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冷蔵庫の卵 千早茜「ときどき わるい食べもの」

[不定期連載 はじめから読む

illustration:北澤平祐


 直木賞を受賞してから四ヶ月が経った。そのあいだ、幾度となく「忙しいでしょう」と言われた。「受賞直後の一週間の記憶が飛ぶ」とか「受賞すると必ず体を壊す」とか、まことしやかに恐怖の忙しさが語られてきた賞だ。なんの謙遜も必要ないだろうと「はい、ものすごく」と力を込めて言ってきたが、だんだんその度合いを正確に伝えたくなってきた。

 リモートでミーティングする恋人の様子を眺めていたら、チーム内で一から五の数字を使って体調報告をしていた。風邪気味だったり徹夜明けだったりしたら「二です」、睡眠を充分に取れて体力気力がみなぎっていたら「五!」などと表明し合っている。良いシステムだと思った。

 五段階で表すとしたら、いままでの私の「忙しい」はせいぜい「三」くらいだったと思う。直木賞による忙しさは正直「五」を超えていた。すべてが後手にまわっていた。あらかじめ用意できていたことはなにもなく、とにかくやってくる依頼やお祝いを受けるので精一杯だった。地味に困ったのは祝い花だった。祝ってくれる気持ちは嬉しいのだが、いかんせん取材仕事で家にほとんどいないので花を受け取れない。祝い花に関しては私の名前と「祝・直木賞受賞!」がでかでかと印字されているので、置き配にしてもらうことができなかったのだ。マンションのフロア中に私の素性が知れ渡ってしまう。それに、花は食べものと同じで生きていると思っているので、なるべく早く適切な環境に置いてあげたい。焦りで泣きそうになっていたが、馴染みのヤマトさんの親切に救われた。彼は贈りものを届ける前に電話をくれて、どんなものがどれだけあるか教えてくれ「何時だったら帰ってこられる?」と細かに希望を聞いてくれた。感謝してもしきれない。

 明らかに「五」を超えた、と思った瞬間がある。遅くまでメールの返信をして気を失うように寝た朝、出かける前になにか腹に入れねばとフライパンを温め、油を落とし、冷蔵庫を開けたときだった。

 卵がなかった。卵は必ず冷蔵庫にある。目玉焼きを作るつもりだった。なのに、ない。ないことよりも、ないことを知らなかった自分に驚愕した。それも一体、何日、私は卵がないことに気づいていなかったのだろう。「大変だ」と呟いていた。「私が冷蔵庫の中身を把握していない」。そのままショックでフリーズした。私は想定外の出来事にとことん弱い。「もう駄目だ」と呻いていたら、恋人が寝癖のまま近所のコンビニに卵を買いに行ってくれた。

 目玉焼きはつるりときれいに焼きあがり、朝ごはんは食べられた。しかし、そういうことではない。三つ掛け持ちでバイトをしていたフリーターの頃も、小説家デビューしてすぐに五本の連載を持ったときも、文字通り「心を亡くす」くらい忙しかったが冷蔵庫の中身を把握できていないことなどなかった。その日のインタビューで、またも「どうです? 直木賞を受賞されて、お忙しいですか?」とライターさんに訊かれた私は「あると思っていた卵が冷蔵庫になかったんです」と答えた。ライターさんはぽかんとしていたが、『しろがねの葉』の担当編集Yさんは「ええっ、千早さんが冷蔵庫の中身を把握していない!?」と顔色を変えた。「これは一大事ですよ!」と言うも、いまいちライターさんには切迫度が伝わっていない。「彼女は食いしん坊なんですよ」とYさんは重ねたが、食いしん坊というどこか長閑のどかさのただよう言葉のせいで笑い話みたいになってしまった。私はひとり、ああもう私が私でなくなってしまうかもしれない、と仕事用ノートを見つめていた。メモ魔だったはずなのに、直木賞を受賞してからは日付だけ書いて空白のままのページが増えていた。

 冷蔵庫の中も、ノートの中も、ひらけば整えられた私がいた。冷蔵庫には管理された食欲が、ノートの中には言語化された思考があった。それがないと途方に暮れてしまう。

 ただ、幸運だったのは、それが由々しき事態であることを理解してくれる人が傍にいたことだ。『しろがねの葉』担当編集者たちは、一秒でも早く私を家に帰すことを最優先事項にして、授賞式当日でさえも打ち上げを提案しなかった。
 ヘアサロンの美容師さんはセットのために訪れた私に「ちゃんと朝ごはんを食べましたか?」と通勤途中で買ったパンをくれた。そのパンはラジオ局からテレビ局へと移動する車の中で担当編集者たちと分けあって食べた。行きつけの飲食店のシェフは帰り際に手作りの梅干しを空き瓶に詰めて渡してくれた。緊張や疲れで食欲がないとき、その梅干しに白湯をそそいで飲んでいた。食べることにまつわる小さな親切がちりばめられていた四ヶ月だった。私の大事なものを知っている人たちが私を取り戻してくれた。どう返したらいいのだろうと思う。

 いま、冷蔵庫の中にある卵は三個。明日の朝、だし巻き玉子を焼くのに充分な量だ。私はそれを冷蔵庫をひらかなくても知っているし、知っていることが安心だ。でも、たとえその安心を失っても、私を知っている人たちがちゃんと居る。怒涛の忙しさのおかげで気づけることもあるのだ。

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【ときどき わるい食べもの】
不定期更新

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『男ともだち』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『ひきなみ』など。エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『胃が合うふたり』(共著・新井見枝香)がある。
Twitter: @chihacenti

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