かがやく馬 千早茜「なみまの わるい食べもの」#3
するどい言葉と繊細な視点で、食と人生の呪縛を解く。人気エッセイ「わるたべ」がHB連載に帰ってきました!
[第2・4水曜日更新 はじめから読む]
illustration:北澤平祐
食エッセイを書いたり、SNSに食べものをあげたりしていると、初対面の人に「どうやって体型を維持しているの?」と訊かれる。もう飽き飽きの質問である。謙遜でもなんでもなく、維持などできていない。二十代の頃に比べて体重も増えたし、あちこちたるんだ。たるみは顔にもおよんでいるので、横顔のシルエットですら昔と違うと感じる。そもそも、初対面ではないか。過去を視られる目をお持ちか。超能力者か、SFか。
維持しようという気持ちがある人は少なくとも毎日、体重計にのっている気がする。もちろん、私はしていない。すごく痩せたら着てみたいと思う服はあるが、基本的に手持ちの気に入った服が着られれば体型に関しては文句がないタイプなので、好きに食べて生きている。ストレスで急にやつれることはあるが、やはり好きに食べていたら元に戻る。私にとっての健康とは好きなものを食べる活力がある状態なので、ダイエットをはじめた瞬間に健康ではなくなる。医学的な定義はさておき、どんな状態を健康と呼ぶかは人によって違うと思う。
ただ、夫はすごく健康そうだ。健康に気を遣ってもいる。睡眠時間を自分で決めてちゃんと守り、栄養ドリンクを一気飲みして徹夜などということは一切しない。定期的に体重計にものっている。出会った頃、「茜さんは良いものを食べているから肉質が良さそうだね」と笑顔で言っていて、『注文の多い料理店』が頭をかすめたのだが、親しくなってその意味がわかった。生活習慣や食べるものが身体を作る、と信じている人なのだった。
恋人になり、仰天したことがある。毎日、十キロ走るのだ。しかも、出勤前に。さすがに雨の日は走らないが、真夏でも、真冬でも、走る。休日には二十キロとか三十キロとか走るときもある。走る前と後のストレッチも欠かさない。夜に片道五キロの私の家まで走ってきて、夕飯を食べて健やかに眠り、朝に走って帰っていったこともある。最初の頃、十キロも走ったらどんな疲労困憊の顔で帰ってくるのかと、恋人が連泊した日にベランダで待ってみたことがある。
朝の陽光の中、すごい速さで走ってきた恋人はかがやいていた。私には気づいていない。行き交う人の誰よりも表情が晴れやかだ。走るという行為は苦しいはずなのに何故……と恐怖を感じるほどの溌剌さだった。父親が馬好きなので何回か馬に乗ったり、馬が自由に走ったりする姿を見たことがあったが、馬の顔に表情というものはないはずなのに、汗で毛をつやつやさせて走る馬はかがやいて見えた。恋人はそれと似たまぶしさを放っていて、馬が人に化けているのかもしれないと疑った。
そう疑うくらい、私の人生は走ることと縁遠い。極力、走りたくない。電車に走り込むくらいなら遅刻するし、走ると内臓も血もぐちゃぐちゃシェイクされたようになって気分が悪くなる。走ることは私の体には悪いと信じている。週一回、ジムでトランポリンをしているが、それも踊るのが好きなのであって運動だと感じた瞬間に嫌になる。朝に十キロなんて走ったら(そもそも走れないが)その後に仕事なんてできないし、三日以上は寝込むと思う。三十分のトランポリンでさえ、午前中にしてしまうとその日は使いものにならないし、ジムに行くときは夕飯の支度も済まして、もう入浴以外なにもしなくてもいい状態を作ってからでないといけない。
恋人から夫になり一緒に暮らすようになっても彼の生活習慣は変わらない。起きたらストレッチをして十キロ走り、私と一緒に蜂蜜レモン水と果物とヨーグルトをたっぷりの茶とともに摂り(走り終えた人とだと、食べるより摂るが相応しいように感じる)、分担した朝の掃除をきっちりこなしてから、朝ごはんをもりもり食べる。そして、コーヒーを飲みながら仕事をしている。規則正しく、疲れの色は見えない。「茜さんも日常的に走れば、運動しても疲れにくくなるよ」と言うが、その前に仕事に支障がでたり怪我をしたりしかねない。実際、夫も何度か疲労骨折をしている。
疲労骨折をした夫(当時は恋人)はさみしそうだった。厩から出られない馬のような憂いに満ちた目をして、走っているときに全身から放たれていたかがやきはなかった。お茶や甘いものには付き合ってくれたが、食事の量は減らしていた。体重が増えたら走れなくなるという。そもそも走らなきゃいいのでは、と言ってみたが馬耳東風であった。この人にとっての健康は走れることなのだなと思った。
せっかくだから食べものの力を試してみようと思った。ビタミンと鉄分とカルシウムのサプリメントを勧め、タンパク質摂取のため大豆食品を朝食に増やし、たくさん走った日は夫の食事だけ鶏ササミや豚肉を多めにつけるようにした。私と違って素直な夫はだされたものは大人しく食べる。そのせいかはわからないが一緒に住んでから疲労骨折はしていない。走ったあとに豚の生姜焼きなどを頬張る姿を眺めて厩務員のように「よしよし」と頷いている。
夫と暮らすようになり、私の生活も規則正しくなった。睡眠時間もひとり暮らしのときよりとれている。猫もやってきてますます規則正しくなっているが、規則正しいと太ることがわかった。前はお腹がすいたら食べていたが、今は食事の時間に食べている。そんなに空腹でなくても食べるものがあれば、つい食べてしまう。その結果、一般的な健康の範囲内だが、かつてない体重になってしまっている。「規則正しいせいで太ったじゃん」と夫に文句を言っているが、よく考えると、家から出ない私が十キロ走った人と同じ食事を摂っているのだからさもありなんである。
【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新
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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『さんかく』『赤い月の香り』『マリエ』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti