョンとしていた。
 令和5年の3月までは。

 令和5年の3月に、1993年版を見たのだ。
 Xと先述した版の踊り子役は、早勢美里。学生役は木村拓哉。
 キムタク版を見たら、いっきにこの版が第一位に躍り出た。

 前・後編で放映されたので、TV連続ドラマというよりは映画に準ずる。内藤洋子版と同じ監督(演出)と脚本(*)で、丁寧に作られ、1993年なので画像の発色(?)も美しい。予算もかかっているのではないか。
 *監督・恩地日出夫、脚本・恩地日出夫+井手俊郎*

 撮影時はハタチだったと思われる木村拓哉は、まさに芳紀(と形容したい)‼

 旧制高校生ファッションの似合い度争いでは、三浦友和に勝ちを譲るが、それはキムタクのほうが世代的にモダンな顔の造作と背格好だからしかたがない。

 また、一高生というよりは、官立の旧制専門学校生に見えるが(後の千葉大に包括される千葉県立高等園芸学校とか)、これは、キムタクの、モダンな世代ののびのびした明るさゆえであろう。

 そのため、学生は学生でも、文学を志す、暗い性格の一高生ではなく、造園業を営む地主の裕福な家のんといったところの学生に見える。そこが原作の主人公の雰囲気とは違うのであるが、「また違う良さ」があって、とても良い。ほんとに良い。

 映画化されるたび、いつも話題になる露天風呂シーンも、キムタク版の、なんと清々しいこと!

 《子供なのだ》というセリフも、令和6年のキムタクを知る見手(みて)からは、彼もまたこの時「まだ子供だった」という新鮮な好感が湧き、思わずほほえませる。

 古風な日本髪に結っているため、学生は踊り子を17歳(もう売春をさせられてもよい年齢)くらいかと思い、かわいそうにと心配していた(行間で)。年齢の数字ではなく、男をまるで知らないから、あのような行動がとれたのだという原作の、行間からふつっと湧いた安堵を、平成のハタチのキムタクが読解できていたようには、あまり見えないところが、「まだ子供だった」彼の芳紀として、令和の見手(みて)をほほえませるのである。

 そして旅芸人一座の座長(踊り子の実兄)の役は、柳沢慎吾。これがまた良い。静かな演技である。良い。

 このキムタク版『伊豆の踊子』を見るまで、正直なところ私には、柳沢は、不自然に騒々しくて個人的には苦手なタレントであった。

 ところが、この作品では、彼の目元に見え隠れする陰気な気配が、すばらしく活かされている。屈折と諦念と親愛と誠実を、場面ごとに見せる。抑制のきいた、陰影のある、それでいて自然な演技。

 柳沢扮する踊り子の兄が、宴会に呼ばれた座敷で芸をしているのを、遠景で撮ったシーンがある。くにさだちゆうを、親分役と子分役になって、一人二役で演っているのが、学生の立つところから見える。

 この遠景シーンが良い。柳沢の、バラエティ番組での不自然な騒々しさは、この兄役がしていたお座敷芸と同じようなものだったのではないかとさえ感じられてくるほど哀切である。

 ほかの助演も良い。
 川端作品では『雪国』にも出演し、「川端康成先生とはいっしょに朝食を食べる仲」と茶目っ気たっぷりに若いじぶんに言っていた加賀まりこは言うにおよばず、川上麻衣子も、「卵に目鼻」ならぬ、鬼灯ほおずきに目鼻のような顔のデザインと役柄がよく合い、麻衣子の傍輩役(病気になっても売春させられ続ける酌婦役)も、あまり演技が上手ではないところが、むしろ身の不幸を伝えてくる。

 そして、なんといっても主役。
 断言する。キムタク版の踊り子役は、歴代の踊り子役のうち、図抜けている。最高だ。早勢美里。

 早くに芸能界を引退してしまったようで、名前だけでは「だれ?」となる読者も多かろう(私もなった)。が、次の説明をすれば、「ああ」となるのでは?
 サントリー南アルプスの天然水のCM。

 サントリー天然水として現在も販売されている商品であるが、大滝秀治がナレーションする、地方の町の少女シリーズは、いくつかのバージョンがあった。それぞれを細部までおぼえておらずとも、どれもが清新な印象だっただろう?

 あのシリーズで、都会の大学を卒業して赴任してきた憧れの女教師っぽい先生と、二人で河原に行く女子生徒のバージョンに出た子が早勢美里である。

 河原の大石に寝っころがる三つ編みのおさげの、毛量が多いために、二つ分けにしていても、分けた一本が、平均的な毛量の人の一本編みに見えるくらいの重たい、そしてその重たい毛量がまた、都会の汚れをいっさい知らない清純さに見える、制服姿の女子生徒。

 漆黒の豊かな髪に陽光を反射させ、みんなの憧れ(らしき)女教師が、「この山の水ねえ、東京でも……」と話すのを、唐突に遮って「先生、キスしたことありますか」と問う、あの子。あの子が早勢美里ちゃん。

 *CM 南アルプス天然水 先生キス で動画検索すると見られる。*

 美里ちゃんは、キムタク版『伊豆の踊子』撮影時は(作品のTV放映時より撮影はもう少し前と計算して)中3だったと思われる。その上、内藤洋子よりもさらに童顔で小柄なので、中2くらいに見える。

 つまり原作どおりの14歳に見える。原作どおりに《子供なのだ》な気分になるというか、《子供なのだ》な気分を通り越して、まさしく「(まだほんの)子供じゃないか」という気分で物語を見ることになる。

 その子供が、太鼓をかつぎ、学生にお茶を持ってき、つづら折りの道を歩いている。子供の無邪気さ全開だから、たのしそうでもあるが、同時につらそうでもある。その一抹のかげが、童顔に常に差している。原作に《踊り子の髪が豊か過ぎるので…》と書かれた毛量を日本髪に結った童顔に。実に「いたいけにかわいい」。

 同宿の鳥肉業者に本を読んでおくれよとせがむシーンは原作には、《(読み手の)額をみつめ、またたき一つしなかった。これは彼女が本を読んでもらう時のくせらしかった》と書かれていて、このシーンでの美里ちゃんのまなざしは、原作そのものである。

 踊り子の目について、原作には《美しく光る黒眼がちの大きい眼は、踊り子の一番美しい持ちものだった。ふたまぶたの線が言いようなく綺麗だった》とあり、これも美里ちゃんの目にどんぴしゃで、《それから彼女は花のように笑うのだった。花のように笑うと言う言葉が彼女にはほんとうだった》というくだりも、中2くらいに見える童顔の美里ちゃんの笑顔にぴったりだ。

 露天風呂のシーンでは、踊り子がまっぱだかで手をふるのであるが、この「何も考えないまっぱだかっぷり」は、歴代踊り子中、美里ちゃんが他の追随を許さない。

 ここに、少女の色気などがあったらだめだ。たとえ川端康成先生が許しても、私がぜったい許さん。美里ちゃんのこのシーンは、本当にかわいい。《子供なのだ》と、キムタク学生が安堵するのに、心から共感する。温泉水に心がひたるように共感できる。

 キムタク版は、ラストがまた秀逸である。原作どおり夜なのである。他の版に多い、〈太陽の下、離れていく船&波止場から手をふる踊り子の図〉ではないのだ。

 日没前の波止場で二人が話すシーンはある。
 画面は、美里ちゃん踊り子が前、数歩離れた背後にキムタク。

 キムタク学生は、美里ちゃん踊り子の後ろから「(きみがいっしょに行けなくなった)活動(注・映画のこと)はつまらなかったよ」とか「夏には大島に行くよ」とか、別れの挨拶をする。

 美里ちゃん踊り子はふりかえらず、学生が何を言っても、ゆっくり単純に頷くだけ。聞いてなどいない。

 日本髪に結った、いや、(旅芸人の身分に生まれたために)結わされた●●●●●、毛量の多い重たい頭を、無感情に動かしながら、自分の身分では、この学生と連れ立って映画に行ったり、夏に会ったりすることなどないと理解した童顔に、色濃く差す翳りの表情のいたいけないとしさ。

 私は川端康成の親戚でもなければ知り合いでもないが、ああ、このシーンの美里ちゃんこそは、ガス自殺する前の先生に見ていただきたかった!

 そしてラストの(原作どおりに)夜の船のデッキ。ここで、学生マント姿のキムタクの目からツーとひとすじ流れる涙の、フィクションだけに許される甘い美しさは、ハタチのキムタクの甘いマスクあってこそ。

 令和6年1月現在、『伊豆の踊子』映像化の第一位は、迷うことなくキムタク版だと、審査員一同スタンディングオベーションだ。

 加えて注目すべき箇所がある。この版だけではないだろうか、ちゃんと原作どおり、踊り子一座が小さい犬を連れているのは。

 ちらりと犬が出てくる版はほかにもあったかもしれないが、はじめからラストまで犬が連れられているのは、この版だけでは? この犬がまたすこぶるかわいい。犬がメインの映画ではなく、端役出演する日本映画の中では、

▷『生きる』(黒澤明監督)の黒い雑種
▷『現代インチキ物語 ど狸』(田中重雄監督)のシェパード
▷『流転の王妃』(田中絹代監督)のクリーム色の雑種

 とともにキムタク版『伊豆の踊子』の犬が四天王のかわいさである。4作の中では〈踊子〉の犬だけが小犬なので、よけいにかわいい。
 *猫では、『吾輩は猫である』(市川崑)、『猫と庄造と二人のをんな』(豊田四郎)が名演(名表情、名しぐさ)。*

 ここまで勝手な一人フェアの結果発表に付いて来てくださった読者の方々には、さらにこれから二本の『伊豆の踊り子』をお勧めしようではないか。

 まず、1933年、戦前は昭和8年の、モノクロの、サイレントの、しよへいすけ監督・田中絹代版。

 絹代24歳時出演であるが、拙著『顔面放談』で述べたとおり、年齢は「時代差換算」しないとならない。昭和8年の24歳は、令和6年には34歳くらいに見える。

 34歳(くらいに見える)絹代が14歳の役を演る〈踊子〉を見るのは苦しいのではあるが、それゆえに、ねるシーン、もじもじするシーンなどの演技を見て、なるほど、こうした演技力あって、彼女は伝説の女優なのだと納得させられる。

 こうしたことは、じっさいに見て各自でたのしんでいただくとして、この版をお勧めするのは、原作をズバズバに変えているからである。

 ズバズバに変える、とは?

 金鉱を掘りあてて一儲けしようとした男が失敗して、妻と妹と、妻の実母といっしょに旅芸人をして糊口をしのいでいる物語……に、この版は仕立てられているのだ。
「ズバズバに変え」たと、ヘンな形容をしたのはこのためである。

 ズバズバ脚本が参考にしたのは、川端康成が掌編小説に書いた生い立ちではないかと想像するが、そんなことよりも、なぜ映画化にあたり、こんなふうに変えなければならなかったか●●●●●●●●●●●●●

 『伊豆の踊子』という小説が「叙情」で成り立っているから。

 昭和8年においては、「叙情」だけで(サイレント)映画を成立させられなかったのではないか。

 現代なら、見るほうの観客だって「それもアリ」で受けとめる(ミニシアター系の観客なら)が、昭和8年にはまだ、映画(=芝居)というジャンルで、それを鑑賞する体勢が、観客に育っていなかったのでは?

 五所平之助監督は、観客に芝居を見せてくれようとした。「惚れた、別れた、泣いた、妬いた、ほだされた、だまされた……そういうもんがないと、客が退屈すらァ」と(五所監督、神田生れだし)、迷いなく●●●●原作をズバズバ変えたのではないかな。

 アラウンド1930年から50年を経過したアラウンド1980年以降の少女漫画には、↓のタイプの秀作が多く出現した。

 ひとつひとつのコマに、背景はほとんど描かれず白く、そこに登場人物の顔とか、目とか口とか、風が吹いているという記号のような線とかだけが描かれて、感情の「かけら」だけが、ネームとして添えられるものが。

 このタイプの漫画で、仮に『△△』があったとしよう。『△△』を読んで、×県立×高校2年5組の女子のあなたは、2年2組の某くんに対する自分の、心の内の感情を、まるで写し取ったかのように描いてあると泣いた。

 そして『△△』を2組の某くんに、「おもしろかったよ、読んでみて」と、極力なにげなく貸す。

 某くんは、小学校のときから少年野球をしていて、中学では野球部、高校でも野球部に所属している。彼の漫画経歴といえば、少年野球チーム時代に7時からのTVアニメ、中高では、たまに教室や部室にだれかが置き忘れた週刊少年漫画誌の、その中のスポーツ漫画、をぱらぱら読み。

 だが幸い、某くんは、あなたのことを、かねがね憎からず思ってはいたし、『△△』も川端康成と違って「字ばかりの本」ではなかったので、「お、サンキュ」と受け取って鞄に入れて帰る。

 帰宅後さっそく「どれどれ」と、『△△』を読む。しかし、某くんは口をぽかんと開けて、『△△』を閉じ、放り出してしまう。そしてひとこと、「なんじゃ、こりゃ? なんもおこらんやないか」。

 こんな某くんのような観客を想定して、五所平之助監督は主人公にアクション(金鉱さがしに失敗)をさせて、原作をリノベーションしたのだろうなと、私は絹代版のサイレントの『伊豆の踊子』を、おもしろく鑑賞したのだった。

 お勧めの、もう一つは、私も見ていない版。
 1960(昭和35)年だからトーキーの、カラーの、松竹、かわよしろう監督版。

 予告編さえ、チラともさえ、見ていないのに、無責任にお勧めするのは、主演の二人が理由。

 だって、踊り子=鰐淵わにぶち晴子、学生=津川雅彦なんだよ!

 鰐淵さんが15歳、津川さん20歳。急によそよそしく「さん」をつけるのは、えと、その、他人様の顔についてこういうこと言ってよろしいのかしらという怯え所以である。

 鰐淵晴子は、『ノンちゃん雲に乗る』では子役であったが、白人(オーストリア人)とのハーフだけあって、中学生以降は、昭和35年時の日本人女性と比較すると成熟が早く、15歳での〈踊子〉出演時の写真では、もう成人女性に見える。歴代の〈踊子〉役中、もっとも派手な美人である。

 津川雅彦もパッと目を引く顔だちである。ただし、その派手さは、なたでんや斎藤達雄の、「戦前の俳優とは思えない、現代にも通ずる二枚目」と評される、ある種、普遍的な二枚目とは一線を画する。

 「パッと目を引きすぎるがゆえに、主役に向かず、主役の敵役になってしまうような」と評されるような二枚目である。

 鰐淵晴子も津川雅彦も文句なく美形である。そして二人とも、その美々しい顔に、刺青の花を彩る染料のような輝きがある。アセチレンランプのもとで映えるような。

 つまり二人とも、いやらしい顔なのである。岡田眞澄と津川雅彦。鰐淵晴子と高田美和。顔でズリネタになれる4人。小学生のころから、私はこの4人が大好きだった。もちろん隠蔽いんぺいしていた。好きだなどと日の高いうちからは言えず、日が落ちたらもっと言えず、隠蔽して興奮するようなエロい顔の4人。

 そんな希有な4人のうち50%が出演の、津川雅彦と鰐淵晴子の『伊豆の踊子』って、
「いったいどんな官能大作なんだ」
 と思うではないか。見たい見たい、と、みなさんも思われると信じている。

歴代の〈踊子〉役中、もっとも派手な美人・鰐淵晴子&津川雅彦の『伊豆の踊子』。お二人のお顔、ここで少し見られます。

 勝手な一人フェア、みなさんも、各自で開催されることをお勧めいたします。

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毎月第4金曜日更新

姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html

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