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アンドレイ・クルコフ『ウクライナ日記』2015年の日本語版序文 吉岡ゆき訳

小説『ペンギンの憂鬱』の著者であるウクライナの作家アンドレイ・クルコフさんが、ウクライナ危機の根源といえる2013年「マイダン革命」を綴ったドキュメント『ウクライナ日記 国民的作家が綴った祖国激動の155日』(吉岡ゆき訳)を重版しました。4月19日出来で、お近くの書店でご注文いただけます。

著者アンドレイ・クルコフさんは現在もウクライナに留まり、SNSや各国のメディアを通じて発信し続けています。わたしたち編集部も日本の読者へ向けた新たな寄稿を依頼しており、届き次第このサイトに掲載する予定です。

本日の重版出来に際しては、2015年当時の日本語版序文を公開します。ロシアのウクライナ侵略の背景、それに対するウクライナの人々の反応や感情を理解する一助になればと考えます。編集部一同、一刻も早い戦争の終結を願っております。


日本語版序文(あるいはあとがき) アンドレイ・クルコフ

クルコフさんは長年ロシア語で作家活動を続けてきました。本書もロシア語で執筆されいることから、翻訳に際して地名や人名は次のようにしました。

  • 固有名詞は、原文がロシア語である本文においてはロシア語読みを基本とした。

  • 地図ではウクライナ語読みを基本とし、適宜、( )でロシア語読みを補足した。ただし、「キエフ」「チェルノブイリ」「ドニエプル川」など、日本でロシア語読みが慣用化している名称については慣用に従った。

  • 原注は「*」で示し、訳注は〔 〕で示した。


 出版社に原稿として渡すために私が日記に最後の句点を打った2014年の4月24日から、ドニエプル川をどれだけの水が流れたことだろう。多くの出来事がいまではウクライナ国家の歴史の一部となった。なかでもことのほか重要度の高いウクライナ大統領選挙は、危惧と懸念があまた表明されたものの、予定通りに2014年5月25日に行われた。決選投票にもつれこむことなく、有権者の大きな支持を得て1回目の投票で選ばれたのは、チョコレートにケーキ、バスを製造するいくつもの工場を所有する実業家のペトロ・ポロシェンコ。
 2014年の10月に前倒しで国会議員選挙が行われた結果、国会は機能を始め、政府を選出した。
 かくして国家の行動と態度は再び合法性を獲得した。省庁は仕事をし、政府は采配を振り、警察は 秩序の維持に目を配っている。だが、ドンバスでは戦争が続いている。戦争は国中にこだまし、リヴォフ(リヴィウ)でも、西ウクライナでも、チェルニゴフ(チェルニヒウ)でも、国の北東部でも、人々は足元に戦争の振動を感じている。
 現在のキエフでの日常には、以前の、「マイダン以前の」日々との違いは、一見したところあまりない。だが、目につく変化はやるせなさを誘うものばかり。我が家の並びの集合住宅のいくつかのバルコニーには、「売家」との掲示が出た。ドンバスからは金持ちの実業家たち大勢がキエフに移ってきたが、キエフからは中流階級の若い家族が再び外国に出ていくようになった。我が家の次男坊アントンは最近、さみしそうにしている。親友のダニイールが両親に連れられてカナダに行ってしまったからだ。アントンは毎晩寝る前に、ダニイールとSkypeでおしゃべりをしている。
 キエフの中心街ではレストランやカフェが何軒も閉店した。今のキエフは、金が減って貧乏人が増えた。ドンバスからは普通の避難民に加えて、犯罪者たちも流れ込んできた。物取り、自動車泥棒、強奪犯といった輩。連中がドンバスから逃げてくる理由は2つ──いまやドンバスには盗みを働く場所がなくなった、そして、盗むものもなくなった。正確にいうと、分捕れるものを分捕る、あるいは「国有化」する権利を有するのは新「政権」およびそのメンバーだけなのだ。2つの理由はからみあっている。というのも、ドンバスの分離主義者たちは、彼の地を縄張りとしていた刑事犯罪者たちを、現場を押さえては即時射殺しているからだ。分離主義者対ドンバスの刑事犯社会の戦争が始まったのは2014年の春。ドネツクで、地元警察には知られた存在だった麻薬売人たちを分離主義者たちが撃ち殺したときだ。
 キエフでは空き巣狙いと往来でのひったくりの件数が数倍に増えた。先日は我が家と同じフロアの女性宅が空き巣の被害にあった。上階2フロア専用の鉄格子のドアを階段の途中に新たに設けるしかないのでは、と数戸で話し合っているところだ。多少でも家計に余裕があれば、誰もが大慌てで防弾仕様の鉄のドアを自宅の玄関に取り付けた1990年代初頭を思い起こさせる状況だ。
 しかしこういったキエフ発の3面ニュースは、今のドンバスでの暮らしに比べれば、たいしたことではない。公式には停戦が成立して、欧州安全保障協力機構(OSCE)の監視団が駐在しているにもかかわらず、彼の地では戦争は1日24時間続いている。戦闘があった、ウクライナ軍兵士、分離主義者、爆撃にあった民間人が死亡したというニュースが日常になっている。加えて、分離主義者とロシア国民のコントロール下にある地域の住民の多くは、人道支援をまったく受け取っていない、というニュースも頻繁に流れてくる。ロシアの人道支援トラックは、ロシアのロストフ=ナ=ドヌー市方面からドンバスに定期的に何百台と入っているにもかかわらず。キエフに移ってきた、ドネツクのオリガルヒ、リナート・アフメトフもドンバスに人道支援物資を送っている。中身は主として食料で、支給対象は65歳以上に限定されている。この支援物資はドンバスにちゃんと届いて、住民に支給されているのだが、ロシアから入ってくる支援物資の行方は分からないこともしばしば。もっとも、「ドネツク人民共和国教育省」は、ロシアの「人道支援コンボイ」がロシアの教科書13トンを運んできたと発表した。足りない分は分離主義者たち自らが出版する予定らしいが、ソ連時代の学校教科書を再版すればいいと真面目に議論されている始末。ちなみに、「ドネツク人民共和国教育省」は最初の通達のひとつで、占領された地域で仕事を続ける教員たちに、ウクライナの他の地域の教員たちとの接触を禁じた。占領地域での教育事情をキエフに連絡することは厳禁となった。
 今のウクライナにはドネツク大学が2つある。国立ドネツク大学は大部分の学生と教員ごと、ウクライナ中部のヴィンニッツァ市に移転した。ドネツクに残った人々は、ドネツク大学の昔からのキャンパスに通って教え、学んでいる。ドネツク人民共和国ドネツク大学だ。今年の1月末にそのキャンパスで、「ドネツク人民共和国大統領」アレクサンドル・ザハルチェンコと教員および学生との「歴史的な」集いが催された。承認されていない共和国の元首ザハルチェンコは、外国のジャーナリストたちも含めた満場の聴衆を前にして、「過渡期の困難」について語った。イベントの最後にある学生が「奨学金は支給されるのでしょうか?」と尋ねると、ザハルチェンコは、その学生の専攻分野を問うた。化学だと分かると、ドネツク人民共和国防衛のための爆弾を自家製造して生活費を稼げ、と発破をかけた。「ドネツク人民共和国」は国際的な活動にも着手している。ドネツク市に「アブハジア共和国」首相ベスラン・ブトバ率いるアブハジアの公式訪問団を迎え入れた。どうやら近々、国際的に承認されていない2つの共和国は国交を樹立する模様〔2022年3月現在、アブハジア共和国を承認している国連加盟国は、ロシア、ニカラグア、ベネズエラ、ナウル、シリア〕。この会合は、アブハジアとロシアが戦略的協力協定を締結した直後に行われた。同協定は、将来のアブハジアのロシア連邦への正式な併合の土壌作りというのが政治学者たちの見方だ。ドネツク人民共和国の幹部で、「ノボロシア人民同盟」党の共同議長コンスタンチン・ドルゴフは、ルガンスク(ルハンスク)もドネツクも緊急に観光客を必要としている、と言ってのけた。ドルゴフがどういう観光客を念頭に置いているのか、私は知らない。「軍人」観光客か? イタリア、スペインその他いくつもの国出身の義勇兵が、分離主義者たちの側について戦闘に参加している。無政府主義や左翼政治運動のメンバーたちだ。
 今年の2月末から3月初めにかけて、私もドンバスを訪れる機会があった。冬が終わったばかりだった。雪は解けたものの野に緑はまだなかった。
 灰色の季節がドンバスの歴史の暗黒時代に重なるとき、周囲の光景はかなりおどろおどろしいものになる。被弾して折れた、もぎれた裸の木々、破壊された家々、特別な用でもない限り、戸建てであろうと集合住宅であろうと家から出てこようとしない人々。橋は爆破され、森を走る車のわだちが迂回ルートになっている。乗っている車ごと四方八方に飛び跳ねる。時が止まったこの世界の真ん中で、突如として目の前に、ウクライナの国民的詩人タラス・シェフチェンコの肖像と、彼の言葉がロシア語で書かれた大きな看板が現れる。「祖国への愛なき者は、心貧しきできそこないである」。解説は不要だ。ドンバスの「戦前からの」、そして廃墟となって日の浅い荒廃した産業施設と住宅を目の当たりにすると、この思いは自然と湧きあがってくる。
 三人の文学者、私、セルゲイ・ジャダン〔79頁の原注参照〕、イリーナ・ツィリクはNGO「オスタンニャ・バリカーダ(最後のバリケード)」のミニバスに乗って、スラヴャンスク市〔人口11万人、ドネツク州〕──クラマトルスク市〔人口15万人、2014年10月よりドネツク州政府はここで機能〕──セヴェロドネツク市〔人口10万人、2014年9月よりルガンスク州政府はここで機能〕のルートで旅をした。途中、リシチャンスク市〔人口10万人、ルガンスク州〕をはじめとするいくつもの市町村を通った。私たちが向かったのは戦争ゾーン、分離主義者たちから解放されて日も浅い地域だ。「祖国への愛ある者たち」、すなわちウクライナへの愛を心に持つ人々に会うために。道中、何度も検問所で止まって、パスポートチェックを受けた。どの検問所にも分厚いノートを手にした軍人がいた。分離主義者のリストだ。検問所を通過する者のパスポートはすべてこのノートに照らし合わせてチェックされる。「ウクライナ側の検問所で分離派戦闘員を逮捕」とのニュースを始終目にする理由が初めて分かった。分離派戦闘員 たちは、この分厚いノートにデータが集められていることを知らないのだ。だから、平和な一般人を装って戦闘区域の外に出ようとする。戦争から一息つくためなのか、ウクライナの軍人の統制下にある地域に住む親族を訪れるためなのか、知る由もないが。
 私たちの最初のイベント会場はスラヴャンスクの教育大学だった。大学で行われる作家や詩人と読者のあまたの集いとの違いは、戦争に動員された軍人たちが、それぞれのカラシニコフ自動小銃を銃口を上に向けて床に立てて持ったまま、前列を占めていたことだった。彼らは任地からイベントに直行してきたのだし、イベントが終わると任地に帰っていった。会場には学生も一般市民もいた。入場は無料で、巨大なホールは満員御礼に見えた。平和なキエフやリヴォフでは、社会派の詩であれ、ロマンチックな詩であれ、そもそも現代文学全般がそうであるように、選ばれし者に喜びをもたらすにすぎない。大方の人は、「ルーティン」という味気ない言葉で呼ばれることの多い、日々の雑事に囲まれて暮らしている。だが、「反テロ作戦」が展開されている地域には「ルーティン」は存在しない。
「ルーティン」は懐かしく思い出されるものなのだ。だから、宇宙が破壊されてしまった怯えきった人々の緊迫した世界に突如として、そしてほんの一瞬とどまるために飛び込んで来た詩は、勢い特別な価値を帯びる。平和、愛、普通の、正常な暮らしの垂訓となるのだ。
 クラマトルスクでは、愛国的気運の若者たちが市の中心部に「自由な家ヴイリナ・ハータ」という名の、クリエイティブ・スペースを作り上げた。スペースの賃料はヨーロッパから受け取った無償援助金でまかなわれている。「ヴィリナ・ハータ」ではコーヒー、紅茶が飲めるし、本が読めて、インターネットが使える。代金は入り口に置かれた透明な料金箱に、一人一人が払えるだけの金を入れる。払えないなら払わなくてもいい。私たちのイベントはこの「ヴィリナ・ハータ」で、ある日の晩に開催された。「ヴィリナ・ハータ」の前はレーニン像がそびえる巨大でがらんとした広場。ベビーカーに幼児を乗せた女性が、そのレーニン像の周りを円を描くように歩いていた。この地域では、ウクライナ愛国者の割合は、大人や年配者よりも若者の間でのほうがはるかに高い。ベランダにウクライナの旗を掲げている光景は一度も目にしなかった。通行人は見ず知らずの他人と口を利くことを避ける。「ロシアはちゃんと戻ってくる」と考えている人がかなりいる様子。
 セヴェロドネツクの小学五年生のワジムはジャンパーにウクライナ国旗の色の「黄色と青のリボン」を堂々とつけている。「先生たちは分離主義者だけど、僕ら生徒は愛国主義者なんだ」。
 セヴェロドネツク市、グヴァルジェイスキー大通り31番地にカフェ「アーティチョーク」がある。ウクライナを愛する人たち──兵士、義勇兵、地元の人々──が集まる唯一の場所だ。カフェのオーナーのタチヤーナ・ベリャンスカヤは、セヴェロドネツクが占領下にあった時もこの街を離れなかった。彼女は毎朝、カフェの入り口に2つの旗、ウクライナ国旗とセヴェロドネツク市の旗を掲げる。夜間にウクライナ国旗を外に出したままにしてはおけない、破り捨てられてしまうからだ。タチヤーナは何十回と「殺してやる」と脅され、アパートのドアの防音のための革張りを切り裂かれ、玄関ポーチの壁にひどいことを書かれた。でも彼女はひるまない。「失うものなんて私には何もないの! 私は20年間ロシアのソチで暮らした。そして故郷のセヴェロドネツクに帰ってきた。どこかに出ていく気なんてさらさらないわ!」。セヴェロドネツクが占領されていた時、カフェに入ってきたロシアの軍人が、バーカウンターのコップに小さなウクライナ国旗が差してあるのを見て憤慨した。「なんのつもりだ?」「ここはウクライナですから」とタチヤーナは答えた。ロシアの軍人は、くるりと背を向けると、何も注文しないまま店を出て行った。
 地元のある女性がこう語った、「私は毎日トロリーバスでグヴァルジェイスキー大通りを通ります。『アーティチョーク』の付近にさしかかると、いつもどきどきします、ウクライナ国旗はちゃんと掲げられているかしらって。国旗を確認するとほっとします。国旗が掲げられているのだから大丈夫なのだ、恐ろしいことは何も起きていないのだ、と」。セヴェロドネツクのたくさんの人がこの国旗を、市の権力を掌握しているのは誰なのかの判断材料にしている。時計台の時計の針と自分の時計を照合するように。
 停戦が宣言されているにもかかわらず、前線までの距離が10キロとないこともあるこれらの大小の街には、不安と、静けさは脆いものとの実感が漂っている。人々は戦争のことは考えまいとしなが ら、戦争のことを考えずにはいられない。この地域では、停戦が平和と安定に発展すると信じる人は わずかだ。人々は未来のことを考えるのを恐れている。
 面白いことに、昨今は、人々は特定の日に対しても恐怖を覚える。2014年の5月2日に「オデッサの悲劇」が起きた。親ロシア派が逃げ込んだオデッサの労働組合会館で起きた火事で、50人近い人が煙に巻かれて窒息死した事件だ。その一周忌が迫るにつれ、ウクライナ全土が緊迫感に包まれていった。幸いウクライナ保安庁は今回はテロを防止できた。武器と爆発物を携えた数十人が逮捕された。事件一周忌の集会はつつがなく終わった。すると、またもやウクライナ全土が、今度は5月9日──ソ連時代からの伝統である、対ナチス・ドイツ戦勝記念日──の訪れを張り詰めた気持ちで待つことになった。ソ連時代から伝統になっている5月9日の大人数での行進の最中に、ウクライナの大都市ではテロが起きる、人々はそう考えた。戦勝記念日を目前にして、ウクライナの特務機関はまたもや分離主義者や破壊工作者を逮捕した。キエフやオデッサに向かおうとしていた、武器や爆発物を載せた車が何台も摘発された。これがすべてテレビのニュースで流れたことで、社会に漂う不安の温度はますます上がった。去年の戦勝記念日には、ロシアのメインの戦勝パレードはセヴァストーポリで行われた。あの日ロシアは、毎年恒例の〔モスクワの赤の広場での軍事〕パレードに加えて、セヴァストーポリで観艦式も行うという、巨大な規模の軍事的祝祭をもって、クリミアにおける対ウクライナ戦争の勝利を祝ったのだった。これまでの1年間、何人ものロシアの政治家が、2015年の戦勝パレードを、ロシアはキエフで行うと公言してきた。分離派のリーダーたちとくれば、連日のように「キエフに攻め入る」と請合っている。しかし、そういった期待をものともせず、ウクライナにおける今年の戦勝記念日は、分離主義者たちに占領されている地域を除けば、軍事パレード抜きで、武器をひけらかすことなく、平和的に行われた。キエフでの戦勝記念日の行事では軍楽隊が行進して、ポロシェンコ大統領が、「ウクライナがロシアのシナリオどおりに戦勝記念日を祝うことは二度とない」と約束した。ポロシェンコ大統領とEUを支持する人々とは別途にこの日を祝ったのは、逃亡したヤヌコヴィッチ大統領が率いていた政党の後継である「野党ブロック」党。彼らもまたキエフの中心で集会を開いたが、会場はドニエプル川を望む公園だった。野戦キッチン一式を運び込んで、支持者たちに蕎麦の実の粥とウクライナ産のウォッカをふるまった。集まった支持者はおよそ2000人、大した数ではなかった。彼らはキエフの中心街での行進に繰り出し、公園に戻ってくると再び、野戦キッチンの炊き出しの蕎麦粥を食べてウォッカを飲んだ。結論から言うと、すべては平和裡に終わった。ただ、ドンバスの前線でだけ、大砲が轟き続けた。
 私がこの文章を書いている今も、大砲の轟きは続いている。だが砲撃は毎日の暮らしを無効にしてしまうわけではない。日常の気苦労や気がかりはまた別の話である。現在我が家では娘のガブリエラの卒業パーティの準備が進んでいる。ガブリエラは高校卒業を控えている。ウクライナ語とウクライナ文学の卒業試験はすでにクリアした。長男のテオと次男のアントンは首を長くして夏休みを待っている。ウクライナではかつてのソ連同様に、小学校から高校まで、夏休みは丸3ヶ月続く。この夏、テオとガブリエラはイギリスのユース・キャンプに参加する予定だ。私とエリザベス、そしてアントンはウクライナに残る。ラーザレフカ村のセカンドハウスでゆっくり過ごして、仕事もするつもりだ。できれば、夏の終わりに家族全員で黒海沿岸に行きたいと思っている。オデッサに。続いているのは戦争だけではない。命も、日々も続いているのだ。

(訳 吉岡ゆき)

※本初版刊行から7年を経過した時点での重版に当たって、訳注のうち、変化のあった事項については2022年3月半ば現在の情報に修正したことをお断りいたします。
※ウェブサイト掲載にあたり日付や数量などを算用数字にしました。

【アンドレイ・クルコフ『ウクライナ日記』2015年の日本語版序文】

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