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No.09『ヨーロッパ退屈日記』伊丹十三 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 高校生の頃、日本のクリエイタートップ3を選ぶという遊びを暇なときによくしていた。いろいろと好きなアーティストを並べ、異種格闘技戦のように創造性の強度だけで競わせる無茶な順位づけである。今この国で最もクリエイティブなのは誰かを決める遊びだ。そのランキングでながらく王位を譲らなかった3人が、毎週「オールナイトニッポン」で光速の切れ味でラッパーのようにフリートークを弾きだしていたビートたけしと漫画家の大島弓子(萩尾望都、山岸涼子などと並び、この時代の少女漫画は現代文学の水準を抜くものだった)、そしてコラムニスト・映像クリエイター・俳優としてマルチに活躍していた伊丹十三である。
 後年、ビートたけしも伊丹十三も日本を代表する映画監督となるのだが、このふたりの作品をリアルタイムで映画館で観られたのは、ぼくにとって光栄なことだった。北野監督とはテレビ番組でゲストに呼ばれ何度かお話をする機会があったけれど、伊丹監督は作家デビューして間もなく亡くなられたので、お会いすることができず、ひどく残念である。
 ぼくの『北斗』がドラマ化されたとき、パートナーの宮本信子さんが出演してくださり、試写会の廊下で短い時間だが立ち話をすることができた。高校生の頃から伊丹さんのエッセイの愛読者で、映画は毎回ロードショーで観ていました。早口でそう伝えるのが精一杯で、この小説家はあわててなにをいっているのだろうと、きっと不思議に思われたことだろう。

『ヨーロッパ退屈日記』はエッセイストとしての伊丹十三のデビュー作で、ぼくが文春文庫版を手に入れたのは高校近くの駅ビルにある書店だった。77年の第3刷だ。表紙にはこう載っている。
「この本を読んでニヤッと笑ったら、あなたは本格派で、しかもちょっと変なヒトです」
 いったいどういうことだろう。人をヒトとカタカナで書いたこのキャッチコピーの癖は、鋭いヒトなら山口瞳の作だと気づくかもしれない。読みすすめていくと、おやっという文章が頻出する。
「昨夜、大江健三郎とイオネスコの芝居を見に行きました」
「友人、白洲夫妻、休暇にてスペインへ来訪。ジャギュアをパリから持って来てもらう。多謝」
「三船敏郎さんが、夜中にジョニー・ウォーカーの黒札と、どういうわけかタタミイワシを三枚持って、フラリとわたくしたちの部屋に現われました」
 伊丹十三をよく知らなかった高校生は、この著者は何者なのかと素直に驚いたのである。30代前半、伊丹十三は得意の英語力を生かし、欧米映画への出演を何本か果たしていた。ニコラス・レイの『北京の55日』、リチャード・ブルックスの『ロード・ジム』。どちらもメジャースタジオによる巨匠の大作だ。歴史的な題材やコンラッドの小説を、莫大な予算を組んで映画化する。スーパーヒーローものではなく、当時の映画会社にはそれだけの余裕と芸術に対する信念があった。

 若き日の伊丹十三はヨーロッパに長期滞在して、さまざまな風物にふれ、映画撮影という異文化のなかでの体験を重ねていく。空港で見かけた白人の肉体労働者に驚き、パリの人々の黒をベースにしたシンプルなお洒落に魅了され、書割ではなく本寸法で裏までしっかりと造りこまれた映画のセットに、何十億円もかけていることに虚しさを感じつつ驚愕する。
 繊細な感受性と青年らしい含羞、アートへの信頼とよいものを見抜く鑑賞眼、高校生だったぼくには、伊丹十三のバランスは人としてほぼ理想的に映っていた。エッセイストとしては『ヨーロッパ退屈日記』の後、『女たちよ!』『小説より奇なり』『日本世間噺大系』と新作を書き継ぎ、初期のように海外の風物だけでなく、ちょっと残念だけれど愛すべき市井の日本人を、ユーモアと知性のある文章で描くことになる。
 恥ずかしい話だけれど、ぼくは『ヨーロッパ退屈日記』の終章を読んで(伊丹十三は大人になってからヴァイオリンのレッスンに通い始めた)、ギターの教則本を買い、練習を始めた。伊丹さんとは違いまったくモノにならず、ぼくの場合はひと月とギターライフは続かなかった。あらゆるジャンルの音楽を浴びるように聴くのに、楽譜が読めないことはいまだにコンプレックスになっている。

 そういえば、自分で料理をするようになったのも、伊丹十三の影響だ。家族に日曜日の昼食はまかせて欲しいと宣言し、はじめてミモザサラダとグリーンカレー(家に缶詰のカレーペーストがあったのだ)をつくったのは、高校2年生のこと。サラダはまあまあ合格点だったけれど、カレーは大失敗してしまった。ショウガのすりおろしを入れ過ぎたうえに、インドネシア産のカレーは凶悪な辛さで、誰もふた口目をたべられなかったのである。
 料理のほうは今も好きで、よくキッチンに立っているから、生涯にわたる影響を受けたといってもいいだろう。伊丹さんから学んだレシピでもっとも簡単で、もっともよく食卓にのぼるのは「マイクルのキャベツ」だ。ニンニクで香りづけしたただのキャベツの塩炒めなのだけれど、春キャベツの季節には最高のご馳走で、ひとり半玉は軽く平らげてしまうオススメ料理だ。
 シティボーイのためのライフスタイル誌「POPEYE」の創刊が1976年。時代はバブルへと向かう長い坂道の途中だった。海外から新しいファッションやカルチャーがリアルタイムで洪水のように流れこむようになったのだが、そうした雑誌でときめいている人たちは、ぼくにとって人間としての魅力や存在感に欠けていた。

 そして誰もが同じファッションで、流行に乗ることが一番の価値だった熱狂の80年代がやってくる。当時の日本人は活力にあふれ、無暗に新しい挑戦をしては、派手に失敗を繰り返していた。それでもいくつかの成功例は時代の熱に煽られて、どこまでも高みにのぼり、世界のスタンダードとなったのである。世界最強の電機メーカーは日本人の誇りだった。ウォークマン、CD、ビデオレコーダー、家庭用ゲーム機。すべて日本初の世界標準だった。現在、韓国や中国がスマートフォンや有機ELテレビ、電気自動車を製造するのと同じである。
 同時に忘れてならないのは、80年代日本の大量消費社会は、文化的には停滞期でもあったことだ。モノはあふれたが、人の心は空虚になった。人間の活動を経済生産性だけで計れば、そうなるのは当然である。そんな暗闇の時代に灯台のように若者たちにほんとうの価値とはなにか、よい趣味とはどういうものかを示した人物が伊丹十三だった。この人が撮った映画なら、ぜひ観てみたい。そう考える潜在的な観客が一定数いたから、デビュー作からスマッシュヒットを記録したのである(そういうところも北野監督と共通点がある、どちらもデビュー作の出来がいいだけでなく、表現はほぼ完成されていた、人間的に成熟してから監督になったせいかもしれない)。
 さて歴史の針を40年ほどすすめた現在、消費社会はネットによって極限まで加速され、文化はツイッターやインスタグラムで砂嵐のように気まぐれに吹き荒れる局所的ではかない熱狂に過ぎないように見える。この時代の灯台は果たして誰になるのか。ひろゆきやユーチューブのお笑い芸人が、今の若者にとって伊丹十三のような存在だとすると、ぼくたちの世代はいい時代を生きたと感謝するしかないのかもしれない。

作品番号(9)
『ヨーロッパ退屈日記』
伊丹十三
文藝春秋 1976年7月刊

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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