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【試し読み公開】大森望さん推薦! 西澤保彦さんの新作ミステリ小説『走馬灯交差点』の冒頭を公開!

西澤保彦さんの新作ミステリ『走馬灯交差点』が、2023年3月24日(金)に発売されます。大晦日の夜に起きた殺人事件を皮切りに、次々と起こる不可解な殺人事件。そして事件にかかわる“特異体質”の一族。真犯人はいったい誰なのか――!? どんでん返しが止まらないミステリ小説です。刊行を記念して、冒頭を試し読み公開いたします! 

ホラー映画によくあるPOV(主観ショット)のような趣向を小説で出来ないか? と思ったのが本書執筆のきっかけです。どういうふうに仕上がったのかぜひ確認してください。お楽しみいただけると幸いです。
――西澤保彦

CROSS 1〈朝陽〉

 しまった……と思った。
 そして焦った。なんで? と。しまった、失敗した。でも、なんで。どうして、こうなるの?
 果たして娘はここへ来てくれるのかと、やきもきしながら玄関口で息をひそめ、待っていた。そこへ朝陽あさひの軽ワゴンが到着する。
 よし。これでなんとかなりそうだ、と少しホッとしかけたのもつか
 その朝陽が助手席のほうから降りてくるのを見て、ぎくッとなった。まさか。
 まさか。え。噓でしょ?
 たしかに朝陽を電話で呼び出す際に「タクシーでは来るな」と、そして「必ずおまえの車を持ってこい」という意味の厳命をした。というかどうかつした。しかし。
 しかし「おまえが、ひとりで来い」とは言わなかった。その必要はあるまい、と無意識に決めつけていたからだと、いまさらながら思い当たる。
 朝陽は今夜、誰か知り合いと楽しく過ごしているだろうと。なんとなく想像はついていた。多分、大学の友だちとかといっしょに。だけど。
 仮に電話した時点で朝陽がすでに飲酒していたとしても、例えばその場でアルコールの入っていない知人に代行運転を頼んだりする心配はない。あたしは深く考えもせず、そう高をくくっていた。
 なぜなら、電話で朝陽を呼び出した人物は彼女の父親であるそめなおみちだ、という厳然たる事実がそこにあるからだ。たとえどんな場面であろうとも朝陽は、彼の存在を隠しておきたいはず。他人に父親を引き合わせたりなんかは絶対にしたくないはずだ。
 親しい間柄であればあるほど朝陽は、その相手が直道と顔を合わせる事態を避けようとするだろう。父親が絡むトラブルに知人を巻き込む展開なぞ願い下げだからだ。従ってなる状況下であろうとも、もしも朝陽がここへ来てくれるなら自分で軽ワゴンを運転してくるものとばかり、あたしは思い込んでいた。それしかあり得ないと、まったく疑いもしなかった。
 なのに、なんと。朝陽は助手席から降りてきたではないか。え。まさか。噓でしょ。誰かに運転してきてもらったの?
 軽くパニックに陥りかけたあたしは、運転席から降りてきたその男性が誰なのかを認めて、さらに仰天してしまった。
しゆんすけくん……おき俊輔だ。
え。どうして。まさか、そんなことって、ある? いったいどうなっているの。ここで彼が登場するなんて。
 あり得ない。いや、たしかに。朝陽はどうやら最近、かなり積極的に俊輔くんにアプローチしていたようだ。それはあたしも薄々、感じ取っていた。ひょっとしたら、すでに彼と深い関係に陥っていてもちっともおかしくない、と。だが。
 いくらなんでもおお晦日みそかの夜、娘が彼と過ごしている、だなんて。完全に想定外。ど、どういうこと?
 俊輔くん、どうなっているの。あなた、朝陽なんかと遊んでいる場合じゃないでしょ。妻帯者のくせに。
 なにやってんの、こんなところで。奥さんをほったらかしにして?

「朝陽か? 朝陽だな。おい、おれだよ。おれ。聞け。いいから。聞いてくれ。おまえ、いま飲んじゃいないよな。え。酒、飲んじゃいないだろうな?」
 どどッとバケツの底が抜けてあふれた泥水みたいにスマホから流れてきたのは、なんとも耳障りなナオッチの声だ。
 その性急かつさんくさい口ぶり。いまどきのオレオレ詐欺の口上だってもうちょっとそれらしく、創意工夫ってもんを凝らしてるぞ、と思わず失笑してしまいそうなくらい、べったベタ。
 着信表示に登録名の『ち』が出たとき、一旦は無視してやるつもりだった。なにしろ、これからね、いちばん盛り上がろうとしているところじゃん、ね。あたしたち。
 今夜は待ちに待ったオッキーとの甘く濃密なカウントダウン・イベントなんだもん。一分一秒でも無駄にしたくない。そう。誰にも邪魔されたくない。ましてやナオッチみたいな大バカ野郎に、なんて論外中の論外。
 それでも枕元のスマホを手に取り、応答してしまったのは、いやのひとつでもかましておいてやれ、と思ったから。
 はいこんばんは、おやおやまあ。おひさしぶり。なんのご用ですか、新年のご挨拶ですか。にしてはまだ数時間ほど早いような気もいたしますが、ま、取り急ぎ。あけましておめでとさん。二〇二二年もどうかよろしく。って、そんなこと、誰がお願いしてやるもんか、ボケ。
 末尾に「ボケ」を付けるかどうかはそのときの勢い次第だが、ともかくそんな具合に一方的にまくしたてておいてから、さっさと通話を切ってやるつもりだったのだ。
 なのに不覚をとって、ナオッチからの先制攻撃。慌てて態勢を立てなおし、反撃を試みようとした。あのねアンタ、いいおとなが電話のマナーくらい守ったらどう。おれ、じゃ誰なのかわかりません。画面表示が出るからって甘えるんじゃねえわ。ちゃんと自分のほうから名乗らんかい、云々うんぬん
 そう説教してやるつもりが、実際には言葉が出てこず。あたしは、ぽかんとなった。一瞬、完全に意表をかれて。
 ナオッチの「酒、飲んじゃいないだろうな?」のひとことが、あまりにも謎すぎて、絶句してしまったのだ。
「は……はいいぃぃ?」
 やっとのことで、そう切り返した。せめてもの嫌悪感表明のつもりで語尾を、めいっぱい甲高くね上げてやる。
 そんなこちらの反応を蹴散らす勢いで、ナオッチことあたしの父、染谷直道はさらに畳みかけてきた。
「酒、飲んじゃいないよな? だいじょうぶだよな、運転? 車、こっちへ持ってこられるよな? な。いまから?」
 は。はああッ? 車をいまから……って。ちょっとちょっと。いきなりなにを言い出すのよ、いったい。
「な。いまからすぐに、来られるよな? 車で。なあ? おいったら」
 いまからすぐに? あたしに車で来い、って? 山形まで? 陸路の距離にして一〇〇〇キロは下らぬはる彼方かなたこうから、せっせと運転して? これから?
 のう、煮えてんのかオマエは。ふざけんな。長距離運送トラックじゃねえぞ。いや、仮にあたしが本職のドライバーさんであってもブチ切れ必至だわこれ。
 アナタお酒を飲んじゃいないでしょうね、って詰め寄らなきゃいけないのはむしろ、こちらのほうだっつうの。
「朝陽。おい。聞いているのか」
「あのさあ、ナオッチ」
「ナオ。って。こら。誰に向かって口をきいている。誰がナオッチだ、誰が。いつからおまえ、そんな横着なものいいをするようになった。え。仮にも父親をつかまえて。下から二番目くらいの推しアイドルみたく気安く呼ぶんじゃないッ」
 ナニを言っているんだコイツは。下から二番目とか推しアイドルとかって意味がいまいち不明だけど、たとえがずうずうし過ぎるのはよく判る。だいたい、娘からナオッチって親しみを込めて呼んでもらえるだけでも、ありがたいと思えよ。
 なにせこちらのスマホの父親の登録名ときたら『ち』なんだから。『ち』ですよ、ち。あんたなんか、ひと文字以上、入力する気にもなれんわ。その『ち』が果たして、ナオッチと父、どちらの短縮形なのかはご想像にお任せしますが。
「あのねえ、パパ」
 あたしにとって彼をパパ呼ばわりするのは最大級の皮肉と侮蔑のつもりだが、おそらくコイツには一生通じまい。「こちらからわざわざ言及せずとも、パパも重々ご存じかとは思いますけどお。今夜は、ですね。二〇二一年も最後の」
「そんなことはどうでもいい。いいから、黙って聞け」
 ひさかたぶりに娘のスマホのほうへ電話してきやがったな、と思ったらまあ、案の定といやまったくそのとおりなんだけど。なんじゃいこれは。この相変わらずの傍若無人さ加減は。胸クソ悪ッ。
 ほんとならとっくの昔に電話番号そのものを削除したいくらいで、それだけはママに免じて勘弁してやっているっていうのに。けなな娘心も知らずに、このダメ男が。調子ぶっこきやがってさ。
 さっさと通話を切ってやろうかとも思ったが、そうしたらしたで後々、たたるだけ。そういう細かいこと、根に持つタイプなんだコイツは。あー、失敗した。やっぱりそもそも電話に出るべきじゃなかった、と激しく後悔したが、もう遅い。
 向こうから接触してきたのがずいぶんひさしぶりだったせいでこちらも、うっかり油断してしまったかつこう。ここでこじらせると、またねちねちと、どんなしつこい仕打ちを受けるやも知れない。
 穏やかにお引き取りを願うため、ここはひとつ、対応を絶対まちがえないようにしなくちゃ。くそッ。めんどくせえ。
「はいはい。わかりました判りました」
 とりあえず話を一応最後まで拝聴してやらないことには、どうにもこうにも、おさまりそうにない。すっかり諦めたあたしは、ごろんと横倒しに半回転してあおけに。
 ずっとそれまで頰ずりしていたオッキーの裸の胸板から一旦離れた。彼の下腹から股間にかけてをまさぐっていた手を、未練たらしく引っ込め、上半身を起こす。
 先方に聞こえないように、特大の溜息ためいきをついておいてからスマホを持ちなおし、ベッドの上で胡坐あぐらをかいた。
 素っ裸で半跏趺坐はんかふざする妙齢の女の姿って普通なら、とても親には見せられません、とか自嘲してみせるところだけど、いまのあたしとしては腹いせに、この姿を自撮りした写真をナオッチへ送信してやろうかと、かなり本気で考えてしまう。いくら病的なオンナ好き野郎であろうとも、他の若い衆といちゃつく実の娘のマッパを見せつけられた日にゃ多少は人生の悲哀ってものを感じられるだろうて。
「で。えーと。ご用の件ですが」
「あ。そうだ。そういえば朝陽、おまえ、免許、取っているよな。車も、ちゃんと持っているよな? 朝陽。な?」
 あれれ。最後にナオッチと直接顔を合わせたのって、いつだ。まだ自動車運転免許を取得できない年齢だったっけ。
「はあ。免許でございますか。一応、はい。取ってます。車も中古の軽ワゴン、持っております。けどね」
「よし。だいじょうぶだな」
「って。いや、じゃなくて。あのね。少しはあたしの言うことも聞いてちょうだい。いまから車でこちらを出発して、徹夜で走らせ続けるとしてもたっぷり十五時間以上はかかりますよね、そちらへ到着するまで。つまり明日の午後一時過ぎくらいにはなります。早くても。はい。とろとろ運転しながら新年を迎えるって趣向も、ひとによっては、おつなものだと感じるかもしれないけれど。あたしはイヤです、そんな年越しの仕方は。かんべんしてください」
「ちがう。ちがうちがうちがう。こら。ちゃんと聞けってば、おまえはよ」
こちらが一気にまくしたてているあいだ、幾度となく割り込んでこようとしてうまくいかなかったナオッチ、癇癪かんしやくを起こしたのか、スマホ本体がびょんッと宙に跳ね上がりそうな音量で怒鳴ってきた。
「ちがうったら、全然ちがう。あのな、山形じゃないんだよ」
「んあ?」
「おれは、いま高和に居るんだ。高和へ来ているんだよ」
「は。はいいぃぃぃ?」
 こちらは再び語尾を爆上げである。なんですと。父がいま、こちらへ来ている?
 なんと。これはびっくり。彼が高和の地を踏むなんて。いつ以来だ。結婚前のママとの交際期間中を除けば、あたしが一歳か二歳の頃に一度来たことがあったきりのはずだから、ほぼ二十年ぶり?
 いったいどういう風の吹き回し? しかもこの年の瀬も年の瀬に。よりにもよって、オミクロンなる新型コロナ変異株の感染例が相次いで確認され、列島中で騒ぎになっている最中さなかでの大晦日に、なんで? たしかに高和は、いまのところ全国的には比較的落ち着いているほうだが、それにしたって。なんで、わざわざ?
 なにしに来たんだ。ていうか、ほんとにいま高和に居るの? 噓じゃなくて? いや、噓だとしか思えないんだけど。
 だいたい我が父の辞書に「信用」とか「誠実」という言葉なぞ記載されていない。飲む打つ買うの絵に描いたような三拍子で、どれだけママを泣かして、そしてそのたびに、どれだけ周囲の関係者たちを欺き、あたかも家族の愛と理解を得られぬ可哀相かわいそうな被害者は自分のほうであるかのごとく振る舞ってきたことか。
 普通ならとっくの昔に離婚に至っていなきゃいけないのに、コイツの口八丁手八丁のせいで、ママ本人も含めてみんなたぶらかされ、丸め込まれちゃうんだ。
 もしもあたしが、実家の祖父母のところに下宿して高和の中高一貫教育校に通うという選択をしていなかったとしたら、ママはいまだに山形に住んでいたはず。つまり、あたしが中学受験という強行手段に訴えなければ、別居すらもままならなかったわけだ。
 あたしの進学に帯同するかたちで山形から一度離れてみて、ママはようやく、自分が如何に夫に心身を呪縛、支配されていたかを悟ったのだろう。ただ粗暴なだけではなく、ときに紳士的な懐柔もお手のものなナオッチの口のうまさは、もはや一種のマインドコントロールの域で、決してあなどれない。
 ただ、それにしても、である。いきなり「いま高和に来ている」という噓をついて、それでなにをたくらんでいるのか。どうも見当がつかない。それに「車を持ってこい」と指示する以上はやっぱり本人が、ほんとうにこちらに居ないことには意味を成さないような気もするし。うーむ。
 なんだろう。もしもほんとうにナオッチが高和へ来ているのだとしたら、いちばんありそうな目的は金の無心か。いくらか恵んでくれなきゃ梃子てこでも動いてやらないぞ、という駄々っ子以下の持久戦はコイツのもっとも得意とするところだ。妻が現在体調がかんばしくなくて休職中だとか、娘もまだ大学生でろくな収入は無いとか。諸般の事情などもちろん、おかまいなし。
 ただ、それにしてもわざわざ高和まで足を運ぶかというと疑問が残る。前述した通り、ナオッチがこちらへ来るのはあたしが知る限り、ほぼ二十年ぶり。その間、彼が金をせびる手段はもっぱらママへの電話、もしくはメールだ。
 あたしは直接聞いたことはないが、オレの要求を吞まないならオマエの両親や娘に付きまとってやるからなという意味のほのめかしでママを脅すのが、どうやらナオッチの常套じようとう手段であるらしい。お祖父じいちゃんが生きていたときに一度、夫がひそかに自分の父親に多額の送金を強要していたと知ったママはそれ以来、なんとしても自分が家族のたてにならなければと思い詰めていた節があって、それがナオッチからのコンタクトを未だに完全ブロックできていない現況の主要因でもある。
 公平に言ってナオッチ側もこれまで、自分の要求にママが対応してくれる限りは家族に手を出さない、という暗黙の了解を遵守してきた。だからこそ、こうしてえてあたしのスマホへかけてきた、というのはよっぽどのことなんだろうな、とは思う。が。
 ほんとに目的が金の無心ならば、こんなふうにママの頭越しにことを運ぶのはまったくの逆効果で、さすがにナオッチだってそれは理解できるだろう。ついに娘にまで直接ちょっかいをかけてくるかとなれば、これまでこらえに堪えてきたママだって我慢の限界。ブチ切れられるリスクは極めて高い。
 妻から搾り取れるだけ搾り取りたいのなら生かさず殺さずの手法をキープする。窮鼠きゆうそまれる猫には絶対にならない。ナオッチはバカだけど、いや、バカだからこそ、そういう基本路線は外さないはず。
 こうしていろいろ考えてみると、そもそも彼が高和へ来ていること自体がママの逆鱗げきりんに触れかねないわけで。ナオッチだってそんな道理は重々承知だろう。なのに。
 なぜ? 疑問が大渋滞を起こしているこちらの胸中を読んだかのようにナオッチは「ほんとうだって。ほんとうに高和へ来ているんだよ」と、がなり立ててくる。
 そして「いま、ウラタのほうに居る」と付け加えた。それが一瞬、ウルトラマンホールディング? とかなんとか。意味不明の言葉に素で聞こえて、ますます脳内が疑問符だらけになってしまった。
「え……え? うちへ来ているの?」
父が、裏田うらたのほうに居る。つまりいま、ママの実家へ来ているという意味のことを言っているのかとようやく悟ったものの、それはそれでさらに混乱する。
「ほんとに? え。どういうこと。なにやってんの。いまそこには、ママもお祖母ばあちゃんも居ないんだよ」
 というか、あたしの知る限りでは居ないはず。なのにどうしてその実家に、縁者とはいえ部外者同然のナオッチが来ている? どうなっているんだ。
「だいたい、ナオ。じゃなくて。パパ。どうやってそこへ上がったの? 鍵とかは? いったい」
「話せば長いんだよ、いろいろとな。詳しいことは後で説明するから、とにかくここへ来てくれ。早く。車が必要なんだ」
「あ、あのね、そんなご無体なこと、いとも簡単におっしゃいますけれども」
「絶対に、おまえの車を持ってきてくれよ。いいな。タクシーなんかで来ちゃだめだぞ。判ったな」
「待って。待ってってば。ほんとに。ちゃんと聞いて。あたしはねえ、いま、いろいろと取り込み中」
 ぷつッと通話は切れた。
 その有無を言わさぬ傲慢さ。むかっ腹が立った。相も変わらず自分勝手なヤツ。他者の都合などおかまいなしに。一方的にかけてきて、一方的に切りやがって。
 事情がいっこうに見えてこないが、そんなこたあ知らん。誰が行ってやるもんか。せいぜい独りでとおえしてろ。
 そうバックれようとしたあたしを翻意させることになるのがなんと、通話中にずっとおあずけをらっていたオッキーこと興津俊輔だったのは、なんとも皮肉である。
「いまのはサーちゃんのお父さん? 高和へ来てるの?」
名前の朝陽にちなんであたしのことを「サーちゃん」と呼ぶオッキーは、当初「アーちゃん」もしくは「ヒーちゃん」を採用していた。どちらも、なんだか間の抜けた響きだからめてくれとあたしが嫌がると「じゃあ、サーちゃん」と、さして差異の無い代替案をしれっと出してくる。
 どうしてそんな舌足らずな、子どもっぽい愛称に彼がこだわるのかさっぱり判らない。が、良い意味でも悪い意味でもお坊っちゃま育ちゆえの、おっとりしたオッキーの粘り腰にこちらは根負けし、決して納得しているわけではないものの、響きとしてはいちばん無難な「サーちゃん」に、なしくずし的に落ち着いている次第。
「県外に住んでいるって言ってたのは、山形だったのかあ。どこらへん?」
 んなこと、どうでもいいじゃん、と言葉にする代わりにあたしはスマホを放り出す。仰向けになっているオッキーの裸体めがけて、倒れ込むように覆いかぶさった。
 室内は暖房が利いているが、素っ裸で話し込んでいたらすっかり気が散って、身体からだの芯が冷えてしまった。喉仏の浮いた彼の首筋に顔面をうずめて、ふるふる左右に振りたくる。全身の肌という肌を互いに重ね合わせながら暖をとる。
「サーちゃん。サーちゃんてば」
 オッキーはそんなあたしの両肩を、退かせるというほど邪険ではなかったが、そっと持ち上げてきた。「行かなくていいの」
「へ?」
「いまお母さんの実家のほうに、お父さんが来ているんでしょ。で、サーちゃんに車を持ってきてくれって頼んでいるんでしょ。だったら行ってあげなきゃ。すぐに」
「どうした、こら。熱でもあるの。なんであたしがそんなアホ過ぎる真似まねなんかを」
「たしかに、ちょっと無茶ぶりだよなあ、とは思うけどね」
「いや、無茶ぶりって穏当なレベルじゃないし。ほっておきゃいいんだよ、あんなクソ親父おやじ。だいたいオッキー、あんたもたいがい失礼なひとだな。そんなにあたしとやりたくない、ってか?」
「ぼくがいまどちらの状態なのかは、ほら。一目瞭然でしょ」
「うん。あは。そうだねえ」
「だからこそ、じっくり集中したい。なのに憂いを解決せずに放置したまま、というのは落ち着かないじゃん。お互いに」
「どう解決しようがあんのよ、あんなバカたれの世迷よまごと。つか、なんでオッキーがこんなこと、気にするの」
「ぼくがサーちゃんだったらもう気になって気になって、しょうがないけどな。だって考えてみて。いま、ちらっと聞こえてきたことがほんとうならお父さんは、鍵を持っていないはずのサーちゃんの実家に上がり込んでいるんでしょ? ね。心配にならない? いろんな意味で」
「ナオッチがそうだと自分で言ってるだけじゃん。ほんとかどうか判らない。実はいまも高和じゃなくて山形からかけてきていた、ってこともあり得る。いや、マジで。昔っから虚言癖があるんだ、あのオヤジ」
「もしもサーちゃんをかついでやろうっていうんならお父さんも、もっとそれらしいっていうか、納得しやすい口実を使うんじゃないかなあ。それに」
反論しようとしたら、その口を下から彼の唇で、ふわりと塞がれた。
「それに、もしもお父さんがほんとに、いま娘に来てもらわないとどうにもならないような焦眉の急に陥っているんだとしたら、さ。言われたとおりけつけてあげないと、後でめんどくさいことになるんじゃない? ね。いろいろと?」
 オッキーにキスし返そうとしたあたしは、鋭い指摘につい身体の動きが止まる。ぐッと詰まってしまった。「う、うーん。まあ、それは。たしかに」
「そういう逆恨みをしかねないタイプなんでしょ。それはサーちゃんがいちばんよく判っている。これまでお母さんともども、お父さんにはさんざん迷惑をかけられてきた身としては。ね」
「たしかに。たしかにそうだけど」
「だったら、たとえ不本意であろうとも、とりあえず行ってみるだけ行ってみたほうがいいんじゃないの。ここで無視して、後で思いもよらぬ、しっぺ返しを喰らうよりはさ。なにかと」
「ごもっとも。うん。仰せの通りですよ。オッキーは正しい。でもね。でも、行けるわけないじゃん。いまから、なんて。だってあたし、もう飲んじゃってるし」
 ベッドの傍らのキャスター付きサイドワゴンをあたしは顎でしゃくってみせた。シャンパンクーラーのなかからボトルの先端が仲よく二本、にょっきり突き出ている。一本はあたしのお気に入りの銘柄のスパークリングワイン。もう一本は下戸げこのオッキー用のノンアルコール飲料だ。
「タクシーでは来るな、おまえの車を持ってこい、なんて言ってるんだよ。どうすりゃいいの。あたしは嫌だからね。真っ平です。飲酒運転なんか。とはいえ、オッキーに運転してもらうってわけにもいかないし」
「あ。いいよ。別に」
「ほへ?」
「車をサーちゃんの実家へ届けてくればいいんでしょ? 行ってきてあげるよ。すぐに。ちゃちゃっと」
「ちょ。ちょっと、きみきみ。あのね。ちょっとちょっとちょっとお」
「だいじょうぶ。ぼくはノンアルコールしか飲んでいないし」
「いや、そういうことじゃなくてだ。なんでオッキーがわざわざそこまで」
「ちゃんと戻ってくるよ。お父さんに車を渡したら、すぐにタクシーで」
「だから、そういう問題じゃなくてだね。あーもう。なんでこんな、ややこしい話になっちゃうんだよもう」
「へたに考えるからだよ。ややこしくなる。なにも考えなきゃいいじゃない。ね」
 オッキーの口調はリゾート地の午睡ひるね並みにのんびり、ゆったりしている。なのに、こちらはそれと反比例するかのように焦燥感をあおられる。だんだん、ほんとに彼の言う通りにしておいたほうがいいのかもしれない、という気がしてきた。
「ほんとにいいの? ねえ。運転してもらっても? じゃあお願いするとして。えと。あたしはどうすっかな。やっぱり、いっしょに行ったほうがいいのか」
「お父さん、車があればそれでいい、ってことじゃないの? サーちゃんもいっしょに来てくれないと困るのかな」
「さあ。どうだろ」
 ナオッチに必要なのが車だけなら、オッキーにお遣いを頼んで留守番していようかなあとも一瞬思ったが、いいや。それアウト。たとえあたしがその場に居なくても済む用件であろうと、娘が現れなかったら現れなかったで確実に、なにか文句を垂れてくるに決まっているんだアイツは。
それに、ナオッチとて封建的性根の持ち主という意味において世の平均的な父親たちとさして差はあるまい。自分の娘が他の男と親しそうだというだけで気に喰わない。初対面の相手であろうともかまわず醜い反感、き出しにしそう。
 怖いのは、朝陽とはオマエどういう関係だとナオッチに問いただされたオッキーが、どういう答え方をするか、だ。なにしろ適当にごまかす、という芸とは無縁の天下御免のお坊っちゃま。
 あ。サーちゃんとは、このところ仕事が忙しくって、セックスできるのは多くても週に一回くらいかなあ、なんて。いや、マジで。のほほんとその程度の発言はマジで、なんの悪意も挑発的意図もなく、やらかしちゃうひとなんですよ、オッキーって。
 そんな彼を父と、ほんの一瞬でも対面させるなんて。危なっかしくてしょうがない。いくらナオッチだって、まさか自分の娘が未だに男性経験皆無であるなどと信じるほど脳がお花畑ではないだろうけれど、たとえネタがなんであれ、他人にいちゃもんをつけられる口実は絶対に見逃さないのがクズ男のクズ男たる所以ゆえん
 あれこれ考えていると先行きには憂鬱しか見えませんが、もうこうなった以上は仕方がない。腹を括ったあたしはオッキーと、ふたり仲よくベッドから降りて、それぞれ服を着始めることにした。

西澤保彦 著『走馬灯交差点』より

【『走馬灯交差点』試し読み】
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