見出し画像

第2回 204号室 二十八歳は人のお金で暮らしたい〈後編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

取り壊しが決まっている老朽化マンション。そこで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描く鈴木涼美初の連作短篇小説。
204号室に暮らす28歳の芹は、コンセプトカフェに勤めながら絵描きの恋人と同棲生活を送っている。ある夜、勤務先の店がなくなることを聞かされ仕事を辞めることも考えるが、同業者で自分と同じ肩書きをもつ年下の女子・奈美と出会い……。
[毎月金曜日更新 はじめから読む

©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 都心のタクシーは何を優先して道を選択しているのかがよくわからないほどよく曲がる。二十二時を過ぎて一番のなじみ客が帰ると、芹はオーナーと三十八歳独身の女秘書と連れ立って、来月には合同営業となる歌舞伎町の店舗に行くことになった。均質的に見える夜の東京の道路も、車窓に額をつけて目を凝らしていると、場所によって盛衰の濃淡が細かく見分けられる。武道館の脇を抜け、市ヶ谷を過ぎて新宿が近づくと、それまでの作為的な街に比べて野性の力強い臭いが増す。運転席の後ろに座ったオーナーがずっとスマホで通話をしているため助手席の女秘書とおしゃべりをするわけにもいかず、芹は窓の外でコンビニやオフィスビルやたい焼き屋が流れていくのを瞳を動かさずに眺めていた。千代田区の気負いにも新宿区の気合いにも憧れの気持ちはわかない。見ていて疲れるし、歩く人も疲れ顔だ。
 隣接する県で生まれた芹にとって東京はいつも、気張ってしがみつくほど高い位置にもなく、かといって自分事として愛着を持って語るほど手元にもなかった。高校時代、電車を乗り継いで週末に時折原宿や渋谷に出てくることはあったが、SNSやネット記事で紹介されるその近辺の店はあくまで狙いを定めて出かけていく行先であって、日常に迷い込んでくるものではない。大学時代に今住んでいるマンションに移り住んでからは横目ですぐ見える場所にあるものの、昼間に出かけていく場所と住んでいる場所の間には常に幅の広い一級河川が流れていて、わかりやすく隔たりがあった。
 一時期勤めていた化粧品会社は巨大なオフィスビルばかり並ぶ都心にあった。日曜日は休みの店が多く、仕事の合間に昼食をとるのもほとんどが自社ビル内か近隣のオフィスビルのテナントで、その多くがチェーン店だった。実家のある地元や今の自宅付近にあるチェーン居酒屋やファストフードよりはずっとジャンルも価格帯も幅広く揃うが、それほど面白味はない。運動部に所属したことがなく、幼少期からこれといった習い事もしていなければ特技もなかったが、高校の途中くらいからグルメ情報だけは人より詳しく、打ち上げや女子会の場所選びはとりあえず芹に聞けば間違いない、という高校や大学の友人たちは今でも多い。最初は単に甘いものやおしゃれな店が好きという程度だったが、人に聞かれるようになるとその特徴は強化されていくものだ。なんとなくレストラン情報の多いSNSアカウントをチェックしたり、ファッション誌のウェブサイトでも新しいお店をチェックするようになった。わざわざ都心まで来て可もなく不可もない場所でランチをとりながら、可もなく不可もない仕事をしている自分は、芹がかつて想像していた未来の姿を常に少しだけ下回る気がしていた。
 フーディーな女子大生としてコスプレカフェで使用するくるみの名を使ってSNSを更新していた頃は、たとえば小学生の頃に想像した将来の自分をそれほど下回っていなかった。アイプチで毎朝作っていた幅広の平行二重を埋没で半永久的なものにして、中学まで平均的だった体型は高二の夏からシンデレラ体重を維持し続けているから、むしろ想定を多少ではあるが上回っていたような気すらする。体型も顔も理想どおりとはいかなくとも、スマホのカメラで映してSNS用に加工する限りはかなり理想形に近くなったし、ブリーチをして明るくするとたちまち毛先が切れてしまう髪質だけは常に悩みの種ではあったものの、高校を卒業して名前だけ高貴な女子大に入ってからは髪をブリーチしたいと思うことはなくなった。
 花道通りを避けるためか、車は区役所通りに入って少し走ると右折し、公園の手前で迂回して止まった。すでに開園時間をとっくに終えて入口が厳重に閉鎖された公園とやはり救急外来以外の入口は消灯している病院の間にはこんな時間にもかかわらず数人の女性が下を向き、スマホの画面をまっすぐ見つめて立っている。角に近いところに立つ四人のうち三人はストレートロングの黒髪で、スカートが短く、一人はレディ・ディオールのバッグを持っている。女子の服装や顔面にはうるさい芹も、右端の脚が太すぎる女子を除いて、コンカフェでは人気が出そうだと思った。
「わかりました、とにかく明日うちの子連れて飲みに行きますんでそのとき詳しく聞きますよ、セツさん」
 助手席の秘書が指示を出してタクシーを止め、電子マネーで四千七百二十円を瞬時に支払うと、オーナーは電話の相手にそう告げ、ようやく通話を終えた。オーナーの電話が切れたことを暗い車内で確認してから芹は、あの子らいくらで売ってるの、と公園のほうを気にするように振り返りながら秘書に聞いているともオーナーに聞いているとも思えるボリュームで口にした。
「立ちんぼちゃんたち?」
 電話をしていたせいか、声のボリュームが場違いに大きいオーナーがスマホを珍妙な黒ジャケットの胸ポケットにしまいながら言った。彼の使った立ちんぼという呼称が、黒髪ストレートの二十歳前後に見える女の子たちにあまりに不釣り合いな気がしておかしかった。芹には、区役所通りに並ぶ老舗のキャバクラ嬢のほうがまだその響きに合うように思えた。
「かわいい子で二万、普通一万、生だとプラス一万ってとこだろうな。十年前からじりじり五千円値下がりしたって感じらしいよ、なぁ?」
 車から降りながらオーナーは秘書であるサヨさんのほうをわざとらしく向いて話を振る。援助交際不良少女あがりの女秘書は十代で北関東から東京に出て、キャバクラ、AV出演にソープ嬢まで経験済みの猛者もさだと以前からオーナーにからかわれている。オーナーのホスト時代の知り合いらしいが、二人に身体の関係があるかどうかは店の女の子たちの間でも意見がわかれるところで、芹は「意外とヤッてない」派だ。
「一万は安すぎるね。あんまり安いとさ、あまりに数打たないといけなくなって危ないよ。病気のリスクも跳ね上がるし、男だって怖いと思うけど」
「セックスは共犯だからな」
 いかにも売春業界のご意見番という貫禄のサヨさんのコメントに、オーナーがよくわからない名言で答えた。
「ところでさっきの電話、ゴールデン街のセツさんですか」
「そ。サヨさんよりさらに酸いも甘いも嚙み分けてるように見えて、細かいことで傷つくんだから」
 質問した芹をおいて二人が盛り上がりだしたので、芹は歩幅を狭めて少し距離をとりながら後を追った。深夜でも人の出入りがせわしないラーメン屋の手前を曲がると、オーナーの経営する店の中でも最近もっとも売り上げを伸ばしている歌舞伎町店の入るビルがある。コロナ禍の縮小営業中に合同でイベントをしたこともあるし、名ばかりのマネージャー会議なるものもあるので、店舗には何度も来たことがあるが、知らない間にビル一階の水炊き屋が閉業していた。雑炊のおいしい、値段の安い店だった。
 歌舞伎町店は、営業時間規制の厳しい地域柄に合わせて午前一時までに必ず閉店する。だからほぼすべての女の子がラストまで働いて、送りの車で帰ったり、そのあとに遊びに行ったりするのだという。芹は今日中には帰れないであろうことを悟って、タクシーに乗る前に誠に連絡しておいた。知人宅の窓枠のペンキ塗りに駆り出されていたらしい誠は、了解だよーがんばれ、とだけ返信してきた。少数精鋭の友人と、近くなりすぎない距離で付き合っている芹に対して、誠には友達が多い。アフリカの太鼓をたたいているような変な友達もいるが、商社や霞が関に勤務している人も多い。五月にバーベキューをしたときに仕切っていたのは公認会計士だった。帰りの電車の中で誠は公認会計士は忙しい日が続く代わりに休みが長いのだと言っていた。医者や弁護士の友人なら実際に役に立つ気がするが、芹には公認会計士に世話になる状況は思い当たらない。
 エレベータを降りると歌舞伎町の店舗は一番混雑している時間で、上野とはまた違う、若く自分にそれなりに自信のありそうな男性客ばかりが店内を賑わしていた。店舗を軽く見学し、芹と同じ統括マネージャーの肩書きをつけた女子に軽く目で挨拶をしてから秘書のサヨさんと一緒にキャッシャーの向かいにある重い扉をあけ、外階段を使ってさらに一階上のオーナーの事務所まで行く。事務所と言っても物置に近い狭い部屋が二つとデスク三組と衝立ついたての向こうに応接セットが置いてある少し広い部屋があるだけの、何のしゃれっ気もないところだ。
 オーナーも秘書も北関東出身、オーナーが勤めていたホストクラブの内勤兼経理を担当していたらしい社員の男は富山出身で、歌舞伎町店の実質的な店長でやはり社員の男は静岡出身、上野店に置いてきた店長は埼玉出身、あとたしか猫カフェや相席カフェバーなどいくつかを統括しているやり手の女社員がいたが、北区出身と聞いた。オフィスのしゃれっ気を出すような要素を持った中核社員はいない。上野店も歌舞伎町店もコンセプトカフェを謳いながら内装のコンセプトにはいまいち統一感がないのも、カフェと言いつつバーの印象が強いのもそのせいだろうか。
 事務所には店舗に寄らずに先に戻って珍妙な上着を脱いでいたオーナーと静岡出身の店長がいるだけだった。壁には各店舗の月次の売り上げが棒グラフになった模造紙と不動産屋のカレンダーが貼られている。
「ちょっとしたらアンナが抜けてくるから待っててよ。今日遅くなってもいいなら焼肉でも行くか?」
 オーナーが芹と同じ肩書きの歌舞伎町店の女子の源氏名を言った。芹より年下ではあるものの、おなじく二十代後半のコンカフェ嬢としてはトウのたった部類の女だ。焼肉の問いが自分に向けられているのかよくわからない店長、女秘書、芹の三人は返事をするべきなのかどうかはかりかね、それぞれの顔をみながら、ああ、とか、ええと、などと言い合い、かといって別に拒否権があるとは思えないので、ですねですね、とまた言い合った。
 フーディー女子の芹からすると歌舞伎町はそう魅力的な街ではない。品のよい美味しいもの、ここでしか食べられないもの、写真映えするものを提供する店は極端に少なく、酒は食べ物を美味しくするためではなく、お金をつかうため、あるいは記憶を失うために飲まれる。ただ、夜に働く人にとっては仕事を終えても食事のチョイスが夕方とあまり変わらないという点で心強い街ではある。最も由緒正しい名前の焼肉屋も、そこそこ偉い人が通う台湾料理店も、芹が唯一心惹かれるレタスしゃぶしゃぶの店も朝の三時四時頃まで営業している。
「くるみタクシーで帰れよ、渡しとくわ」
 オーナーがマネークリップから一万円を二枚器用に抜き取ったので、店舗統合の話を聞いてから低空飛行を続けていた芹の機嫌は上向きになった。サウナや喫茶店で時間をつぶして始発で帰れば二万円儲かる。それに今日は深夜一時まで出勤したことにして時給計算してくれることになっていた。二万円と合わせれば一晩家に帰れなかったとして、その見返りとしては全く悪くない金額だった。

 始発の時間は一応把握しているものの、化粧時間を短縮すれば睡眠時間は確保できるし、それほど急いで帰る必要はない。芹は午前五時をまわったのを確認しながらも、最後の一回と思ってサラダバーの前に行き、コンソメスープとプチトマトをいくつか、それにクランベリージュースをグラスに入れて、左右の手を器用に使って空いている店内のソファ席まで戻った。
「なんでトマトだけ?」
 席でひとり待っていた奈美がおかしがって笑いながら聞いた。店ではアンナと呼ばれる、学年で言えば芹の一つ下、生まれ年は二つ下の女だ。異様に若く見られる芹に対して、いかにも二十六歳という比較的大人びた顔立ちの奈美はともすれば年上にも見える。
「リコピンで老化防止、でも身体冷やさないようにスープ。ちゃんと理屈があるの。わたし合理的だから」
「ジュースは?」
「クランベリージュースは膀胱炎にいいんだよ」
「膀胱炎なの?」
「今は違うけど体質的にすぐなりがちだから詳しいの」
 深夜と早朝のあいだの時間に歌舞伎町のファミレス風のレストランで栄養も美容もあったもんじゃないと思いながら、取り放題のサラダバーで野菜には目もくれずに最初からドリンクサーバーのコーラと一番端の鍋に入ったカレーを選び、それをさらにおかわりした奈美といるためか、芹はいつもより過度にキャラを意識して美容とグルメの鬼と化していた。上野店でも、化粧を落とさず眠りいい加減な食生活をしながらも肌に不調のない二十歳前後の女の子たちの中にいればいるほど、芹のこのキャラクターは強化される。それに加えて終電一本前の電車内で通販サイトを覗き込み、毎日のように化粧品を買う習慣のせいで、芹の肌は何を含んでいるのかよくわからないながらも若さとはまたちがった煌めきを帯びてはいる。本当は二十歳の自然体の女になど何一つ勝てるものはないとわかっていても、年を重ねた分洗練された芹の美容や服装は一定の評判を得ていたし、ニキビができたとかアートメイクがしたいとかいう相談は必ず統括マネージャーである芹のもとにきた。
 芹は本当ならインスタやティックトックの更新をしながら、美容関係のプロデュースをしたり、ダイエット器具の宣伝をしたりして、肩書きにヨガインストラクターなどと書いている元キャバ嬢たちのようになりたかった。ヨガはユーチューブをみながら時折ストレッチがわりにやるくらいだし、習ったことはないから、フード・コーディネーターのような肩書きがいい。美容アドバイザーでもいい。夫の稼いだ金で料理教室をしている四十代後半の見苦しい美魔女なんかよりはずっと美味しくて手ごろなものを紹介できるし、家が建つような値段のジュエリーをまとった美容研究家なんかより役に立つ情報はいくらでも持っているつもりだ。少なくとも芹は雑誌で「贅沢なひととき」なんて言って二十万もするホテルのスイートを紹介する美魔女から何かを学んだことはない。それよりは、韓国コスメのよしあしを正直ベースで投稿し続けているアカウントの方がよほどありがたい。インスタのフォロワー四万ちょっと、ツイッターのフォロワーも一万五千ほど、ティックトックは八千くらい。地道に溜めたこの数字は一般人としては悪くない。それでもそれがお金につながるほどの数字ではない。コンカフェ嬢の中にはそれを大幅に超える有名な子もいる。コスプレイヤーとして活動していたり、モデルをしていたりすればその分フォロワーも多いが、同じグループのコンカフェにはそれほど目立って有名という子はおらず、芹の数字を超えるのは二人くらいしかいない。そのうちの一人が奈美だった。

 奈美と二人でファミレスに移動する前、オーナーに連れていかれた焼肉の席は特に意味のあるものには思えなかった。店の奥のやたらと広い席に女秘書や歌舞伎町店の店長と奈美、それにもう一人歌舞伎町店のプロデューサーという謎の肩書きを持った奈美と同い年の女らと通され、歌舞伎町の今ある店舗とは別の場所の小さな地下一階地上四階建てビルを自社ビルとして借り上げたこと、都内に散らばった店の多くをそこ一か所に集約する予定であることが発表された。上野店は歌舞伎町店と地下一階のおそらくもともとはホストクラブが入居していた大型店舗で合同営業となる。つまり上野に店舗がなくなる。歌舞伎町の店舗として現在使用している場所は最近オーナーが力を入れているドレスやらバッグやらのレンタルをおこなうネット企業の拠点として当面使用するらしい。
 リブロースやカルビなどボリュームのある肉には手を付けず、最初にきたタン塩と追加したハラミを多めに確保し、あとはナムルだけつついていた芹は、嫌いな上野発の電車に乗らずに済むようになることと、嫌いな歌舞伎町に通うことを脳内の天秤にかけながら、実際はそこにいる誰よりも食べずにしゃべってばかりいるオーナーの取り皿で固くなっていくタンを見ていた。電球が映り込むほどやたらと艶のある黒っぽいテーブルと、同じくらい磨かれた白い椅子が並ぶ焼肉屋の店内は、キャバクラやホストクラブが閉店したばかりの時間帯ということもあって、それなりに人が入っている。芹はお金も欲しかったし美味しいものが食べたかったが、欲しい未来がこの焼肉店にあるとは到底思えなかった。
 オーナーにアンナと呼ばれる奈美には以前から興味があった。マネージャー会議で一緒になって以来、SNSは一通りフォローしていたが、住んでいる家も休みの日の旅行や外食の場所も、時折披露される買い物の戦利品や身に着けているものも、芹と同じ時給で働いた給料では現実的なものではない。上野店より営業時間の短い歌舞伎町店ではオープンからラストまで出勤しても六時間で、役職付きでありながら早番で帰る芹よりは多少の収入があるにせよ、高層マンションや沖縄のホテルに手が届くとは思えなかった。
「それにしても、うちの責任者の嬢たちはオトコ見る目だけはないんだなぁ」
 頼んだ肉が概ね運ばれてきて、最後の二皿にいたっては半分以上が焼かれずに残っている状態でオーナーはそう口にし、歌舞伎町店の二人の女子は、お互いの彼氏を揶揄しながら笑いあうひとときを楽しんでいた。話の内容から察するに、プロデューサーちゃんは元美容師のホストと暮らしているようだが、お酒を飲まないホストである彼の月収はこれまでの最高額でも今年の誕生日月の四十万で、十分な売り上げをたてられず安い時給で働く月もあるという不安定っぷりらしい。アンナこと奈美はテレビでは全く見ることのできない芸人の追っかけ兼セックス相手をしているようだった。

「お笑いの劇場とか行くの?」
 オーナーが最初にタクシーに乗り、女秘書とプロデューサー女がどこかに消え、店長は電話をしながらやはり暗闇に消えた。女秘書たちはホストクラブの系列バーにでも行ったのではないかと笑った奈美は、なぜか芹を二十四時間営業の南国風ファミレスに誘ってきた。しゃべろうよ、そのうち一緒に働くし、という誘いはもらったタクシー代を節約するために始発まで時間を潰したい芹には都合の良いものだったし、何より売れない芸人のセフレなんかしながら時給二千円台で働き、それでいてインスタ上では芹がかつて漠然と描いた理想の未来のような生活をする彼女のからくりに興味があった。貧しい想像力で芹が推測していた「彼氏が金持ち」という線はどうやら消えた。
「もともとファンだったんじゃなくて、歌舞伎町でナンパされて付き合って、それで劇場とか行くようになっただけだよ。うーん、付き合って、は楽観的な言い方にとられそうだけど言葉のうえでは付き合ってる。ほかにも女いるだろうけどね。でもこっちも結婚したいかどうかと言われたら微妙でしょ? 本当にお金とかないよ。バイトしてるけど普通のバイトだしフリーターより貧乏だよ。バイトで生活するのって大変だよね。うち片親だから、中学の頃とかお母さんと高校生のお姉ちゃんのバイト代で暮らしてたけど、結構お小遣いとかももらってて。あれだけ稼ぐのって大変だったろうなって感謝がとまらない」
 一杯目のクランベリージュースを飲みながら芹はなんとなく簡単な質問で探りを入れようとしたものの、返ってきたのは思ったよりボリュームのある答えだった。売れない芸人というのは嘘で実際は有名なタレントと不倫でもしているのかとか、彼が思ったより売れているとかせめて副業で株やっているとか、実は奈美の実家は大富豪だとか、芹のたくましい割には貧しい想像力で思いつく可能性は一度に色々と否定された。
「そうなんだ、インスタ見てたから、なんとなくすごいお金持ちの彼氏とかいるのかなぁって、勝手に想像して遠い存在に思えてたよ、うちの彼氏なんて絵描きだから」
「お金持ちの彼氏!」
 奈美が大げさに笑い転げて、カレーに突っ込んだスプーンをぐるぐると回した。
「いないいない、お金持ちの彼氏いない。絵描きかっこいいね! 道とかであの、なんていうの、木のさぁ、キャンバス立てかけるみたいなやつ、あれに立てかけてさぁ」
「木製の巨大な写真立てみたいなスタンドみたいなやつ? 物置に置いてるけど使ってるのあんまり見たことないよ、看板とかもっと大きいのが多いのと、あとはパソコンで描いてるんだと思うよ」
「え、そうなの、ベレー帽は? あと丸いパレットと絵筆」
「ベレー帽ないない、絵の具はあるけど、道とかでベレー帽の人が持ってるような木の丸いのはないない。普通のプラスチックのパレットしかみたことない」
 喋りながら奈美はカレー用のスプーンを一度皿の上に置き、片手でスマホ画面に器用に文字を打ち込み、あ、あれイーゼルって言うらしいよ、などと言った。芹にとっても馴染みのない言葉だったし、誠を人に説明する際に絵描きと答えるのは、誠がそう名乗っているのと、グラフィック・デザイナーやイラストレーターと言ったときに比べて、職業として成立しているのか否か非常に微妙な響きを持つところが、いかにも誠に似つかわしいと思うからで、実際に彼の日常的にこなしているルーティンがその名称に相応しいのかどうかはよくわからない。
 南国風ファミレスの中は職業としてはっきりとした名称と市民権がある仕事をしているような人は見当たらず、時間が深くなればなるほど、窓の外の空が白け出せば出すほど、その中では比較的話の通じそうな類の人が減り、身体や心に不調をきたしているような顔色の悪い女が増えた。男はホスト風の若者が三人、一人の巻き毛の女を囲ってしきりにビールをお代わりしている以外、目に入るのは店員だけだった。
 最後の一杯と思ってトマトやスープと一緒に運んできたクランベリージュースを勿体ぶりながら口に運んで、店統合されたらやめようかなぁと芹がぼやくと、奈美は、え、やだ寂しいと言った。奈美の性格や喋り方からして、同じ店舗にいくらでも親しい女の子はいるだろうし、何度かしか会ったことのなかった別店舗の同じ役職の女が一人いなくなったところで寂しいわけはない。むしろ新店舗で現在の肩書きが二名になるような厄介ごとはない方がいいのではないかと芹は少し思ったが、明るく嫉妬心の薄そうな奈美に肩書きのこだわりがあるとも思えなかったし、むしろそんなことが頭をよぎるのは自分の方に卑屈さがあるからのような気もした。
「自分よりババアがいなくなるからでしょー」
 拗ねるような声を出して笑い半分にそう言うと、奈美は、それはある、となぜか真面目な顔になった。
「いま学生の子は私の年齢になるずっと前に辞めちゃうだろうし、そこで補充されるのもうちらより年上ってことはないじゃん、いる限りずっと最年長だよね、うちら」
「うちらっていうより私だけどね。いつまでこんなことしてようかとか思っちゃうな。前に話した会社にあのままいたら、契約とはいえ後輩とか部下とかできてキャリア積んだってことになってたかもしれないけど」
「でもさ、美容師の資格とか持ってると強いなって思ってたけど、うちの店の、元々歌舞伎町のエクステの美容院勤めてた子に、いつでもそっちの仕事にも移れるのいいなって前に言ったら、でも美容師でもババアなんて滅多に見なくない? って言われた」
 そう言われて、芹は一度目は軽く、二度目は大袈裟に、確かに、と繰り返した。すでに南国風の店内に残っているのは何度か店員に注意されている居眠り気味の女二人連れと、最も顔色の悪い女一人、それから流石にビールの注文をやめてドリンクバーのコーヒーなどを飲み出したお姫様と三人の家来のグループだけだった。
「来月、マカオ行くけど行く?」
 奈美がもうほとんど溶けた氷しか入っていない、ほんのりコーラの色味のついたグラスを口につけ、かろうじて形をとどめている三つの氷ごと一気に喉に流し込んでからそう言った。もともと地理も外国語も世界史も苦手だった芹は、マカオがなんとなく中華圏なことはわかっても、国の名称なのか都市名なのか、はたまたピピ島のような島の名前なのかよくわからなかった。

 ペンキを塗り終わった後に知人宅にとどまり、遊びでTシャツ作りなどしていたらしい誠からは午前一時と四時半にそれぞれ、タケのところ泊まっちゃうことにしたよ、というのと、寝ちゃってて今トイレに起きたけどもうこのまま起きて始発で帰っとくね、というメッセージが来ていた。タケと言われてもピンと来なかったが、知人宅でそうしっかり睡眠は取らなかっただろうから、おそらく始発で帰ってそのまま芹の部屋のベッドで爆睡しているだろうと思い、新宿駅から電車に乗ったタイミングで、今からJRで帰る旨だけメッセージを送った。いつもの私鉄で帰った場合に比べて駅からは倍近く歩くことになるが、一度午前二時頃にピークを迎えた眠気はすっかり覚めていて、まだ空いている下り電車は快適だった。
 芹は扉横の座席で袖仕切りにもたれかかるようにして座り、膝の上に置いたバッグの上でスマホの画面に指を滑らせ、マカオの場所などをマップ上に表示してみたり、友人がインスタに投稿した写真に、説明書きを読まず適当にハートマークをつけてみたりした。始発から一時間以上経過しているので、空いていると言っても車内はすでに日付と一致した一日を始めようとしている清潔な人がかなりの人数乗っていて、それに対して芹のように概念としての前日を締め括っていないであろう人の姿はなかった。街から街へ往来した人々の吐く息と持ち込む機嫌が丸一日分詰まった夜の電車に比べて、朝の電車の中に漂う空気は軽い。芹はマスクをはずし、いつもの帰りの私鉄の中では意識的に浅くしている呼吸を深めにゆっくりしながら奈美の生き様について考えた。
 奈美は新宿でナンパしてきた売れない若手芸人と付き合っている。奈美は芹と同じ系列の、カフェとは名ばかりの限りなくオミズに近い接客の店で動物モチーフの可愛い衣装で働いている。時給は芹と同じ、出勤は週に五日、勤務時間は五時間か六時間。インスタのフォロワー数は九万くらいで、女子会の砕けた様子の写真もあれば、海外の高級ホテルや沖縄の隠れ家ホテルの写真もある。ファストフードもインスタントラーメンも食べるが二ヶ月前でも予約が取れない寿司屋のお造りも食べる。それは芸人の彼氏とは食べていない。奈美は来月マカオに行く。マカオには三ヶ月から四ヶ月に一回は必ず休みを取って三泊以上行く。奈美の生活はコンカフェの給料で成立していない。中国本土と日本を行き来して、マカオにしょっちゅう滞在している五十歳になったばかりのシュガーダディがいる。マカオ旅行に付き合うと五十万、日本で会うときは気まぐれに十万か二十万、お駄賃がもらえる。奈美は売れない芸人を結構愛していて、シュガーダディのことも結構可愛いやつだと思っている。奈美はバイトを掛け持ちして育ててくれた母親を年に一回ハワイに連れて行く。
 電車がもうすぐ川を渡る。上野発の私鉄とは違う行政区を通るJRだが、上野発の始発と同じ川を渡らなければ芹の家には辿り着けない。劇的に可愛い衣装でくるみとして接客する店や、インスタに載せたいスムージーや、この間大学時代の友人四人と久しぶりに会ったときに初めて食べた千駄ヶ谷のパワーサラダや、人気のアパレルブランドが経営するベーカリーカフェ、それらと芹のマンションは太くて長い川によって隔たれる。芹のマンションは川からすぐで、そこは叔父の厚意でコンカフェの給料だけでもそれほど苦労せずに住めて、つるんとした顔の優しい彼氏にほとんど収入がなくても住めて、毎週韓国から化粧品が届いて、オルガズムは向こうからやってきて、しかしその建物はもうすぐ取り壊されてしまう。三万円の家賃で低収入の絵描きとくつろいで暮らせる部屋は見つからないだろう。
 電車がほとんど揺れずにぴたりと停止位置に合わせて止まり、川を渡る前の最後の駅で何人か同じ車両の人が降りた。乗ってきたのは進学校の制服を着た女生徒が一人。スカートの丈も平均的で化粧っけがなくソックスも指定のものらしいが、地顔が整っているのでダサくは見えない。男は顔が整っていてもダサい服を着ているとダサく見えるが、女は顔のバランスが悪くてセンスの良い服を着ているよりも、変な格好で顔が可愛い方が好かれる。それが芹の持論だった。空いたドアから見える空は厚めの雲に覆われていまいちな色をしている。
 芹はフード系のプロデュースを手掛けるようなインフルエンサーになりたかった。料理研究家の肩書きで時折メディアにも露出するがけして出すぎず、SNSのフォロワーは多いがけして更新に命はかけず、流行りには敏感でセンスのよいものにはお金を惜しまないがけして下品なほど買い物はせず、そういう何をしているかよくわからない人になりたかったから、会社を辞めた。少なくとも固定の給料と事務仕事の中に、芹ののぞむ生活への足がかりはなかった。今の生活にも足がかりはない。ただ、足がかりがないことが決定しているよりは、足がかりがあるかもしれないと少しだけ思えるほうがいいような気がして今の生活をやめようとは思っていなかった。二十八歳の現在、そういう生活に向けてしていることはない。特にお金もためていなければ努力もしていない。ダサい服で外出しないとか、肌のケアは丹念に、クランベリージュースを飲んで、若い女としてそれなりに意識の行き届いた女でいることはできても、何の飛び道具もない。家賃三万円の部屋を失えば、それだけ肌のメンテもしづらくなる。
 それでもすでに婚活なんて言葉を使い出す大学の同窓生の会話には二重の意味で何の現実味も感じられない。自分のしたい生き方を手に入れるために男の高収入を使うのは動物的に思える。給料の高い証券マンと結婚すれば、化粧品や調味料やパワーサラダにかけるお金は確保できても、何か我慢と不自由が付随する気がして仕方ない。それに、高収入といっても同級生たちの彼氏で評判のいいのはせいぜい平均収入の倍くらいの給料が退職までもらえる会社員で、そのために何かを我慢するのは馬鹿げているというのが芹の正直な実感だった。結構電車も使うしファストファッションも使うしファミレスやファミリー向け温泉宿も使う、そこそこ居心地の良い檻の中の未来のために、女子力を上げて挑む競争には何のモチベーションも持てない。
 奈美は不自由な檻には入っていない気がした。ちゃんと好きな人を経済的な下心なく選んで、好きな可愛い格好で働いて、その現実が賄えない経済的な負担は、別に不快ではない、でも愛してはいない、お金持ちで優しい人の財布に押し付ける。それに伴ってやってくるのはファミリー温泉や私鉄ではなく、マカオや高級寿司だ。安定のための婚活に余念がない女たちより、さらにはオルガズムで繫がった男と暮らす芹より、よほど人間的な感じがする。
 電車は無事に川を渡り、と同時に怪しげな色だった空があからさまに暗くなった。よりによって遠いJRの駅から歩いて帰るときに、と芹は思ったが、寒くない季節に雨に濡れるのは実はそれほど嫌いではなかった。
 改札を出ると思わせぶりな暗い空に相反して、空気はまだ乾いていた。すでに仕事や学校に向かう人が続々と駅に入ってくるのに逆らうように、ロータリーに出る幅の広い階段を早足で駆け降り、人のいないタクシー乗り場を突っ切って大型スーパーとパチンコ屋の複合施設の前を通り、ロータリーの出口にある銀行の角を曲がって最初の大きい信号を待っていると、対岸に誠が見えた。信号を待つ人のほぼ全ては新しい一日を迎えたばかりの人、こちら側で待つ芹は昨夜を終えていない人、誠はそのちょうど間の、今日でも昨日でもない自由な時間を好きな形に切り取って、それに乗っているように見える。
 芹を見つけて右手を空に向けて大袈裟に振り上げ、ふざけた歩き方で近寄ってくる誠は傘を二本、左手の腕にかけている以外は手ぶらだ。
「ぎり間に合うかなと思ったらベストタイミング」
 誠はまだ雨の降っていないのを確認してそのまま二本の傘を腕にかけたまま、先ほど空に向けた右手を芹の肩にかけ、芹がロータリーを歩いたのの二分の一ほどのゆっくりした速度で歩き出した。
「歩くの遅くない?」
 芹が言うと、二本も持ってきた傘に活躍の場を与えるために雨が降り出すまでできれば歩いていたい、と笑って言う。よく見ると誠の右の耳から頰にかけて、明らかにシーツの痕と思われる線が走っていて、それに連なるように髪にも不自然な寝癖がついている。しかし顔はつるんとして清潔感がないわけではない。芹は誠と付き合ってから、ちょっとしたことに怒ることはあっても別れたいと思ったことはなかった。誠が嫌になったこともなく、ものすごく傷つけられたこともない。でも、もし芹の夢を一気に叶えられるほど金持ちでかっこよくて都会に住み良い仕事をするような男に口説かれることがあれば、それほど思い悩まず誠と別れるような気もしていた。別にこの人とならどんな貧乏な生活でも耐えたいというような愛の決断を迫られることはなかった。誠の低収入に怒っているかというと違う。かといって芹はたとえフード系のプロデュースなんかで当ててお金が舞い込んできても、それは最後の一円まで自分の好きなことに使いたかったし、誠を養うという考えは全くなかった。むしろ芹の稼いだお金を一円まで好きなことに使うために、生活くらいは人のお金でしたかった。奈美はそれを綺麗な思考回路で片付けているような気がする。芹が高校時代に漠然とイメージしながらも、その生活がどうやって成立しているのかよくわからなかった未来の幸福な生活は、奈美のような仕方で完成するのかもしれなかった。芹がなんとなく見かけたことのある、そういう生活を送っている人の内実の正解が見えたような気がして、実は歌舞伎町を出てから芹はずっと清々しい気分だった。
 もう左に曲がって直進すればすぐに自宅に到着という角を曲がろうとすると誠が、河原までダッシュ、と言って芹の肩に回していた腕を解いて芹の手を取り走り出した。ダッシュというにはあまりに遅い、無駄に動きの大きい走りで息が上がり、通勤に向かう人がちらほら見える狭い道路で息をあげて無駄に走っている自分らに笑えて、芹は河原に登る階段に足をかけたときには息ができないほど爆笑していた。
「あ、こんにちは! あ、おはようございますですよね、おーすケイタ元気か」
 同じく笑っていた誠が立て続けにいくつかの挨拶言葉を口にしたので前を見ると、まだ学校に上がらない年の男の子を連れた女性が軽く会釈して、それまで繫がれていた手を解いた男の子の方は、一目散に誠に突進してきた。
「こないだのねんど、やる」
 誠の口から何度か聞いたことのある、同じマンションに住む子どもなのだろう。しかし粘土をやったときは、芹の部屋に男の子を招いたのか、それとも男の子の家に誠がお邪魔したのか。それほど親しいご近所付き合いをしているのだろうか。芹は女的な意味での嫉妬は微塵も感じず、純粋に疑問に思った。男の子の母親はマンションに似合わない美人ママで、よく見るとサンダルからのぞくフットネイルまでサロンで仕上げたもののようだった。このひとの内実にも芹の目には今のところ入らない大仕掛けがあるのかもと一瞬思いながら、男の子とじやれあう誠の頰の痕がほとんど消えていることに気づいた。

(つづく)

<前の話へ  連載TOPへ  次の話へ>

連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新

鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身等多数。
Twitter:@Suzumixxx

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!

更新のお知らせや最新情報はXで発信しています。ぜひフォローしてください!