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No.17『綿の国星』大島弓子 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 あれは1978年5月のことだった。
 大学に入学してひと月とすこし。ゴールデンウイーク間近の日ざしはすでに夏のようで、土曜午前の講義から帰ってきたぼくは、近所の書店に歩いて出かけた(徒歩圏に3軒の書店があった黄金時代! 今はひとつも残っていない)。
 大島弓子の新作が月刊少女漫画誌「LaLa」(白泉社)の5月号に載るらしい。しかも100ページもある大作みたいだという情報を得て、楽しみにしていたのだ。家族で経営する街の書店によくあるように、たくさんの雑誌が店の外にあるブックスタンドにカラフルに展示されていた。ぼくは早速「LaLa」を手にとり、巻頭の大島弓子作品を立ち読みし始めた。

 それからの時間は一瞬だった。飼い主に捨てられたチビ猫が、雨のなか浪人生の須和野時夫に拾われ、一命をとりとめる。チビ猫は大きくなったら人間になれると信じているので、いつか命の恩人と結ばれたいと願うのだ。銀の毛並みがきれいな謎の野良猫ラフィエルに、猫は人にはなれないと教えられ、一度は絶望するけれど、勇気を振り絞って時夫が一目惚れした女子大生との縁を結ぶキューピッド役を見事に演じ、次第に須和野家にも馴染み、生きものとして新しい季節のなか成長していくというストーリーだ。
 なんだ『吾輩は猫である』じゃないか、そういわれればそうだけれど、まったく違う。よくある猫マンガかと軽く見られそうだが、その当時猫マンガなんてものはほぼ存在しなかった。逆に『綿の国星』から猫耳と片方だけずりさがったソックスが始まったのである。
 読み終えたぼくは胸を射貫かれ、ふらふらしながら家に帰った。姉と妹にすごい傑作を読んだといったのだけれど、漫画はどこにあるのといわれ、あわてて同じ書店に引き返し「LaLa」を買ってきたのだ。

 その頃のぼくは相変わらず本を読み(休日は目標1日3冊)、音楽を聴き、映画を観る日々だったけれど、70年代後半に創作物から受けた衝撃の激しさという点では、『綿の国星』はトップ5に入るものだった。劇的なストーリー展開はない。サスペンスやスリルはごくわずか。登場人物は須和野家と猫たちと、時夫が恋する「ひっつめみつあみ」の少女だけ。では、いったいなにがそれほど深く刺さったのか。ここで男性作家は途方に暮れることになる。多くの女性から、少女漫画(とくに大島作品)は男たちのように頭で理解しようとしても無意味だというダメ出しを受けることになるからだ。
 けれど、それではこの稿が終了してしまう。批判はそのまま受け止めて、ここでは大島作品の魅力を分析しておきたい。40年以上も昔の衝撃を上手く表現できるか、いささか心もとないのだけれど。

 漫画なのでまず絵から入ろう。大島作品で最初に目につくのは、繊細な線の魅力だ。登場人物は当然だが、背景に描かれる植物や花、雨に霧、月や星といった自然を描くとき、この細くて毛糸のほつれのような線が絶大な威力を発揮する。つねになにかを畏れて震えている、あるいは風に吹かれて揺れているちいさな生きものような線だ。また墨ベタの黒にも抜群の深さがある。大島弓子は、死や病や自身の存在への違和感を、黒々と深く描く。生きることの恐さ、切なさを墨ベタで表現できる数すくない漫画家のひとりである。
 つぎに強力なのは吹き出しではなく、小説なら地の文に相当する一人称の語りだろう。天真爛漫で自由気まま、難解さなどかけらもない優しい語り口だが、読み手をいつの間にか巻きこむ力は無類のものだ。今回改めて『綿の国星』を読み返してみたが、18歳の男子大学生と同じように40年後の小説家も、生まれたばかりのチビ猫に数ページでごく自然に感情移入させられてしまった。この浸透力と心の壁を溶かす力には恐怖を覚えるほどだが、ここに多くのファンが「大島弓子がわかるのは自分だけだ」と勘違いさせる要因があるのかもしれない。それほどのやわらかだけれど圧倒的な力で、読み手の内面と感覚に浸透してくるのである。
 そして作品のなかで登場人物たちが送るごく「普通の生活」にも絶大な魅力がある。学校にいったり、仕事をしたり、友人とお茶をのんだり、夜の闇に向かって自分とは何者なのだろうとふと考えてみたり、誰にでも心当たりのある暮らしの細部が実に生きいきと描かれている。
 チビ猫が覚醒する場面を見てみよう。猫は人間になれないという圧倒的な絶望感により、精神の枠組みを揺さぶられ、その衝撃を乗り越えることで、幼子は新たに世界とつながる眼差しを手に入れる。

おばけのような桜が おわったとおもうと 遅咲きの八重桜 すみれや れんぎょう 花厨王はなずおう 黄色い山ぶき 雪柳 なんとすごい なんとすごい 季節でしょう

『大島弓子選集』 第9巻「綿の国星」より

 チビ猫は生まれたてで、春から夏への季節の移り替わりを、生きものとして初めて目撃している。読み手もいっしょに心を揺さぶられながら、競うように咲き誇る季節の花々やありふれた暮らしの細部を、再発見することになるのだ。
 ぼくは少女漫画がもっている本源的な力として、現在という時間を確かにつなぎとめ(少女時代という特別な時)、世界と自分の生活をひとつの奇跡として再評価する(今のこの暮らしがやっぱり最高)能力があると考えている。大島弓子の作品には、日常をつねに再発見し続け、生きることの新鮮さを回復させる、特殊な少女漫画固有のポーションが溢れている。
 花の24年組のなかでは、萩尾望都も山岸凉子も好きな作家である。1970~80年代にかけて、24年組を中心に少女漫画は文学性(あまり好きになれない言葉だ)の高さでは現在も超えられない遥かなピークを形づくった。その過程で題材の幅を広げ、SF、ファンタジー、アクション、エスピオナージなど漫画表現の枠を拡大する巨大な地殻運動を起こした。

 けれど、大島弓子はありふれた暮らしと吉祥寺を離れることはなかった。井之頭公園の夕焼け、南口のアーケード、いきつけの喫茶店。ほんとうに素晴らしいものは、いつも目の前にある。それを楽しむためには、ただ気がつきさえすればいい。少女漫画が教えてくれるちいさな魔法の力だ。
『池袋ウエストゲートパーク』という青春ミステリーでデビューしたぼくが、あっさりジャンルの境界を越え、恋愛小説に手を伸ばせたのは、幼い頃から少女漫画を読んできたせいである。『眠れぬ真珠』や『美丘』『娼年』が書けたのだから、女性漫画家たちのエッセンスを自分の血肉にできたのは、作家としてまったく幸運なことだった。

 以前サイン会で若い女性に質問されたことがある。
「石田さんの衣良というペンネームは、大島弓子さんの『バナナブレッドのプティング』から採ったんですか」
 その作品は大島弓子の代表作のひとつで、ヒロインの名前は三浦衣良という。サインをしながら、ぼくは答えた。
「あれはいい作品だったね。ぼくも大島さんは好きだけど、本名を当て字にしただけなんだ」
「そうなんですか。でも、石田さんが大島弓子を好きで、わたしもうれしいです」
 敵地のなか同志を発見した目で、彼女はぼくの新作を胸に抱え、いってしまった。そのとき、ぼくは胸の奥で考えていたのだ。衣良という男だか女だか、よくわからないペンネームも大島弓子がつけたくらいだから、そう悪くはなかったのかもしれない。須和野チビ猫や夜羽ヨハネやピーター・ピンクコートや岩井弦之丞げんのじょうのように。
 大島さんのネーミングセンスは控えめにいって抜群なのだ。

作品番号(17)
『綿の国星』
大島弓子
白泉社 全7巻

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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