#4 PARIYA AOYAMAと『哀れなるものたち』 宇野常寛「ラーメンと瞑想」
※このエッセイは、小説的な内容を含みます。登場する人物と団体は、基本的に架空のもので実在のものとは関係ありません。ただし、取り上げているお店はどこもとても、とてもおいしいのでオススメです。
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1.コースよりも定食
突然だけれど僕は定食や、ワンプレートランチが好きだ。そしてコース料理が苦手だ。コース料理はどこかで「会食」を前提にしている。だから一皿、一皿の間に「時間」がある。2人以上で店を訪れて、ゆっくり「会話」を楽しみながら食べることを前提にしている。そして大抵の場合に、酒を飲むことが前提とされている。
僕はこれが……ものすごく苦手だ。僕は「食べる」ことが本当に好きで、「食べる」ときはできる限り目の前の食べ物に集中したい。だから実のところ、会話もあまりしたくない。そりゃあ、こう見えてもそれなりに社会人として生きているので、会食ではマナーを守るし親しい人と会話が盛り上がり、楽しい時間を過ごすこともある。しかし、目の前の料理がおいしければおいしいほど、もしここに独りで来ていたら、もっともっとこの料理をじっくりと味わえたのに……と考えてしまう。加えて言うと、酒を前提としたコース料理の配膳の間隔は「飲まない」人間の基準からするとかなり長く、正直言ってかなり手持ち無沙汰になってしまう。
しかし、定食は違う。もちろん、2人以上で店を訪れてぺちゃくちゃ喋りながら食べることもあるのだけれど、そんなときでもコース料理よりは遥かに料理そのものを集中して味わいやすい。とりあえず、目の前にあるものにがっついて、一段落ついたところで会話に「復帰」しても、それほど問題にはならない。
「定食」の素晴らしいところはそこに一つの完結した宇宙――ミクロコスモス――があることだ。そこには主菜があり、副菜があり、主食があり、汁物がある。場合によってはデザートもある。僕たち人類が「食」に求めるものの「すべて」がそこに詰まっている。僕は定食の小皿に盛られたおかずたちに、順に箸を伸ばしながらごはんを口に運ぶ、いわゆる「三角食い」が好きだ。「三角食い」をすることで、人間はある料理がその皿だけで完結しないことを知る。ナス味噌が、白米と往復することでよりその力を発揮することに、そしてその流れでメンチカツを齧ることで、世界がより完全体に近づくのを知ることができるのだ。これは、皿ごとに時間を置いて出てくるコース料理においては覆い隠されている世界の真実なのだ。
2.PARIYA AOYAMAと迷いの幸福
そして、僕がもっとも都内で愛している定食屋――という言い方は適当ではない気もするが――の一つは、地下鉄の表参道駅から歩いて5分くらいのところにある「PARIYA AOYAMA」だ。店名から分かるように、日本橋や横浜にもあるのだけれど、僕はランニングコースやよく足を運ぶ動画の収録スタジオの関係で、この店舗を利用することが多い。
前述のように、ここは正確に言えば「定食」屋ではない。いわゆる「デリ」の類だ。僕はあまり詳しくないのだけれど、アパレル系のブランドがサイドビジネス的に展開しているようで、立地も、内装も、おしゃれな店舗が多い。僕はこの店のことを仕事仲間から聞いて4、5年前から足を運ぶようになった。
デリカテッセンなので、持ち帰りができるのだけれど、体感的には店でそのまま定食的に食べて帰る人のほうが、青山店については多いように思う。
システムとしてはまず、ごはんをえらぶ。白米か、玄米か、そのときどきで変わる季節の混ぜご飯かを選ぶ。春先ならたけのこごはん、夏ならとうもろこしごはん、といったアレンジになる。僕は混ぜご飯のアレンジを吟味して、あまりピンとこなければ玄米を選ぶ。この玄米が大粒で、もちもちして、うまい。そしてその後ショーケースからメインを1品、サラダを1品、そしてサイドメニューを1品選ぶ。それぞれ、メインとサラダは5品、サイドは4品の中から選ぶのだけど、この選択に僕は毎回、命を懸けている。
メインで僕がよく選ぶのは、角煮や回鍋肉といった甘辛い味付けの豚肉の中華系メニューだ。しかし、PARIYAは揚げ物もうまい。毎週かならず、揚げ物がメインメニューの中に1品交じっているのだけど、メンチカツやフライドチキン、白身魚フライといった揚げ物に、BBQソースやサワークリームソースと言った、甘酸っぱい系のソースがよく絡められている。これが僕は大好きで、揚げ物の莫大なカロリーのことが頭によぎるのを必死に抑えて、つい、これらのメニューを注文してしまう。
サラダは今どきのカラフルな「映える」メニューが多くて、食欲をそそる。僕が好きなのはフルーツと野菜がミックスされたタイプのサラダで、これが「映える」だけでなく食べごたえがある。ドレッシングの味の強さに頼らずに、ちゃんと素材の味で勝負しているメニューが多いのも、好感が持てる。
問題はサイドメニューだ。これが難しい。このサイドメニューは大きく分けて3系統に分かれる。それは、まずザーサイやキムチと言った、まさに「付け合せ」を提供するもの。次に、コールスローやもやしのナムルといった、野菜の要素を補うサラダ的なもの。そして最後に「フライドポテト」や「オイスターヌードル」と言った、炭水化物を補うもの、だ。厄介なのはこの3つ目だ。
実はPARIYAのサラダメニューには稀に「豚しゃぶサラダ」や、「チキンサラダ」など、肉々しいサラダが提供されることがある。これがまた、うまい。特に豚しゃぶが出てきたときはかならず、僕はそれを選択し、そして「豚かぶり」を避けるためという大義名分を胸に、堂々とショーケースからメインメニューをチキンや魚の「揚げ物」にする。そうすると、自然とサイドメニューはサラダ系のものになる。これが、僕がPARIYAの注文で一番「迷わない」ケースだ。
しかし、問題はむしろこのようなケースだ。メインに「豚肉とレンコンの甘酸っぱ炒め」を選び、サラダに「オレンジと旬のセロリのグリーンサラダ(シグネチャーフレンチドレッシング)」を選んだとき、僕はサイドメニューに「フライドポテト」を選ぶべきか、「切り干し大根のトマト酢マリネ」を選ぶか、極めて厳しい選択を迫られる。
栄養バランスを考えれば、「切り干し大根のトマト酢マリネ」しかない。しかし、「フライドポテト」の魅力も抗いがたい。ごはんを玄米にして、炭水化物で摂るカロリーを控えめにして、「フライドポテト」を選ぶ……という選択をしてしまいがちになるのだけれど、ここで忘れてはいけないのが、「汁物」の存在だ。
PARIYAのイートインができる店舗でプレートを注文すると、ドリンクと汁物が飲み放題になる。
ドリンクについては、食事に合わせるのは定番の「アイスマテ茶」の一択だ。たまに食後にレモネードか、コーヒーをもらうこともある。問題は「汁物」でこれがまた、あなどれない。大抵は味噌汁や、あまり具の多くないシンプルなスープなのだが、たまに食べごたえのある「かき玉汁」が出てくることがある。こうなると計算を一からやり直さないといけない。人間として、「かき玉汁」の飲み放題の環境下に置かれたときに、2杯はお代わりせざるをえない。そしてこのとき、味の「かぶり」的にもカロリー的にもサイドメニューが「オイスターヌードル」であっていいのか、という問題が浮上するのだ……。
しかし、このショーケースの前で迷いに迷いを重ねているこの時間を、僕は心の底から愛している。たいていの場合、いや毎回必ずそこには間違った選択肢はない。複数の正解があるだけだ。どれを食べても後悔しないことは分かっている。しかし、今選べるのはメイン、サラダ、サイドから各1品のみだ。それはとても、とても幸福な「迷い」なのだ。
しかし、この僕の幸福のあり方に、ある疑問を投げかける人物が現れた。そう、例の「恐れと悲しみの中を生きる男」、Tである。
3.『哀れなるものたち』と気ままな生活
その週の水曜日の朝、僕とTはいつものように高田馬場のカフェから片道5キロメートルのランニングに出た。Tはその朝、先週観たばかりだという映画『哀れなるものたち』について語りはじめた。
「最近知り合った中国からの留学生にすすめられて、『哀れなるものたち』という映画を観てきましたが、なかなか面白かったです」
「僕も少し前に観ました。とてもよく出来ていたと思います。エマ・ストーンの演技も素晴らしく、画面の設計も秀逸だったと思います。ただ監督が自身の露悪性に酔っているところが、僕は少し鼻につきました。ある種のマゾヒズムの発露なのは分かるのですが」
『哀れなるものたち』は、スコットランドの作家アラスター・グレイの同名小説を原作にした映画で、監督はギリシャ出身のヨルゴス・ランティモスだ。『ロブスター』『聖なる鹿殺し』などの作品で知られていれる。人間の俗物性や幼稚さを、グロテスクな意匠で描く、という作風の監督で、この『哀れなるものたち』も19世紀末を舞台に、自殺した女性が自身の胎児の脳を移植され蘇る、という内容だ。エマ・ストーン演じるヒロインは大人の女性の身体に子どもの精神を宿し、そのアンバランスな状態で世界を白紙の状態から経験していく。そして彼女は「女性」にとっての世界がどのようなものかを学習し、どうあるべきかを考えていく。
Tが特に感銘を受けたのは、特に物語の結末のようだった。
「今やすべての物語は女性たちのためにあるのかもしれませんね。妻は従順な新しい夫を伴侶とし、古い夫は家畜、つまりATMとして飼われる世界が暗示されています」
「Tさんは、その状況についてどう評価しているのですか?」
「このような女性の物語を男性が作ることの意味について考えました。新しい想像の共同体についてです。そしてその共同体に僕たちの居場所はない。最近思うのですが、中高年男性はお金があっても、孤独な人が多いように思います」
「つまり、男性が男性としての自己実現を信じられなくなり、女性を主人公に新しい自己実現のかたちと、共同体のかたちを物語の中で模索しているということですね」
「もはや男性は物語では救済できないのかもしれません……」
僕たちはやがて5キロメートルのランニングを終え、ゴール地点にある新国立競技場にたどり着いた。平日午前中のこのエリアにはほとんど歩いている人がいない。たまに見かけるのは散歩中の老人たちで、こころなしか、独りで歩いている男性をよく見かけるように思えた。僕とTはその外壁の階段を上り、地上5階の高さに設けられている遊歩道を歩いた。見晴らしの良いベンチを選び、腰を下ろした。そして僕たちは、明治神宮外苑の緑を見おろしながら、その日の瞑想を始めた。これから迎えるべき神聖な「食」の時間に向けて、心身を整えるのだ。
獣の世界に物語はなく
神の世界に幻想はなく
獣と神の世界には、過去も未来も演劇性もなく
その日、僕の脳裏に浮かんだのは、少し前にTと交わした会話とさっきまで走りながらTと話した『哀れなるものたち』についての議論の続きの入り混じったものだった。
「僕が通っている道場が吉祥寺にあるのですが、駅の構内のベンチに、いつも朝八時前から座って独りで新聞や本を読んでいる男性がいます。おそらく、六十代から七十代くらいです」
「それは僕には、とても優雅な生活のように思えますが」
「彼は家族を持たず、仕事もなく、独りで生きているように見えました。その孤独に耐えられないから、人が大勢いる駅の改札口近くのベンチに毎朝通っているではないでしょうか?」
「彼が〈哀れなるもの〉に見えるのだとしたら、それはその人が誰かにかかわることで尊厳を保ってきた存在だからではないでしょうか。妻を所有し、子を所有し、会社の部下を所有する」
「そういう人をバカにはできないのではないでしょうか。人間の自然本性はラーメンと瞑想だけで生きていけるように作られてはいない。異性や社会からの承認を必要としているものです」
「僕は異性に承認されないと生きていけない、という感覚がよく分からないです。もちろん、承認されたら嬉しいです。しかし、仕事を通じて社会に触れることのような切実さを伴って感じたことはありません……。そして仕事とはむしろラーメンと瞑想の延長にあるもののように思えます。仕事とは最終的に人間が世界に加えた変更が、つまり人間と事物との純粋な関係だけが残るもののように思えるから」
「そう思えるのは一種の才能のようなものかもしれませんね。ラーメンと瞑想の世界を遊ぶための資質と言ってもいいです。僕は特定の誰かである必要はないのですが、異性のペルソナを媒介した世界からの承認は欠かすことができません」
「逆に、誰かに認めてもらうことだけを支えに生きていくのも難しくなってきているのではないですか。家族や職場からの承認を得ることが正しく〈男らしい〉生き方だと考え、稚拙に依存し続けた結果が、現代の中高年男性の孤独を生んでいるように僕には思えます。現代の世界でいちばん醜いものは、オーナーや経営者や管理職だけが楽しい職場の「飲み会」と、お父さんだけが楽しい家族の観光旅行です。そういった満たされ方に慣れてしまった人たちが、たとえば定年退職後に自らが主役になれる共同体を失ってしまったときに、「哀れなるものたち」になるのかもしれません……。社会に接続する方法は、他の誰かと直接関係することだけでなく、事物を通しても可能なはずです。そしてそうではないと得られない豊かさもまた、存在する。ラーメンと瞑想を過小評価してはいけません」
「宇野さんが最近よく送ってくるYouTubeの動画を、僕は直視できないんですよ」
「え、観てないんですか? あんなに送ったのに……」
衝撃の告白だった。Tならきっと共感してくれると思って、惹かれる動画に出会うたびにLINEで送っていたのだが、ほとんど観ていないというのだ。
Tが述べたのは、最近僕がハマっているYouTubeチャンネルの動画のことだ。それは西日本に暮らすある50代の独身男性(バツイチ)が気ままな生活を自ら記録し、発信するチャンネルだ。彼は築50年で家賃5800円の市営住宅に暮らし、節約生活を続けながらその時間的、金銭的な余裕で好きなことを楽しんでいる。古い市営住宅の隙間風を塞ぎ、内装の古さをカバーし、コンセントの配線を隠すと言ったDIYをとても楽しそうに行っているし、趣味のドライブと車中泊のために格安で購入したバンの居住性を上げるための改造にも余念がない。僕は彼の動画を観るたびに、独りの時間の使い方について考える。そして彼の気ままな生活に、憧れを抱く。
「たしかに独りで世界を楽しめる人間には憧れます。しかしそれにはいくつかの条件と才能が必要だと考えています。それが表現であるならば、何らかの形式が必要です。僕にはあの動画は生々しすぎました……」
4.命の選択を
瞑想を終えると、昼食をどうしようかという議論になった。このときはお互い時間があり、いつもはあまり足を向けない場所に行こうという話になった。そこで僕はいい定食屋があると言って、TをはじめてPARIYA AOYAMAにつれて行った。
この日のメニューはメインが、「ハニーレモンチキン」、「コーンフレークフィッシュフライ サワークリーム&スィートチリソース [+110円]」、「ネギ塩チキンスクランブルエッグ」、「チキンのポルチーニクリーム [+110円]」、「豚肉とキノコのマヨポン炒め」の5択だった。僕はフィッシュフライか豚肉とキノコのマヨポン炒めで迷ったが、結局はサワークリーム&スィートチリソースの誘惑に負けて、フィッシュフライを選択した。サラダは「カボチャとさつまいものデザートサラダ 生クリーム&カラメルソース」、「アンディーブとレンコン、カッテージチーズのホワイトサラダ [+110円]」、「茄子とトマトの油淋だれ」、「季節野菜のわさび醤油マリネ [+110円]」、「クレソンとルッコラのグリーンサラダ シグネチャーフレンチドレッシング」の5択で、味としては一番「茄子とトマトの油淋だれ」に惹かれたが、バランスを考えて「わさび醤油マリネ」にした。
問題はサイドメニューで、「豆腐乾絲(トウフカンス)と高菜、空芯菜のナムル」、「ちくわの磯辺揚げ」、「オイスターヌードル」、「ちぎりキャベツの青山椒オイル」の4択だった。断然僕は「オイスターヌードル」が好きなのだけれど、揚げ物をメインに選択した以上、どうしてもカロリーが気になってしまう。そこで僕は計算する。今週の炊き込みご飯である「コーンペッパーライス」を諦めて、玄米に変更する。そして汁物の「オニオンコンソメスープ」を1杯だけにすれば、多少は帳尻が合うはずだ……そう、やや自分に甘い算段をつけて、会計に進んだ。ショーケースの前に、僕に続いて並んでいたTはメインに「ハニーレモンチキン」、サラダは僕の断念した「茄子とトマトの油淋だれ」、そしてサイドメニューは「空芯菜のナムル」を頼んでいた。
一度席にそれぞれの盆を並べた後、僕たちはドリンクバーに行って飲み物とスープを紙コップに注いだ。僕はいつもの「アイスマテ茶」、Tは「アイスコーヒー」を選択し、スープはお互いなみなみと注いだ。
そこから先はロクに会話もせず、一気にがっついた。ランニングの後に、目の前の皿に全力で向き合うのが、僕は一番幸福な時間だと思う。サワークリーム&スィートチリソースが、口の中で衣の脂分と白身の上品な甘さと混じり合う。やっぱりこれにして正解だったと白身さかなフライを噛み締めながら、もちもちした玄米ご飯を口に運ぶ。やっぱりこのおかずには主食にシンプルな味付けのものを選び正解だったと、僕は再び自分の選択を心のなかで誇る。複数の葉物のたっぷり入った「わさび醤油マリネ」が、箸休めにいい仕事をしてくれる。ときおりオニオンコンソメスープをすすり、咀嚼を続けた僕はおっとこれを忘れてはいけないと、思い出したように「オイスターヌードル」に箸を伸ばした。旨みたっぷりのソースが染み込んだ麺のしっとりさとシャキシャキした具材のバランスが絶妙で、これだけで皿いっぱい食べたいと思う。やっぱり今日はここに来て良かった……。食後の「アイスマテ茶」をごくごく飲みながら、僕は満たされていた。
「たいへんうまかったです」
ブルドーザーのように目の前の料理を口に放り込んでいったTも、ご満悦のようだった。ただ、店を出るとTは、周囲に他の客がいないのを確認して、そっと僕に告げた。
「味は素晴らしかったのですが、さすがに若い女性ばかりで落ち着きませんでした。僕は『浮く』ことは気にならないのですが、特に食事に関しては、こういう明るいキラキラした店よりも薄暗い店の方がずっと落ち着いていいですね」
Tは苦笑しながらそう告げ、そして「宇野さん、いつもここに独りで来ているんですか」と付け加えた。そうだと答えると「本当ですか」と驚かれた。
そして、僕はこのときTに言われてはじめて気がついた。今まで気がつかなかった……というか気にしていなかったが、たしかにこの店はいつも若い女性ばかりだった。
それは開店直後から30分ほどたった……いわゆるランチタイムの真っ只中で、気がつけば店内は満席になっていた。店内に男性はほんとうに僕とTしかいなかった。周囲は実際に表参道と青山の間くらいにある店なのだから仕方ないのだけれど、表参道や青山にいそうな女性――それも20代、30代の女性ばかりだった。明らかに、40代と50代の中年男性のコンビは浮いていた。
しかしTは僕より「社会的なもの」に敏感で、僕たちがこの店の中で異質な存在であることを正確に把握していた。
「え? そんなに若い女性客ばかりではない……と思うのですが……」
僕はTに反論しようとした。しかし、その声は自分でもどこかうわずっているように聞こえた。心の中では、たしかに彼の言う通りだ、なんで今の今まで気づかなかったのだろう……という疑問の声が渦巻いていた。
僕なりに、反論の根拠はあった。たしかにここはInstagramで「映える」ような色とりどりのサラダが魅力のデリなのだけれど、ショーケースに並んでいるときはともかく、こういってはなんだけれどこうして食べるときはまるで給食のように無機質なプラスチックの器に盛られるのでそれほど見映えはしない。そしてこの飾らなさが、僕は好きだった。このときまで、おしゃれな内装はしているものの、むしろ質実剛健なものすら僕はこの店に感じていたのだ。一見ヘルシーで、エシカルな「食」を志向していながらも、決して「おいしい」ことをないがしろにしない。それが、僕にとってのPARIYAというデリだった。
実際問題としてメインのおかずだって、ハンバーグだとか豚の角煮だとか回鍋肉だとか、男性にも人気のガッツリしたものがかならず選択できるようになっていて、実際に身長180センチ以上ある(日本人男性としては比較的大柄な)僕が食べても十分にお腹いっぱいになる。だから、僕は本当にこの瞬間までこの店が女性客を主にターゲットとし、そして実際に女性客に占められていることに気づいていなかったのだ……。
「僕は女性と一緒ならこういう店も行きますが、独りで来たいとは思いません。宇野さんはここにいつも独りで来ているんですよね?」
「はい。仕事でこの辺りに来たときに、よく……」
僕は普段仕事の行き帰りなどに主に独りで来ているのだ。このときまでまったく意識していなかったが、夫婦や恋人同士で訪れる客はたまに見かけるような気がしなくもないが、男性の独り客はかなり珍しいように思えた。
「このお店に独りで来る中年男性はあまりいないでしょうね」
宇野さん以外は、という最後の一言をTが飲み込んだのが分かった。
Tの指摘を受けてから、僕はこの店を訪れるたびに独りで来ている男性客を目で探すようになっていった。ふとした瞬間に、それまで脳内からアンインストールしたはずの「社会的なもの」が不法侵入してくるようになった。すると、キョロキョロと席の周りを眺めてしまう。そして男性客を探す。いないわけじゃない。しかし、決定的に少ない。やっぱりいても、夫婦やカップルで来ている人が多い。あるときは、窓際の席に独りで座っている僕よりも少し年下に見える30代半ばの男性を発見し、勝手に「お前、分かっているじゃないか」と嬉しくなった。しかし、僕が食べ終わって店を出ようとする頃には、彼は妻と思われる同年代の女性と楽しそうにテーブルを囲んでいた。僕は勝手に裏切られたような気分になった。こんなにおいしいのに、なんで世界の男性はこの素晴らしさを理解しないのか。男性だろうが女性だろうが、おいしいものはおいしいのに、どうして人はつまらないことを気にしてしまうのか……。
しかし、このときふと、思った。僕は今、目の前の食べ物に完全に集中していない。自分の愛するPARIYAがどうして、自分と同じような中高年男性に愛されないかという社会的な問題に意識が拡散し、目の前の「豚肉とトマトの塩炒め甘酢あん」と「スイカときゅうりとパクチーとクリームチーズのサラダ(ライムドレッシング)」と「あさりのバタースパゲッティ」と、「チーズおかかごはん」そして今週のスープである「なめこの味噌汁」に全力で向き合えていない。いや、さすがに食べているときは夢中なのだけれど、食後に雑念が入り、余韻を最大化できていない。
そして思った。この感情こそが、人間を「哀れなるもの」にするのだ。「食べる」という自己と世界との純粋な対話を、人間はいつの間にか他の人間との対話の道具に貶めてしまう。その喜びを誰かと分かち合いたいと考えるのは自然なことだ。その素晴らしさを、僕は否定するつもりはまったくない。しかし、それとは別に、「食べる」こと自体の喜びが世界に存在する。僕はそのことを確信している。しているはずなのに、Tとのやりとりをきっかけに、いちばん大切なことを忘れるところだった。この素晴らしさを、もっとたくさんの仲間たちに理解して欲しい。その当たり前の感情の処理を、ほんの少し間違えてしまうだけで人間は自己と世界との純粋な対話の素晴らしさを忘れてしまうのだ。そしてそのことがときに人間を寂しさに導き、「気ままな」時間を生きる者から「哀れなるもの」にしてしまうのだ。
そして僕は思った。僕は自分と同じような存在をこの店で探すべきではない。独りで来ている中高年男性客を探して、安心するなどという卑しい行為に手を染めるべきではない。
この定食の素晴らしさを、誰かと共有したいと考えたとき、僕が取るべき手段は一つ。自分がこの定食を味わったこの時間の素晴らしさを、言葉にして世界に発信することだ。それは、どこの誰に読まれてもいい。それは僕のような中高年男性でもいいし、そうじゃない人でもいい。遠い未来の読者が、21世紀前半の食文化を知る手がかりとして読んでもいいし、遥か未来に来訪した宇宙人がこの星の人のことを知るために解読を試みてもいい。僕はこの先独りで来ても、誰かと来ても一人の人間として、思う存分食べ、そしてこの「食べる」という体験のことを世界に書き残せばいいのだ。僕は誰かを「探す」のではなく、いつかこの店のことを知る誰かのために「書く」べきなのだ。そしてそれが僕の「仕事」なのだ。
だから僕は今、この文章を「気まま」に書いている。今週もきっと、どこかでPARIYAに足を運ぶだろう。そして今週のメニューを眺めて、戦略を立てる。長くなるのですべては引用しないが、今週の僕はまずメインに「ジャスミン茶で茹でたゆで豚のガーリックソース」を選ぶだろう。サラダは「コンビーフとフリッジのサラダ コーンマヨネーズ」を食べたいので、サイドメニューは野菜中心にしたい。なので、「紫キャベツとひじきのジンジャーマリネ」を選ぶ。ごはんは「ガリと大根の酢飯」にして「トマトコンソメスープ」に合わせるのだ。
(#5に続く)
連載【ラーメンと瞑想】
毎月水曜日更新
宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、『水曜日は働かない』(ホーム社)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社)など。立教大学社会学部兼任講師も務める。