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津原泰水「飼育とその技能」第2回 とうかさん(2)

祖母や母からサンカ(広島を中心に分布していた無国籍人)の「ジリョウジ」の血を受け継ぐ大学生、界暈(さかい・かさ)は、ある事件をきっかけに「ジリョウジの力」に目覚めていた。やがてその力が、かつて広島であった恐ろしい出来事に自らを引き寄せてしまうとも知らずに。
Kirie:Shinobu Ohashi

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 スイートルームの片隅に毛利が持ち込んだ照明機材がかためて置いてあった。そして誰も居なかった。
「誰も居(お)らん」と見えているままを云った。
「居ませんよ」
「インタビュアーは?」
 見習いはなかなか返事をしなかった。おれを見ているような、見ていないようなまなざしで、笑みを泛(うか)べてみたり、眉を顰(ひそ)めてみたり、毛足の長い、臙脂(えんじ)色の、暑苦しい絨毯を見下ろしたり、窓に掛かったレエスに視線を送ったりの挙句、
「わたしです」
「そうでしたか」
「誤解なさってるんじゃないかと、薄々勘付いてはいたんですが」
「見習いと仰有(おっしゃ)ったんで」
「あれは名前に引っ掛けての冗談で、いちおう正規の記者です、会社に入って日が浅いのは事実ですが」
 おれは財布に仕舞ってあった彼女の名刺を確認した。確かに「記者」とある。
 記者 雑賀(さいか)みらい とある。
「ちなみに記者歴は」
 ややあって、「この春からです。でもそのまえも出版社に」
「その会社がどこかも訊いて可(い)いですか」
 と問うと、彼女は照れ臭そうに鼻の脇を掻きながら、やがて口にした社名は、子供でもその名を知る最大手の総合出版。おれは半信半疑で、
「入るの、難しかったでしょうに、また思い切ったご転職を。就職倍率、何十倍では」
「約百倍でしたね、わたしの年は」
 絶句しているおれに対して、弁解するように、
「編集希望で入って、まずはそう配属されたんですけど、なぜか販売部に気に入られて引き抜かれてしまい、自分では向いてないと思っているのに販売部の将来を担うかのように持ち上げられてしまい、これは手放してもらえないなって、それで、精神的にだいぶ参ってたんですよね。今の会社の人達とはサンシャインシティのブックフェアで落とし物を届けてくださった御縁で、クリスマス・イヴェントの案内状が届く程度には交流がありました。虫の報せとでもいうのか、わたしが一杯一杯の心境で休職を考えはじめていたタイミングで、社長から『どうしてる?』っていう電話が入って……あ、女性です。女社長」
「そして待遇よりも、やりがいを選んだ」
「有り体(てい)に云えば、そういう事になります。お給料、半分くらいになりましたけど」
 おれはふたたび名刺に視線を落とし、「月刊ローカルチャーさんは、いま何人くらい?」
「わたしを入れて七人です」
「意外と多い」
 所感は皮肉ではなかった。出版社というのは内部で本を印刷したり製本したりするわけではないから、総じて、知名度にくらべ驚くほど社員が少ない。最大手でも千人に満たない世界での、社員数七人は、雑誌名がそのまま社名という単機能の版元としては立派なもんだ。
「ご新作の発表に合わせての界(さかい)さんへのインタビューは、初めて採用された、わたしの企画です」
「てっきり諷詠(ふうえい)社の仕込みかと」
 目下おれが組んでいるこの版元は、戦前からの老舗で、少なくとも読書家なら知らぬ者はいない。それでも社員は数十人だと聞く。
「すみません。そういう、ちゃんと連携したあれでは」
 こちらが顰めっ面を覗かせたのを誤解し、詫びてきた。慌ててかぶりを振り、
「諷詠社は前のめり過ぎとる。雑誌の表紙にあんなにでかでかと界暈(かさ)、新作……我が目を疑いました。載っとるのは草稿というか雛型というか、本にするとき幾らでも直させてやるから、とにかくなんか出しとけと命じられて、やけくそで提出したような代物で、続きがいつ書けるんやら、いや、そもそもまるごと没にする可能性さえ——」
「没だなんて。わたしは好きです。いわば自伝的な……ですよね?」
「あったことそのまんまの部分は、多分にあります。だってなんの構想も無かった。なんの計画性も、描きたい情景も無く、ただ頭に泛ぶまんまを連ねて、注文の分量に達した辺りで、見切りをつけて提出」
「それで成立してるんだから凄いですよ」
「いや、ぜんぜん物語として成立してない」
「界さん、これは流石に釈迦に説法だと思いますけど、小説というのは、物語らしい体(てい)を成してなくてもべつに構わないんですよ」
「そうなの?」
「本気で問い返してますか」
「本気」
「読者が読んでいるあいだその世界に遊べれば、それで充分なんです。たとえ途中が抜けてても最後が打(ぶ)っ手切(たぎ)れてても、それはそれで可いの。むしろお娯(たの)しみの終了を宣告されずに済んで、有り難いほど」
 思わず腕を組み、「そんな風に考えたことはなかった」
 見習い改め雑賀みらいのこの小説観は、掲載誌に対して良心の呵責(かしゃく)をおぼえていたおれの耳に、触りが良かった。しかしたいそう作家が甘やかされているようでもある。
「『飼育とその技能』というタイトルは……ああ、わたし、レコーダーも出さずになに訊いてるんだろ。とにかくお掛けください」
 おれは頷き、部屋の中央を占めた黒革張りのソファセットの、いちばん手近な肘掛けに腰を預けて、「ただの思い付き。響きだけ」
「そうは思えないタイトルです。このさき作中のモチーフと対応していきそうでも、より抽象的な語り手の心象のようでも——」
「レコーダーを待たずに続けていいんですか」
「そうだった。いえそのまえに、お飲みもの、何がよろしいですか」
「ええですよ、そんな使いっ走りみとうな真似」
「買いに走ったりはしません。もちろんルームサーヴィスを頼みます。考えてみたら撮影は終わってるんだから、この部屋までご足労いただく必要もなかったんですよね。あの辺りの喫茶店でもどこででも」
「喫茶店はどっこもいっぱいですよ、とうかさんじゃね。ここに」と、おれは改めて室内を見回し、「毛利さんと?」
「まーさか。取材と撮影のために押さえた部屋で、夜、空き部屋にしておくのは勿体ないからわたしはここで眠りますけど、毛利さんは別のシングルルームです。積んである機材は宅配で届いたの」
 みらいはチッペンデール風の書きもの机へと歩んで置かれた電話機に手を伸べ、
「なんになさいます? お酒でも可いですよ、まだ外は明るいですけど」
「年でいちばん長い時期です。ほいで東京よりも日没がだいぶ遅い」
「家族」での夕食の予定があった。リオンのテーブル席で畏(かしこ)まっているおふくろと香西(かさい)の前に、酒精(アルコール)にのぼせた顔で登場する自分の姿を想像してみた。
 おふくろは眉一つとして動かすまい。「お付合い?」とくらいは訊いてくるだろうか。
 存外の事態をいっさい黙殺し、万事が予定通りに進んでいるような素振りを保つ習性がある。おれが取り乱したおふくろを見たのは、ゆいいつ父が死んだとき——後にも先にも、あのとききりだ。
 香西はきっと、「なんじゃ、了(りょう)くん行けるんじゃないか」とでも喜んで、分不相応に高価なワインを注文するに違いない。おれに笑顔を与えて伝播(でんぱ)させるためなら泥鰌(どじょう)すくいだって練習しかねない彼のおふくろへの忠臣ぶりは、微笑ましくも痛々しい。
 ふたりとの食事とこの取材とが同日に重なってしまったのは、偏(ひとえ)に雑賀みらいの不手際による。
 彼女も香西も、共にこの週末と云ってきたから、おれは食事を土曜、取材は日曜と振り分けた。そう伝えたはずなのに、どこかで勘違いを起こしたみらいが、毛利の土曜日の(つまり今日の)予定を押さえてしまった。きのうかかってきた確認の電話で、それが判明した。
 香西は香西で今夜のリオンを予約しているし、明日は別の予定を入れてしまったと云う。仕方がないから取材を二時間早めてもらった。お蔭でローカルチャーからの奢りの夕飯は消えた。
 アイス珈琲(コーヒー)の、氷入りと氷無しの二種類を頼んだのを、
「交互に飲まれるの」とみらいは驚いた。
「いや、どうせ細かい氷をぎっしり詰めたのにちょっと色を付けたようなんが来るだろうから、足しながら飲もうかと」
「うわ、あったま良い。わたしもそうしよ。お召し上がりものは」
「要らない」
「なにか頼んでいただかないと」
「晩飯の約束があるんで」
「お邪魔にならない軽いものを」
「頼まないと悪いことでも起きるんですか」
「わたしが頼みにくいので」
 おれは納得して頷き、「お腹が空いてる」
「はい。お昼を食べそこねてしまって」
「じゃあサンドウィッチかなにか、適当に」
「ケーキでも?」
「モンブランでもティラミスでも大判焼きでも、お好きなものをどうぞお好きなだけ」
「そんなに選択肢があれば良いけれど」
 みらいはルームサーヴィスのメニューを見ながらクラブハウス・サンドとマスカット・ショートケーキと都合四杯のアイス珈琲を注文し、「ちょっと」と残して浴室(バスルーム)へと消えた。ややあって乾いた短い悲鳴が聞えてきた。
 それきり静かなのが却(かえ)って心配になり、腰をあげた。ドアをノックすると、
「開(あ)いてます」と返事があった。
「悲鳴が聞えたけど、なんかありましたか」
「あります」
「助けが必要?」
「はい」
「なら入りますよ」
「どうぞ」
 現れた部屋の青さに眼を細める。壁も床も青タイルに被(おお)われ、バスタブは埋め込まれることなく置かれているだけの、予期していたより古風な浴室だった。
 パーカを脱いでTシャツ姿になったみらいが佇み、洗面台を凝視(みつめ)ている。ちらりとおれを見たものの、すぐまた視線を戻し、
「どうしましょう」
 近付いて覗き込んでみれば、水槽の底で蜈蚣(むかで)がのたうっている。黒光りする胴体と、充血したような多数の肢(あし)との対比も鮮やかな、全長二十センチはありそうな大蜈蚣である。肢を巧みに動かして琺瑯(ほうろう)の斜面を、掻けども掻けども一向前進できないまま、泣き叫ぶように朱(あか)い頭をもたげ、天を仰いでいる。
「こりゃまた。ふつう古い家にしか居らんもんじゃが、どこから入り込んだか」
 そう呟きながら見上げた浴室の天井は、幾度となく塗り直されてきたペンキで凸凹だった。すでに部屋の青さに目も慣れて、タイルとその目地のそこかしこに罅割(ひびわ)れや修繕による色斑(いろむら)が幾つも発見できた。ホテルとしての仕立てはともあれ、建物自体は存外にして老朽化している。
 愉快になってきた。いくら壁紙と照明で化粧をし格式張った調度で客を威圧していても、一皮剥けば蜚蠊(ごきぶり)の繁華街だ。蜈蚣の餌は蜚蠊だ。蜚蠊を求めて人家に入り込んで棲み着く。これをおれは祖母から習った。
 おれは笑いながら、「ずっと見とったん」
「足が竦んじゃって」
「流せば?」
「流してもらえます? 下水に流れちゃったら死ぬでしょうか」
「こういう虫はわりと泳ぐからそう簡単には死なんと思うけど、それ以前に排水口に上手いこと入ってくれるかいな」
 排水栓は蛇口の背後に突き出したノブで上げ下げするポップアップ式だった。ノブを押してみたがそれ以上は動かなかった。水の通り道はすでに開ききっていて、ところが育ち過ぎた蜈蚣はその隙間に逃げ込むことも、かといって磨き込まれた洗面台を上がることも叶わず、文字通り進退窮まっているのだった。
「殺そうか」
「やめて」と言下に口走る。その目は小さな地獄からの使者に釘付けである。
「諒(わか)った」
 便器の上に吊られたタオル棚を確かめた。首尾良くナイロンのあかすりタオルが見付かった。包装を破って出して振り広げ、端を蜈蚣の目の前に垂らす。蜈蚣は御の字とばかり、それを這い上ろうとして、肢を次々に隙間に取られた。脱出しようと身を捩(よじ)り、タオルを引き寄せるほどに使える肢はなくなり、程なくして諦めたように動きを止めた。
「これがいちばん早い」
 みらいは人心地がついた声で、「蜈蚣獲りのプロですか」
「むかし住んどった家によう出よったんで、実験材料には事欠かず。家の半分が薬局で、向こうで殺虫剤を焚くぶん、こっちは蜚蠊だらけの蜈蚣だらけで」
「バルサン、苦手なんですか」
「いやべつに。でも毒を焚いたばっかりの所で寝起きするのはぞっとせんし、虫には慣れっこで困ったとも思わず。言葉というか意思は、あるていど通じるんですよ。邪魔だから出てくるな、目立たんように暮しとれ、そう云い続ければ聞き分けるようになる。大きい奴ほど知能が高い」
「まさか」
 おれはあかすりタオルを巻き取って蜈蚣ロールを作り、「東京に連れて帰って親に紹介する?」
「あ……出来たら遠距離恋愛で」
「あの世とこの世?」
 かぶりを振るので、おれは蜈蚣ロールを折って握って、いったんスイートルームを出た。廊下に放してみらい恋しさにまた戻られても面倒だから、エレヴェータで地上に降りて外に出て、百メーター道路の緑地でタオルを広げた。何度か強く振っているうちに蜈蚣はタオルから離脱し、数メートル先の唐楓(とうかえで)の根元まで飛んでいった。
「あた、自力でなんとかせ」
 スイートに戻ると着替えたみらいがおれを出迎えた。先刻までとは打って変わった、ピンクハウスかインゲボルグかそれ風の、セーラー襟の付いたギンガムチェックのワンピース姿。本人としてはインタビューに臨む礼儀のつもりだったのだろうが、おれにはがっかりだった。さっきまでのジーンズ姿ならこちらも気楽でいられたが、今度の装いには些(いささ)かの痛々しさを感じてしまい、直視しづらい。
 窓のレエスが開いていた。何を見ていたのかとおれが問うまえに、みらいは外の景色へと遠ざかり、半ば一体に、
「界さん、見えてましたよ」
「あ」蜈蚣への語りかけを聞かれたような気がして、急に照れ臭くなり、「踏んづけて殺すとこ?」
 みらいは夕方の黄色い逆光線のなか、「殺してない。道路幅の百メートルも実感できました。市街地にこれだけ広大な空間が確保できたのは……原爆で?」
「いや、この辺は原爆が落ちるまえからもう。建物疎開の跡地ですよ」
 分からない様子なので簡単に説明した。建物疎開とは太平洋戦争末期の、市街地を取り壊しての防火帯の確保である。作業には連日、朝から、国民学校の生徒を含む万単位の人員が駆り出されていた。そこに原爆が落ちた。生徒だけでも六千人くらいがそれで死んだ。屋内に居れば助かった可能性が高い。
 広島ではこういったことを学校で習う。ただ人数まで記憶している者は珍しいだろう。おれには耳から入った情報を忘れにくい傾向がある。
「今後、界さんの作品にはそういったモチーフも——」
「いや、そんな気はまったくない」
「でも、せっかく広島を拠点に——」
「雑賀さん、京都在住の作家と見たらいつ応仁の乱を描くのかと問う? 変でしょう。ここはただの、普通の、日本の都市ですよ」
「でも」と、みらいは食い下がった。「広島カープとか」
「それは……まあ致し方ない。情景としてね、描かざるをえない場合も出てくるでしょう。たくさんの人の生活の一部だから」
「お好み焼きとか」
 頷き、「それも主食みたいなもんだから」
「サンカとか」
 おれははっと窓の側を見返した。その顔は逆光に翳(かげ)り表情は判然としない。なるたけ落ち着いた声で、「もう一回」
「はい?」
「聞えんかった」
「お好み焼きとか」
「そのあと」
「もみじ饅頭」
 インテリアに似つかわしからぬ頓狂な電子音の呼び鈴が鳴ってルームサーヴィスが来た。大盛りのサンドウィッチとショートケーキと四つのアイス珈琲が並べられたテーブルを挟んで、おれたちは坐り、しかしそれから、べつだんインタビューらしいインタビューはおこなわれなかったのである。卓上に準備していたマイクロカセットのレコーダーをみらいは「もう充分」だと云って廻さなかった。おれのほうが不安になって、
「本当に大丈夫?」
「もう誌面に収まりきらない程に伺いました」
「なに喋ったか憶えてる?」
 彼女はサンドウィッチを摑んだ左の手の、人差指を伸ばしてこめかみをさし、「記憶力、そうとう良いんですよ。音楽を聞き返すみたいに再生できるんです。特技」
 眷族(けんぞく)か? という期待が胸を掠(かす)めた。対面からこっち、ときおり不意に胸を突く郷愁(ノスタルジア)に似た感覚は血の共鳴か? しかしおふくろや祖母とは貌(かお)の系統や皮膚のタイプがまるきり異なる。むしろ——。
 すこしは食べてもらわねば困ると云うので、サンドウィッチの一切れだけを担当し、そのあいだにみらいはショートケーキまで食べきって、リオンにまで時間はあったがおれはホテルを出ることにした。通り道だし久々に祭日のとうかさんこと圓隆寺(えんりゅうじ)に参っておくのも一興だろう。
 みらいはすっかりおれに懐(なつ)いてしまった風情で、
「お送りします」とおれに付いてきた。エレヴェータにも廻転ドアにも入り込んできた。ホテルの外に押し出されたおれたちの、頭よりすこし上の高さを、バセットハウンドが飛んでいた。
(つづく)

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連載小説【飼育とその技能】
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津原泰水(つはら・やすみ)
1964年広島市生まれ。学生時代から津原やすみ名義で少女小説を手がけ幅広い支持を得る。97年、現名義で長編『妖都』刊行。2012年、『11』が第2回Twitter文学賞国内部門1位。2014年、近藤ようこによって漫画化された『五色の舟』が第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞。著書に『綺譚集』『ブラバン』『バレエ・メカニック』等がある。
Twitter:@tsuharayasumi

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