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第九話 穀雨 早川光「目で味わう二十四節気〜歴史的名器と至高の料理 奇跡の出会い〜」

器・料理に精通した早川光が蒐集した樂吉左衛門、尾形乾山、北大路魯山人などの歴史的名器に、茶懐石の最高峰「懐石辻留」が旬の料理を盛り込む。
「料理を盛ってこそ完成する食の器」
二十四節気を色鮮やかに映し出した“至高の一皿”が織りなす唯一無二の世界を、写真とともに早川光の文章で読み解くフォトエッセイ!
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Photo:岡田敬造、高野長英


第九話「こく

2024年4月19日〜2024年5月4日

こく」は春の最後の二十四節気で、地上の穀物に恵みの雨が降りそそぐ頃のこと。「りゅうひゃっこく」(雨が百種の穀物を生じさせる)という言葉がその由来とされています。
 
 この時期の雨は、古来、穀物の発芽を促すと考えられてきました。ゆえに「穀雨」は、種蒔きなど農作業の準備を始める目安となっています。
 
 そして穀雨の末候まっこう(二十四節気の一気を3つに細分化した「七十二候」のひとつ)は「たんはなさく」。「百花の王」と呼ばれる「牡丹」が開花する頃です。
 牡丹はその気品に満ちた佇まいから、格の高いちゃばな(茶室の床に飾る花)のひとつとされ、茶碗などの茶道具や、食器の意匠として用いられてきました。
 
 そんな「穀雨」の器は、偕楽園かいらくえん焼の『紫こう牡丹皿』。

 偕楽園焼とは、紀州徳川家(紀州藩)の十代藩主・徳川治宝はるとみ(1771~1853)が、西浜にしはま殿てん(紀州徳川家の別邸)の庭園である「偕楽園」に築いた窯で焼成した、にわ焼(大名の城館などの庭園内で焼かれた陶磁器)のこと。
 偕楽園の窯には、樂吉左衛門家九代・了入りょうにゅう(1756~1834)、十代・たんにゅう(1795~1854)、にん阿弥あみ道八どうはち(1783~1855)、そして永樂善五郎家・十一代保全ほうぜん(1795~1854)といった、当時の最高峰とされる陶工たちが京都から招かれ、腕を振るいました。
 
 この『紫交趾牡丹皿』は偕楽園焼の向付のひとつ。作者は明らかにされていませんが、永樂家が得意とする交趾焼(なまりゆう陶磁器の一種)の器であることから、おそらく永樂保全が手がけたものと思われます。
 長径が18センチと向付としては大きく、そこに鮮やかな紫に発色する釉薬がたっぷりとかけられた、いかにも徳川御三家の御庭焼らしい、贅を尽くした器です。
 
 器に盛る『懐石辻留』の穀雨の料理は『あいなめ洗い 青とさか 莫大ばくだい 胡瓜』。
 青とさかは鶏のとさかに似た形の海藻、莫大は「ハクジュ」という植物の乾燥した果実を水で戻したもののことで、あしらいとして添えられます。

 あいなめはカサゴの仲間で、春から初夏にかけて旬を迎える魚。上品な味わいですが、白身としては脂がのっているので、関西地方では「あぶら」と呼ばれます。
『懐石辻留』では、その余分な脂を落とし、身を引き締めるため、あいなめの身を「洗い」(冷水にさらす調理法)にします。こうすることでくせを消し、深い旨みを引き出すのです。
 
 目をみはるのは盛りつけ。乳白色のあいなめの身を花芯に見立て、中心に杉盛りにすることで、器そのものが大輪の牡丹の花のように見えます。その美しさに、箸を持つ手が止まります。
 
 もうひとつの器は、樂吉左衛門家・六代にゅう(1685~1739)の『こうぐすりさい牡丹文皿』。こちらも向付として作られた器です。

「香炉釉」と呼ばれる白釉が全体にかけられ、そこに赤楽釉とつち(黄色みの強い土)の二彩(2色)で牡丹文が描かれています。樂家の器には珍しい色づかいですが、これは初代長次郎(生年不詳〜1589)の手がけた「さんさいうりもん平鉢」の流れを汲むものと考えられています。
 向付としては厚手で見込みが深く、鉢に近い形状をしているので、温かい料理を盛ることもできます。
 
 料理は『焚合 たけのこわか 木の芽』。

  和食では、同じ季節に旬を迎える山の幸と海の幸の組み合わせを「出会いもの」と呼びます。筍と和布は「春の出会いもの」の中で最も相性が良いとされ、焚合にすることで、お互いの味がさらに引き立ちます。
 皮付きのまま2時間ほど下茹でしてから、濃いめのだしで炊いた筍は、柔らかく、甘く、優しい味わい。そこに和布が潮の香りと深い旨みを添えています。
 
 春の陽だまりのようなはだ色の筍と、夏の野山を思わせる深緑色の和布のコントラストが、春から夏への季節の移ろいを表現しています。晩春の「穀雨」にふさわしい一品です。

プロフィール

早川 光(はやかわ・ひかり)
著述家、マンガ原作者。『早川光の最高に旨い寿司』(BS12)の番組ナビゲーターを担当。『鮨水谷の悦楽』『新時代の江戸前鮨がわかる本』など寿司に関する著書多数。現在は『月刊オフィスユー』(集英社クリエイティブ)で『1,000円のしあわせ』を連載中。
 
ブログ:「早川光の旨い鮨」

懐石辻留料理長・藤本竜美
初代・辻留次郎が裏千家の家元から手ほどきを受け、1902年に京都で創業した『懐石辻留』。その後、現在に至るまでその名を輝かせ続け、懐石料理の“名門”と呼ぶに相応しい風格を纏う。北大路魯山人のもとで修業した3代目店主・辻義一氏から赤坂の暖簾を託されたのが、料理長の藤本竜美氏。「食は上薬」を肝に銘じて、名門の味をさらなる高みへと導いていく。
 
HP:http://www.tsujitome.com


注釈/樂吉左衛門

 千利休の求めで茶碗を焼いた樂長次郎(生年不詳〜1589)を初代として、現在十六代を数える楽吉左衛門家。
 茶碗の窯として創始したため初代から三代道入(1599〜1656)までの作品に食器は少ないが、四代一入(1640〜1696)以降は菊皿、膾皿なますざら蛤皿はまぐりざらなど、様々な茶懐石用の器を手掛けてきた。
 樂家の食器はすべて楽焼と呼ばれる軟質施釉陶器だが、同じ形の器でも釉薬の微妙な違いによって趣が変わる。とりわけ赤樂の食器は各代ごとに赤の発色や窯変が異なり、それが見どころとなっている。
 歴代の中で多くの食器を残しているのは四代一入、六代左入(1685〜1739)、九代了入(1756〜1834)、十二代弘入(1857〜1932)で、中でも“樂家中興の祖”と呼ばれる了入は、皿や鉢、向付を得意とし、へら使いの技巧を施した名品も伝世している。

注釈/永樂善五郎

 室町時代から土風炉どぶろ(土器の風炉)を制作してきた善五郎家が、向付や皿などの食器を焼くようになったのは、十代了全(1770〜1841)以降のこと。
 その了全と十一代保全ほうぜん(1795〜1855)の陶技を高く評価した紀州藩主の徳川治寳とくがわはるとみ(1771〜1853)から「永樂」の銀印を拝領したことを機に、善五郎家は「永樂」を陶号として使うようになった。
 十一代保全は歴代の中でも名人として知られ、こうやき、古染付、祥瑞しょんずい、金襴手といった中国陶磁の写しを得意とした。
 中でも緑、黄、紫など色鮮やかな釉薬を使った交趾写しと、質の高い呉須(顔料)を用いた古染付写しの美しさは、本歌(オリジナルの器)に勝るとも劣らない。
 保全の高い技術と美的センスは十二代和全〔1822〜1896〕以降も脈々と受け継がれ、今も京焼を代表する窯元として、端正にして華やかな器を作り続けている。

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