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呪いの真実 千早茜「なみまの わるい食べもの」#9

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 桜もとうに散った四月の末、担当T嬢とペルー料理を食べにいった。
 ペルーについても、ペルー料理についても、まったく詳しくなかった。正直、ペルー料理なるジャンルが存在することを初めて知った。ペルーについて知っているのは、空中都市マチュピチュやナスカの地上絵といった古代文明の世界遺産ばかりで、もう暮らす人々がいなくなった遺跡と食べものがうまく結びつかなかったのだ。

 メニューには、ロモ・サルタード、プルポ・アル・オリーボ、セコ・デ・レス、カウカウ……といった呪文のような単語がずらり。カウカウのせいで漫画『闇金ウシジマくん』のカウカウファイナンスがよぎって仕方ない私に、T嬢は「やっと来れましたね」と笑顔で言った。実は、以前から担当T嬢に「ペルー料理にいきましょうよ」と誘われていた。それを延ばし延ばしにして一年近く経っていた。

 なぜか。それは去年、直木賞をもらい忙しくなり、それに伴い体調不良の日が増えたからだった。食べ慣れたものならいい。けれど、体調が芳しくないときに新しい料理に挑戦するのは不安だった。しかし、その日も体調が万全とは言いがたかった。急な陽気と湿度で体が重い。それを伝えると、T嬢が急に虚空を見つめた。「これからの人生、体調が万全な日なんて訪れませんよ。毎日、どこかしら調子が悪い、そういう年齢ですよ」口元だけの笑みが怖い。古代のシャーマンが憑依ひょういしたのか、と思ったが、店員がやってきたので未知の料理の説明をお願いした。豆やフルーツも、カナリオ豆、ルクマといった聞いたことのないもので、とうもろこしですら見たこともないほど粒が大きかった。メモを取っているうちにT嬢の発言は遠くへいってしまった。

 ペルー料理は美味しかった。唐辛子を使ったものが多く、様々な種類の唐辛子があり辛さも風味もまるで違った。セビチェという、生魚をライムや唐辛子でえた料理が有名らしく、山岳地のイメージが払拭された。芋好きな私はカウサという、マッシュポテトみたいなものだと説明を受けた料理を頼んだが、キューブ状に整えられたじゃがいもたちは黄、緑、紫とカラフルで、ズワイガニのサラダなんかがのっていてお洒落だった。『闇金ウシジマくん』を彷彿とさせたカウカウは牛の臓物料理らしいのだが、その店ではホタテとじゃがいもを唐辛子で煮込んでいた。刻んで入れられていたミントの香りが鼻を抜け、旨みのある辛さでガーリックライスがすすんだ。T嬢はセビチェに鰹の唐辛子和えを頼んだので魚まみれになり、私はじゃがいもまみれになった。牛ハツの炭火焼を追加して、デザートも食べ、「わからないものが多くて忙しいけど美味しかったねえ」と満たされた表情で解散した。良いペルーの宴だった。

 しかし、数日経って、T嬢の言葉がじわじわと蘇ってきた。呪いのように。
――これからの人生、体調が万全な日なんて訪れませんよ。
 言われた瞬間はびっくりしたが、否定できなかったのにはわけがある。なんとなく、そんな気がしていたからだ。いつからだろう、毎日どこかしら不調だ。この先、若返ることなどない。ということは、一点の曇りもない快活な日はもうやってこないということだ。T嬢は私より六つも年下だ。まだ不惑にも達していない。そんな歳の人があんなことを言うなんて。あのときのT嬢の虚ろな目がよみがえる。「まだ気づいていなかったんですか」と頭の中で声が響いた。がっくりとうなだれる。ああ、気づいていたよ……。

 老いは仕方がない。しかし問題は、体調がかんばしくない日が続くと、新しい食べものに挑戦できなくなることだ。せっかくありとあらゆる国の料理が食べられる東京にいるというのに。いま知っている美味でも十分だが、まだいろいろな味を体験したい気持ちはある。とはいえ、気持ちと体の足並みが揃っていなくては、未知のものを味わい食べることはできない。確かに、知っているものしか口にしない老人の話はよく聞く。こうして人は歳と共に保守的と呼ばれるようになっていくのだな、と考え、はた、と気づいた。

 新しい食べもので体調を崩したことがほとんどない。もちろん、体調を整えて挑戦していることもあるが、暴食や暴飲してしまうのはたいてい食べ慣れたものや馴染んだ飲食店でだ。安心して、つい気が大きくなり、食欲が胃の容量を超えてしまう。結果、具合が悪くなったり、お腹を壊したりする。
 そういえば、京都に戻るたびに、血尿がでたり、胃腸炎になったり、夜中吐いたりしていた。つい数日前も弾丸で京都に行って、倦怠感と関節痛を抱えながら帰ってきて熱をだし寝込んだ。なにかの呪いかと悩みつつ気づかないふりをしていたら、夫や友人に「京都に行くたびに体調崩してない?」と指摘されしょげていた。二十年以上も住んだ大好きな街なのに、もう体が合わなくなってしまったのかと思ったが、違う。住み慣れた街だから安心してしまい、あちこちの店で食べ、朝から晩まで遊びまわってしまうからだ。鬼門は新しい食べものではなく、慣れ、だった。

 そうか、そうか、ならば新しい食べものに挑戦するほうが自制がきくから安全だ、とほくそ笑んでいたら、T嬢から「銀座にお雑煮専門店ができたようですよ」と連絡がきた。出汁も具も選べて、餅はつきたて、焼き、揚げ、の三つから選べる。餅が好きで、餅の連載までしている私にとって、天国そのもの。昨日まで粥生活だったというのに、速攻で「明日いきましょう」と返信した。
 駄目だ、好物にはあらがえない。私の体調不良の原因は年齢や呪いではなく、この食い気だろう。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『赤い月の香り』『マリエ』『グリフィスの傷』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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