見出し画像

第1回 204号室 二十八歳は人のお金で暮らしたい〈前編〉 鈴木涼美「ノー・アニマルズ」

取り壊しが決まっている老朽化マンション。そこで暮らす住人たちの小さな破綻と孤独を描く鈴木涼美初の連作短篇小説。
204号室に暮らす28歳の芹は、コンセプトカフェに勤めながら恋人との同棲生活を送っている。あと2年で退去を迫られているなか、勤務先である店がなくなると知らされ……。
[毎月金曜日更新]

©︎OKANOUE Toshiko「幻想」Courtesy of The Third Gallery Aya


 色素沈着しないしハリもコシもしっかり出るのでリピート二本目で毎晩使ってます、まつげがグングン伸びるわけではないから過度な期待は禁物――。
 そこまで読んで芹は一度削除した商品をもう一度カートに入れた。割引を使って一四〇〇円ちょい。これを加えれば七千円以上で10%オフのクーポンが使える。実質千円を切るのであれば期待外れの効果だったとしてもそれほど惜しくはないし、なんとなくこの口コミは信用できる気がする。座席の中央に設置されたスタンション・ポールを抱え込むようにして身体を支え、減速していく電車の揺れに備えて両足に力を入れながら手指を動かしてレジに進む。
 どうしてか昔から一塩の謙虚さが混じる宣伝文句に弱かった。「細身スーツのポケットに入れると少しもっこりするけど」「鼻が高くなるわけではないけど」と、過去に惹かれたテレビコマーシャルの謳い文句を脳内で反芻しながら指を巧みに動かしてクーポンの選択、ポイントの利用、支払方法の指定と進んでいく。ECサイトが表示する口コミについても、デメリットやマイナス要素がスパイス的に入っていると俄然信用したくなる。時給二千二百円で今夜は三時間半しか出勤しなかった芹にとって、七千円ちょっとの買い物はきょう一日の稼ぎとほぼ同額ということになるが、指先で購入手続きを始めてしまうと迷いはすっかり消え、すでに商品到着が待ちきれない気分になってくる。
 前回入力した住所とカード情報を確認する画面になったところで、電車は大げさに揺れて停車を知らせ、駅の停止位置に合わせて止まった。芹の立つ場所から見える座席もいくつかが空き、それまで立っていた何人かが代わりに座ったが、ポールに器用に肘を押し付けて立つ芹の右前に座った量販店のスーツを着た若い男はぴくりとも動かずにスマホでサッカーの中継を見続けているし、左前に座った中年女性は寝ている。二つ隣で空いた席には、やや離れて立っていたレインコートのような悪趣味なビニール製の上着を羽織った四十前後の女が素早く近づいて座ろうとしている。
 恥知らず恥知らず恥知らず、と目に見えるほぼすべての人間に連続で毒づいて、芹は購入決定のボタンを指で強く触った。ダイエットも兼ねて電車ではなるべく立ち、駅ではなるべく階段を使うようにしているから、座れないこと自体にいら立ちはないが、上野で乗る私鉄の客層が気に入らない。安いスーツ、粉っぽい化粧、厚かましい表情、時代遅れの靴に飾りっ気のない臭いが、何のセンスもない銀色の真四角の車体に乱雑に詰めこまれて江戸川を渡る。終電となるとさらに悪化するので、よほどのことがない限り、夜の十一時には店を上がることにしている。それでも車内の人間のだれひとりとしてその人生を真似したいと思えるような者はおらず、むしろなりたくない未来を缶詰にしたような光景で、その中に一緒くたに混ざっていることは芹の自尊心を毎晩酷く傷つける。
 仕事帰りの電車内を専ら化粧品や服のネット・ショッピングの時間にしているのはその痛みを和らげるためだ。韓国コスメをいくつもカートに入れたり、フリマサイトで“いいね”のたくさんついたワンピの購入ボタンをサクッと押したりすると、ストレスは幾分軽くなる。最後に追加したまつげ美容液はともかく、プロポリス入りの美容液もツボクサエキス入りのトナーパッドも敏感肌でも使えるレチノールもかなり前からお気に入りリストに入れてあったので、購入してリストから一旦消すことができた喜びは大きい。人の皮脂のたっぷりついたポールを片方の腕に食い込ませるように押し付け、マスクの内側で酒臭い自分の息を吸い、スニーカーの中で蒸れていく足で立って、電車が江戸川を渡って最初の駅に到着するまでの残り十二分をやり過ごすには、この喜びは必要なものなのだった。
 結局最後まで同じポールでバランスをとり、立ったまま電車は江戸川を渡った。ホームに降り立つと、湿度は想像より高くなく、暖かい空気は車内でやや冷えた肌に気持ちがよかった。スウェット生地のワンピースから伸びた脚は汗ばむことなく、左ふくらはぎの外側にある虫刺されももうほとんど痒みがやんでいる。
 十年住んでいるマンションの最寄り駅前は相変わらずただの一つも惹かれる店はないし、駅前のコンビニですらなぜか都心とは違う品ぞろえでレトルトカレーの種類だけやたら多いが、少し歩けば広い川べりがあることと、東京から零れ落ちた人々のつくる街の生暖かい空気は悪くないような気がしている。何より、五月に二十八歳になったものの、客にはなんとなく大学生だと思われているほど若く見える芹は、この街では引っ越してきた当日から圧倒的強者なのであって、それは当然住み心地のよさに直結する。くたびれた安スーツたちの視線を全身に感じながら高架下の改札を抜けて、駅前のコンビニにはあえて寄らずに早歩きで自宅マンションの方に歩き出す。改札から徒歩でちょうど六分半の場所にある自宅マンションの一階部分には、レジ前のパック詰めのから揚げやコロッケが、より庶民的な雰囲気を醸し出しているコンビニが入っている。深夜帯のバイトに入るネパール系の男子か吹き出物の多い大学生の慰安のためにも、夜食とタバコはそこで買うことにしていた。
 インスタント用カップに入った春雨スープとメントール入りの細いタバコ、一リットルの紙パック入り麦茶を買ってから冗談みたいに古いエレベータを使わずそのすぐ横にある重い扉を押して内階段を上り、自宅のドアの銀色の取っ手を手首で回して力強く引く。カギはかかっていない。芹の部屋はシンナーの臭いがする。中学の頃、地元の先輩たちの間で一瞬リバイバルブームを起こした、昭和の臭い。
「大久保にさぁ、ネパールとかフィリピンの食材売ってる店あるのわかる?」
 手の甲と首筋に緑色の塗料のついた男がおかえり、と言いながら芹の持っていたコンビニの袋や正方形の革のバッグを受け取る。シンナーの臭いの元凶はベランダで看板のイラストを仕上げていたこの男だった。そういえば先週、恵比寿におにぎりカフェを開業する知り合いによい条件で店内掲示用のメニューや道に出す看板の制作を依頼されたと言っていた。そのおかげで今月は収入が二桁になるらしい。
「大久保なんてそんな店ばっかりありそう」
 靴下が脱げるのが嫌で、玄関の框に座ってわざわざ靴紐をほどきながら居間のベランダに続く窓の枠に立てかけられた四つ切サイズのパネルに目をやる。筆記体で「Onigilista」と描かれた、恵比寿で開業を控えるおしゃれなカフェのおそらく壁上部に飾られる店のロゴは、寒色系と白でまとめた色のバランスも、悪趣味な装飾のない字体も完璧で、その隣に立てかけられた基本メニューもまたデコラティブすぎないデザインが悪くない。
「いや一か所すっごい品ぞろえのいい狭い店があって、そこの米とか酸っぱいスープの素とかもらったから、明日の昼はそれ作るよ」
 男がそう言いながらベランダの窓を閉めようとしたので芹は慌てて鼻をつまみながらその行為を手で制した。男の鼻はすっかり塗料のシンナー臭に慣れているらしいが、外から帰ってきた芹には部屋はちょっとハイになりそうなほど臭かった。台所と一体になった比較的広い居間の奥には左右に二つ小部屋があり、片方は寝室、片方はウォークイン・クローゼット風の物置にしている。
「あ、やっぱり臭い? でも物置でやるよりはベランダでやったほうが籠らないと思ったんだよ」
「ベランダじゃなくて、ベランダの窓開けた部屋の内側でやったでしょ」
「いや、部屋とベランダの段差に座ってやった」
「それ、内側って言うんだよ」
「パネルはベランダに置いてやってたんだけどさ」
「直後に部屋の中で乾かしてるじゃん」
「ごめんごめん」
 男がパネルを窓の外にずらし、ベランダ用のサンダルの上に器用にたてかけながら笑って、ジャスミンライス好きでしょ、と甘えたような声を出した。五つ年上の誠が芹の家で寝起きするようになってもう二年経つ。身長が百八十を軽く超えるからなのか、あるいはその俊足と運動神経のおかげで、大抵の男にある中学生時代の無慈悲な競争社会や女子への怨念が一切ないからなのか、誠の辞書にはコンプレックスという文字がない。コンプレックスのない男には、馬鹿にされたくないとか、見返してやりたいとか、俺は正当な評価をされていないとか、そういった醜い感情がなく、つるんと綺麗な心をしている。どんなに芹の口調がきつくても、何か不備があれば最初に謝る。
 居間の一角にある台所を見ると、なるほど見慣れない袋に入った一キロ分くらいの米や日本語でも英語でもない不可解な文字が入ったスープの素が置かれている。以前は化粧品やコンタクトレンズのストックと、せいぜい飲み物しか入っていなかったコンロ下の棚は、料理も片付けも得意な誠のおかげで今や食材と調味料、それに安い割には趣味のよい食器で整えられている。ほどよく肩の力の抜けた丁寧な暮らし。芹には最近、それがよいことなのかどうか、ちょっとわからない。
「マコが買ったんじゃないんだ。なんでもらったの? 誰に?」
 大げさな手振りで部屋の空気を窓の外に押し出すようにしながら、お、満月だなんて言っている誠に、芹は台所に近づいてアジアの食材をひとつひとつ確かめながら聞いた。フィリピンのものらしいクノール印のスープ・ストック。長粒米。スリランカのカレー粉。パクチーの束。よくわからないお菓子とマンゴージュース。フォーと春雨の間のように見える乾麺。青パパイヤ。ライム。
「コンって覚えてる? 高円寺で店やってる奴。前にパーティー行ったでしょ、あそこも看板とかカウンターとかこないだ作り替えたんだよ。お友達価格で出動したお礼」
「ジェンベだかジャンベだか、太鼓たたいてたひと? 東北弁の?」
「そうそう、大学の同期なんだけど、青森出身でさ、昔から変な奴だったよ」
「コンってあだな?」
「いやいや、今って書いてコンって苗字なの」
「でも高円寺のお店って自分で持ってるの?」
「そうだよ、たしか。親父さんに借金して開店したんだと思うけど。青森の水道だかなんだかインフラ系の結構でかい会社の社長の息子だからなぁ」
 学校名に高貴なイメージがあるという理由だけで新宿区の女子大に指定校推薦で入学した芹なんかより、誠はずっといい大学を出ている。高円寺のバーにコロナでさんざん延期されていたらしい周年のパーティーに行ったとき、集まっていた誠の同級生たちは、男も女もよく知っている企業の社員がほとんどだった。少なくとも芹の話した者のほとんどが高収入で、さらにすごいのは誰一人まだ親の収入を超えてはいないことだった。芹の同級生にもそれなりの金持ちの娘が多かったが、それを超える上流階級の集まりのように見えた。三十歳を超えて司法試験準備中という者と、バーのオーナーであるアフリカ系音楽のバンドマンが、数少ない誠の低収入仲間のようだった。ただ誠の親は大学の先生で、べつにそれほど資産家というわけではない。かといって年収二百万に満たない息子が三十歳まで実家暮らしをしていてもそれほど思い悩まないおおらかさはあるようだったし、体格や足腰の丈夫さなど生物的に優れた息子にもそのおおらかさは引き継がれていた。根本にコンプレックスのない男には醜い感情がないかわりに向上心もない。お金を稼ぐ気概もない。
「コンがその大久保の店からときどき色々仕入れるらしくて、ネパール人かなんかの店長と仲良しらしいよ。今度ネパール行くとか言ってたわ」
 エアコンはついていないが、江戸川から近いこのマンションに吹き込む風は、夏でもわりと爽やかで、鼻がなれたのか空気が入れ換わったのか、塗料の臭いも気にならなくなってきた。冷蔵庫を開けようとすると手前に小包があったので、よっと持ち上げると誠が、それ受け取っといたよ、と言った。宛名が英語で梱包が頑丈なので、おそらく先週、電車の中で個人輸入代行のサイトから注文したダイエットサプリだ。
 初めて誠とセックスしたとき、芹は何の努力もせずにイッた。それまでは目を固くつむって、イクことだけに全集中力を投入し、足がつる一歩手前まで両脚の付け根に力を入れないと、人の手でイクことなんてなかった。高校三年生に上がる直前の春休みに、県内の中途半端な偏差値の私立高で、大会なんかに出ることはない緩い男子バレー部の先輩と生まれて初めてしたときにはセックスで絶頂なんていう発想すら湧かなかった。新宿区内にある女子大にいた頃は、ワセダの野球部ともラグビー部とも応援団ともしてみたが、イクふりだけ年々巧くなっただけだった。好きとか彼氏とか楽しいとかかっこいいとか、そういうおおまかに言えば恋にまつわるエトセトラとセックスは、密接しているようでいて別個のところにあり、最初はうきうきと会いに行くような相手に対しても徐々に対応がおざなりになるのは、多くの場合セックスがやや面倒になるからだった。そのかわり、セックスに関する裏切りは相手によるものであっても自分によるものであっても芹の自尊心や罪悪感をひどく刺激することはなかった。
 女子大卒業と同時に当時勤めていた池袋の魔法少女系コスプレのカフェを辞めて大手化粧品会社の派遣職になったタイミングで付き合って、半同棲にもつれこみそうになった十歳年上の証券会社の男とも、セックスで奪われる体力と快楽のバランスの悪さが徐々に居心地の悪さとなって同棲にいたらず別れた。あのまま彼の汐留のマンションに移り住んでいたら、上野発の終電一本前の不快とは無縁で生きられたかもしれないが、人口が二万に満たないような田舎から東大に入ったそいつのお金に対してどこかがつがつした姿勢にも、過剰な自己責任論を振りかざしてくるところにもだんだん辟易としていたし、セックスでイクことのない人生はいまから振り返れば惜しくない。コロナ禍の始まる前年、派遣社員を辞めて今度は上野でお酒を出すコンカフェの仕事に就いてからは、それほど積極的に出会いを求めなくなっていた。彼氏ができたり男にモテたりするときと限りなく同質の快楽が、客にもらうチップやネットの人気ランキングで得られた。まれにフェスに一緒に行ったとか、友達の友達と飲みに行ったとかいう流れで客以外の男とは寝ることはあったものの、やはり二、三回すると、嫌いになったわけではなくとも濡れなくなった。
「あとでもう一回しよ」
 初めて来た家ですでに完璧にくつろいでいた誠に芹は真顔でそう言った。芹は白のサテンに黒のパイピングがついたブラジャーだけつけたままで、誠は素っ裸で心地よさそうに一つしかなかった枕を抱くようにして寝っ転がっていた。出会ってから一年以上経って初めて誠が泊まりに来たのはちょうど梅雨が明けきる手前の蒸し暑い日で、一回目のセックスの時刻は午前九時か十時くらいだった。誠を紹介してきたのは、池袋の魔法学園と同じビルに入居するインド料理屋でかつてバイトをしていた、二つ年上のユキ姉さんだ。お互いバイトを辞めてもちょくちょく連絡をとりあっていた。スタイリストをしているユキ姉さんと、その彼氏で銀座の出版社で雑誌を作っている髭のおしゃれおじさんと、誠の四人でなぜか飲む機会があった。それからも複数人で飲みに行ったり、時には二人で映画に行ったりしたことはあったが、とりたてて強い恋愛感情をもった記憶はない。背も高いし顔も整っているし絵も字もうまくて器用で運動神経もよかったが、絵描きという肩書きは今すぐ目黒区や港区に住みたいわけではなくとも、住めないことを確定するには芹は若すぎる。
「いいよ、もう一回でも二回でもセリの好きなだけしよ。セリきょうは夜仕事? 休めるならご飯つくるよ、俺」
 遮光があまいカーテンから降り注ぐ朝日の中で誠は愛しそうに枕に頰ずりしながらそう言って、そのまま正午過ぎまでまた眠った。当時再開してはいたものの体調不良と言えばすぐに当欠できた店を休んだ芹に、回鍋肉ホイコーローを作ってくれて、その日も泊まっていった。前日の夜に泊まりに来た理由は、たまたま芹の仕事が休みの日に、近くで仕事があると言って連絡してきたからだったと思う。コロナ真っ盛りで飲む場所もなく、芹の家でコンビニの発泡酒を飲むことにした。セックスした理由は、大学入学時にニトリで買ったベッドがシングルサイズだったからだ。寝ているうちに密着するのは必然だったし、目覚めると後ろから抱きつく形で覚醒していた誠の朝勃ちのちんこが太ももに突き刺さっていた。
 夜に今度は回鍋肉に合わせて飲んだあんず酒のせいでやや酒気帯びで、しかし朝よりははっきりとした意識とネバついていない口腔でもう一度しっかりしてみても、やっぱりオルガズムが向こうから来た。スーパーリッチタイプのクリームを使わないと翌朝肌の調子が悪くなるほど乾燥肌なのに、下半身はびしょびしょだった。それに話題豊富で人の悪口も愚痴も言わない誠とはどんなに長い時間いても苦にはならず、次の日に一度帰った誠が今度はリュックを背負って二日後にやってきて、徐々に芹の物置に絵の具や不可解な木工道具や誠のデザインしたTシャツが増えても、むしろ生活が楽しくなったと思うだけで、セックスがおっくうになることも、会話が面倒になることもなかった。荷物が多かったり、体調が悪かったりすれば、スケジュールに余裕のある誠は迎えに来てくれた。徒歩で。

「なんかさ、来週おじさんに会ってくるわ」
 春雨スープを食べてお風呂に入り、すでにベッドルームでスマホで漫画を読んでいた誠の隣で布団に入りながらそう言うと、ベッドのシーツが洗濯したてのものになっていた。
「ここの退去の話? まだ結構時間あるけどなぁ。再来年の年明けくらいって言ってたよね」
「なんかここ、コンビニ入ってるじゃん、一階に。それ、相当たいへんなトラブルになりそうらしいよ」
 誠は芹が布団に入るとすぐにスマホを充電器につないで、音も振動もオフにして床に置く。それは毎日そうだった。パンデミックによる営業時間の変更などを経て、結局十九時から翌朝五時で定まった上野の店に勤める芹と、看板やデザインの仕事をちょこちょこ受注しながら小さな個展などを時々開く誠は目覚ましをかけない。誠がベッドから一旦床に足をついて、絶妙なバランスで身体の左半分を立たせて電気を消す。
「退去してもらえないってこと? コンビニって固定のお客さんいるもんなぁ、俺らも毎日行くしね。昼間のバイトのリーさんめちゃくちゃいいやつだから心が痛いわ」
「まさに。ものすごい金額の退去の慰謝料みたいなの? とられそうなんだって。でもそれは私はどうにもできないから、来週行くのは退去に納得してない住民の様子とか探ってもらうことになるかもって話なのかな」
「日本の不動産って借主のほうが有利ってのは聞いたことあるな」
「老朽化で壊すんだからしょうがないじゃんね、まぁあと数年で死にそうなおばあちゃんとかだったら、せめて自分が死ぬまでいたいとは思うか」
「そうだよ、四階の三人ちびっこいる家わかる? 一番上の坊主が今年小学校だから転校とかそういうのも大変そうだ」
「くわしいね」
 芹のT シャツをめくって、夜用ブラを少しずらして乳首の先を人差し指で擦りながら誠は、いつのまにかご近所付き合いのある住民たちの特徴を話しだしたので、芹は来週の叔父の家に行く予定も、一年半をきろうとしている退去までの期間も、そろそろ考えてもいいような引っ越しの話も割とどうでもよくなって、おそらく八分後くらいに向こうからやってくるオルガズムに備えて目を閉じた。上野の店に定休日はないが、明日はシフトを入れていない。
 取り壊しの決まっている老朽マンションとはいえ、駅から徒歩五分と表記されるマンションの2DKの間取りに三万円で住めているのは、この建物がもともと芹の祖父の持ち物だったからだ。祖父が生きている間に大学に通うために同じ県内のもっともっと奥地の実家からここに引っ越せたのが幸運の始まりだった。祖父は七十にならずに癌であっけなく死んでしまったが、すでに三年間住んでいた芹は、建物の管理を引き継いだ叔父に社会人になったら毎月三万円払う約束でそのまま住んでいることを許された。
 祖母か、あるいは芹の母が引き継いでいたらそのまま無料で住めていたかもと思うとちょっと悔しいが、条件の悪くない化粧品会社を気軽に辞められたのも、一日四時間週五程度の勤務でゆるゆると暮らせるのも、もっと稼げる歌舞伎町の店に移らず競争の緩い上野で人気一位に甘んじていられるのも、この盤石なホームがあるが故だった。実家暮らしとちがって友人にも気後れしないし、ぱっとしない店しかないとはいえ、県内では最も都内に近いエリアで、何より化粧品や服をやや買いすぎる芹にとって物置部屋を作れる間取りはありがたい。いやに運賃の高いローカル線でここからさらに一時間かけて奥地に行かねばたどり着かない実家に戻ることになったら、かなり人生が限られる。
「明日、『ツイン・ピークス』の続き見る?」
 服を着て、トイレから帰ってきた誠が言った。誠の親のアカウントを使って配信サービスで古いドラマを見るのは、疫病禍に付き合ったカップルとしては意外な遊びではなかったが、二人はあらゆる店が営業再開をして海外旅行が解禁されてライブハウスや劇場に人が集まるようになっても、そんな休日の過ごし方をやめない。誠はデヴィッド・リンチが好きだ。

 誠が作ったタマリンドの入ったフィリピンのスープが、トマトやオクラが入って色がきれいだったので、休み明けの電車の中で芹はいくつかのSNSを写真付きで更新した。ほとんどが大学生のバイトやせいぜい二十代前半ばかりの店のキャストのなかで、人気投票一位である理由はひとえに一番長く働いているからというわけではない。顔の完成度も一番高いし、上げ底なしのEカップで肌はきれいだし、失礼な態度もとらないし、気もまわる。ただ、SNSのフォロワーが一番多いのはなんだかんだ同じ店に四年以上もいるからだ。店の名前も営業時間もコンセプトも変わったのに、芹はいつまでもいる。
 タマリンドのスープはネットで調べるとシニガンという料理らしかった。夕方前の上り線で座席に座り、マイケル・コースのエメラルド色のバッグに肘をついて指を高速で動かし、もっともらしい料理のキャプションを考えて、お料理好きの小悪魔二十五歳というフィクションを画面上に作り上げていく。同じ店に長くいなければ、もっと大胆に年齢をごまかしたかった。二十三歳のときには、そのうち年齢が嫌な重石になるなんて思わなかった。インスタグラムのフィードを適当に数回スクロールしてみると、高校時代の友人の一人が韓国に行っているのか行って帰ってきたのか、いくつか買ったものや食べたものの写真を投稿している。ただどうやら韓国の男性グループのライブに行くのが主たる目的だったようで、ライブ会場と思しき写真の電光掲示板を見てもそのグループの名前すら知らない芹は特にうらやましいとは思わない。誠にアジア食料品店の米などをくれたらしい高円寺の店長は軍艦島の写真をアップしていた。それもそれほどうらやましくはない。
 店は御徒町と上野の駅からちょうど同じくらいの距離なので、私鉄の駅からは歩いてすぐだ。ただ、早くに呼び出された今日はなんとなくまっすぐ足がむかわず、わざわざJRの公園口まで逆方面に歩いてから、公園の際を散歩していくことにした。ミーティングの始まる前に呼び出された理由はなんとなくわかっている。文化会館の後ろを抜けて隣の美術館の大きな掲示を見上げると好きな女性写真家の展覧会はいつの間にか終わっていた。お客にこっそり入場券をもらったのでタイミングをみて仕事の前に行こうと思っていたのに、仕事の前はいつもぎりぎりまでのんびりしてしまう。公園を通る時間があるほど余裕をもって駅に着くのはひと月に一回あるかないか、服や化粧品を見ようと思うこともあるが、結局ネットでしか買わないし、ファッション・ビルや百貨店はワンフロアまわっただけで疲れてしまう。
 まだ結構明るい公園内の舗装された道を歩く芹の視線がなんとなく足元までおりると、左のスニーカーの靴紐が今にもとれそうだった。ちょうど同じ速度で公園口の信号から同じルートをついてくる年上の女の電話の声がさっきから中途半端に聞こえてくる。旦那の愚痴か、いや、内容からすると一緒に住んでいないようだから独身なのか、気心しれた友人との電話で口が多少悪くなるのはいいが、気心しれないこちらからすると性悪に聞こえるから場をわきまえればいいのに、と思う。もう今年四十なのに、という言葉が聞こえて、四十歳になって口汚く彼氏の悪口なんて言うオンナにはなりたくないと心から思う。まだとれていない靴紐を結びなおすふりをして、意図的に四十オンナに追い越された。下から横目でしっかり見ると、案の定、結婚していない女の恰好だった。平和な遊歩道に不釣り合いなジミーチュウのサンダル、過去に一度は水商売をしたことがわかる化粧、やや古いバレンシアガのトート、サカイのワンピース、黒髪に見えるけど西日を浴びると少しカラーリングしてある髪。別れよっかな、と五回ほど口にしている彼女が、実際その男の前に出ると必死に縋り付いている気がしてならない。それ以上電話の声が聞こえないように、しっかり結ばれていた右の靴紐も一度ほどいてゆっくり結びなおしてから、じゅうぶんに距離があいたのを確認して地面に置いたマイケル・コースを持ち上げた。早歩きにならないようじっくり足の裏を地面につけながら店まで歩く。公園を抜けてしまうと、幅が広くつまらない道路が続いていく。

「ねえ、結婚したくないけど、独身の四十歳になりたくないんだけど、どうしたらいい?」
 芹がやや大きめの声で言うと、オーナーは書類から目を上げた。都内に五店舗コンカフェやカフェバーを経営するオーナーは、月に一度、生真面目にミーティングにやってくる。一応統括マネージャーという肩書きをつけている芹はミーティングの日は早めに店に来るようにしているが、きょうはさらに早く来るように言われていた。まだキャストは誰も到着しておらず、裏方の店長とオーナー、オーナーの事務所の秘書のような女とキッチンで仕込み中のチーフだけが先についていた。
「おっと、サヨさんに喧嘩売ってるな」
 うっかり心からの本音を漏らしてから芹は、オーナーの隣に座る女秘書が三十八歳独身であることを思い出した。オーナーが笑って秘書をからかうが、秘書はたいして気にしていないようで、うんうん、私も私みたいにはならないことをおすすめするよ、と軽く流している。オーナーは四十代で、若いときはホストをやっていたというから驚く。普通、ホストあがりの四十代なんてもっと水商売臭が抜けていなくて、よく言えば若く見えて身なりに気を使っていて、悪く言えばギラギラしている。
「結婚したくないの?」
 オーナーよりよっぽどホストみたいだが別にホスト出身でもなんでもない店長がポッキーを食べながら近寄ってくる。パチンコの景品と思いきや、賞味期限切れの備品のようだったので芹も箱から数本もらう。
「珍しいわよ、最近の若い子みんなすぐ結婚するじゃん」
 女秘書がすすめられたポッキーを手ではっきり断って持っていたスタバのカップを飲み切り、カップを段ボールにビニールをかぶせたごみ箱に放った。即席のごみ箱はミーティング中にみんなが食べたお菓子の袋や飲み物のカップを捨てるためだけに毎回用意する。
 「結婚しない主義とかじゃなくて、まだ結婚したくないような気がするっていうか、そんな結論出したくないし、彼氏に何の確信もないけど、そういってるとあっという間に年取りそうじゃん。うちのタイプ的に、結婚しないで四十歳は似合わないと思うんだよね」
「似合う似合わないってあんのか、向いてる向いてないじゃなくて?」
 オーナーがいらない書類なのか何かの包装紙なのか、細く折った紙を雑巾を絞るようにぎゅっと丸めながら、芹が勝手に始めた会話を早めに切り上げようとしている様子が伝わってくる言い方で言った。店内は、ゴシック調なのか姫系なのか、ややブレたコンセプトでピンクと黒に統一されている。シャンデリアは黒でちょっとゴス。クッションはハートでラブリー。シャンパンやお皿はラインストーンできらきらと装飾され、ウサギ系天使と猫系悪魔の制服にふりわけられたキャストが、飲み放題五十分三千円で接客する。雰囲気を壊さないためにプライベートな質問や下品な話題は禁止、という謎ルールのもと、時折ぼったくり価格のスパークリング・ワインなどをねだる。「なんか、顔とか、うちどちらかといえば童顔だから。うちの店で言えばウサギは仕事バリバリしてたとしても独身だと寂しく見えそう。猫の子たちのほうがまだいけるよ」
「そんなうちの可愛い天使バニーくるみたんに、発表があります」
 オーナーがやけに改まって源氏名を呼んだので、きた、と思って芹は黙った。くるみは芹が魔法学園時代から店で使っている名前で、SNSもすべてそちらの名前で登録しているので、時折自分が芹なのかくるみなのかよくわからなくなる。色白ベビーフェイスにピンクと赤系の化粧を施した自分の写真を見るたびに、われながらぴったりの源氏名だと感心するが、客観性などまるでなかった大学時代に顔にぴったりの名前をつけた自分がすごいのか、あるいはそれを名乗ってからよりくるみっぽい顔になってきたという意味で名前がすごいのか、それはよくわからない。
 いずれにせよ芹がくるみ顔なのは間違いないし、オーナーは早く重大発表を済ませたいという顔をしているし、のらりくらりと逃げてもミーティングの時間は迫る。おそらく本格的に別店舗への異動命令が出るのだ。歌舞伎町の、ここよりさらにオミズ臭の強いカフェバーで、最近異様に売り上げている店だろう。上野の売り上げは頭打ちで、店側は若いキャストの採用にいそしんでいる。何年もいる芹が平均年齢をつりあげるのも、お店のフレッシュさを損ねるのも好ましくはない。スニーカーの中で右の足のかかと近くにできた靴擦れが急に痛みだした。厚底ヒールの接客用の靴が、やはりラインストーンで装飾されているせいで、かならず同じ場所に靴擦れができる。
 しかしオーナーの口から出てきたのは、店舗移動よりもっと抜本的な問題だった。店がなくなるのだ。
「正確には合体してうちの店だけのビルができまーす」
 オーナーも秘書も店長も笑顔だ。時間に正確なキャストがそろそろやってくる。本人いわくホスト臭を消すためだというオーナーの、ギャルソンかどうかはわからないがギャルソンにしか見えない珍妙な服と眼鏡が急によそよそしい色を帯びた気がした。

(つづく)

          連載TOPへ  次の話へ>

連載【ノー・アニマルズ】
毎月金曜日更新


鈴木涼美(すずき・すずみ)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部在学中にAVデビュー。その後はキャバクラなどに勤務しながら東京大学大学院社会情報学修士課程修了。修士論文はのちに『「AV女優」の社会学』として書籍化。2022年『ギフテッド』が第167回芥川賞候補作、23年『グレイスレス』が第168回芥川賞候補作に。他の著書に『身体を売ったらサヨウナラ』『娼婦の本棚』『8㎝ヒールのニュースショー』浮き身等多数。
Twitter:@Suzumixxx


更新のお知らせや最新情報はXで発信しています。ぜひフォローしてください!