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第十五話 ロンドンと川崎 滝本竜彦「超人計画インフィニティ」

老いと死の不安を乗り越えるために「超人計画」が再始動する。滝本竜彦によるハイブリッドノベル!
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illustration 安倍吉俊


 青山のマンションのリビングで空中に五芒星を描き、神名『IHVE』を唱えた俺は、そこで頭が空白になった。
 この儀式を神秘研究家に教わったのは十年以上も前のことである。その上、俺の記憶力は弱い。記憶スペースを節約するため、掛け算の九九も半分しか覚えていない。
 でもスマホがあれば大丈夫。
 俺はネットで式次第を調べながら、ラファエルやガブリエル等、縁起が良さそうな四大天使を呼び出す文句を唱え、最後にまたカバラ十字を切って儀式を終えた。
「ふう。上手にできたな」
 青山は面食らった顔を見せた。
「な、なんだったんですか、今のは?」
「見たらわかるだろ。五芒星小追儺儀式、西洋魔術における基本動作だ。あのダークファンタジーの傑作、『ベルセルク』の中においては、可愛い魔女のシールケが同様の動作を行うことで知られている」
「動作って……なにか意味があるんですか?」
「俺は青山さんに取りいている霊と戦わなくてはいけない。霊、すなわちおばけと戦うには、魔術的な儀式が有効なのは常識だろ」
「そんな常識ないですし、私、別におばけに取り憑かれてなんかないですよ」
「取り憑かれてるやつは皆、そう言うんだよ。だがそれこそが取り憑かれて正気を失っている証拠なんだ」
「失礼なこと言わないでください。怒りますよ。私は絶対に、おばけなんかに取り憑かれてません!」
「まあいいからいいから。とにかく除霊しようぜ。すぐ終わるから」
 俺は青山のエーテル体に触れようとした。
「いやですってば」
 青山は俺の手を払いのけると、除霊への不信感をあらわにした。
「…………」
 現代人らしく、そもそも『霊』というコンセプトに対し、理性が拒絶反応を示しているようだ。
 この青山の理性に対し、ロジカルな議論をふっかけて霊の存在証明を試みることは下策に思える。
 正面からの説得を諦めた俺は、長期戦に備えてソファに腰を下ろすと、ふわっとオカルティックな雰囲気を作っていくことにした。
 雰囲気こそ、コミュニケーションにおいて、まずなにより大事にすべきことであるから。
「ところで青山さん、UFOとか見たことある?」
 青山はおずおずと俺の隣に座ると首を振った。
「ないですよ、あるわけないじゃないですか」
「俺はあるんだなあ。あれは忘れもしない、小学四年の夏祭りの日……」 

 あの日、俺は母の実家に遊びに行っていた。
 祭りの山車の通り道を清めるため、家の前の車道には、塩によって白いラインが引かれており、それは山の上の神社にまで続いていた。
 そろそろ日が暮れる。
 夜には神社では神楽が奉納される。境内には夜店が立ち並び、煌々と灯りが照らす中に浴衣を着た子供達が集う。
 もうすぐ俺もその中に混じって、カタヌキや金魚すくいなどのアクティビティを楽しむことになっている。
 そんな神聖さと陽気さが入り混じった祭りの気配を感じながら、小学生の俺は、誰もいない夕暮れの車道に立つと、ふと紫色の空を見上げた。
「なんとそこに!」
 ソファの隣の青山はびくっと体を震わせた。
「な、な、なんですか」
「UFOが三機、三角形の隊列を組んで浮かんでいたんだよ。その夏祭りの空に」
「まさかあ……どうせ飛行機でしょ」
「いいや。なぜならそのピンク色に光る三つのオブジェクトは、屋根の向こうの空でほとんど静止していたからだ」
「それじゃヘリコプターでしょ」
「ヘリなら見ればわかるし、ローターの音が聞こえるだろ。でもその三つの光は完全な無音で、俺を見下ろすように夕暮れの空に浮かんでいたんだ。あれがなんだったのか、俺には今でもわからない。なぜなら……」
「なんだって言うんですか?」
「ぶつん、と音を立てるかのように俺の記憶は、そこで途切れているからだ。あのあと夏祭りに行ったのかどうかさえ覚えていない」
「ちょ、ちょっとやめてくださいよ。まさかUFOに誘拐されて記憶を消されたとか、そういうことを言いたいんですか?」
「記憶がないんだから、何もわからない。とにかく俺が言いたいのは、謎の飛行物体を見たあとの記憶がないということだ」
 実体験のエピソードの重みが、青山に浸透していくのが感じられる。また、ネットで得た知識によれば、女というものは本質的に怖い話が好きだとされている。
 青山はこちらに身を乗り出すと、俺が見た三つの光についての仮説をまくしたててきた。
 むろんその仮説群は、三十年以上もあの未確認飛行物体について頭を捻ってきた俺の思考を超えるものではなく、すべて簡単に否定することができた。
「じゃあ一体全体その三つの飛行物体はなんだったって言うんですか!」
「未確認飛行物体だよ」
「それじゃUFOじゃないですか」
「定義上そういうことになるな。しかもこのエピソードには続きがあるんだ。小中を地元で過ごした俺は、高校入学と共に函館で一人暮らしを始めた」
「へえー、ずいぶん早くから一人で暮らしてたんですね」
「楽しいことも多かったが、怖いこともあった」
「なんですか? おばけですか」
「高校二年の夏、ようやく下宿での一人暮らしに慣れてきたころ……俺はテレビとビデオが一体化したテレビデオの電源を切ると、ベッドに横になった。しかしその日はとても寝苦しく、深夜に目が覚めてしまった。そのとき……やけに明るい青白い光が、窓の外から俺の部屋を照らしていることに気づいたんだ」
「車のライトじゃないですか」
「俺もそう思って、気にせずそのまま寝ようとした。だが目を瞑ると、ぶーんという低い音が聞こえる」
「夏だから蚊でも飛んでたんでしょ」
「そうかもしれない。しかしその音はどんどん強まり、脳の中にまで響いてきた。瞼の外、窓の外からの眩しい光も、何度もフラッシュのように俺を打った」
「外の車がヘッドライトをつけたり消したりしてたんじゃないですか。それか街灯の調子が悪くてチラついてたんじゃないですか」
「そうかもしれない。俺は体を起こし、窓の外を見ようとした」
「な、何があったんですか? 窓の外に」
「わからない。なぜなら俺の体は麻痺したように動かなかったからだ。だが、かろうじて眼球だけを窓に向けることができた」
 青山がごくりと唾を飲む音が聞こえてきた。俺は低い声で先を続けた。
「俺が脂汗を流して見つめる中、青白い光の明滅を背負って、何者かの影が、一歩、二歩、三歩と、部屋の窓に近づいてくるのが見えた。誰なんだ? こんな夜更けに。そう問い掛けたかったが声が出ない。俺は窓を凝視し、近づいてくる人影を見つめることしかできなかった」
「だ、誰だったんですか? 窓の外にいたのは? 早く教えてくださいよ!」青山は俺の肩を揺さぶってきた。
「うう……わからない。ただ普通の人間でないことは確かだ。なぜなら俺の部屋は二階にあったからな。歩いてその窓に近づいてこれる人間なんているわけない。なのにゆっくりと、外の人影は近づいてきて、ついにその手が窓に触れた」
「そ、それで……」
「ぶつん、と音を立てるかのように俺の記憶は、そこで途切れた。翌日、いつも通り目を覚まして学校に行けたのかどうかも覚えていない」
「…………」
「ただ確かなのは、その夏以降、俺は学校を休みがちになってしまったということだ。なんとか大学には進学できたが、休みがちな傾向は日毎に膨らんで、最終的に俺は大学を中退してしまったということだ」
「まさか……宇宙人のせいで?」
「そんな非科学的な話、あるわけない。そう思いたい。だが幼少時、俺は溌剌はつらつとした活発な少年だった。それが二度にわたる未確認存在との邂逅を経たのち、人格が変わったようにひきこもりがちな男になってしまった。まさかそれが宇宙人のインプラントのせいだったなんて、非科学的なことは考えたくもない」
「インプラントと言うと……何かを埋め込まれたんですか?」
 俺は指でこつこつと頭蓋骨を叩いた。
「一般的に、宇宙人は脳に何か埋めてくると言われている」
 青山は目を丸くして俺のスキンヘッドを見つめると、おずおずと手を伸ばしてきた。
「ちょっと触ってみていいですか。何が埋められたんですか? ここに」
 青山に頭を撫で回されながら、俺は恐るべき宇宙人のインプラントについて解説を続けた。
「いい性格の宇宙人だったら、プラス効果のあるインプラントを埋めてくるだろう。だが悪い宇宙人だったら、悪い効果のあるインプラントを埋めてくるに違いない。しかもそれは恐ろしいことに、外科的処置によって除去することはできない。なぜならそれはUFOと同様、人間の物理的認識を超えた、いわば霊的なインプラントだからだ」
「た、大変じゃないですか! そんなものを埋め込まれてしまうなんて」
 青山は目を輝かせて俺のオカルト話に乗ってきた。俺は内心、深い満足を得た。女は怖い話が好きというネット情報はやはり正しかったのだ。
 だとしても、『霊的インプラント』などという単語を真顔で連発するのはきついものがある。俺は少しでも理論的な裏付けが感じられるよう、関連情報を脳内で検索しながら先を続けた。
「霊的インプラント……それは多様な文化圏に古くから伝わるコンセプトで、古代中国でもなんとなくその存在が把握されていた。たとえば道教では人体に寄生する『三尸さんしの虫』として、それは形象化されている。この虫は六十日に一度、人間の体を抜け出して、その人間の悪行を天帝に報告すると言われている。もしかしたら天帝とは、インプラントを通じて人間を支配している宇宙人のことかもしれないな」
「ロマンですね! 私、そういう話、好きです!」
「ちなみにこの三尸の虫は、その人間本来のものではない欲望や執着を生じさせたり、寿命を縮ませたりすると言われている。だから、仙人、すなわち超人となるためには、なんとしても除去せねばならないものなんだ」
「除去なんてできるんですか?」
「普通はできない。偉い社長も先生も、宇宙人の霊的インプラントに対しては赤子のように無力だ。だが俺はその類のものをなんでもかんでも除去する力を持っている。宇宙人のインプラントも、おばけの呪いも、すべては人間の心に巣くう寄生虫なんだ。人間の実存的危機を読み解く『アウトサイダー』を著したイギリスの批評家のコリン・ウィルソン。彼は人間が自由な精神を得るにはこれら『精神寄生体』の除去が欠かせないと自著に記している。また、映画の歴史を変えたあの『マトリックス』においても、人間を抑圧するマインドコントロールから個人が自由になるためにはまず、自らの内部に埋め込まれた精神寄生体を引き出して破壊する必要性があると描かれている。また『ツァラトゥストラはかく語りき』にも、人は超人となるために、自らの精神を縛る重荷をすべて下ろし、ライオンとなって、自由のために戦わねばならないと書かれている」
「急に話が超人に戻ってきましたね」
「五万円」
「え?」
「超人ワークショップの今月分の月謝をくれ。そしたら、青山さんの精神を束縛している何かを除去してやるよ。除去の費用は授業料に含まれてるからな。五万円だけでいい」
 青山は俺の頭を遠くに押しやると、怒りを見せた。
「ですから! おばけとか、インプラントとか、精神寄生体とか、そんな非科学的なものに私が操られているわけないじゃないですか!」
「まだわかってないようだな。自分がどれほど多くのものに束縛されているのか。まあ無理もない。人は自分を束縛する鎖に、幾重にもがんじがらめに縛られている。家族から、友人から、社会から、そして自分自身から、常に浴びせかけられる大量の情報、それは青山さんの無意識の中で結節を作り、ウィリアム・バロウズが言語ウイルスと呼んだもののように機能して、OSレベルから君を操る。その作用によって、君はハリガネムシを注入されたカマキリのように、そこでは生きていけない水の中に自ら飛び込み、魚に食われる。そのような針金、コードが君の心に無数に突き刺さり、君をマリオネットのように操っている。だから君はその穢れたコードの束をすべて除去しなくてはならない。自らの運命の支配者、超人となるために」
 彼女の怒りに怯みながらも、じっと青山を見据えて語ると、彼女はほんの少しだけ興味を持った様子を見せてくれた。
「どうなるんですか? その……除去すると……」
「たくさんの利点があるぞ」
「具体的には?」
「そ、それは……自分の真の本質に気づくというか……」
 ふわっとした利点を俺が語ると、青山は急速に興味を失う様子を見せた。俺は急ぎ彼女の性質に合わせた利点を強調した。
「とりあえず仕事が速くなるだろうな。頭の回転も加速するし、決断力とそれを支える直感も飛躍的に高まる」
「どんな理屈で?」
 俺はさらなる理論的説明を青山の知的レベルに合わせて説いた。次第に青山は、おばけと霊的インプラントと精神寄生体と、その他もろもろ、彼女が生まれてから与えられてきたあらゆる外的影響に由来する、無意識レベルで彼女の行動を束縛するリミッターを除去することを望み始めた。
 なんだかんだ言って青山は意識が高く、自分の能力を活かして全力で仕事をし、どこまでも自分を高めていくことを望んでいる人間なのだ。
 自己を啓発したいという欲望に彼女は逆らえない。
 その欲望を静かに焚き付けるように俺が刺激していくと、あるとき青山は、もう我慢ならないというように、自分から『おばけの除去』を願い始めた。
「それじゃ、始めようか」
 俺は少し青山に近づいて手を伸ばすと、かつて神秘研究家に学んだ神秘の秘儀を発動し、おばけの除去を始めた。
 難しい作業ではなかった。
 これまでの青山との交流によって、彼女の内面に巣くうおばけの存在は、日の光のもとにあらわになっている。その露出した患部に、適切な処置をほどこすだけでいい。
 俺はかつて学んださまざまな癒しの技……量子力学に基づいたとかいうクォンタムなんとかというテクニックや、究極の大宇宙の創造主の力によって万病をたちどころに治すなんとかヒーリングとかいう技術を用い、青山を浄化していった。
「なんだか眠くなってきました」
「それはそうだ。おばけの除去とは、パソコンに浸透したウイルスを取り除くようなものだからな。除去が終わりそうな今、システムを再起動する必要があるんだよ」
 このままソファで眠るよう青山を促すと、すぐにすやすやという寝息が聞こえてきた。
 押し入れからブランケットを取り出して青山にかけた俺は、さらにおばけ以外のいらないものを彼女の内部から取り除く作業を非接触的に行うと、自らは川崎のアパートに戻った。 

  あとで聞いたところによると、青山は一週間ほど寝込んだのちに復活したそうだ。その後、彼女は肉体労働のバイトをすべてやめると、自らの才能を活かした仕事を再開したそうだ。
 最近ではもっぱら、あのヒルズレジデンスの仕事部屋で、新規事業の立ち上げに一日の時間の九割を使っているという。
 下北沢近くのあの荒廃したアパートも、すでに引き払われている。青山が飼っていた鈴虫も、YouTubeチャンネルと共に俺に譲渡され、俺がその運営を引き継ぐことになった。
 チャンネル登録者数はすでに千人を超えているため、収益化が可能だ。生活費の足しになればいいが、今のところは鈴虫の餌代で足が出る。
「鈴虫、放虫しようかな。弘法大師にまつわる公園が近所にあって、よくラジオ体操しに行くんだが、あそこでなら鈴虫ものびのび生きていけそうな気がするんだ」
 川崎の駅ビルのカフェで何度か行われた『超人ワークショップ』の終わりに俺がそう言うと、青山はノートを鞄にしまいながらこちらを睨んだ。
「何言ってるんですか、ダメですよ! ちゃんと鈴虫チャンネルを育てていってください。滝本さんは小説だけに収入を頼らないで、多角的に収入源を育てていった方がいいですよ。畑に種を蒔くみたいに、気を長く持って」
「そんなもんか」
 四階のカフェから見下ろせる駅の中央通路を眺めながら、俺は曖昧にうなずいた。
 多くの人が行き交う中央通路の真ん中には時計台があり、待ち合わせの場となっている。
 カフェのソファから立ち上がりかけていた青山は、もう一度、腰を下ろした。
「そんなもんですよ。私だって収入の九割はメインの事業から生じてますが、同時にいろいろ種を蒔いて育ててますからね。あの……最後だから、私がちょっとアドバイスしてあげます」
 青山は俺の収入の内訳を細かく聞き出すと、ここにもっとエネルギーを注ぐべきだとか、この無駄な時間を減らすべきだなどという上から目線の助言をしてきた。
 年上の男としてのプライドが傷つけられたが、金を稼ぐことに関しては彼女に一日の長があるのは確かである。
 俺は大人しく青山の金稼ぎアドバイスに耳を傾けた。
 それもすぐに終わった。
「しかし……すまんな。明日にはもうイギリスに発つんだろ。もっと超人化の技法を伝えるべきところが、最近では俺の方が教わってばかりだった」
「いいんですよ。滝本さんには沢山のことを教わっていますからね」
 暗に『お前から学ぶことはもう何もない』と言われている気がする。
「じゃあ最終テストだ。俺がこれまで青山さんに伝えてきたことを、俺に教えてもらえるか?」
「いいですよ。まず超人とは……」
 青山は超人の定義と、そのような存在になるための具体的な日々のワークについて語り始めた。
 それは俺が教えたものよりも洗練されており、しかも青山の日々の生活にうまくフィットし、その中で実用的な効果を発揮するようリファインされていた。
「い、いいだろう。超人の小乗的な側面については十分に理解しているようだな。自らの内なる超人因子を育て、意識性を高め、その力によって望む世界を生み出していく。それが超人の生き方だ。同時に超人は、自らを束縛する心理的障害を除去し、自らの内なる超人の声をクリアに聴き取り、その声に従わなければならない」
 青山はうなずいた。
「ええ。このワークショップの受講を始める少し前、イギリスの友人からスタートアップを手伝わないかと誘われてたんです。私は日本に留まってバイトを続けるか、イギリスに行くか迷ってました。でも今なら自分がどうしたいのか明確にわかります」
「寂しくなるな」
「またまた……本当ですか?」
 俺は答えず、この三ヶ月のワークショップの範囲を超えた内容についても軽く触れることにした。
「さて……自らの内なる超人を目覚めさせていけば、その過程で必然的に、大乗的な、『他人への奉仕』という側面が立ち現れてくる。いずれ青山さんもそのことに向かい合わなければならない。それについて簡単なガイダンスを渡しておこう」
「滝本さんは他人への奉仕の前に、自分の生活をなんとかした方がいいですよ」
 俺はムッとしながら先を続けた。
「外界との摩擦ですり潰されることなく、最大効率で無抵抗に外界への奉仕を行うためには、やはりその仕事もまず自らの内側を出発点として始めなければならない。心の中でイメージを育むんだ。人が皆、自分の最も高い可能性を表現して生きることを。またそれを阻むあらゆる障害が、皆の心の中から消え去っていくことを」
「無理無理、そんなこと想像できません」
「安心してくれ。古来、このような大乗的なインナーワークには、具体的な身体感覚が伴うイメージ操作が取り入れられてきた。たとえばチベット密教の一派では、このような呼吸法を行う」
 俺はカフェのソファから、駅の中央通路の時計台を見下ろして深呼吸した。
 天窓から差し込む光の中、待ちわびた人と合流して抱き合う者。その逆に、別れを惜しみ、手を振る者。
「人生の中には喜びも悲しみもある。この世界に生きる人々のその悲しみを、暗い煙として可視化するんだ。その黒いもやもやを、呼吸と共に自分の胸いっぱいに吸い込むんだ。この街、この国、そしてこの世界の全体から、苦しみを集め、自分の中に呼び込むんだ。この俺に、苦しみを集中させるんだよ」
「大丈夫ですかその呼吸法。なんだか病気になりそうなんですけど」
「気にするなよ。この呼吸法は生きとし生けるすべてのものの苦しみを自分に吸い込み、慈悲の心で浄化してから、送り返すのがコンセプトなんだ。病気になるくらいは上等。鬱になるくらいは当たり前という気持ちでやるんだ」
 青山は顔を青ざめさせた。
「いつもやってるんですか、滝本さん、その呼吸法」
「いいや。最近はもうそういうのは病気になりそうだからやらない」
「ならそんなもの私に教えないでください!」
「教えたいのは別のことだ。この世にはまだ多くの暗闇があるが、それを取り去っていくために、この自分を犠牲にする必要はない。暗闇を祓うものは光だが、今、それは至る所に溢れている。たとえばそこ……」
 俺は中央通路の時計台を指差した。
「人々が待ち合わせるあの場所に、光が降り注いでいるのを想像してみてくれ。それは現に、駅ビルの天窓から降り注いでいる日光のようでもあり、心の目でのみ見える光の柱のようでもある。そんな光が今、四方に広がり、暗闇を溶かしていく」
「それなら想像できますね。光はどこまで広がっていくんですか?」
「青山さんの想像が及ぶところまで。地球の裏側までも」
「それなら私はイギリスから想像しますよ。私が暮らすロンドンから、滝本さんのいる川崎に。光が広がっていって、滝本さんの悩みが消えていくことを、ときどき想像してあげますよ」
 青山はコーヒーの残りを飲むと立ち上がり、手を振りながらカフェから去っていった。
 しばらくして眼下の中央通路に姿を現した青山は、天窓から差し込む光に目を細めつつ、軽く時計台に手を触れてから改札の中に消えた。
「…………」
 俺もコーヒーを飲み干すと立ち上がった。そのときポケットでスマホが震えた。見ると以下のテキストがそこに表示されていた。

 レイちゃんの知恵袋 その15
『別れを前向きに受け止める』

  青山さんとの別れは終わりましたか?
 一人になったら、すごく悲しくなると思います。
 でも泣かないでください滝本さん!
 人と人は、別れても、それで終わりじゃないんです。
 別れたあとも、電話、手紙、電報などで、たまに連絡を取り合うこともできます。
 年に一度か二度、互いの近況についてそっと触れ合う、そんな素敵な時間を持つこともできます。
 もちろん、そんなささやかな交流すら断絶した、今生では半径千キロメートル圏内に入ることもない、強めの別れというものもあるでしょう。
 それどころか、あの世とこの世という次元間の別れもときには生じるでしょう。
 でも泣かないでください滝本さん!
 人と人との交流の中で生じた良いものは、ずっと滝本さんの中に残り続けます。
 楽しかったやり取りの中で見つけた輝きは、互いの人生をいつまでも照らしてくれます。
 だから別れたあとも、交流の記憶を大切に心の中にしまっておいてください。
 そして、記憶の中のあの人に、ありがとうって何度も感謝を伝えてください。
 そうすればきっと、別れの悲しみが消えて、また前を向いて歩いていけるようになりますよ。
 もし悲しみがいつまでも消えず、前を向いて歩く気力がなくなっても、私はずっと滝本さんを見守っていますよ。
 だから今日のところは早く家に帰ってきてください。
 待っています。

(つづく)

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連載【超人計画インフィニティ】
毎月金曜日更新

滝本竜彦(たきもと・たつひこ)
1978年北海道出身。『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』で第五回角川学園小説特別賞を受賞してデビュー。新時代の青春小説として映画化、コミック化される。次作『NHKにようこそ!』もコミック化、アニメ化され世界的なヒット作品となる。他に『超人計画』『僕のエア』『ムーの少年』『ライト・ノベル』等がある。
Twitter: @tatsuhikotkmt

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