平山夢明「Yellow Trash」第6回 あんたは醜いけれどあたしには綺麗(6)
平山夢明『Yellow Trash』シリーズ、完全リニューアルして再始動‼
毎週金曜日掲載!
illustration Rockin'Jelly Bean
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目を開けると穴ぼこ窓に鳥が留まっていた。そいつはおれが身を起こしたのに気づくと板を叩くような声を発し、飛び去った。穴の向こうは、すっかり明けていた。
麻袋(ザック)の中身を粗方(あらかた)爺さんの食料箱に放り込んでから、おれはコッペ麺麭(ぱん)を縦に割ると片側に苺果醤(イチゴジャム)を、反対側に牛酪(バター)を塗り、塩を振る。前にヒッチしてくれた船員に教わったのだが此のひと振りで甘ったるさが消え、味が締まる。ほんとかどうかわからないが、おれ程度の舌なら充分に騙せる。
転がっていた洋盃(コップ)を拾い、中の埃(ほこり)を上っ張りの裾(すそ)で拭ってから玉蜀黍酒(バーボン)を注ぐ。
窓からの光線(ビーム)がぐんぐんと太くなり、図々しさを増していく。
おれは其れを眺めながら麺麭を食(は)んだ。辺りはもうすっかり昼間のようになってい、昼間ほど騒音がないので朝が早いと報(し)れるだけとなっていた。
果醤の甘ったるさを牛酪の塩が半殺しにする。其の鬩(せめ)ぎ合いがおれを鼓舞(わく)つかせた。
「儂にもくれ(ギブミー)」
寝たままの爺さんが手を伸ばす。顔面に光が喰い付いてるのに表情は変わらない。
「麺麭か?酒か?」
「両方(ぼーす)」
おれは洋盃を爺さんに渡し、コッペを引っ張り出して同じものを作ってやった。
「小鳥(チュンチュン)が来ていたようじゃが」
「起きてたのか。小夜啼鳥(ナイチンゲール)だ。珍しいもんが此処らには居るな」
爺さんはコッペを囓(かじ)ると少し噎(む)せ、骨の浮いた胸を叩いて玉蜀黍酒で流し込む。
「雨と酔漢(のんだくれ)に蹴られるのを気にせず寝たのは半年ぶりだ。ありがとよ」
爺さんは頷き、またコッペを囓った。
「此は牛酪を囓っとるようなのに果醤の甘みと塩味が後を引かせる。無限に喰えそうじゃ無限に」
「後は自分でやんな」
おれが立ち上がると爺さんが云った。
「処で、その顔は生まれつきか?」
「否、産まれて半年ぐらいは人並みの顔(やつ)だった。写真で見た気がする」
「ほうか。また逢うようなことがあったら、次は触らせてくれ」
「物好きな爺さんだ」
おれは外に出、バイクに跨がった。
爺さんの声が響いた。
『気をつけて行くことじゃ!あんたが見た鳥は此処らじゃ墓場鳥と呼ばれとる!』
〈あばよ〉と返事をしたが、バイクのエンジンに掻き消されてしまった。
おれはブレーキを緩め、スロットルを開けた。
カルドのバイクは最高(シャープ)だった。
朝の匂いを胸一杯に吸い込みながらカッ飛ばした。頭守(メット)も免許もないが誰もそんな事を気にしない。新しいバイク(相棒)がおれを守っていた。口笛が湧き、おれは林の向こうから現れたBMWのSUVに擦れ違いざま太陽のような笑顔と投げキッスを振りまいてやった。
が、其奴は何かが気に食わなかったらしい。
妙な気配で振り向くとSUVが燃え上がる化学工場のような土埃を噴き上げ迫っていた。
「おい!なんだ?なんだ!」
おれは脇に逸(そ)れ、雑草の生い茂る荒れ地を突き進んだ。が、車高の高いSUVは追尾ミサイル並みにおれの尻から離れず、おれをタイヤの染みにしようとエンジンを吹かしまくっていた。
「よせッ!」
前輪が何かに乗り上げた瞬間、車間がドン詰(づ)まりSUVが噛み付いた。次いで車体が斜めに傾(かし)ぎ、間髪容(い)れずSUVのフロントが梵鐘(かね)の突き棒よろしくバイクを搗(か)ち上(あ)げ、おれを宙(そら)高く打ち揚(あ)げた。
地面に叩き付けられた時、ボフッと躯のなかで音がし、おれは目の前が真っ暗になった。少しは雑草が緩衝材(クッション)になるかと期待していたが、やはり雑草は雑草で糞の役にも立たず、おまけに埋もれて隠れていた石ころが腎臓の辺りに突き刺さって、おれは女みたいな悲鳴を上げ、転げ回った。
すっ飛んでったバイクは遠くにあるらしく臭いすらしない。目の前には銀の牛骨のようなバンパーグリルを付けたSUVが、ぶかすかアイドリング状態でおれを狙っており、其処へ微(かす)かにへばり付いた緑のペイントが事故の名残りを告げていた。
咳き込み、躯を起こそうとする間もおれはSUVの腹の下に広がる影を見つめ、其処へ巻き込まれなかったことに感謝した。
フロントは偏光硝子(へんこうがらす)なのだろう、なかは暗く沈んで皆目見当が付かなかった。そうこうしてる間にも虎の唸りのようなエンジン音が厭な予感を募(つの)らせる。今しも極太タイヤが胸を挽(ひ)き潰す気がして背筋が寒い。ので、おれはジリジリと、其れこそ気取られぬペースでじわじわ逃げることにした。十センチ、二十センチ、五十……身長の半分ほど離れた途端、盛大にクラクションが打(ぶ)っ放(ぱな)されおれは胃を鼻血しそうになった。
ドアが開き、黒いブーツが地べたに降りる。痩身、だが張り付くようなバイクスーツの胸だけはメロン泥棒のように膨らんでい、鉄留具(ジッパー)が上がりきらない。屹度(きっと)、こんな場面でなければ立って見てもしゃがんで見ても勃起(たつ)ような女――カキタレが居た。
おれが口を開く前に髪留め(ゴム)を唇に挟み、はためく髪を両手で忙しそうに纏(まと)めながらカキタレが口の端で云った。
「おまえも糞を喰ったり、産まれたばかりの子犬を磨り潰(マリネ)したりするのか?」
「うぇっ?」
「オレの小便を呑みたがったり、腐った牛肉を肛門に詰めてくれと泣くのか?」
返事ができなかった、カキタレが口にしたのが知らない組合の符丁(ふちょう)か、おれ以外の世間一般だけで通じる暗号だと思ったからだ。
「其れは此の星の言葉か?」
おれの返事にカキタレはキョトンとした。
「どういう意味だ」
「否、あんたが云う尻(けつ)だの便(べん)だのがさ」
「見たことがないのか」
奴はおれを少しの間、見つめた。ぽってりした唇の合間から白い歯が覗いていたが、やがて桃色(ピンク)の舌が現れると上唇を舐めた。
「もしかして……おまえ」
「なんだ」
「狂ってるな」
「あ?」
「なるほど……そういう訳か。なるほどな」
腕組みをしたカキタレは強く頷いた。
「故に貴様は遁走(とんそう)を試みた。自分の気持ちの整理が付かず、どうすれば良いのか思考も定まらず混乱と不安の中で最も誤った安易で軽率な行動を選択した……」
「悪い。相変わらず何のことだかさっぱり判らないが取り敢えず〈違う〉と云うよ」
「ふむ。単に狂ってるだけでなく否定癖も患(わずら)っているのか……此は正直、厄介」
おれは精一杯の笑顔を見せると腕を組んだまま、ぶつぶつやっているカキタレに云った。
「まあ、ゆっくりやっててくれ。おれはちょっと先を急がなくちゃならん」
有り難いことに何かに没入しているらしいカキタレは身動きひとつしなかった。
おれは徐々に距離を取り、五メートルは離れたところで一気に駆け出そうと背中を向けた。雷のような轟音が響くと足下に大穴が開き、抉(えぐ)れた土が中身を覗かせた。
「……冗談だろ」
振り向くとカキタレが両手を伸ばして銃を構えている。縦から見ても横から見ても銃口はおれの心臓を狙っていた。
「臆病者め」カキタレが眩しそうに顔を顰(しか)めていた。「一生そうやって逃げ回るつもりか」
「君子危うきに近寄らずって諺(ことわざ)を知らないのか!」
「此の世で最も哀れな詐欺は己自身を騙す事だ」
「触らぬ神に祟り無し!」
「坊主木履法螺((ぼっくりほら)の貝!中を割ったら……」
「鳥の糞!」
混乱した脳が灼け付いたのか唐突におれの口から囃(はや)し言葉が飛び出した。
カキタレが真っ赤な唇を〈Oh(オー)〉にし、固まっていた。
「おまえ、知ってるのか?」
「餓鬼の頃、よく云われたからな。あんたは云ってたクチ、おれは云われてたクチだ」
カキタレの銃が下がった。かと云って油断できるほどではない。
「なるほど其れが遁走(フーガ)の理由か……確かにおまえには反吐(へど)が出たり、まともに見て発狂する者もいるだろう。轢き殺したいとさえ思う運転手や、生きたまま焼き殺したいと願う教師がいても何の不思議もない」
カキタレは其れだけ云うと銃を揺らした。
「此方へ来い。もっと近くに……」
おれは云われた通りにした。
奴はバイクスーツの胸元に手を掛けると裂くように開いた。吹き飛んだ鉄金具(ジッパー)が、おれの胸に当たって落ちた――肌色の甜瓜(メロン)の王様だか女王様みたいなのが荷崩(にくず)れし、転(まろ)び出た。
「が、安心しろ。おまえは醜いがオレには綺麗だ。胸を張って愛してきて構わん」
不敵な笑みを浮かべたカキタレが、そう宣言した。
おれは黙っていた。
頭の中で色々な言葉が飛び交い、口から溢れそうになったがおれはそれらひとつひとつを取っ捕まえては喉奥へと押し戻し、また飛び出す、の反芻(はんすう)をしていた。
そしておれは今、やっと此の瞬間に相応(ふさわ)しい言葉を見つけ、使うことにした。
「悪い……先を急ぐんだ。飼い猫が産気づいててな」
カキタレは、ぽかんとした。正に空っぽ、猿の末裔が知恵の実を食い損なった顔だ。
「アディオス(あばよ)、アミーゴ(ねーちゃん)」
踵(きびす)を返し、――終えようとした瞬間、カキタレが前屈(かが)みになった。
刹那(せつな)、絶句したおれは奴に躯をぶつけた。轟音と共に何か物凄く――信じられないくらい速い、獰猛な粒が熱風(ギブリ)と共に顔を掠(かす)めた。
自分の顔を銃で撃ち抜こうとしたカキタレは倒れてい、おれは銃を拾った。
「何だってんだ!」
地べたに尻を着けたカキタレがぼんやり見上げている。
「おまえのような者に拒絶されるようなら今世(こんせ)に用はない。いち早く輪廻(りんね)して生を遣り直すのみ」
おれはカキタレの面をマジマジと覗き込んだ。巫山戯(ふざけ)ても何かの比喩でも無く本音で云っているのだと絞り上げた眉が告げていた。
「あのな。使い捨てのパンツや宅配淫売じゃねえんだ。駄目だったら次なんて都合良く生まれ変われるはずがねえだろ」
「なあぜ」カキタレは人が変わったように飴玉声を出した。
おれは二度見した、蠱惑(こわく)ったらしい瞳を向けてやがった。
「おまえとオレは同じ人種じゃないか」
「どういう事だ」
「オレもおまえも綺麗なものは嫌いだ」
「はあ?否、あのねっ!」
「今、其の口で然(そ)う云ったではないか」
カキタレが血豆のような黒い爪をおれに向け、其の向こうで微笑んでいた。
「勘弁しろよ。おれはくたくたなんだ」
「おまえが自分の気持ちに素直になれないのは判らんでもないが、事態は急を要する。ふたりが懇(ねんご)ろになるためにも、其の前に解決すべき問題が山と有るのだ」
「はあ?」
「おまえは車に乗る。そしてオレと一緒に墓を探す」
「はか?何の話だ」
「おまえがオレと行くべき場所だ。其れを為さなければ結婚はおろか同衾(どうきん)も不可!」
「あんたは次から次へと妙なことばかり云ってるが……」
カキタレは指で砂の上に渦を描いてから顔を上げた。
「どんなに醜くても自分を裏切るな。其れは自分自身への冒涜(ぼうとく)だ。人生で必要な事は心のままに振る舞おうとすることだけだ。人を愛する権利を世間に譲ってはならんぞ」
「益々、判らんな」
大きく開いたカキタレの胸元が目の前にあった。よく日焼けした其れが呼吸の度に上下し、水を撒いたように散らかっている汗が光っては谷間に垂(た)れ滑る。
「……オレは、おまえが好きなんだ」
其の時、ひらひらと舞う焦げた紙のようなものがカキタレの胸に留まった――黒揚羽(くろあげは)だった。子供の掌ほどもある。其奴は胸の汗を舐めているようだった。
黙ってみているとカキタレが指先で胸を掬(すく)うようにし、蝶を黒い爪に移し載せた。
「……オレはおまえが好きだ」奴はもう一度呟いた。「おまえは本当にオレが嫌いなのか?」
蝶がカキタレの指からおれに向かい、まるで顔を見物するようにたっぷり時間を掛けてから飛び去っていった。
カキタレは泣き終えた子供のような顔でおれを見ていた。
――奇妙な感情がおれを鷲掴みにしていた。今迄にもおれを好きだという女は居た。が、それは大抵、冗談か冷やかしか何かの賭けのネタでそう云ってくるのが大半で、其れ以外は必ずおれが金を払って済ますようなことをする時だった。
【おれを好きな奴なんかいない】
物心付いてから、ずっと其の言葉をお守りにしてきた。また厭というほど世間の目ってやつを植え付けられ、腸(はらわた)に刻印されてきた。其れはお天道様が東から上って西に去(ふ)けるように、雨が上から地べたに落ちるように、おれが呼吸をする度、何度も打ち込まれ刻まれた、謂わば消えない戒律だった。
〈浮つくな!セラノの言葉を思い出せ!此の女はトチ狂ってるだけだ!戯(ざ)れ言(ごと)を信じるつもりじゃないだろうな!平常心を忘れるな!〉
おれをおれ自身にしているモノが、そう叫んでいた。いつもなら其の声を聞けば冷水を浴びたように我に返るのだが、莫迦げた事に其の時は何故か思ってもない獣道(ラフロード)へと踏み出していた。
〈首に掛ける縄を綯(な)うつもりか、知らねえぞ〉
おれを今迄、無事に生き存(ながら)えさせていた戒律(もの)が悲鳴を上げる。
「ちっ」
おれは舌打ちし、躯全体を大きく使い銃を彼方に放り投げた。
カキタレはホームランボールを見送るように黙ってそれを目で追った。
「嗚呼、えまにえる……」
「あ?なんだか知らんが、あんたの用が済んだら、おれを解放してくれ」
カキタレは下唇を甘噛みした。
「おれは金輪際、近寄らないとあんたの親爺さんと約束したんだ」
「気にするな。あの人こそ、他人との約束を守ったことはない……」
「気安めにもならねえよ」
カキタレが手を伸ばしたので立たせてやった。
「弾が掠ったな。額(デコ)が裂けて益々、良くなった」
確かに触れると指に蕃茄醤(ケチャップ)色の液(ヌル)が付いた。
「目の無い野郎が拵(こさ)えた蛋包飯(オムライス)のようだ。旨そうだぞ」
カキタレが舌で上唇を舐めた。
「勘弁しろよ」
(つづく)
連載【Yellow Trash】
毎週更新
平山夢明(ひらやま・ゆめあき)
小説家。映画監督。1961年神奈川県出身。94年『異常快楽殺人』刊行。2006年に短編「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞短編賞受賞。翌年同短編集「このミステリーがすごい!」第1位。2010年『DINER』で第28回日本冒険小説協会大賞、11年に第13回大藪春彦賞受賞。