最終話 たのしいこと 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」
老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊
1
秋、川崎の日の当たらないアパートで、近くの工場から流れてくる煤煙の化学的な刺激臭に苦しみながら、俺は青山ロスを乗り越えようとしていた。
そのためのツールを俺はすでに持っていた。
まず何より大事なツールは『瞑想』である。
このスキルは昔から、色恋に付随する苦をやりすごすのに有効とされている。また俺の瞑想スキルは、超人になるための修行の副次的な成果として、ほぼカンストしている。
俺は結跏趺坐を組むと半眼となって内面を見つめ、さくっと悟り状態に至った。この状態であれば、般若心経に書かれた『色即是空』という言葉の意味をダイレクトに体験できる。
すなわち青山への色欲は、空という実体のないものであることが明瞭に理解できるのだ。
「よし。あいつのことは忘れよう」
俺はすっきりとした気持ちになった。
だがしばらくすると慣れない結跏趺坐のせいで、全身に耐え難い苦痛が生じ始めた。
インドの聖者、ラマナ・マハリシは、座禅しすぎて左右の足の長さが変わり、歩くのに杖が必要になってしまったという。何事もやりすぎはよくない。
俺は座禅を解いた。瞬間、悟り状態というバフも解除され、強い青山ロスの感情が蘇ってきた。
そこで俺は次なるツール、『ていねいな暮らし』を用いることにした。愛欲は、『今ここ』から離れた妄想から生じる。それゆえに、目の前の今ここに集中したていねいな生活を送ることで、その迷妄から抜け出すことができる。
俺は心の中で刻一刻と拡大していく魅力的な青山のイメージを振り払うと、目の前の自室に意識を向けた。
思わず声が漏れる。
「これはひどい」
ヒルズレジデンスのラグジュアリーな部屋で過ごしたあとだと、俺のアパートの殺伐とした汚さが目に余った。
俺は掃除を始めた。
わずかに綺麗になった部屋で、久しぶりに筆をとり書に勤しんでみる。
今日はネットで『菜根譚』を検索し、出てきた一節を書き写そう。
「ええと……出世之道、即在渉世中。不必絶人以逃世。了心之功、即在尽心内。不必絶欲以灰心」
菜根譚は明の時代に書かれた一種の自己啓発書である。そこには道教、儒教、仏教をバランスよく混ぜ合わせた三教合一の処世訓が記されている。
今、俺が書き写している一節にも、著者である洪自誠の優れたバランス感覚がうかがえた。
すなわち、この世界を超越する方法は、この俗世間を渡り歩くことの中にある。人との交わりを絶って、ひきこもる必要はない。自分自身の本質に気づくための方法は、自らの心を理解しつくすことの中にある。欲を絶って、心を灰にする必要はない。
このような叡智に接しながら筆を動かしていくと、心が澄み渡っていくのが感じられた。
「よし。青山のことはもう忘れよう」
俺はすっきりとした気持ちになった。
だがしばらくすると、青山に対する愛欲、肉欲、その他多種多様な欲と執着がないまぜになった感情が湧いてきて、俺を圧倒した。
気づけば俺は台所の床に横たわり、ごろごろと転がりながら頭を抱え、煩悶し嗚咽していた。
「ううう……青山……青山ぁ!」
失ったものの大きさと、それをもはや取り戻すことができないという喪失感が、津波となって後から後から押し寄せ、俺を打ち砕く。
この痛みにはとても耐えられそうにない。
こうなったら、何かどぎつい刺激によって心を麻痺させるしかない。
この日本におけるどぎつい刺激の中心地といえば、新宿歌舞伎町だ。
「泣いてるのね滝本さん。はいこれ、心を落ち着かせるカモミールティーよ。ゆっくり飲んでね」
カルディで買ってきたらしい茶を俺に押し付けてくるレイ、彼女からマグカップを受け取った俺は、口内を火傷させながら一気に飲み干した。
そして、青山からもらった受講料の残金をポケットに突っ込み、アパートを出た。
電車に乗り、品川で乗り換え、新宿の東口を出る。
「…………」
ポケットの金をチェック。
三万円ある。
これを使い、できるだけどぎつい体験をしたい。
青山のことを忘れられるような。
だが猪突猛進は避けねばならない。
歌舞伎町には罠がいっぱいだ。そういった罠にぶちあたり、俺の大切な金や時間が食い潰される事態は避けたい。
同時に、俺の真の欲望を満たし、この胸の穴を埋めるための最適なルートを歩みたい。
だが生き馬の目を抜く新宿歌舞伎町で、そのようなことが可能だろうか?
この『滝本欲望満足問題』、それは量子コンピュータを使っても解き難い難問なのではないか?
そのような人生の難問に突き当たったとき、使うべきツールは『祈り』だ。
「……このあたりでちょっと祈っていくか」
俺は新宿東口の雑踏で左右を見渡した。すると、立ち話をしている女子二人の隣に、腰を下ろせるわずかなスペースを見つけた。
人に取られる前にそのスペースに座った俺は、目の前を行き交うエロい格好をした女どもをチラチラ見ながら神に祈った。
「神よ。三万以内で満足できるアクティビティを俺にくれ! それはフィジカルな刺激を伴い、深い肉体的満足を伴うものであるべきだ。そのような体験を俺に与えてくれ!」
だがどれだけ強く祈っても、神がそのような無料案内所のごとき役割を果たしてくれるとは思えなかった。
しかしここで俺は中世の神学論争を思い出した。全知全能の神は遍在しており、万物を包括しているので、当然、無料案内所も兼ねている。それゆえ神は、先ほどの俺の下賎な祈りにも答えてくれるはずだ。
なのに祈っても祈っても神からの答えはない。なんだか隣でずっと立ち話している女子二人から、不審げな視線を向けられている気もしてきた。
「…………」
いや、これは錯覚ではない。
明らかに女子の一人が俺をじろじろと見ている。
目が合った。
「な、何か?」
「人違いだったらすみません。滝本さんでしょうか」
名を呼ばれた俺は、瞬時に気持ちを営業モードに切り替えた。
一年に一回ぐらい、たまに読者の方から声をかけられることがある。そんなときぐらいは立派な作家っぽい雰囲気を出して、読者の方にサービスしたい。
「ええ、滝本竜彦です」
二人組の一方がジャンプしながら俺の作品に賛辞を述べ立てた。昔、俺の作品に人生を救われたとのことである。
むろんそれは錯覚だろう。人生を変える力を持つのは常に自分自身であって、人の言葉などはせいぜいそのきっかけや道標となるにすぎない。
だが女子に褒められるのは気持ちいいものだ。俺は彼女の賛辞を甘んじて受け入れた。
五分くらいすると人間関係における位置エネルギーが平衡化されたのか、彼女はすっと真顔になった。
「それにしても滝本さん、何してるんですか? ここで」
俺は念の為、もう少し作家っぽいことを言ってみた。
「執筆に疲れると、いつも人間観察をしてアイデアを探したりするんですよね」
「えー、ほんとですかー?」
特にもう作家っぽいことを言っても良い反応が得られないようだったので、俺は詳細をぼかしながら本心を伝えた。
「嘘です。実は……なんかドキドキするような面白いことはないかなと思って出てきたんですよ。こっちに」
「こっちに来て、何か見つかりました? ドキドキする面白いこと」
「どうだったかな。いろいろあった気がする。でも忘れちゃったな。そろそろ家に帰ろうかなとも思います」
「もう少し遊んでいってもいいんじゃないですか?」
「まあ運動不足なんで、こうして外に出るだけでも多少は気が晴れるというのはあります」
「運動不足なら私たちと運動していきませんか?」
「え、運動というと?」
「行きましょう。すぐそこなんで」
女子二人は歌舞伎町方面を指差した。
俺はごくりと生唾を飲み込むと、彼女らに挟まれるように東口の交差点を渡った。
女子二人は多くの若者がたむろする新宿東宝ビルの横を通り過ぎると、立ち話する男女が等間隔に並ぶ大久保公園の前を歩き、俺を薄暗い雑居ビルに導いた。
「ここです」
「ここは……ボルダリング・ジム?」
ボルダリングとは壁に登る遊びだ。女子二人はスムーズに受付で手続きを終えると、ロッカールームで軽装に着替え、靴を自前のボルダリングシューズに履き替えた。
俺も受付で手続きをし、シューズを借りた。ちょうどキャンペーン中で、入会金と初回のシューズレンタル費用が無料だった。そのことが俺を力付けた。
手に勢いよくチョークを塗りつけた俺は、全力で壁に取りつき、登った。
すぐにバテた。
どうやら筋肉を使って力任せに登るのは効率が悪いようだ。
ベンチに座って前を見ると、女子たちはかなりの熟練者らしく、こちらにせり出した強傾斜の壁に取りついては、その中でも特にハイレベルなルートを次々と踏破していった。
たいして力を入れているように見えないのに、彼女たちは重力を無視するように軽やかに高みへと登っていく。
その超人的なアクションには憧れざるを得ないが、俺はこの空間ではまだ一介の初心者にすぎない。
壁を登るための動きの基礎を学びながら、その新しい身のこなしを基本レベルから少しずつ実際に試し、時間をかけて自らを鍛えていかねばならないだろう。
やがて制限時間が近づいてきた。その前に俺の体力に限界が訪れた。
「もう手足が動かないんですが」
「新作、楽しみにしてますからね」
元の衣服に着替えた女子は、連れと共に歌舞伎町方面に消えていった。俺は重い体を引きずりながらも、不思議な満足感を抱えて川崎に帰った。
2
俺は小説執筆を再開した。最後まで書けたので原稿を編集者に提出すると、大幅な修正の指示が入った。
執筆と修正のループは何度も繰り返された。修正するごとに出版が遅れ、そのたびに俺のバイト生活は長引いていった。
煮詰まった気分を変えようと、執筆とバイトの隙間に趣味の音楽を作ってネットにアップするも、『いいね』の一つも付かない。
『金』と『賞賛』という喉から手が出るほど欲しい二大リソースが、手に入りそうで手に入らない。その苛立ちが俺の気持ちを荒廃させていく。
日差しが差し込まない、壁紙が煤けた部屋の中で、こんな生活をもう一日も続けていられないと焦れば焦るほど、小説も荒れ、音楽も荒れ、部屋も汚れていく。
もうだめだ。
どれだけ焦って早く結果を出そうとしても、小説も音楽も、俺の人生全体も、うまくいくヴィジョンがまったく見えてこない。
こうなったら長期戦を覚悟していくしかない。
俺は短期的な結果を出すのを諦め、すべての行動を長期的な目標に向けて集中させることにした。
俺の長期目標と言えば、千年生きることである。
俺は千年生きる者のように、ゆったりと小説を書いていった。
もうどれだけ時間がかかってもいい。
この心理的な永遠の上で、もっとも自分にとって気持ちのいい姿勢とリズムを探しながら書いた。
少しずつわかってきたこととしては、家の中で執筆すると気分が暗くなるということだ。暗い部屋で机に向かっていると、日に日に足腰が弱っていく。
日がな一日、家でパソコンに向かうというライフスタイルは、とても持続可能なものに思えない。千年どころかあと二十年も続けられないように思う。
そこで俺は、近所の公園のベンチに出かけ、そこでノートパソコンを開いてみた。まあまあ気持ちは明るくなったが、日差しが眩しくて作業を続けることができない。
そこで俺は次に、駅前の喫茶店に向かった。コーヒー代はかかるが、バイトが安定してきたため、払えないこともない。
特定のチェーン店では、二杯目のコーヒーを当日の同チェーン店で、百円で飲めるサービスがあることもわかった。このシステムを使えば、喫茶店を安くはしごして、リフレッシュしながら執筆を続けられる。
それは俺の心身の健康を増進しながらも、家計にも優しく、それでいて地域経済の活性化にもつながるという三方良しの執筆スタイルと思われた。
まったく書けない日も多かったが、なんにせよ俺は毎日、駅前の喫茶店でエディタに向かった。
そんなとき、たまに俺の顔を知っている人に話しかけられることもあった。
何年も一人、世間とズレたところで訳のわからない活動を続けている中、それは心底嬉しくありがたいことだった。まだ俺は誰か、生きた人間と繋がっているのだ。
3
気が遠くなるほどの修正作業の果て、ついに俺の新作小説が出版された。出版記念トークイベントでは俺の自作音楽をBGMとして会場に流した。
俺の予想としては、新作は世界的なベストセラーとなり、映画化、アニメ化、漫画化されるはずだったが、そうはならなかった。
それも仕方がないことではある。まだ時代が俺に追いついていないのだ。
俺はぶっちぎりで最速の進化を果たし、いまや一人で千年後の未来を生きているつもりだ。
そのような人間が生み出すコンテンツは千年先の面白さを持っており、それを受け取るレセプターを持つ人間には、比類なき喜びをもたらすだろう。
だが人間には個々の進化スピードがある。通常の人間の進化スピードでは、俺の生み出す先進の面白さを受け取ることは難しいのかもしれない。
そのように考えると、俺の新刊が予想に反して世界的ベストセラーとならなかったことにも、いくらかの納得を得ることができた。
いいや、どうしても納得できない。
作家というものは、コンスタントにベストセラーを生み出さぬ限り、都内に家を持つこともできず、自家用クルーザーのひとつも買うことができないのだ。
だいたい俺は千年先まで生きるので、ざっと計算して人よりも生活資金が十倍は必要なのだ。
なのに新刊が売れなければ、俺は永久に川崎の倉庫で段ボールを運び続け、地球の終わりまで貧窮問答歌を歌い続けることになる。そんなのは嫌だ。
なんとかして早くベストセラーを書きたい。
だがそれはもはや俺の能力の問題ではない。
俺の新刊は、百回ベストセラーとなるに足る面白さをすでに持っている。その事実は、確定的に明らかだ。
なのに俺の新刊が思ったより売れないのは、この世界に生きる人間の進化スピードが遅いせいだ。
ぜんぶ他人が悪い。
むろんこの俺の想いは、あまりに他責的であり、つい反射的に『こんなことを考えたらよくない』と否定してしまいそうになる。
だが、人類の進化スピードが遅いせいで俺の本が売れないことは、俺によって客観的に確かめられた事実だ。
事実は事実として認め、その先を考えよう。
つまり問題は、どのようにして、人類の進化スピードを向上させていくか、ということなのだ。
そう……人類の進化が遅いなら、俺の手で速めればいい。
だが、どうやってそんな大それたプロジェクトが可能となるのだろう?
俺はモノリスじゃないんだ。『2001年宇宙の旅』で、未だ道具を使うことすらできない猿を人類に進化させた謎の黒い板、モノリスのごとき力を俺は持っていないんだ。
だからそう簡単に人類を、次のステージに進化させることなどできるわけがない。
かといって諦めるわけにはいかない。
人類の進化を、俺は決して諦めない。
それにしても、この俺一人で人類を進化させようとしたら、五万年くらいかかりそうな予感がある。さすがにそんなに時間はかけられない。
「そうだ、俺一人で活動しているだけじゃだめなんだ。何か、人類を進化させるための、場、グループのようなものを作ることができればよいのだが……」
その願いが叶ったのかどうかわからないが、俺はバンドを結成することになった。
きっかけは、先日の新刊出版記念トークイベントだ。その打ち上げで俺は、昔組んでいたバンドのメンバーと再会した。
かつてのメンバーたちは、俺が今も音楽を続けていることを知ると、若かりし日を思い出すような遠い目をした。
昔話に花が咲く。
「あの頃はよかったなあ……ところで」
俺は後ろ向きな昔話をほどほどで切り上げると、バンドの再結成をそれとなく打診してみた。
とんとん拍子で話は進み、旧メンバーに加えて新メンバーも加入の上、バンドは再結成された。
月に一回か二回、メンバーとともにスタジオに入って曲を作り、練習する日々が始まった。
この活動が人類の進化に、本当に寄与するのかは、まだ未知数である。だが少なくともメンバーの演奏力は、練習を重ねるごとに進歩しているように思われた。
だがうまいバンドなどこの世に腐るほどいる。
あらゆるグループに必要なのは、その目指すヴィジョンである。
練習後、スタジオ近くの居酒屋で俺は、『人類』『進化』『超人』などといったワードを用いて、メンバーの皆に崇高なヴィジョンを伝えようとした。
「人類がさあ……進化がさあ……」
しかしどれだけ言葉を重ねても、いまいち俺の言葉は皆の心に響いていないように思える。
酒が飲めないのでいたずらにウーロン茶のジョッキを傾けながら、しかたなく俺はただ『楽しい雰囲気』を醸成するよう努めた。
なぜなら現代における効率のよい『進化』とは、厳しい淘汰圧によって無理やり捻り出されるものではなく、『楽しさ』による自然な意識の拡張から生じるものだからである。
それゆえバンド内に楽しい雰囲気を醸成することは、巡り巡って自分たちの進化と、その末にある人類の進化に寄与すると思われた。
楽しさを時空間に刻み込むように、バンドは定期的にスタジオでの練習を重ねていった。
やがて初ライブの日がやってきた。
ライブの一番初めの演目は、俺の誘導による『瞑想の時間』だ。
ライブでの瞑想、これはどうしても外すことはできない。
なぜなら俺は人類を超人へと進化させねばならないからである。
皆が超人となり、皆が千歳まで生きる未来を作らなければならない。そうせねば今現在、ただでさえ孤独な俺が、将来さらに孤独になってしまう。
だから俺は、マルチメディアな、さまざまな経路で、この世の人々に、超人になるためのエネルギーと情報を伝えるのだ。
今、俺は小説を書き、音楽を作っている。
バンドの皆と雑誌も作っている。その雑誌には、超人になるための様々なTipsや関連情報が、さりげなく幾つも掲載されている。それはまもなく開催される『文学フリマ』なる文学作品展示即売会で、全世界に向けて販売される予定だ。
だが今はまず、超人になるための瞑想を、ライブに来てくださった皆に分かち合わなければならない。
それにしても緊張がひどい。
友人たちとロックバンドの一員としてステージに立つのは、この人生で初めてのことだからだ。また、ステージで皆と一緒に瞑想するのも初めてのことだからだ。
幕が上がる一分前になり、緊張で手が震える。
このままでは楽器の演奏も、瞑想も失敗するだろう。
そのときポケットのスマホが震えた。取り出してみると、そこには以下の文面が表示されていた。
レイちゃんの知恵袋 その16
『応援を受け取る』
滝本さん! まずはライブの開催、おめでとうございます!
小学生のころ、ピアノの発表会が怖くてピアノ教室を一ヶ月でやめた滝本さんが、まさかそんなふうに楽器を持って人前に立とうとするなんて、人間の変化と成長は計り知れないものがあるなあと、私も感激しています。
ところで今、ひとつ謝っておかなくてはいけないことがあります。
この前、滝本さんと再会したときのことです。
あのとき、滝本さんが『俺は超人になった』だの『俺は千年生きる』だの、訳のわからないことを言い出したのを見て、私はショックを受けました。
正直、『もうこの人、まともな社会生活は無理なんだろうなあ』と諦めていました。
でもそのあと、滝本さんはすごく頑張りましたね。
たまに『バンドのライブで瞑想する!』なんて訳のわからないことを言い出しますし、理解できないことも多いです。
だけど滝本さんは、私が思ってる以上に頑張り屋さんでした。
段ボール運びのバイトから泣いて帰ってくる日もありましたし、心が弱ったときは何日も寝て過ごすこともありましたが、それでもしばらくすれば復活して、また前に向かって歩き出しましたね。
小説や音楽も、日々、こつこつ作って偉かったです。
そんな頑張りの成果が今日のライブです。
楽しんできてください!
そして滝本さん! あなたのことを実は見くびっていた私のことを許してください!
ずっと私、心のどこかで滝本さんのことをただのダメ人間だと見下していました。ごめんなさい。
でも今は、一人の頑張ってる人間として、素直に応援したい気持ちで見ています。
フレー、フレー、滝本さん!
この私の応援を、どうかまっすぐ受け取ってください。
そして、この先あなたに訪れるたくさんのいいことを、心を開いて受け取ってください。
そうすればきっと、笑顔が増えていきますよ!
*
メッセージを読み終えると、わずかだが緊張が解けたのが感じられた。そのときライブハウスのステージの幕が開いた。
俺の声は震えていたが、なんとかライブに来てくれたお客様とともに瞑想し、その後、自作の歌を歌うことができた。
これにより人類の進化は本当に速まったのだろうか? それはわからない。だが何かしらの楽しい時間を生み出すことはできた。
そう思いたい。
しかしライブから一夜明ければ、気持ちは灰のように燃え尽きており、いつもながら自分の手には何も残っていないことを、薄暗いアパートの一室で気づいて、暗澹とした気持ちとなる。
この暗い気持ちを抱えているばかりでは、人類の進化どころか、俺の退化が始まってしまいそうだ。
ライブは確かに楽しかった。
しかしもっともっと、沢山の楽しいことが必要だ。
この日常の中に、暗いアパートの中に、溢れるほどの楽しさが必要なのだ。
そんな思いを込めて、俺はバンドメンバーとともに作っている雑誌のタイトルを『たのしいこと』とした。
俺は抽象的なタイトルのその雑誌を、文学フリマで売った。
「いらっしゃいませー。チラシどうぞー」
隅の方に設置されたブースで販促チラシを配りながら、目の前を通り過ぎていく人たちに声をかける。
最初、なかなかチラシを受け取ってもらえず、また俺は落ち込んで暗い気持ちになった。
しかし声の調子や挙動を調整することで、少しずつチラシを受け取ってもらえる回数が増えてきた。
テンションが上がってきた。
俺は軽い変性意識状態に入りながらチラシを配りまくった。
やがてチラシを受け取った人が、ついにブースに足を止めてくれた。
この人を逃してはならない。
俺はかわいいピンク色の雑誌に目を落としながら、早口で内容を説明した。
「新刊『たのしいこと』、絶賛販売中です。これを読むと人生に楽しいことが増えます。楽しいことで人は成長し、進化し、やがて超人に……」
「あはは、『たのしいこと』って、なんなんですかこのタイトル。意味がぜんぜんわからないんですけど」
「あ、えっ? いや……ダメか? 俺は面白いと思うんだが」
「コンセプトがふわっとしすぎなんじゃないですか? まあ滝本さんらしいですけど。一冊もらいますね」
久しぶりに見る青山の手から、呆然と代金を受け取った俺の脳裏に、いくつもの疑問がよぎっていく。
いつイギリスから日本に帰ってきたのか。いつまで日本にいるのか。なぜ文学フリマに青山の姿があるのか。
もしかして、俺に会いに来てくれたのか?
「…………」
それらの疑問を脇に置いて、しばし俺は楽しさの予感を心を開いて受け取った。
「ちょっと、何ぼーっとしてるんですか? 私、こういうところ初めてなんで、案内してもらえますか、この会場」
「おう……行くか」
俺はバンドメンバーに頭を下げて、しばし販売業務を代わってもらうと、広大な会場にひしめく人々の中へと、青山と共に歩き出した。
連載【超人計画インフィニティ】
ご愛読ありがとうございました。
滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt