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No.10『凶手』アンドリュー・ヴァクス 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 30代に入ると、ぼくは広告会社を辞め、フリーランスで働くようになった。コピーライターの仕事は好きではなかったけれど、他にできることもないし、そこそこの稼ぎにはなる。世間は不景気でも個人のような零細レベルなら、いくらでも賃仕事は降ってきた。
 なによりうれしかったのは無駄な通勤と会議がなくなり、一日2時間労働でよくなったことである。体感的には週休4日くらいだろうか。ほぼ毎日がヴァカンスだ。直木賞受賞作『4TEEN』の舞台になった東京・月島に住み、ぶらぶらと銀座に散歩にいっては、映画を観て、本とCDを大量に買いこむという大学生の頃に夢みたような生活が始まった。よく晴れた秋の日、ディスクマンでワーグナーの序曲集を聴きながら、勝鬨橋かちどきばしで鉛色の隅田川を渡り、だんだんと三越のライオン像に近づいていくときの胸躍る感覚は忘れられない。
 だが、そんな優雅な生活が2年も続くと、だんだんと明け暮れから色が褪せてきた。30代半ばになり、同世代はバリバリといい仕事をしている。小説家になるという小学生の頃の夢は、心のクローゼットの奥深く埃をかぶってしまった。快適にして文化的な生活だけど、ほんとうにこのままでいいのだろうか。そんな疑いが心の底に根づき始め、次第に不安になりだした頃、ぼくは近所のコンビニで決定的な出会いを得た。立ち読みしていたのは「クレア」1996年5月号、その数センチ角の星占いは、今も手帳にファイルしてある。

 約2年間、牡羊座は重圧の象徴、土星の影響下に入ります。人生と真摯に向き合い、自分の中の何かを結晶化クリスタライズさせる。これが向こう2年間あなたに与えられたテーマです。自分の限界に挑戦すると吉。

 最初はなにげなく読んでいたけれど、結晶化で心が震えた。真剣になにかをクリスタライズさせるなら、広告ではなく長い文章だろう。それも真摯に向き合うのなら、やはり小説を書くしかない。ずっと諦めていた創作を始めてみよう。プロの作家にはなれなくていい。新人賞で佳作にでも引っかかり、編集部と伝手ができ、たまに短編を書いてもちこめるようになれたら、きっと楽しいだろう。生涯に短編集が一冊。成功しなかった小説家という、ロマンチックな立場で、得意先や若い子にでも自分の本を配れたら、それで十分である。
 手近な新人賞の締切を目指し、つぎの日から書き始めた。最初は角川書店の日本ホラー小説大賞、続いて朝日新聞社の朝日新人文学賞。書くことは楽しくて、時間もたっぷりとあった。原稿を送り、忘れた頃になって、最終選考に残りました、つきましては略歴と顔写真を送ってください、となぜか連続して連絡がくる。西日がさす隅田川沿いのマンションの書斎で、写真を撮ったのは懐かしい思い出だ。
 ホラーと純文では惜しくも落選したけれど、ぼくは賞の手ごたえに心底驚いていた。大手出版社の新人賞はもっとレベルが高く、それこそ最終選考に残るようになるまで5年10年と経験と研鑽が必要なはずだと考えていたのだ。もしかしたら、恐れているほど賞の難易度は高くないのかもしれない。そこでさっさと第3作目を準備することにした。まだ書いていないのはミステリーだ。目標は文藝春秋のオール讀物推理小説新人賞である。駄目ならつぎは新潮社の日本ファンタジーノベル大賞がある。無名の新人はお気楽なものだ。

 ぼくは新作を書くとき、そのジャンルの目ぼしい作品を乱読する癖がある。『娼年』のときは『眠れる美女』だったと以前この連載で書いたけれど、デビュー作となった『池袋ウエストゲートパーク』では、アンドリュー・ヴァクスの『凶手』だった。
 ヴァクスはアウトロー探偵バークのシリーズが有名だが、こちらはノンシリーズもので、アメリカ作家が得意とするハードボイルドな犯罪小説である。ゴーストは施設で育ち、刑務所を生き抜いて、武器を使わず素手だけで仕事をこなす凄腕の殺し屋となる。ひどく無口で、周囲からは頭が弱いと思われているのだが、ストリッパーのシェラと出会い、つねに行動をともにするようになる。露悪的なタッチが全編を貫いているが、初めての愛を手に入れた純情な殺し屋の無感情な台詞には、極北の恋愛小説の乾いた味がある。
 あるとき殺人事件に巻きこまれ、シェラは逃亡、ゴーストは3年の刑期をくらう。出所したゴーストはシェラを探すために、殺しの仕事をこなしながら、広大なアメリカを旅するというロードノベルになっている。初恋の女性を捜し求める不器用な男の純心と、残虐さにおいて桁外れなアメリカ社会の暗部の対比から、さらさらと乾いた血のようなポエジーがこぼれだす。これこそアメリカン・ミステリーの他のどこの国にもない独特な読み味だ。
 ヘミングウェイに始まり、ハードボイルド派の作家たちによって磨きあげられたアメリカのクライム・ノベルならではの余計な言葉がすべて削ぎ落とされた電報のような文体、リズムの刻みと場面転換がスピーディな断章スタイル、その断章のあいだに置かれたマークはトランプのダイヤとクラブとスペード(ハートはない!)。

 感心して読了したぼくの胸は、すでに決まっていた。このスタイルをそのまま使わせてもらおう。短い断章による構成、マークは毎回変えていく、文体もリズム重視の刻みの速い電報スタイルでいい。不遜だけれど、これくらいの小説なら、世界がまったく異なる現代の東京に置き換えてトレースするくらい、そう難しくはない。それくらいの腕ならあるはずだ。新人賞を獲る前のただの作家志望に過ぎないのに、妙に自信だけはあったのである。

 片目で『凶手』を見ながら、ステレオでグレン・グールドのバッハを果てしなくプレイした3週間で、ぼくのデビュー作は仕あがった。手ごたえは確かだったし、自分ではとても満足していたけれど、作者の勘違いというのもよくあることだ。新人賞に送って、いつものようにそのまま忘れてしまった。つぎの応募作の続きを書かなければいけない(後に集英社で刊行される第2作『エンジェル』である)。
『凶手』へのオマージュから始まった短編が、その後新人賞を獲り、シリーズ化され、さらに連続ドラマになり、おまけにアニメや舞台にもなり、あれから四半世紀後の現在、まだ新作を書き続けている。刊行点数はこの秋で19冊になる。デビュー前のぼくに、この初めてのミステリー短編はとんでもない勢いで成長するよと告げたら、きっとまったく信じなかったことだろう。一作で人生が変わるなんて、あるはずがない。小説の世界は甘くない。そう頑固に信じて、つねに新たな作品を用意していたのである。

 この稿を書く合間に、『凶手』と『池袋ウエストゲートパーク』を読み直してみた。自分でもまったく気づいていなかった共通点を今さら発見し驚いている。不器用な素手の殺し屋ゴーストがドーベル殺しの山井で、SMの女王を演じながら変態の男たちを殺して回っていたシェラは、お嬢様ばかりの進学校に通いつつ少女売春のリーダーだったヒカルなのだ。すっかり忘れていたが、シェラとヒカルは父親からの性的虐待の過去が共通していた。ゴーストも山井も、なぜか隠された女たちの傷にただひとり気づき、自分の人生を捧げて、女たちを守ろうとする。汚れた街をうろつきながら、姫を守り抜く現代の騎士の物語。ハードボイルド小説の最も簡潔で、基礎的なこの定義に、両作ともきれいに当てはまっていたのだ。
 いやはや自作の小説とはいえ、なかなかきちんとは読めないものだ。当たり前のことに気づくのに20年以上もかかる。小説家などといっても、実際にはこんなものです。

作品番号(10)
『凶手』
アンドリュー・ヴァクス/佐々田雅子訳
早川書房 1998年4月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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