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姫と騎士修行(後編) 千早茜「なみまの わるい食べもの」#8

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 デビュー戦当日は狼煙のろしをあげたいような快晴だった。しかし、私は「またかよ……」と自宅のトイレで肩を落としていた。また、月のものによる絶不調。直木賞の待ち会のときの悪夢がよみがえる。大事な用事の日はだいたい体調が悪い私の人生。
 もうこれは宿命だと諦めて、戦用に作りおきしていた稲荷寿司を食べ、鎮痛剤を飲んで出発した。どんよりと曇った心で舞浜駅からモノレールに乗り換え、つり革に手を伸ばした途端、はっとなった。つり革がミッキーだ。しかも、ただミッキーの丸三つの輪郭をなぞっているだけじゃなく、留め具はミッキ―の赤い半ズボン、ベルトは靴の黄色だった。電車の窓もミッキー形。私は細部まで凝っているものに弱い。まだインパしていないというのに期待で憂鬱が晴れていった。

 ディズニーシーに入る。先に入っていた妹夫婦たちはエントランス付近でキャラクターグリーティングの列に並んでいた。「あとかた姫」はアリスのコスチュームだった。ブルーのワンピースに白いエプロンとヘッドドレス、胸には赤いハート、白タイツ。ぎゃあ! かわいい! とキャラクターへの恐怖は吹っ飛び撮影大会になる。ショップがひしめく回廊で全員の耳つきヘアバンドを買ったりして、まったく中へ進めない。

 ようやくショップ群を抜けると、急に視界がひらけて、港と火山と城が見えた。広い。想像より広いと立ち尽くしていると、山の中腹から悲鳴と歓声とともにジェットコースターが飛びだした。え、あの山って造りものなの、と仰天する。湾も? 大型船みたいなのも? 見まわすすべてが造りものだった。ヨーロッパの港町を思わせる建物のひびも、剥げかけた外壁からのぞく石の煉瓦も、とりあえず水分補給にと入ったカフェもワイン樽がごろごろした映画にでてくるような西洋の港町の居酒屋風内装だった。調べると架空の店の由来まである。この広大なすべてが娯楽のためだけに細部まで造り込まれていることに圧倒されながらシナモン味のチュロスをかじった。耳とリボンをつけた妹はハロウィン限定のパンプキンミルクをごんごん飲んでいた。

 まずは「ソアリン ファンタスティック・フライト」で世界の空中散歩を楽しんだ。あとかた姫は体が宙に浮くという感覚がいたくお気に召したようだった。そこで、なんと「ジャンボリミッキー」が当選して一同あがる。ヨーロッパ風の運河を越えて、アメリカ風の港町エリアに移動する。途中、ドナルドダックに遭遇。あとかた姫のワンピースと色が合っていたので、また撮影大会。だんだん暑くなってきたので、また飲み物を補給。スパークリングゼリードリンクなるものの味がエルダーフラワーだったので飲んでみたら、めっぽう美味だった。ラズベリーに柘榴ざくろ、ライチ風味のゼリー、炭酸も強すぎず甘さもごくごく飲むのにちょうどいい。あまりの美味しさにせっかく覚えた「ジャンボリミッキー」ダンスが中途半端になる。ふだんは茶一辺倒で、甘いジュースも炭酸も飲まないのに。すっかりはまり、エリアごとに味の違うスパークリングドリンクをあさりはじめる。あとかた姫はミニーのピンクのポップコーンバケットを手に入れてご満悦だった。味は醤油バターだったが、それも良かったようで、おやつを食べながら遊べるという特別感にはしゃいでいた。ピンクのチョコがかかったミッキードーナッツ、ミニーのリボンのバッグなどつぎつぎに大人たちに貢がれる。まさに姫。

 船に乗り、奥地へ。古代中央アメリカの遺跡のような世界や、まさに竜宮城の人魚姫の世界を満喫する。アトラクションで遊ぶうちに瞬く間に日が暮れる。あとかた姫がうとうとしている間に大人たちは交代で「センター・オブ・ジ・アース」に乗る。地底探検のストーリー仕立てになっていたが、要はジェットコースター。火山の中腹から飛びだし、夕暮れのディズニーシーを下方に望みながら気を失いかけた。絶叫系が苦手なことに気づく。隣にいた夫によると、私は悲鳴も歓声もあげず「受難」といった表情でぐったりしていたらしい。妹は姫のポップコーンをぶちまけてしまった。
「マゼランズ」で優雅にコース料理を食べ、ワインでほろ酔いになりながら夜のショーを眺めた。光り輝くホテルに向かい、あとかた姫たちはアリスの部屋、私と夫は「美女と野獣」の部屋をひとしきり楽しんで一日目終了。しかし、騎士たちにはまだ二日目の戦の準備がある。私と妹は遅くまで明日のディズニーランドのまわり方をLINEで打ち合わせした。

 ホテルのモーニングブッフェは、パン籠がミッキー、皿がミッキー、パンがミッキー、絞ったクリームがミッキー、お菓子がいっぱい、と朝から夢の国だった。せっかくだからお菓子しか食べない、と私は言い放ち、ホットケーキやフレンチトーストや甘いデニッシュにフルーツソースをかけ、チョコやマシュマロを散らばせたミッキープレートを作って悦に入った。

 腹を満たして二日目の戦にのぞむ。が、「美女と野獣“魔法のものがたり”」を体験したあと、妹が青い顔になった。「姉ちゃん、私たち、まわる系の乗り物が駄目かも」と打ち明けられる。三半規管の問題は致し方ない。反して、あとかた姫はアトラクションの楽しさに目覚めてしまった。その後、まわったり落ちたりするアトラクションに乗りたがり、私と夫が同行した。「スプラッシュ・マウンテン」でずぶ濡れになり、「アリスのティーパーティー」でぐるぐるまわるティーカップの縁にしがみつく私を、あとかた姫は愉快そうに笑った。まるで大好きな坂口安吾の『夜長姫と耳男』。十代の頃、好きでたまらなかった姫が目の前で人の受難を笑っている……と脳内もテーマパークになった。
 ウォルト・ディズニーがひたすら羨ましかった。自分の好きな世界を立体にして、細部までこだわり、食べものや飲みものも完備した遊び場を作れたら最高ではないか。小さい頃、妹と相談して、それぞれの部屋を持たずに寝室を一緒にして空いた部屋をおもちゃ部屋にしたことがあった。妹のレゴブロックと私のシルバニアファミリーとぬいぐるみを配置して国を作り、物語を作って遊んだ。作りたかったのはこういうものではなかったか。そんなことを、フルーツたっぷりのスパークリングドリンクをじゅーじゅー吸いながらぼんやりと思った。

 食事もティータイムもキャラクターもみっちり楽しみ、あとかた姫たちと別れた。帰りの電車で、体調が悪かったことを思いだした。アドレナリンがでていたのか、すっかり頭から飛んでいたのだ。びっくり、と夫に言うと、「あかねさんが一番楽しそうだったもんね」と言われた。なにそれ、騎士失格じゃないか。

 バケーションパッケージの特典でもらったものは帰宅してすぐしまってしまった。いくつかはAさんにお土産と共に送った。なんとなく私の日常にはそぐわない気がしたのだ。私は私の世界を作ろう、と思った。あんなにも大きく、人の喜びに満ちていなくてもいい。色もなく、触ることもできない文字しかない世界だけれど、細部まで目を凝らして物語を作りたくなった。

 日常に戻ってほどなくして、ディズニーシーに新しいエリアができたことをニュースで知った。なんと、あとかた姫が好きな『アナと雪の女王』を舞台にしたエリアだそうだ。これはまた姫のお呼びがかかるだろう。励まねば。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『さんかく』『赤い月の香り』『マリエ』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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