#1 ラーメン富士丸と人間の条件(前編)宇野常寛「ラーメンと瞑想」
※このエッセイは、小説的な内容を含みます。登場する人物と団体は、基本的に架空のもので実在のものとは関係ありません。ただし、取り上げているお店はどこもとても、とてもおいしいのでオススメです。
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気づいたときは既に手遅れだった。
あらゆるものは、崩れ去ってしまっていた。
僕たちに残されたものは、決して多くはなかった。しかし結果的に手元に残されたものは、決定的なものだった。本当に大切なものだけが、そこには存在していた。
問題はそれを大切にすることとは、人間の世界を捨てることを意味していたことだった。
獣の世界と、神の世界――これは人間の世界を捨て、この二つの世界を往復することを選び、そして日々を過ごしていく僕たちの物語だ。
1.もの食う人びと
突然だけれども僕は「食べる」ことが好きだ。「食べる」ことが嫌いな人間などいないだろう、と多くの人は考えるかもしれない。しかし、違うのだ。おそらくほとんどの人間が感じている「好き」と僕の「好き」とは、たぶん……いや、確実にちょっと違うように思う。
たとえば、誰かと一緒に出歩いていて、お腹が空いたから何かを食べようということになったとする。たいていの人は、この「何か」はなるべく手近で入れる店の中で相対的にマシなものを選べばいい……という意味だと思う。
でも、僕は違う。僕はそこで、必ず一度立ち止まる。一度、自分の時間を止めて深呼吸する。そして自分の身体に問いかける。いま、自分が本当に食べたいものはなにか? それはほんの短い間だけれど、全力で自己の身体と向き合う時間だ。そして、浮かんだもの=料理名をその場でGoogle Mapsに入力し検索をかける。レビューはあまり気にしない。それよりも、ユーザーたちがアップロードした写真たちをじっくり見る。そして「これだ」と思うものに巡り合うまで、徹底的に調べる。そして、ここになら賭けてもいいと思えるところを見つけた上で飛び込む。
……と、言いたいところだけれど実際には面倒くさいやつだと思われるのが嫌で、そう主張することなく、笑顔で相手の提案に乗っかることも多い。けれど少し仲良くなると「ごめん、ちゃんと考えていい?」と断って入念に調べ始める。僕と出かけたことのある、ある程度親しい人は僕が絶対に「適当な店」に入らないことを知っているはずだ。
そして……これはマナー的によくないとか、不愉快に思う人が多いことは知っているのでよほど親しくない限り自制しているのだが、そうして選んだ店に入ったあと僕は出てきた料理を夢中で貪る。
さすがにドッグフードのCMの犬たちのようにガツガツと食い散らかしているのではないけれども、目の前の皿に全神経を集中して全力で食べる。要するに、僕は他の誰かと食べているときにあまり会話に集中していないことが多い。「食べる」ことに集中したいからだ。僕はこのものを食べて空腹を満たす時間に感じる幸福感が、世界でもっとも素晴らしいものの一つだと考えていて、だからなるべくその時間に得られる快楽を最大化したいのだ。もちろん、そのせいで目の前の相手が不愉快に感じてしまったら、それはそれで「飯がまずくなる」ので、きちんと対応しているけれど許される範囲で、目の前の皿に集中するのだ。
「みんなで食べるとおいしくなる」とか「食とは食べることを通じたコミュニケーションである」とか「食べることのつなぐ〈縁〉が新しい自治の鍵」とか、そういった類の言説に僕は安易さと軽蔑しか感じない。
会話は楽しい(こともある)が、楽しければ楽しいほど食べることに集中できなくなる。食事を通じたコミュニケーションはたしかに社会関係を結ぶために「効率的」かもしれないが、社会関係の「効率」のために「食べる」快楽を犠牲にするのは、少なくとも僕にとっては貧しい生のかたちだ。
そして、「食べる」ことのつなぐ「縁」が新しい自治の基礎だとか主張したくなるのは、共同体の周辺に置かれて辛い思いをしたことのない人のマリー・アントワネット的な発想以上のものではないと思う。あるいはいま、社会的に強い立場にいてかつての辛い思いを忘れてしまったから、そんなことが平然と主張できるのだと思う。
もし僕の少年時代に「子ども食堂」があったとして、そこに僕が通える条件は一つ「共同体がないこと」だ。近所の子供たちが常連化し共同体がそこに生まれたとき、たとえば僕のようにどこに行っても余所者だった「転勤族」の家庭の子供はまず近寄らないだろう。
共同体は必ず中心と周辺を生み出す。物語の主役たちやそれを支える大切な役が存在するその一方で、彼ら彼女らがスポットライトを当てられるために奉仕する端役や悪役によって、その共同体は支えられている。
自分たちの共同体は違うのだ、閉じつつ開かれた「柔らかい」場所だと誰もが主張するけれど、それはスターリンがソビエト連邦を労働者の天国だと主張していたのと一緒で、シベリアで強制労働に従事させられていた少数民族出身者や政治犯のことは度外視することではじめて成立する類の論理だ。むしろそういったレトリックでごまかそうとする態度こそが、そこが中心にいる人たちの物語に支えられた場所であることを証明しているのだ。
理論的に完全に閉じた共同体は存在できず、必ずどこかで他の共同体や共同体同士の交通の場(社会)に抵触する。だからこそ、物語の主役たちは自分たちの世界を守るためにそれを閉じようとする。そしてこのとき、共同体の周辺に配置された弱い立場の人々が人柱として、端役や悪役を押し付けられるのだ。
そもそも、食をコミュニケーションの一種だとか、共同体の基盤として考えるとか、そういったハートフルな外見でその浅薄さをごまかしているような言説に引っかかるのは、その人が「飢えた」ことがないからだ。こう書くとお前はあるのか、と問われるかもしれない。そして結論から言えば「ある」。あの頃、僕はとても、とてもお腹を空かせていたのだ。
2.HAKODATE WAR
話は一九九〇年代半ばにさかのぼる。
僕は高校生の頃、函館のあるミッションスクールに通っていた。そこでは当時生徒の三分の二が寮に入り、そこから学校に通っていた。僕も寮生の一人だった。そしてその寮の食堂の食事が、もう信じられないくらいにマズかった。
一応、その寮の食堂は栄養士と契約していて、食べ盛りの男子高校生が一日に十分な栄養が摂れるだけの量と品数が確保されていた。朝昼晩、三食どれも四品おかずが出てきて、ごはんと味噌汁は食べ放題だった。悪くないではないか、むしろ恵まれているのではないか。そう思う人も多いかもしれない。僕もそう思う。ただし、完食できれば。
問題はこれらの料理の味が、どうしようもなくひどかったことだった。四品あるおかずのうち、口に入れても気分が悪くならないものがかろうじて一つあるかないか、だった。主菜となる肉や魚の類は、基本的に冷えて乾き、そして普段流通しないような部位を雑に調理しているのかたいてい、異臭がした。生野菜はこの食堂に「調理」されていないために希少な「食べられるもの」の一つだったが、価格が高いせいかあまり出てこなくて、特に冬場はほぼ並ぶことはなかった。
僕たちは毎食、食堂に並べられたプレートを眺め、この中で相対的にマシなおかずを一品選び、それと交互に可能な限りたくさんの白米をお腹に詰め込んだ。ちなみに僕たちが入寮した前年は夏に記録的冷害が日本列島を襲っていて、そのために寮で提供されるごはんは緊急輸入されたタイ米と日本米とのブレンド米が使用されていた。そしてこれがまた壊滅的にマズかった。ぜいたくをいうな、戦時中の食糧不足に比べたら単に味が悪いなんてことはどうでもいいことなのだとか、こうしている今も海外には飢えた人たちが何億人もいるだとか、そういったことを指摘して気持ちよくなりたい人はいると思うけれど、その程度のことは当時の僕も分かっていた。しかし、そういった理性とか想像力とかを全力で動員してもマズいものはマズかったのだ。三年間食べ続けても、まったく慣れなかったのだ。
寮の食堂からは毎食大量の残飯が……子供の背丈ほどある大きなポリバケツ数個分の残飯が発生していた。食堂の裏には残飯目的の野良猫たちが棲み着いていて、この猫たちは餌が無限に供給されるためにまるで風船のように丸々と太り、その多くが自足歩行が不可能なレベルに陥っていた。
本来なら毎食を僕たちと一緒に食べるはずのローマの本部から派遣されてきたブラザー(つまり、校長以下の学校の経営陣)たちは近所のとんかつ屋の常連で、そのことを知った僕はルターが『九十五ヶ条の論題』を提出したとき、きっとこのような気持ちだったのではないかと思った。
こうした過酷な食生活環境下に置かれた僕たちにとって、なけなしの小遣いをはたいてファストフードやコンビニエンスストアの弁当を食べるのが、一番の贅沢だった。夏冬の長期休みに帰省したときは、母親の手料理を毎食目の色を変えて貪り食った。僕たち函館L高校寮生はみんな寮生活で痩せ細り、そして帰省するたびに心配した両親にやや過剰に食べ物を与えられて肥え、そしてまた寮に戻って痩せ細るというサイクルを反復していた。
一年生の、寮で迎えたはじめての十二月のクリスマス会で、モスバーガーとハーゲンダッツのアイスクリームが出てきたとき、世界にこんなおいしいものがあるのかと涙が出た。あの頃本当に、僕たちはいつも、いつもお腹を空かせていたのだ。
そして、三年後に「娑婆に出た」僕はとても「食べる」ことに拘泥する人間になっていた。三年間で、あれほど多かった好き嫌いはほとんどなくなっていた。トマトも大根もマヨネーズもむしろ大好物になっていた。世界にはマズい食べ物なんか、ない。マズい料理があるだけなのだ。
こうして大人になった僕は、今もその気持ちを忘れていない。解放の日から二十五年間――僕はひたすら食べ続けている。食べ物の恨みは深いというけれど、それは本当にそうで僕はずっと一食たりとてムダにすることなく、食べ続けている。全力で、真剣に食べ続けているのだ。
ただ、人生とはままならないものでこの二〇二三年秋、四十五歳を迎えた僕は食べたいものを食べたいだけ食べることは、許されていない。経済的に食費を切り詰めなければいけない状態でもないし、かつてのように環境的に食の選択肢が制限されているのでもない。かつて学生時代、僕はラーメン屋に入るたびにいつかこういうときに財布を気にせず餃子の一皿も注文できるようになりたいと思っていたものだったけれど、今の僕はそれを金銭とは異なる理由で躊躇ってしまう。なぜか?
理由は単純だ。今の僕は毎朝、目覚めた直後に自分の目方を量りその数値を日々繊細にコントロールし続ける聖戦士――つまり、ダイエッターだからだ。
3.聖戦士たち
そもそも僕は少年期、青年期はどちらかと言えば痩せ型で、特に函館にある収容所に収監されていたときは、一八〇センチ以上ある身長に対し体重が六〇キロなく、かなり細身の体形だった。
人間のナルシシズムとは恐ろしいもので、僕の自己像はそのときの自分の体形でいつの間にか固定されていた。毎朝鏡を見ていたはずだし、毎年健康診断も受けていたし、たしかに服のサイズも変わっていったのだが、三十歳頃、この仕事を本格的にはじめた頃まで僕は自分を高身長でスマートな人間として認識していた。しかし、現実は違ったのだ。
「あんた、この数年で急に太っているから本当に痩せたほうがいいよ」
その医師は自分の弛緩したシルエットは棚に上げて、ぶっきらぼうに言い放った。あの震災の少し前、二〇一〇年の末か一一年に入ってすぐだったと思う。このとき、僕の体重はいつの間にか八〇キロを少し、超えていた。たしかに最近撮った写真は以前とは明らかに異なっていた。しかしそれを僕は前日にラーメンを食べたから顔がむくんでいただけとか、最近寝不足で眠たそうな顔で写真に写ると太く見えるとか、それっぽい物語を自分の中で構築して言い聞かせていた。しかし、数字はすべてを物語っていた。僕の質量は、あの頃に比べて一・二五倍に膨らんでいたのだ。
その日から、僕は聖戦士(ダイエッター)になった。ジムに入会し、かなり厳しい食事制限をはじめた。多くの人が語るように運動はそれほど効果がなく、やはり食事制限が大きな効果をもたらした。僕はかなり厳密に口に入れるもののカロリーを記録し、一日一〇〇〇キロカロリーを絶対に超えないように自らを律した。あれほど好きだったラーメンも、カップ焼きそばも、ホイコウロウも、モツ鍋も、ほとんど食べなくなった。あと、もともと酒という飲み物も「酒の席」の人間関係ばかりが肥大する力学も好きではなかったので、僕は酒をこのタイミングで止めた。
こうしてダイエットを始めた僕がたどり着いた宇宙の真実、それは人間にできることは究極的には一つ、目の前にあるものを食べないことだけなのだということだった。その絶対的な宇宙の真実を、毎朝の体重は教えてくれた。
そして二〇一一年の秋には、僕の体重は再び五〇キロ台を回復した。これは僕の人生の中でも最大の成功体験だ。僕にもう十年以上陰湿な嫌がらせを続けているある年長の物書きは、僕がテレビに出るために痩せていると中傷してきたことがある。心底、卑しい発想だと思うが、その人の世界観は「痩せるとテレビに出られる」程度のものなのだろうし、自分も「テレビに出たい」のだろう。とても、悲しいことだと思う。もちろん僕はそのような低次元を生きてはいない。僕はより純粋な自己像の回復のために、あの頃も、そしてほぼテレビ業界から追放された今も戦い続けているのだ。
そしてここから先が重要なのだが、聖戦士として覚醒した僕はもう、後には戻れない身体になっていた。たとえば、こういうことだ。既に四〇代半ばになった僕の体重はさすがに持ちこたえることができず、六〇キロ台半ばを超えている。しかし、絶対に七〇キロの大台に乗ってはいけないと、全力で抵抗している。その結果、何が起きるか? 数少ない「思う存分、食べる」時間が他の何物にも代えがたい時間になるのだ。
こうしているいま、僕は基本的に一日一食に近い状態にある。朝は軽く、パンや豆乳ヨーグルトを食べる。そして夜は基本的にコンビニエンスストアのおにぎり一個と、冷凍ピンクグレープフルーツ一袋だけだ。このコンビニのおにぎりの世界はとても奥が深く、これについて書き出すとキリがないので、それは後の回に譲ろう。冷凍ピンクグレープフルーツについても、やはり語りたいことは山ほどあるが、今は先を急ごう。
とにかくここで重要なのは、僕が思う存分、食べたいものを食べたいだけ食べるのは一日のうち昼食の一回だけだということだ。そしてそうなると人間はこう考えるのだ。一日一回の、この「食べる」という行為の与える快楽を、可能な限り最大化したい、と。
4.孤独のグルメ
事実上一日一食になると、その「一食」がとてもとても大切になる。唯一食べたいものを食べたいだけ食べることが許される昼食時にすべての欲望が解放されることになる。そして僕はその時間を、一日でもっとも愛している。だからその直前一時間前ほどから、ほとんど電話にも出ない(いまどき、電話をかけてくるということ自体が、まあアレなのは前提として……)し、Eメールにも返信しない。僕が午前中だけ、妙に打ち返しが悪いと思っている仕事仲間が多いと思うが、これがその理由だ。そして、主に書き物に集中し(この文章もまさに午前十時台に書かれている)、そのときを待つ。そして、午前十一時台にその日一番食べたいものを提供してくれる店に開店と同時に入り、二十四時間溜め込んだ欲望のすべてを解放するのだ。
またその結果、僕は独りで食事をすることを以前にも増して好むようになった。特に「酒の席」は大の苦手で、ほぼ断るようにしている。俗に言うJTC(Japanese Traditional Company、要は昭和的な古い体質の日本企業)だけでなく、僕がかつてかかわっていた批評や思想の世界では、いまだに昭和的な飲みニケーションが幅を利かせていて、派閥のボスを若手が取り巻いて、酒席ではその若手がボスの敵の悪口を言いご機嫌を取るといったどうしようもなく陰湿な世界がまだ存在している。こうした「飲みニケーション」的な本音を共有して敵/味方を確認するコミュニケーションが嫌なのがその主な理由なのだけれど、もう一つは、人と話していると食べ物の味に、というか「食べる」という行為に集中できないからだ。
こうして僕は一日一回の「食べる」時間を、それも独りの時間を心から愛するようになっていった。ちょうど『孤独のグルメ』という漫画がテレビドラマになって大ヒットし、独りで食事をする豊かさが注目されつつある頃だった。ただ、僕の「孤食」にはいくつか例外があった。そりゃあ、僕だっていくらなんでもまったく他の誰かと食事をしないわけじゃないし、その楽しさだって十分知っている。たまには、仲間たちと浜辺でバーベキューをすることだってなくはない。しかし、彼との関係はそういったものとは違う。僕がこうして孤食を人生の選択として採用するにあたって、ほとんど並走してきたと言っていい人物がいるのだ。
5.T氏の帰還
と、いうことでここで改めて僕とTとの関係について語る必要があるように思う。「改めて」と書いたのは、彼はこれまでの僕の著作に度々登場する人物で、既知の読者も多いと思われるからだ。
Tは僕より少し年上の男性で、出会ったのはもう十五年ほど前のことだ。当時、僕は三十歳になるか、ならないかくらいの駆け出しの物書きで、Tはそんな僕に寄稿を依頼してきたある出版社の編集者だった。個人的に親しくなると、家が近かったこともありよく遊ぶようになった。具体的には酒好きのTに、一滴も飲まない僕が付き合って朝までたわいもないことを喋り倒す、ということを週に一度か二度、繰り返していた。
このとき、しばしば僕とTの間で起きた衝突が、どの店に入るかということだった。要するに当時のTは酒が飲めればどこでもよく、というか早く酒が飲みたくて仕方がなく、入る店を慎重に選ぶ僕にイラついていた。僕が一生懸命考えていると「どこでもいいじゃないですか」「適当なとこに入りましょう」といつも、いつも急かしてきた。東京生まれ東京育ちのTだったが、生を受けてからおよそ半世紀の間ほとんど食に関心がなかったらしくお気に入りの店というものがまずなかったし、そもそも食の好みというものがあまり存在していなかった。
僕にはこのTの食への無頓着さに、彼の世界への態度そのものが表れているように思えた。
T曰く、自分は子供の頃は父親の「男子たるものは出されたものを黙って食べるべき」的な美意識で、成人後は「妻の作った食事をおいしく食べるのが礼儀」という考えで生きてきていた、ということらしかった。
しかし僕の目にはそもそもこのTという人物は、人間の生をどこか撤退戦のようにとらえているようなところがあるように見えていた。
Tはルクレティウスやダンテの詩を愛し、ルネサンス期の絵画や彫刻を好み、音楽は教会音楽しか聴かずカラオケを心から嫌悪していた。彼は近代的自意識の矮小さよりも純粋な生の高揚に魅かれていた。
中でも彼が距離を取っていたのは、人々の織りなす「世間」だった。そしてそのような矮小な「世間」からその身を守るかのように、常に全身をヨウジヤマモトの服で包み「武装」していた。最初は随分と気取った人だと思ったものだったけれど、なぜヨウジヤマモトなのかと尋ねると「彼のデザインする世間から少しズレた服を着ることを自分に課しているのです」と述べた。
このようなTが本を、特に小説を編集する仕事をしているところに僕は興味を抱いた。実際に当時のTは文学やデザインの中に辛うじて、「純粋な生の高揚」の痕跡を求めているように、僕には見えていた。
「市場やネットワークの外部を求める動きも、魂を救う虚構としては否定する気になれません」
「それがTさんにとっての文学だということですか?」
「そうではありません。ただ個人の魂を救うことができるのなら、愚かな虚構でも構わないのではないでしょうか」
正確にこう言っていたかは確かではないのだが、ここで重要なのは小説がときに「愚かな虚構」としてしか機能しないと理解しながらもそれを届ける仕事を続けていたという点である。それが「食べる」ことをはじめとして、おおよそ生活感や物欲といったものを持たないTという人間が「純粋な生の高揚」にもっとも近づく行為なのだと、僕は理解していた。
僕は何度かTに当時よく配信していたニコニコ生放送の番組に出ないかと誘った。すると、Tは「ニコニコ生放送に出るのは無理です。僕のような恐れと悲しみの中を生きる者には相応しくないでしょう」と言って、頑なに拒否した。
その後Tは勤め先を離れて海外に移住し、四年半帰ってこなかった。その少し前から出版社を辞めて海外に移住し、内面的な探究を中心とした「余生」を過ごしたいとよく話していたが、このタイミングでTは本当にそれを実践したのだ。
この間Tは現地の大学で哲学を勉強し合気道の道場に通っていたという。帰国後も古典の翻訳と武道の稽古をその生活の中心に置き、週の大半を道場に通う生活を続けている。
一方の僕はこの間にテレビやラジオといったオールドメディアへの出演を中心に活動し、結論から述べれば随分と痛い目を見た。最後は大喧嘩して某局と決裂し、再び腰を落ち着けて執筆に専念しようと考えていたところ、Tが家庭の事情で急に帰国すると知らせてきた。
こうして再び交流するようになった僕とTは、毎週水曜日の朝にランニングをすることに決めた。この習慣はもう四年以上続いている。なぜ水曜日なのかというと、それはTが「水曜日も休みになると、一年三百六十五日のすべてが休日、または休日に隣接する」ことを発見したからだ。こうして、僕たちは毎週水曜日には働くことを放棄し、毎週朝に近所のカフェへ集まった。このあたりの事情は前著『水曜日は働かない』に記してある。
かいつまんで述べれば「余生」から「渡世」に回帰したTは四年振りの就労に大きく疲弊し、そして震災後の言論状況に大きく失望していた僕は、まず足元の暮らしから見つめ直すことをはじめたのだ。
その頃僕は「飲み会」の類が象徴する業界の付き合いをほぼ絶って、朝型の生活に切り替えていた。そして週に一度はTが武道の修行も兼ねて、僕のランニングに付き合った。僕とTは毎週水曜日の朝に、僕の暮らす高田馬場から片道五キロ走って千駄ヶ谷の新国立競技場まで走った。その令和の戦艦大和と評される巨大な茶番の象徴まで走りながら、僕たちは世界の大小の出来事について語り合った。読み終えた本の感想を交換し、遠い国の戦争のことを話し、年相応に親の介護のことについても話した。その大半は特に結論らしい結論の導かれることもないたわいもないやりとりだったけれど、少なくとも僕にとっては大事な時間だった。
暗黙の了解というか、自然とそうなっていたのだけれど、僕たちは人間関係というか、「世間」のこと――今目立っているあの人はダメだ、とか失敗したりうまくいかなかったりする人を見下して笑うとか――そういった話は口にしないというルールが生まれていた。ただ端的に、自分たちの心身と世界について語る。
それが、僕とTとの会話のルールだった。水曜日は働かずに、走りながらただ純粋に世界について語ること。それが僕らの習慣になった。
6.変身
僕とTが走り始めてから四年、僕たちのランニングにもいくつかの変化が訪れていた。
まずこの四年の間に、(これは本当に驚いているのだが)Tは禁煙した。かつては「僕が煙草を吸うのは緩慢な自殺です。このまま消えてしまいたい」とか自嘲しながら、決してそれを手放さなかったTだったが、あるとき合気道の師範から、感覚が鈍るからやめるように言われあっさりと禁煙してしまった。
加えてこれも驚くべきことなのだが、以前に比べるとほとんど酒を飲まなくなった。
知り合った当時からずっとTは息を吸うように飲酒している人間で、ランニングのあとはストロングゼロのロング缶をガブガブ飲んで喉の渇きを癒やしていたし、待ちきれないときは走りながら缶ビールを開けていて、別に悪いことをしているわけでもないのにパトロール中の警官に出くわすとそれとなく缶を隠したりしていた。酒に滅法強くほとんど泥酔しない体質なのも手伝って、意識がある間の六割は飲酒しているような人間だった。しかしこのような人間が特にこれといったきっかけもなく、というか武道のために煙草をやめたその延長で――びっくりするくらいあっさりと、ほとんど飲まなくなってしまったのだ。
今では、昼食時にラーメンや肉野菜炒めなど、味の濃いものを食べるときにランチビールを一杯頼むくらいで、以前と比べたらたぶん、半分以下の酒量になっていると思われる。
こうしてTはあっさりと禁煙と大幅な減酒に成功した。
以前は健康診断の結果に一喜一憂する僕を運命論的な立場から嘲笑し、二十年以上健康診断には行っていないと豪語していたTだが、いつの間にか僕以上に真面目に診断を受け、そしてこの一年ほどで見違えるほど数値が改善したのだと話すようになっていた。そしてこのTの身体的な変化は、その内面にも大きな変化をもたらしていた。
この一年でTは僕と同等か、それ以上に「食べる」ことにこだわるようになったのだ。
以前のTは僕とランニングをしたあとに、僕が昼食を摂る店を慎重に選ぶのをとてもとても嫌がっていた。しかし、Tは煙草や酒といった感覚を鈍らせる嗜好品を手放した結果として食事をおいしく感じるようになったらしく、彼はランニング後の食事も、まるで「僕のように」こだわり抜くようになった。
Tはよく「エピクロスの理想とした快楽を食欲は実践し易いのです」と述べていた。それは美食の追求ではない。今日足りていない分をただ満たすのだという。
そしてTは毎週水曜日が近づくと、僕に無言でランニングコース近くの飲食店の、Google Mapsのリンクを送り付けてくるようになった。これは水曜日にこのあたりの店に行きたいという彼の意思表示だ。そして僕もその送られたリンクを引用してコメントを付け、ピンとくる店がないときは同じように無言でいくつかのリンクを送り返すようになった。僕もTも、おそらく地球人類のなかでもかなり多弁で饒舌な人間のはずだったけれど、もはや僕たちの間に言葉は、要らなくなっていた。
食に覚醒したTはそれから外食の、特に仕事中のランチや合気道の練習のあとの夕食の写真を僕に送ってくるようになった。Tの職場の近くには老舗の洋食屋や昔ながらの喫茶店が多く、カレーライスやナポリタンの、あるいは彼の家の近くの有名な町中華のホイコウロウや野菜炒め定食の写真が度々送られてきたが、それらの料理よりも圧倒的に高い頻度で送られてきたのがラーメンだった。
「偉大なラーメンを食べる前と後では別の存在になっています」
覚醒後のTがもっとも愛する食――それがラーメンだった。そして、彼にラーメンの偉大さを常に説き、おそらくはこの見解に大きな影響を与えた人間がいた。他ならぬこの、僕のことだ。
(後編に続く)
連載【ラーメンと瞑想】
毎月水曜日更新
宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、『水曜日は働かない』(ホーム社)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社)など。立教大学社会学部兼任講師も務める。