第十二話 芒種 早川光「目で味わう二十四節気〜歴史的名器と至高の料理 奇跡の出会い〜」
器・料理に精通した早川光が蒐集した樂吉左衛門、尾形乾山、北大路魯山人などの歴史的名器に、茶懐石の最高峰「懐石辻留」が旬の料理を盛り込む。
「料理を盛ってこそ完成する食の器」
二十四節気を色鮮やかに映し出した“至高の一皿”が織りなす唯一無二の世界を、写真とともに早川光の文章で読み解くフォトエッセイ!
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Photo:岡田敬造、高野長英
第十二話「芒種」
2024年6月5日〜2024年6月20日
「芒種」の「芒」は「のぎ」と読み、稲や麦など、イネ科の植物の小穂の先にある針状の突起のことをさします。つまり「芒種」は、この「芒」のある植物の種を蒔いたり、苗を植えつけるのにふさわしい時期のことです。
なかでも稲は寒冷に弱いため、日本では古来、水田に直接種を蒔くのではなく、苗代で苗を育ててから、水温が上がった頃に田植えをする「移植栽培」を行ってきました。
稲の品種改良が進んだ今はもう少し早い時期に田植えを行うようになりましたが、それでも「芒種」の時期には、大阪の住吉大社の「御田植神事」や、京都の伏見稲荷大社の「田植祭」など、各地で稲の豊作を祈願する行事が催されます。
また「芒種」の頃には、野山の草木の緑がさらに色濃くなり、まるで滴るかのように感じられます。この様子を「山滴る」と言い、夏の季語となっています。
そんな「芒種」の器は、書家、陶芸家であり、美食家としても知られる北大路魯山人(1883~1959)の『織部釉 木の葉皿』。魯山人が顧問を務めた会員制の高級料亭「星岡茶寮」で、食器として使うために焼かれたものです。
土味を生かした無釉(釉薬を使わないこと)の丸皿の中心に、織部釉(酸化焼成で暗緑色に焼き上がる釉薬)で一枚の葉を描いたシンプルな器ですが、その葉がまさに滴るような、艶のある緑色をしています。
器に盛る『懐石辻留』の「芒種」の料理は『きすあられ揚げ 車海老春雨揚げ ししとう素揚げ』。
『懐石辻留』では、きすは小麦粉と卵白にみじん粉(蒸したもち米を乾燥させ、細かく砕いて粉末にしたもの)を、車海老は小麦粉と卵白に小さく折った春雨をつけて揚げ、ししとうはヘタを取ってから素揚げにすることで、三つの食材を、それぞれ異なる食感の揚物に仕上げます。
器の真ん中に配置された、車海老の春雨の衣は稲穂の「芒」を、ししとうの緑は田に植えつけられた苗を思わせます。まさに「芒種」の時期にぴったりの、躍動感のある盛りつけです。
そして「山滴る」頃には、野山に百合の花が咲きます。山百合、乙女百合、鉄砲百合などの種類があり、その姿は凜として美しく、甘く濃厚な香りを放ちます。
そこで選んだもうひとつの器は、樂吉左衛門家十二代・弘入(1857~1932)の『青樂百合皿』です。
百合の花を模った「百合皿」は、野々村仁清(生没年不詳)や尾形乾山(1663~1743)も手がけている京焼の代表的な向付の形で、
樂家では三代・道入(1599~1656)の頃から作られていたと考えられています。
樂家の百合皿は柔らかい色の赤樂が多いのですが、弘入は青樂(緑色に発色する樂焼)の技法を用い、花弁の部分に金彩を施すことで、重厚な印象の器に仕立てています。
器に盛る料理は『焚合 蛸 小芋 おくら』。
蛸(真蛸)は産地によって旬が異なるのですが、兵庫県の明石や淡路島など関西地方では夏が旬とされています。
『懐石辻留』では、調理をする前に、下処理をした蛸を寸胴鍋に入れ、大根の切り口で20分間ほど突くことで、蛸の筋繊維をほぐして、柔らかくします。
そして、蛸は日本酒、薄口醬油とみりん、小芋(小さい里芋)はだし、薄口醬油とみりんで炊き、おくらは軽く茹でてからだしと薄口醤油のつゆに漬け、最後に器の中でひとつに合わせます。一緒に炊くのではなく、別々に味をつけることで、それぞれの風味が引き立つのです。
百合皿の中心に盛られた、赤い蛸はおしべの葯(花粉の入っている袋)、緑のおくらは花糸(葯の下の細長い部分)、そして白い小芋は柱頭(めしべの先端)を思わせ、あたかも一輪の百合がそこに咲いているかのように見えます。
深山に咲く百合の花の気高さ、そして野性味を見事に表現した、夏を感じさせる一品です。
プロフィール
早川 光(はやかわ・ひかり)
著述家、マンガ原作者。『早川光の最高に旨い寿司』(BS12)の番組ナビゲーターを担当。『鮨水谷の悦楽』『新時代の江戸前鮨がわかる本』など寿司に関する著書多数。現在は『月刊オフィスユー』(集英社クリエイティブ)で『1,000円のしあわせ』を連載中。
ブログ:「早川光の旨い鮨」
懐石辻留料理長・藤本竜美
初代・辻留次郎が裏千家の家元から手ほどきを受け、1902年に京都で創業した『懐石辻留』。その後、現在に至るまでその名を輝かせ続け、懐石料理の“名門”と呼ぶに相応しい風格を纏う。北大路魯山人のもとで修業した3代目店主・辻義一氏から赤坂の暖簾を託されたのが、料理長の藤本竜美氏。「食は上薬」を肝に銘じて、名門の味をさらなる高みへと導いていく。
HP:http://www.tsujitome.com
注釈/北大路魯山人
書家、篆刻家であり、本来は陶芸家でなかった北大路魯山人(1883〜1959)が作陶を始めたのは、主宰する会員制料亭『星岡茶寮』で使う食器を自作するためである。
「器は料理の着物」と考えた魯山人は、中国民時代の天啓赤絵や古染付、桃山時代の織部や志野、江戸前期の古九谷などの古陶磁をその作陶の手本とした。
そのため初期の作品には古染付や織部に倣ったものが多いが、やがてそこに芸術家としての創意を加えることで「色絵金彩椿文鉢」や「糸巻平向」、「銀彩葉皿」といった、用の美に溢れるオリジナルの名品を生み出した。
魯山人の皿や鉢、そして向付は、すべて料理を盛った姿をイメージして作られている。ゆえに料理人にとっては、盛りつけのセンスや力量が問われる、難易度の高い器だと言えるだろう。
注釈/樂吉左衛門
千利休の求めで茶碗を焼いた樂長次郎(生年不詳〜1589)を初代として、現在十六代を数える樂吉左衛門家。
茶碗の窯として創始したため初代から三代道入(1599〜1656)までの作品に食器は少ないが、四代一入(1640〜1696)以降は菊皿、膾皿、蛤皿など、様々な茶懐石用の器を手掛けてきた。
樂家の食器はすべて樂焼と呼ばれる軟質施釉陶器だが、同じ形の器でも釉薬の微妙な違いによって趣が変わる。とりわけ赤樂の食器は各代ごとに赤の発色や窯変が異なり、それが見どころとなっている。
歴代の中で多くの食器を残しているのは四代一入、六代左入(1685〜1739)、九代了入(1756〜1834)、十二代弘入(1857〜1932)で、中でも「樂家中興の祖」と呼ばれる了入は、皿や鉢、向付を得意とし、箆使いの技巧を施した名品も伝世している。
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