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#5 武蔵野アブラ學会と『カワセミ都市トーキョー』 宇野常寛「ラーメンと瞑想」

※このエッセイは、小説的な内容を含みます。登場する人物と団体は、基本的に架空のもので実在のものとは関係ありません。ただし、取り上げているお店はどこもとても、とてもおいしいのでオススメです。
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design:Kawana  Jun


1.カワセミの棲む街

 ある日、僕はTを誘った。
「Tさん、今度カワセミを見に行きませんか?」
 あまり知られていないが都心の河川ではこの時期、カワセミが頻繁に見られる。東京都心の河川は近代の、特に戦後の主に生活排水の増加で七〇年代には生物が生息できない「死の川」になった。しかし、下水道環境の整備により九〇年代以降水質はみるみる回復し、その結果として一度都心からは「撤退」したカワセミたちは都心の河川に回帰していった。今日では、季節によってはそれほど探し回らなくても簡単にその姿を確認することができる――。

 ちなみに以上の記述は完全に柳瀬博一『カワセミ都市トーキョー』からの受け売りだ。正確には柳瀬本人からの受け売りだ。先輩編集者に当たる柳瀬と僕は実は家が近く、僕の虫取りなどの自然観察の趣味は概ね彼の指導下にある。言ってみれば彼は僕の趣味面での師匠というか、先輩格というか、『釣りキチ三平』における鮎川魚紳のような存在だ。実際に同書には柳瀬が僕を近所の川に連れ出してカワセミを観察するくだりも収録されているのだけれど、このとき僕は毎週水曜日の「朝活」の「ついで」に、Tを連れ出してカワセミを観察しようと思ったのだ。
 それは、いつもの朝活とはちょっと違う場所に出かける、日常のささやかな、そしてそれだけに素敵な提案だと我ながら思った。
 しかし、Tの反応は冷淡だった。
「鳥なんて見て楽しいですか?」
 Tは怪訝な顔をして言った。
「恐れと悲しみの中を生きる者」を自称し、常日頃から矮小な人間関係の網の目から離脱し、獣と神の世界――ラーメンと瞑想の世界――に身を投じたいと常々述べている割に、このTという人物はいざ僕が具体的なアクティビティを提案するとしばしば難色を示した。
 そして言うにこと欠いてこのときは「焼き鳥屋めぐりのほうがいいです」とまでのたまった。
 なんて情緒のない人間なんだと思った。
「Tさん、実は自然とか好きじゃないですよね……」
 しかしそう僕が言うとTは不服そうに反論した。
「僕はルソー主義者ですよ。『ロビンソン・クルーソー』は素晴らしいという判断に同意しています」
「じゃあ行きましょうよ」
「なんでそんなに鳥に興味あるんですか」
「逆になんでそんなに鳥に興味ないんですか」
「むしろ鳥に興味があるほうに理由が必要だと思います」
 僕は単純に、珍しく美しい鳥を目にするだけで気分が高揚するのだけれど、それがいまいちTには伝わらないようだった。
「Tさんの考える〈自然〉は観念的なものです。人間関係に閉じた矮小な〈世間〉から切断された外部として、ロマン化されたものではないですか? しかし僕の好きな自然は違います。近所の川にやって来るカワセミの青い羽の美しさにただ感動する。極めて具体的な驚きと憧れです」
「人間の自然本性が鳥や虫に関心を示すのはそれが食料だったからです。しかし、現代の人類はカワセミのような野鳥を食べる対象として見ていない。そこには特別な意味づけをしているのです。宇野さんの求めているカワセミこそ、自然と乖離した観念的なものです」
 平行線だった。僕もTも、自分が求める自然こそが観念的なものから離脱した自然そのものなのだと主張して、譲らなかった。
 しかし僕はどうしても来週水曜日の朝にカワセミを探したかったので、一計を案じた。
「そういえば僕がカワセミを探そうとしているスポットの近くに、僕の好きな油そば屋があるのですが……」
 僕は半ば強引に話題を変えて、スマートフォンの画面を見せた。そこに映っていたのは、『武蔵野アブラ學会』の濃厚油そばの写真だった。 

2.求道者たち

 かくしてその翌週の水曜日の朝、僕とTはカワセミを見るために、少し離れた都内のある川べりに出かけた。その川は「土手」のないコンクリート三面張りになっていて、一見そこに自然の匂いはまったくしない。しかし柳瀬によれば、こうした環境「だからこそ」カワセミは都心に帰還したのだ。
 九〇年代以降の水質の改善が、都心の河川にカワセミを呼び戻したことは前述した通りだ。では、そこでカワセミたちはどのように生活しているのか?
 柳瀬の観察によれば、彼らの主食は外来種のアメリカザリガニ、シナヌマエビなどだ。一度生物の棲めない「死の川」になってしまった都内の河川の多くでは、現在そこに生息しているのは九〇年代以降に何らかの理由で放たれた、または侵入してきた「外来種」の類だ。そしてそこに「外来種」であるザリガニやエビが繁殖したからこそ、カワセミはそれを餌にするためにこれらの河川に帰ってきたのだ。
 巣穴についても同じことが言える。通常、カワセミは川辺の土手や土壁などに巣穴を掘る。しかし、都心に回帰したカワセミたちは人間が設置したコンクリートの取水口を巣穴に用いるのだ。
 つまり現代の都心に暮らすカワセミたちは、人間が作り上げた環境に適応して、むしろそれを利用して繁殖しているのだ。一見、コンクリート三面張りの無機質の河川こそがカワセミたちにとっては理想の環境になっている。柳瀬はこの現象から現代人に支配的な「自然」観の修正を促す。自然とは、人間の世界から切り離された「外部」ではなく、むしろその内部に入り込み、一体化しているものなのだ。

 そして柳瀬に影響され、都心でカワセミを探す僕と「食べる」ことのできない自然に興味を抱かないことこそが人間として「自然」であるというTは、ある種の思想的な決着をつけるためにその朝柳瀬に教えられた川べりに現れた。
「先に食べます?」
 しかし、Tの頭は既に武蔵野アブラ學会のことでいっぱいだった。
 僕は探してから食べるに決まっているだろう、と言いたくなったけれどぐっとこらえて「時間的に、カワセミが飛来するタイミングがあるので川をチェックしてから食べたいです」と答えた。
 露骨にがっかりしているTを促して、僕は某川にかかる橋に向かった。
 橋の上には、予想した通りバズーカ砲のようなカメラを手にした初老の男性がいた。
 カワセミを探すにはカワセミ狙いのカメラマンを探せ――これも柳瀬の受け売りなのだが、僕は教えにしたがってその男性に話しかけた。
「カワセミですか」
「うん。でも、今日はまだ来ないね」
 突然話しかけた僕に、その男性は気さくに答えてくれた。
 ちなみにこの時点でTは僕の側から離脱し、近所の公園の由来の書かれた看板を読みふけっていた。
 恐るべき関心のなさだった。
 さすがにウィキペディアを引けばこの十倍詳しく書いてあるだろう公園の由来を説明した看板よりはカワセミのほうが優先度が高いと思ったのだが、油そばで釣ってここまで連れてきた以上、この程度の無反応は予測の範囲内だった。
 Tは存在しないものと思うことにして僕は男性に状況を確認した。最近、この時間にカワセミがよく来て、餌を獲っていること。どうやら巣はこの橋より上流にあると思われるけれど、まだ発見していないこと。より下流に狩りに行くことも多いが、今朝はまだ飛来していないのでこれから巣のある上流から来るのではないかということなどを、男性は饒舌に説明してくれた。
 そしてその間、看板を読み終わったTは僕らのいる橋にも寄り付かずに、刀を持つようなポーズを取ってエア素振りを始めていた。
 いろいろ諦めた僕は毎日ここに来ているという男性から、この数日のカワセミの動向を聞き出そうとした……そのときだった。
「あ、来た」
 男性はさっとカメラを構え、バシャバシャ撮り始めた。
「え、どこですか?」
「そこ、はしごに止まっている」
 男性に促されて、僕も発見した。やはり美しい、と思った。コンクリート張りの川壁に、カワセミの青い羽と黄色い腹がよく映えた。そのカワセミはしばらくその、作業用のはしごに止まっていると突然飛び立ち素早く川面を突っついて戻る、という動作を繰り返した。餌を獲っているのだ。
 僕は慌ててTを呼ぼうとした。しかし彼はそのとき、僕たちからかなり離れた路上で、今度は合気道のなにかの型を練習していて、僕たちを視界に収めてもいなかった。こりゃあダメだ、と僕は思って目の前のカワセミに集中した。カワセミは同じ動作を数回繰り返したあと、下流のほうに飛び去っていった。その間、ほんの数分だったように思う。
 男性はカワセミはまた戻ってくるだろうけれど、自分は巣穴を探しに行くと言って上流のほうに去っていった。僕は男性にお礼を言って見送ると、Tのところに駆け寄っていって、さっきまでカワセミがいたこと、そしてそんなに離れたところにいたら呼べないことを話した。
「へぇ、いたんですか。見たかったな」
 まったく心のこもっていない感想をTは述べた。
「じゃあ、瞑想して、油そば食べに行きましょうか」
 そして逆に本当に嬉しそうに、Tは言った。 

3.ルソー主義者の憂鬱

 その日の瞑想は、先程までTが熱心に看板の説明を読んでいた公園のベンチで行われた。そこはかつて江戸時代の大名が所有していた庭園を基にした公園で、丘陵部にはちょっとした森が形成されていた。その森は、僕が季節ごとの虫を観察に出かけている、馴染みのある場所だった。Tはベンチに腰を下ろすと結跏趺坐けっかふざの姿勢を取り、僕はその傍らに腰を下ろして静かに目を閉じた。 

獣の世界に物語はなく
神の世界に幻想はなく
獣と神の世界には、過去も未来も演劇性もなく

 このときの瞑想中に、僕の脳裏に浮かんで消えたのは、かつてTと交わした議論だった。

「ルソーのいう事物とは自然のことでもあります。宇野さんが自然を観察することも、僕が合気、つまり宇宙の気と合わせることを探究していることも、人間間のゲーム的、記号的刺激ではなく、事物との関係そのものに関心があるからです」
「ゲームは〈攻略〉するものです。その達成感は対象となる事物そのものの本質を、むしろ見失わせます。タイムや筋力の向上に囚われることで、人間は〈走る〉ことそのものの快楽から遠ざかる。それと同じです」
「多くの仕事に囲まれて忙しくしている状態は一見、事物と関わっているように見えるかもしれませんが、他の人々によって過剰に増幅されたものですから、記号、つまり人間への依存と考えた方がよいのでしょう。そしてそういうものに依存している人間は社会的状況の変化に弱くなります」
「人間が働かないことにより不安を覚えるのは、主に収入が絶たれることに不安を覚えるからです。しかし、いまTさんが指摘したのは、むしろ定年退職者の手持ち無沙汰と、社会的な孤立といった問題に近いものですね」
「そうですね。つまり人間や社会が変化しても動じない関係を世界そのものと作っておく必要があるのでしょう」
「僕は〈働く〉ことで自分らしさを確認し、社会との接続を確認する必要は必ずしもないと考えます。しかし、現代人の生活の大きな部分を〈働く〉時間が占めている現実はなかなか変わることはない。なので、〈働く〉時間をゲーム的な快楽から救済する知恵が必要なのかもしれません」
「ゲーム的な刺激に依存しない〈働く〉快楽を見出したいということですね?」
「労働は生活の糧を得るためのものととらえ、自己表現や社会参加と切り離して考えたハンナ・アーレントは、しばしば労働社会学の立場から批判されます。それは労働を通じた個性の発揮による自己表現や、社会的な役割を果たすことによる承認の問題を軽視しているのではないかという疑問に基づいています。しかし問題はむしろ〈働く〉ことを何かを得るためのゲームとしてのみ位置づけることにあったのかもしれないと僕は考えます」
「労働は誰かのためにやらされているものという意識になりがちです。ここでは主体が奴隷的にその誰か、つまり主人や社会のシステムに依存してしまいます。対して、修行は私と世界、宇宙との関係で行われます」
「そうです。雑巾がけもトイレ磨きも経費精算も、それを修行としてとらえることで、つまり心身を整えるものとして位置づけることでゲーム的ではない快楽をもたらします。この快楽は、ゲーム的な快楽と同じくらい劣悪な労働環境に奴隷を適応させるための主人の知恵として悪用されてきました。しかし同時にそこには、ゲーム的に〈攻略〉することなく事物そのものに触れる快楽を得られる心身に接近する回路があります」
「つまり現代的な労働観を前提にした上で、労働に修行的な側面を回復するという戦略ですね」
「労働に生活手段でも自己表現でも、社会的な役割でもない第四の価値を与えること――それが一つの解になるのではないでしょうか」
「僕に限らず経費の精算や書類の整理などのルーティンワークを心身の安定に用いている人は多いと思いますよ。道場での掃除も同じです」

 Tのスマートフォンの瞑想支援アプリケーションが、その時間を終えるハープの音色を奏でた。
 目を開けると、長時間足を組んでいたTが顔をしかめながらその足を崩していた。
 そして、彼の姿を眺めながら僕は瞑想中に思い出していたTとの議論の延長線上に考えた。
 だとしたら、どう考えてもまともに働いていない――まさに「修行」としてしか働いていない――この人物がカワセミにまったく関心を示さないのはなぜだろうか、と。
「お腹が空きましたね。早速行きましょう」
 Tの頭の中は、既に油そばでいっぱいだった。 

4.油そばの禅味

 ここで、『武蔵野アブラ學会』についても少し説明させて欲しい。
 武蔵野アブラ學会とは国際基督教大学の同級生からなる創業者グループによって二〇一〇年に設立された油そば店だ。経営陣(の一人?)が運営しているらしいSNSの公式アカウントは「チン正男」という人物を称しており、ほぼ店舗の運営とは無関係な雑談を日常的に投稿している。アカウントのアイコンにはアフロヘアの怪人物のイラストが使用されていて、僕も何度かこの店で油そばを食べたあとに画像をアップしたら反応を受けたことがある。その投稿の無内容さと客へのリプライの気さくさが一貫しているため、僕もある時期まではチン正男が実在の人物であり、少なくとも早稲田総本店は彼個人が店主として切り盛りしているのだと想像していたので早稲田総本店に来るたびに、厨房にチン氏のアイコンと同じアフロヘアの中年男性を探していた。

 こうして紹介すると、ありがちな店主の個性的なSNSアカウントの宣伝効果に依存した話題先行型のラーメン店の類だと思われがちだが、武蔵野アブラ學会は違う。少なくとも僕の知る限り、武蔵野アブラ學会は都内の油そばでもっともうまい店の一つだ。実際に人気店で、決して競合の少なくない高田馬場、早稲田エリアでも同店の総本店はたいていのアンケートで常に上位にランキングされている。
 ……と、言いつつ僕は主に兼任講師を務めている立教大学のすぐ側にあった池袋店によく通っていたのだが、この池袋店は二〇二二年に「造反」し、一方的に独立したようで名前も味もまったく別の店になってしまった。この件についてはいつもSNS上でユーモラスな、というか真面目に店の宣伝をする気がなく適当な投稿ばかりをしているチン氏が本当に困惑……というか激怒していると思われる声明を出していたので、かなり深刻なトラブルがあったようだ。

 僕はこの池袋店、総本店よりも新型(?)の券売機を導入していたせいかトッピングの種類が多く、特にキムチがつけられるところが気にいっていたのだが、上記の理由でなくなってしまったのでそれ以降、早稲田総本店に通うようになった。ここは、自宅のある高田馬場に近いだけでなく、僕の昆虫や野鳥の観察ルートの動線に近い位置にあるのも相まって、今ではすっかり総本店ユーザーだ。そしてやはり、油そば自体も総本店がうまい。トッピングの種類が少ないのは残念だが、職人の腕がいいのか、支店では総本店のノウハウがやはり伝承の過程でアレンジされてしまうのか、単純に麺が(少なくとも池袋店より)うまい。もちもちしていて、そしてよくタレに絡む。

 ちなみにこの『武蔵野アブラ學会』には、大まかに分けて「通常」の油そばと「特濃」の油そばがある。
 僕の好きなトッピングは味玉に肉増し、野菜、ネギ増しそして「海苔三昧」だ。この「海苔三昧」とは板海苔、刻み海苔に加え、どう表現していいかわからない手でちぎったような形状の海苔が載せられてくるトッピングだ。そして、僕は通常の油そばではなくたいてい「特濃油そば」を食べる。前者と後者ではタレが違う。どうやらラードを使ったよりパンチ力のあるタレが使われているらしいが、同店の極太麺にはこちらのほうが合うと思っている。通常、油そばは客が辣油や酢を混ぜながら味を調整するのだけれど、この「特濃油そば」は、最初から完成された味で提供されており「そのまま」食べることが推奨されている。だからその日も僕はこのトッピングで「特濃油そば」の普通盛りを頼み、チン正男の完成された世界観を堪能することにした。
 対して、Tは通常の油そばの大盛りを注文していた。トッピングは僕を真似て、味玉に肉増し、野菜、ネギ増しそして「海苔三昧」を選んだが、そこからTは三、四口ほど麺を啜っては、卓上の胡麻辣油を丼に投入し、これでもかというほどにぐちゃぐちゃに混ぜていった。胡麻辣油の次は山椒辣油を投入して混ぜて食べ、ブラックペッパーをしこたま振って混ぜて食べ、最後に酢をたっぷり注いで混ぜて食べた。そしてそのたびに「うまい」「うまい」と繰り返していた。

 幸福な時間だった。たぶん、ふたりとも十分程度で完食していたと思う。朝から散歩して、カワセミを見て、油そばを食べて……完璧な一日のはじまりだった。
 ふたり揃って無料提供のスープを食後のお茶代わりに飲んでいると、Tは僕に語り始めた。
「油そばはラーメンのように即食すものではなく、調味料を入れては混ぜ、調整しながら食べていくものです。それは、人間は完全に純粋にはなれないという気づきに繋がります」
「ラーメンと瞑想、獣と神の世界を往復し人間の世界を相対化する。しかしそれはあくまで、二つの異界への接近であり、人間が完全にそれらの世界に移動することはない……」
「人間は常に時間と空間に制限されているからです。そのため人間は一時的に瞑想状態に入ることができるが、永続的ではありません。それはダンテの言う天使的知性と人間的知性の違いのようなものです」
「同じように、ラーメンへの耽溺にも限界がある?」
「人間は知性も獣性も習慣化することしかできません」
「逆にそれは、目の前の丼に集中することで理性の楔から一時的に解き放たれることができるということですか?」
「そうです。そして自然や虫への関心を失ったと思っていても実際に美しいカワセミが目の前にいるのを見れば関心を取り戻します」
「そしてそのときに重要なのは、対象への自分なりのアプローチを発見すること、だということですね。卓上の調味料たちを用いて、油そばをチューニングするように」
「禅味あふれる話です」
 そう言って、Tは話をまとめた。
「でもTさんは、そもそもカワセミに何の関心も示していなかったじゃないですか」
 さすがに僕は指摘した。油そばの話はともかく、近所の公園の由来を説明している看板を熟読していたTは、本当にまったく、ほんの少しもカワセミに関心を示していなかったからだ。
「それは僕がカワセミを見られなかったからです。見られたらきっと関心を取り戻したことでしょう」
 あまりの言い分に、僕はさすがに突っ込もうとした。
 しかし、Tに答えようとしたその瞬間に、はっとした。
 僕はTを、自然そのもの――つまりカワセミ――には関心を示さず、自然という観念――つまりロマン化された資本主義の外部――を求めているだけだと批判した。しかし、逆なのではないか。むしろ、一週間前からカワセミを見るのを楽しみに準備して、柳瀬に今年よく目撃されるスポットを複数箇所教えてもらい、そして先客のバードウォッチャーに導かれてカワセミを探した僕こそが、カワセミという記号を追いかけていたのではないか、と。僕はカワセミを見るためにその川を訪れ、そして予定通りカワセミを見て満足した。しかし、それは自然への、獣の世界へのアプローチと言えるのだろうか、と。
 対してTはそこでたまたま目にした、近所の公園の歴史的由来の書かれた看板を熟読していた。それは、彼にとって偶然の、予想外の事物との遭遇だったはずだ。むしろ本当の意味で自然に遭遇し、そして耽溺したのはTの側だったのではないか――僕はそう思ったのだ。
 そして、僕はこのとき密かに自分が今回特濃油そばをチューニングしなかったことを後悔し始めていた。たとえ店が、チン正男が「そのまま」混ぜて食べることを推奨していたとしても、僕は卓上の調味料を用いて自分の丼をチューニングするべきだったのではないか。それが「油そば」をより深く味わう方法だったのではないか。都心に回帰したカワセミが「たまたま」そこにあった人間が設けたコンクリートの川壁の取水口を住処にし、外来種のアメリカザリガニやシナヌマエビを食べて暮らしているように……。
「たいへんうまかったです。また来ましょう」
 店を出た後、Tは上機嫌だった。そして食後のコーヒーを飲みたいと、喫茶店を探し始めた。腹ごなしに、飯田橋の方面に歩こうと提案しながら、僕は近いうちにまた来ようと心の中で誓った。僕はやはりタレの味が好きなので、次もまた特濃油そばを注文するだろう。しかし今度は、麺を半分ほど食べたところで、二種類の辣油と酢を少しずつ投入して「味変」を試してみたいと思う。最後はブラックペッパーをしこたま振るつもりだ。あるいは、有料トッピングのマヨネーズを別皿でもらい、刻み海苔が残っている間に投入するのもいいかもしれない。それはチン正男の完成された世界にメスを入れることになるのかもしれないが、きっと寛容な、というか(SNSの投稿を見る限り)いい加減な彼はきっと、僕のことを許してくれることだろう。

 (#6に続く)

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連載【ラーメンと瞑想】
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宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、『水曜日は働かない』(ホーム社)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社)など。立教大学社会学部兼任講師も務める。

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