津原泰水「飼育とその技能」第4回 とうかさん(4)
祖母や母からサンカ(広島を中心に分布していた無国籍人)の「ジリョウジ」の血を受け継ぐ大学生、界暈(さかい・かさ)は、ある事件をきっかけに「ジリョウジの力」に目覚めていた。やがてその力が、かつて広島であった恐ろしい出来事に自らを引き寄せてしまうとも知らずに。
Kirie:Shinobu Ohash
リオン二階のテーブル席に身を収めたほかの二組の客は、おれの風体にぎょっとなって顔を寄せ合い、奥の香西(かさい)は「了(りょう)くん!」と叫んで大きな身体を座席から浮かせた。しかしその向かいのおふくろは、
「それはなんの血?」
と、眉ひとつとして動かすことなく。
「誰の血?」とさえ問わなかった。端(はな)から人間の血とは思っていない。
むろんおれの表情を観察すれば、それが本人の血でも、他人を殺傷しての返り血でもないというのは察しがつこう。従って、赤インクや赤絵具でなければ魚か鳥獣の血というのは、妥当な推察と云える。
ただしおふくろの場合、その種の見極めが常人離れして素早い。状況を一瞬にして悟っているどころか、予知したうえで自分の態度も決していたのではないかと思うほど、動じない。驚かない。
おれは答えて、「犬」
「殺したん?」
「こ……殺したんか、了くん」
神託を得たかのように復唱する香西を、おれはことさらぽかんと見返してやった。ややあって彼は察して、
「なんちゃって」と場都(ばつ)悪そうに、薄い頭髪を掻き上げた。
おふくろとおれの応酬に未だ不慣れで、どういった部分をどの程度にだったら真に受けて良いものか、摑みきれずにいる。だいぶ学習してくれてはいるが、つうかあで通じ合う日は永久に訪れまい。
なにせおれたちにしても、明確に虚実を区別して話しているわけではない。例えばおふくろがおれに、ゆうべ「お祖母さん」が——とっくの昔に死んでいるのだが——ああのこうの話しかけてきたと云えば、それは現実の話ではない。
しかし事実なのだ。おふくろにとっての真実、と言い換えてもいい。客観的には確認できないが、かといって何人(なんぴと)にも否定しえない。
おれが香西向けの調律(チューニング)で、
「逆ですよ。目の前で事故に遭(お)うた犬を、病院まで連れてったったんです。雑誌のインタビューが終わってホテルの外に出たら、バセットハウンドいう、耳が長(なご)うて胴も長うて肢(あし)は短い、『刑事コロンボ』に出てくる——」
と始めた説明を、遮っておふくろ、
「それ脱いだら?」
「外じゃ脱いどった。でもここに入ったら冷房が効いとったけえ、また着た。どうせ下のTシャツに染みとるし」
「のう了くん、コーネルに着替えを届けさせようか」
と香西が煩わしいことを云い出した。犬殺しに及ばなかったことへのご褒美か。
「コーネルが貸衣装なんかしよるんですよ」
「もちろん買(こ)うたげるんよ。なにかヴァンの……同じボタンダウンでええか?」
「ええですよ。ヴァンでええいう意味じゃなしに、結構です」
「ありゃりゃ、よう見たらズボンにも付いとるよ」
「買うてもろうたズボンに、すみません。クリーニングに出しときます。シャツがどうにも気になられるなら、今日のところは、はあ失礼します」
「他人行儀な。了くん、わしら親子なんじゃけえ、そういう遠慮には及ばんいうて。だいいちこういう時にすっ飛んできてくれんようなら、わしゃいったいなんのために年に何十万もコーネルに落しよるんやら」
「年に何十万もコーネルでお買いものをしよってんですか」
不意におふくろから揚げ足を取られ、薮蛇とばかり、
「いや独身の頃は、まあ年によっては——」
と言い訳を始めた香西、やがて彼女が、
「お言葉に甘えとけば」
とおれに囁くや、がぜん張り切り、
「電話してくる」と勢い込んで一階に下りていった。
一挙に疲労が押し寄せたようで、おれは香西が空けた席へとへたり込んだ。「またアイヴィが増える」
「好きにさせたげんさい」
と、おふくろはにこりともせず。かといって不機嫌な目付きでもない。いや香西には判らないかもしれないが、今宵はかなり機嫌が良い。案外とこの店がお気に召しているのかもしれない。
「なんぼなんでも流行(はや)らん」
「ちゃっかりズボンは穿いとるくせに」
「あとは皺くちゃじゃった。撮影もする云うけえ」
「その血まみれで撮られたんね。有名になって結構なことじゃ」
「そうような訳があるかいうの。犬を助けたとき、はあ撮影は終わっとった」
「上着もネクタイも無しで」
「吉行淳之介や開高健の時代じゃああるまいし」
「まあ」と、おふくろは改めておれの服装を品定めし、「あんたの友達のピエロの扮装よりゃ、だいぶましかね」
大学の軽音の連中と木定楽器の辺りに屯(たむろ)しているのを目撃されたことがある。そこに混じっていた全身コム・デ・ギャルソンを余程のこと奇異に感じたらしく、未だこうして槍玉に挙げる。
「流行っとらんなら廃れもせん。流行りもんに手え出すんはおっちょこちょいよ」
「香西さんは、自分が痩せとったら着たいもんをおれに着せたがる」
「他人(ひと)に物を買い与えるいうんはそういうことよね。悪趣味なもんを押し付けられよるわけじゃなし、上手いこと付き合(お)うときんさい」
おれは一時間近く遅刻してきたというのに、テーブルには飲みかけのビールとジュースが置かれているだけだった。
「食べとってもろうて良(え)かったのに」
「オードヴルはわたしらのぶんだけ頂いたんよ。あんたのはスープと一緒に出てくるけえ追い着きんさい。犬は車に撥ねられたんね」
おれは頷き、「犬を引っ張っとったロープが千切れて、百メーター道路の緑地帯から副道に飛び出してしもうたところを、スピード違反の車に当たられて、おれ目掛けて飛んできた」
「大袈裟に」
「いや、比喩じゃなしにほんまに飛んで、ぶち当たってきたんよ。死ぬとこじゃった」
「また大袈裟を」
「下手したら死んどったよ。バセットハウンドいうんは見た目に依らず、恐ろしゅう重い」
「血まみれのが飛んできたんね」
「いや、それが一見、外傷は無(の)うて——」
衝突は見ていない。その瞬間、おれと雑賀みらいはまだ廻転ドアの内にいた。
犬はまずバンパーにぶつかり、ボンネットの上に掬い上げられてから、フロントガラスにバウンドしたものと想像される。これは獣医の所見でもある。そして仔象のダンボよろしく空中を游泳し、その着地点にたまたま進み出たのが、おれだった。
激突の衝撃で、いま出てきたばかりの廻転ドアの中へと犬ごと叩き込まれたのである。ドアはおれたちにつっかえて停まり、二枚の平面と一枚の曲面、つごう三面の硝子に囲まれた狭い空間で、しばし恐慌状態のバセットハウンドとの格闘を余儀なくされた。犬は未だ虐待が続いていると誤認しているらしく、ぐるるぐるるぎゃわんぎゃわん、唸ったり喚いたりしながら、へたりこんでいるおれをさんざん足蹴にした。
硝子の隔壁が迫ってきた。見ればみらいが隣室から押している。坐ったまま反対側に後退(あとずさ)る。脱出を予感した犬が伸(の)し掛かってきた。昂奮しすぎて、が、が、と咳き込んでいる。
外壁が途切れ、犬、次いでおれと、ロビーにまろんで出た。
仰向けに転がり、深呼吸していると、
「界(さかい)さん、血が」と廻転ドアから出てきたみらい。
「鼻血かな」と、さして意に介さなかった。全身隈無く鈍痛に見舞われていたが、出血を伴うような鋭い痛みは感じていない。
ところが頭を起こしてわが身を見下ろせば、トキオクマガイのシャツが血でだんだらだ。顔を撫でまわしてみた。手には何も付いてこない。
犬は遠ざかることなく絨毯に伏せていた。揃えた前足の上に顎を乗せ、舌を脇に垂らして、通常の四倍速くらいで息をしている。前足が赤い。
「おれじゃなくて犬だ。吐血した」
廻転ドアから今度は小学五、六年ほどの細っこい少年が出てきて、コロンボ、コロンボ、と譫言(うわごと)のごとく。
赤いロープを束ねて握っている。垂れ下がった先端に、金具は見当らない。犬の色といい飼い主の服装といい、本通(ほんどおり)で見掛けた一対に間違いなかった。
犬の前に膝を突き、「良かった。生きとる」
おれは起き上がり、「動かさんほうがええ。たぶん内臓がやられとる」
少年は助言を無視し、犬を抱きかかえて立ち上がらせようとした。身を裂かれているような悲鳴がロビーに響きわたった。彼は怖じ気づいて身を離し、「コロンボ……?」
「骨も折れとるんじゃろう。この近所?」
と問うと、蒼白となった顔をこちらに向けて、
「リードの先がほつれとるん、ぼく、気付いとったのに——」
「その話は後で。住んどるんは近所? この犬の行きつけの獣医さんは近い?」
「加古(かこ)町(まち)」
「なんじゃ、近所の子か。ほいなら獣医は川縁(かわべり)の?」
「ドリトル動物病院です」
「ああ、場所は判る。いま家に誰か居(お)ってかね」
「お母さんとお祖母さん」
「車は?」
「あるけど、お父さんしか運転できません」
「いまお父さんは?」
「土曜日は仕事」
「参ったの。どうやって担いでく? 体重は何キロ?」
「二十八キロ」
「いや、君のんじゃのうて」
「犬が。バセットハウンドは見た目よりだいぶ——」
おれは歎息して、「踏まれて苦しい思うたわ。ちなみに君の体重は?」
「三十四キロ」
「変わらんじゃあないか」
犬は虚ろにおれたちを見上げている。呼吸は変わらず速い。ホテルの人間が集まってきた。みらいが事情を尋ねられているのを見て、
「雑賀さん」と近くに呼びつけた。
「はい」と飛んできた彼女に、
「この子はあなたの弟。あれは実家の犬」と囁きかける。「獣医までホテルの車に運んでもらう。タクシーを呼んでもたぶん乗車拒否されるから」
「了解」
ややあって近付いてきた場の責任者は、こちらの要望を医院名に至るまで把握していた。犬の体重も知っていた。おれはみらいの聡明さに舌を巻いた。
「いま担架と車を手配しております」
一礼して離れていった男と、入れ替わりにおれの斜め前に立ったみらい、
「ちなみに逃げた車はシャコタンのサバンナGTで、色は白。ナンバーの末尾は69」
ほとほと感心して、「凄いな、あなたは」
「女のくせに?」
「無差別級で。ぼくはビートルくらいしか判らんよ。いや、なんの知識が、というような話じゃなくて」
「界さん、わたしの中高生時代の綽名(あだな)、教えてあげましょうか」
「是非に」
彼女はそれまでになかった艶然たる笑みと共に、「化け物。見たこと聞いたことを忘れないから」
(つづく)
連載小説【飼育とその技能】
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津原泰水(つはら・やすみ)
1964年広島市生まれ。学生時代から津原やすみ名義で少女小説を手がけ幅広い支持を得る。97年、現名義で長編『妖都』刊行。2012年、『11』が第2回Twitter文学賞国内部門1位。2014年、近藤ようこによって漫画化された『五色の舟』が第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞。著書に『綺譚集』『ブラバン』『バレエ・メカニック』等がある。
Twitter:@tsuharayasumi