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No.11『ペスト』アルベール・カミュ/宮崎 嶺雄訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 SFやミステリーを乱読していた14歳、そろそろ別なジャンルの本を読みたくなってきた。世界には文学という立派な「芸術」があるらしい。そこで、いつもの駅ビルの書店にいき、この本なら間違いないのではと選んだのがアルベール・カミュの『ペスト』だった。なぜ、そう思ったのか。解説に、カミュは44歳という若さでノーベル文学賞を受賞したとあったからだ。ぼくの手元にあるのは定価260円の新潮文庫で、背表紙には万年筆で当時通っていた中学校名と自分の名前が書いてある。
 早速、家に帰って読み始めたのだが、さすがに「文学」の読書は難渋した。ストーリーがなかなか動かないし、誰に視点を置いて読めばいいのかわかりにくい。巨大な恒星間宇宙船も出てこないし、華やかな連続殺人も起こらない。しかも、文章の密度が段違いに濃いので、飛ばし読みをするのも困難である。
 その頃の読書スタイルは、3~4時間集中して一気に文庫本を1冊読みあげるという荒っぽいやりかただったが、テーマと起承転結がはっきりしたエンタテインメント作品には上手くはまっていた。調子に乗れば、若くて目がいいので、すぐ2冊3冊と読める。けれど、ノーベル文学賞受賞作には、そんな荒業は通用しないらしい。その手ごたえが逆に新鮮だった。どうやら、ぼくは文学というものを読んでいるらしい。頭をひねり中学生がとった方法は、注意深くすこしずつ読む、細身のペンで気になった箇所に傍線を引いていくというものだった。このとき背伸びをしておいて、ほんとうによかった。これ以降半世紀近くにわたって、小説以外の専門書を勉強のために読むとき、ぼくはこの読書法のお世話になっている。

 アルジェリアの海辺の街オランで、4月半ば突然ネズミが死に始める。最初は数えるほどだったが、数日のうちに工場や倉庫は数百という死骸を吐きだしていく。この不気味な場面を描くカミュの筆遣いは、ホラーの帝王スティーヴン・キングも顔負けだ。

朝になると、町はずれのほうでは、溝いっぱいに並んで、とがった鼻面はなづらに小さな血の泡をくっつけ、あるものはふくれ上って腐りかけ、あるものは、まだひげをぴんとさせたまま硬直しているのが見出された。

 素晴らしいディテールだが、中学生のときに引いた線に沿ってこうして引用するのは、タイムマシンでダイレクトに過去に引き戻されるような気がする。芸術は長しというのは、こういうことかもしれない。

 4月末には約8000匹の鼠が拾集され、主人公の医師リウーのもとに、首と腋の下と鼠蹊部そけいぶに激しい疼痛とうつうを訴える患者がやってくる。14世紀ヨーロッパで人口の3分の1を滅ぼしたという黒死病=ペスト菌が、ついに海辺の街を襲ったのだ。4月30日には門番の男が死に、街に最初の死者が生まれる。
 そこからオランの街に起こる出来事は、コロナ禍を経験したぼくたちには、残念ながらひどく馴染み深く、すこしばかり懐かしいお決まりの悲劇である。街は不安で満たされ、ロックダウンで速やかに街の門は閉じられ、感染者と死者は加速度的に増大していく。気まぐれに襲来した死病の流行は、カミュが訴えた「不条理の哲学」そのものというほかなく、街の人々すべてを呑みこみ、生の深部を変容させていく。パンデミックの前とは、もう同じではいられないのだ。

 恐怖の事態を細部まで漏らさず手帳に書きこんでいく、もうひとりの主人公がタルーである。この命名には中学生のぼくはがっかりしたものだ。フランス人にはリウーとタルーの区別が簡単につくものなのだろうか。エンタメ系の作家なら、主要人物にこんなまぎらわしい名前をつけることはないはずだ。カミュはサービス精神がすこしばかり欠けている。
 ペスト襲来5週目死者は321名、6週目345名。街の教会では集団祈祷でペストと戦うことを決定する。聖堂には人々が詰めかけ、信者で満席になる。医学的、科学的な手段だけでなく、オランの市民は信仰と連帯により疫病に立ち向かっていく。だが感染の情勢は厳しい。夏がくるころには、死者は週ごとではなく、毎日発表されるようになる。日に92名、107名、120名と、ラジオが報道するのだ。

 さて、ここまで読んできたあなたは、どう感じただろうか。なんだ、びっくりするくらいスリリングじゃないか。パニック小説としても一級品のようだ。その通りなのである。このノーベル文学賞受賞作は、間違いなくおもしろかったのだ。中学生のぼくは、その事実に驚いたのである。芸術って、おもしろいのだ。当時読んだ『アンドロメダ病原体』や『オブザーバーの鏡』といった未知の疫病が世界を破滅の淵に突き落とすSFの名作に負けないサスペンスが、この本には間違いなくあった。
 喜ばしい異変は翌年1月にやってくる。生きているネズミが再び街のあちこちで目撃されるようになるのだ。感染者は減少を続け、感染しても快方に向かう患者が増えていく。ついにロックダウンは解かれ、オランの街は解放される。

人々は相変らず同じようだった。しかし、それが彼らの強味、彼らの罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を越えて、リウーは自分が彼らと一つになることを感じるのであった。

 終わりに近いこの文章を読んで、ぼくたちは深くうなずくことになるだろう。コロナから解放された仲間たちに、カミュが描いたのと同じ連帯感、一体感を確かにあのとき感じていた。ぼくたちは同じ危機を、手をつなぎ、マスクをつけて乗り切ったのだと。コロナが過ぎ去ったようにみえる現在、ゆったりと落ち着いた心持ちで読むなら、『ペスト』は最良の一冊になるかもしれない。さすがにコロナの渦中では、ぼくでもこの本を再読する気にはとてもなれなかったのは確かである。

 カミュのデビュー作『異邦人』はクイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」の元ネタとして有名である。母の死の翌日つまらない喧嘩で殺人を犯すムルソーは、処刑を待つ牢獄のなかでさえ最後まで個を貫いた。

この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。

『異邦人』アルベール・カミュ/窪田啓作訳 新潮文庫

 だが、『ペスト』でリウーはつねに人々と連帯して不条理と戦っている。街自体が牢獄と化しても、単独ではなく同志を信じ助けあうことをやめない。カミュはおおきな放物線を描いて、個としての人間から成熟し、人々の信頼と連帯のなかに最高の人間性を見出すようになった。
『ペスト』という作品をあらためて読み返すと、疫病の恐怖と市民の連帯だけでなく、アフリカ生まれのカミュ独特の熱のこもった抒情的な描写が胸に迫ってくる。医師リウーが代表する西洋的な北の倫理とアフリカの情熱的な南の感性。その二重性がこの作品を深く豊かに支えているのだ。魅力的な描写は至る所にある。いくつかあげておこう。

嵐を含んだ暑気がこの突然の驟雨しゅううに続いた。海までがその深い青さを失い、そして濃霧の空のもとで、目の痛くなるような、銀色もしくは鉄色の輝きを帯びた。

この地方の暮れやすい黄昏たそがれは早くも過ぎ去ろうとして夜の闇が迫り、まだはっきり見える地平線のあたりに最初の星々が現われて来た。

月明りの空のもとに、町はその家々の白っぽい壁と、直線的な街路――一本の樹木の黒くはびこった影に汚点おてんをつけられることもなく、ひとりの散歩者の足音にも一匹の犬のえ声にも乱されることのない街路――を連ねている。

 アフリカの風景を描くとき、カミュの筆はほぼ歌っている。描写することが楽しくてならないのだ。作家は若さの絶頂の輝きのなかにいる。こうした作品を完成させた後では、世界的な文学賞もほぼおまけのようなものだろう。すでに作家は勝利しているのだ。
 けれど、その勝利はほかのあらゆる勝利と同じように、長くは続かなかった。別荘からパリに帰る途中、カミュが乗っていたフランス製の2ドア・クーペは、道路の脇に立つ一本のプラタナスの樹に100キロを超える速度で激突した。運転していたのは出版社に勤める友人で、カミュは助手席に座っていて即死だったという。
 ノーベル文学賞を受賞してから2年。あまりに早い不条理な死だった。

作品番号(11)
『ペスト』
アルベール・カミュ/宮崎 嶺雄訳
新潮社 1969年11月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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