No.24『大炊介始末』山本周五郎 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」
子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
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photo:大塚佳男
そのころ、ぼくはちいさな広告会社で働きつつ、会社員という働き方を憎んでいた。組織や上司への忠誠などカケラも感じないし、サービス残業し放題のブラックぶりには心底うんざりしていた。そんなやる気のない若きサラリーマンが、通勤電車(当時は横浜市中区に住んでいて、都心まで1時間弱かかった)のなかでは、夢中になって山本周五郎の短編小説を読んでいたのである。行き帰りに2本くらいずつ読むのがちょうどいい具合だった。けれど、どうにも困ったことがある。周五郎の短編は涙腺に恐ろしい力で作用し、不意打ちのように、気がつけば泣かされてしまうのだ。それほど混雑していないとはいえ、京浜東北線のなかで文庫本に涙を落とし、鼻をすするなんて、恥ずかしいではないか。
自分でもほんとうに不思議だった。殿様への忠義のために命を捨てるとか、仇をとるため先の見えない困難な旅をするとか、職人見習いが貧しさと厳しい修業に耐え抜き、ついに名人になるとか。確かに「泣かせるいい話」なのだが、自分のなかには忠義や仇討ちや修業なんて価値観はまったく存在しないのである。理性的に考えると、ひとつもトリガーがないのに、なぜかおおいに泣かされてしまう。以降、ぼくのなかに山本周五郎問題が発生してしまった。どうして価値観がまったく異なる現代人まで、周五郎には泣かされてしまうのか。
この難題は、実をいうと自分で小説を書くまで、解くことができなかった。『4TEEN』を書いているときのことだ。自分のなかに友情は大切だとか、青春時代の友人は尊いなどという考えはまったくないのに、少年たちのちいさな冒険を書いていると、ついほろりとさせられてしまう。いくつかの短編では書きながら、盛大に泣いてしまった。どうして作者自身とは異なる価値観やモラルが、これほど作品のなかで幅を利かせるのだろう。書いている最中に、いきなり別人格にでもなったようだ。自分の心の奥には、そんな情動が隠されたまま眠っていたのか。ああ、これはきっと山本周五郎の短編と同じだ。そのとき、ようやく気がついたのである。
作家は頭と胸と腹で、小説を書く。これは大脳と中脳と小脳で書くといっても、別にさしつかえはないだろう。小説には様々な種類があるけれど、山本周五郎は頭でなく、胸と腹に主に作用するような作品を書いているのだ。現代ではほぼ失われた「人情」を描くとき、周五郎の筆はぐっと力がこもり、熱を帯びてくる。ここで大切なことは、読者の心もまた小説と同じようにいくつかの階層に分かれているという事実だ。誰の心のなかにも、理性的な現代人の下には封建的な価値観をもつ近世人がいて、さらに奥深くには天敵の肉食獣や飢餓を恐れる古代人がいる。周五郎の短編はぼくのなかの近代人の心を動かし、スティーヴン・キングは古代の闇への恐怖を呼び覚ます。だから、どちらもこれほど幅広い読者の支持を集めているのだ。
そこで今回の『大炊介始末』である。ぼくはこの短編を5~6回は読み直しているのだが、毎回泣かされてしまう恐ろしい作品だ。大炊介高央は相模守高茂の長男として生まれる。「健康に恵まれた軀」と「明晰な頭脳」をもち、「明朗率直であり、勤勉で思いやりが深く、いかにも好ましい」性格をしていた。ゆくゆくは名君になるだろうと藩の希望の星だったが、18歳の秋すべてが暗転する。吉岡進之助という侍臣をいきなり手打ちにしたのである。理由を聞いても、無礼があったというだけで、その内容を決して明かさない。
それ以降、大炊介の性格はすっかり変わり、「酔うとすぐに逆上し、刀を抜いて暴れるのはいつものこと」になってしまう。家臣だけでなく、御用商人や豪農、僧侶まで斬りつけ重傷を負わせるのだ。これは乱心に違いない。そこで、大炊介の学友だった幼馴染み、柾木兵衛が刺客として選ばれる。溺愛してきた跡取りでも幕府の手前、命を縮めるより他に手段はないと、父・相模守は決意したのである。
兵衛は屋敷にいき、近臣や侍女に話を聞くが、誰もが大炊介を不憫だといい、もし君の命が断たれることがあるなら、自分たちも殉死するという。兵衛自身もかつての学友を斬るなら、その後は自害するつもりだ。大炊介を変えた秘密とはなにか。なぜ、今でもこれほど周囲から慕われているのか。殿の命を守ろうとした侍女に短刀で腹を刺された兵衛は、介抱を受けながら、ついにその謎を知ることになる。
ホワイダニットの動機探しを中心に据えて、かつての輝くような英才と刀をふるって暴れる乱心ぶりを対比させ、そこに臣下たちの命がけの忠義と敬愛を重ねていく。文庫本で60ページほどの長さだけれど、読後にいい映画を2時間観たときのようなずっしりとした手応えが残る作品だ。実のところ、ぼくは周五郎の長編のいい読者ではない。長いもので好きなのは『さぶ』くらいで、長編の代表作とされる『樅ノ木は残った』『虚空遍歴』などは今ひとつぴんとこなかった。断然、高く評価するのは綺羅星のような短編の名作群である。
山本周五郎の本名は、清水三十六。明治三十六(1903)年生まれというだけで、読みはそのままサトムである。子どもの名前にはほとんど関心のない親だったのかもしれない。サトム少年の成績は優秀だったが、父親が借金を背負っていたため、中学に進学することはできず、現在の銀座にあった質屋「山本周五郎商店」で丁稚奉公を始める。父親は息子の数年分の賃金を勝手に前借りしてしまうようなひどい男だが、店主はまるで違っていた。少額とはいえ、無利子・無期限・無催促で貧しい人たちに金を貸すような善意の人物だった。名編『裏の木戸はあいている』は、店主の行いをそのまま作品に仕立てたようなものである。尊敬する人物の名前を、照れることもなく自分のペンネームとしたのだ。敬愛の念はよほど深かったのだろう。周五郎は店主にかわいがられ、簿記学校や英語学校で実学を学び、倉庫のなかで夜でも好きに読書をしていいという許可までもらった。第二の父親、それが周五郎を文字通り育てあげてくれたのである。
質店での住み込みの丁稚奉公(休みは正月とお盆だけ)とか、質草でいっぱいの倉庫での読書とか、夜間に通う簿記学校といった周五郎の若き日の経験は、もうぼくたちには歴史のなかの出来事としか感じられないものだ。週休2日制やネットカフェのほうが、ずっとリアリティがある。それでも、周五郎の描く「人情」に胸を揺さぶられるのは、作者自身が「人情」を本気で信じているからだろう。現代の作家なら、時代小説の書き手でも、心のどこかで疑いながら封建的な忠義や身分といった価値観を描いている。まして、人の「善性」については、おおいに現実主義的なクエスチョンマークがつくことだろう。現代は大炎上と刺すようなヘイトコメントの時代だ。
けれど、周五郎は恵まれない下級武士や町人たちの、貧しいがゆえの誇りや矜持、痛めつけられてもすこしも輝きを失わない人間としての「善性」を、小説の主題に据え続ける。水も漏らさぬような緻密な文章のつなぎ、それは同時に短編のなかを移りゆく感情の滑らかな流れそのものでもあるのだが、周五郎作品の仕上げの見事さは、神業のような腕をもつ江戸時代の名工のようである。
実際の周五郎はやたらと喧嘩早く、酔うとすぐ相手に議論を吹っかけ、腹が立つとしまいには殴りあいになるという大変な人物だったという。今ではそんな作家はおそらくひとりもいないので、そういう意味でも過去の人ではある。ぼく自身いっしょに飲みたいとは思わないけれど、隣のテーブルで周五郎がなにに怒り、なにを許せないのかは、聞き耳を立ててみたかった。酒場での熱のこもった議論から、時代も作家もずいぶんと遠くにきてしまったのだが。
ときどき、ぼくも「泣かせ」に類する短編を書いたりすることがある(『約束』『青いエグジット』『純花』などなど)。山場のシーンを書いているときは、涙ぐんだりしたのだけれど、そういうとき、ひとりで「周五郎、周五郎」と呪文のように繰り返したものだ。現代人の上辺を破って、旧きよき過去の近世人があらわれ、これでもかという泣きの台詞を書いては、また心の奥深くへと帰っていくからだ。
作家というのは、ひとりの人間に見えて、実はあなたと同じように、いくつもの時代の人間が重なってできているのだ。ときどき調子のはずれた、おかしな文章を見かけても、作家のなかの古代人が書いたのだと、大目に見てやってください。
【小説家・石田衣良を育てた50冊】
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石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira