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No.06『作家の手帖』W・S・モーム/中村佐喜子訳 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]※引用箇所は著者が読んだ版に従っています

photo:大塚佳男


 ウィリアム・サマセット・モームはもうあまり読まれなくなった作家かもしれない。それは日本だけでなく、世界でも同じことだろう。通俗的だ、文学というにはおもしろ過ぎる、文章に深みがないといわれた偉大な書き手は、今では古くさく、すこし難解となってしまった。亡くなったのは1965年で、60年生まれのぼくからすると、つい最近まで存命だった作家という感覚があるのだけれど。
 代表作にはゴーギャンをモデルにした『月と六ペンス』、モーム自身が幼い頃から悩んでいた重度の吃音を主人公の足の障害に置き換えた自伝的大作『人間の絆』がある。短編作家としても腕利きだったので、「雨」「赤毛」といった切れ味鋭い短編に親しんだ人もいるだろう。
 けれど、ぼくにとってのモームは結局のところ『作家の手帖』なのだ。小説家の細々とした観察や人物評、警句をまとめたもので、幅広い読者ではなく自分のために書いている分、小説よりも濃厚で毒が強く、皮肉で意地悪で、最終的には「こちらのほうがおもしろい」となる文章である。

 その前に、高校生のぼくがなぜ創作者の手記を好んで読んだのか、そこから始めてみたい。小学生で欧米のSFに出会い、作家を志すようになってから、読書の幅は自然に広がっていった。SFから、ミステリー・ファンタジーへ、さらに純文学やさまざまな人文書へ。本の世界は本物の世界と同じように幅広く、いくら読んでも飽きることはなかった。
 高校生になると作品だけでなく、作家本人にも興味が湧いてきた。ひと筋の文章だけで世界を織りあげていく小説家というのは、いったいどんな人種なのか。いかなる世界観をもっているのか。書店で作家の創作ノートや手記、自伝の類を探しては読み漁ったのである。なかでも胸に残ったのは、アルベール・カミュの『太陽の讃歌』とモームのこの本だった。
 例えば高校生はこんな文章に線を引いている。

 人生は短いと云う。後を振りかえる人々にとつては確かに短いだろう。しかし、前を望む者には、無限に、おそるべく長い。時々人は、それに辛抱しきれないと思う。なぜ人は、眠りに落ちたまゝ、決して二度と再び醒めぬように出来ないのであろうか?

 進化の利とはんであろうか? 西欧文化を装うことで、日本はどれだけの利益があるか? (中略)結局文化とはなにを為すのだろう? その効用は何んだろう? 僕にはわからない。

 広く世界を旅して、第一次世界大戦時にはソビエトへの諜報活動に携わっていたモームの率直な感想である。欧米の列強に加わりたい一心で、上昇志向に目がくらんだ新興国ニッポンが太平洋戦争を起こすのは、モームのこの文章から40年後のことである。
 同性愛が違法だった時代、ゲイだったモームが書いた次の文章も興味深い。二重になった文章の底を想像しながら、読んでみてもらいたい。ナチスの暗号エニグマを解読した数学者アラン・チューリングが同性愛で逮捕され、青酸カリを服用して自殺したのが1954年。すぐ近い歴史上のある日のことだ。

 如何に無害なことでも、法で禁止する時、大方の人はそれを悪いことだと思う。

 人が努力をする目的が快楽にあることは、明瞭に証明できると思う。快楽という言葉は清教徒的の耳には不愉快にひゞくので、大方は幸福の方を云々する。だが幸福とはつまり、快楽の状態が続くことに他ならない。

 皮肉なゲイの作家、つけ加えるなら当時世界で最も原稿料が高い有名作家であるモームという人が抱える複雑な陰影がだんだんと迫ってくるのではないか。この稿を書くために再読したが、アンダーラインを引く箇所はまるで変わっていた。
本は変わらないが、読み手は年をとる。

 年をとつて来て、知識からか、飽きからか、人間の普遍的な事件について熟慮しないようになると、彼は駄目になる。小説家は、常識では何んでもないと思う事柄の重要性を信じる子供心を保たなければならない。大人になり切つてしまつてはいけない。

 読者は、三十分で読み、また五分間で読む文章が、作者の心血から出ているものだとは知らない。彼らが『ほんとにそのとおりだ』と打たれる感慨は、作者が幾夜かの苦しい涙と共にあじわい通したものである。

 こうして飛び石のように断片を読んでくるうちに、作家の手帖というものがどんな味わいをもつものか、体感してもらえたことだろう。高校生のぼくがはまった創作者の複雑な心の在り様と独特のゆがんだ視線、こういう個性と孤独の力をもっている人間が、結局はプロの作家になる(あるいは、ならざるをえなくなる)。

 さて10代のぼくがたくさんの作家の手帖をしびれるように読んで、どんな感想をもったのか記しておきたい。結果は実に残念なものだった。到底、作家になるなんて無理だ。モームやカミュのようになんて、なれるはずがない。作家になる人間は、みな化物ばかりだ。
 そう思いこんだぼくは、結局それから20年以上、小説を書くことはなかった。創作者の心の裏を覗くのは、魅力的ではあるけれど有害極まりなく、書き手として自分の手を縛ることにつながってしまったのである。だから、これから小説を書きたいという人には、作家の手帖的な本を、ぼくはあまりお勧めしない。ただ読みものとしては無類におもしろいので、創作志望でない人はぜひ、お気軽にどうぞ。創作と精神の毒の関係性という作家の奥深い秘密を解明するには、これ以上のテキストはない。
 最後に、若き日と実際に作家になった現在のぼくが、変わらず赤線を引いた文章で、この稿を締めよう。推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーについての考察から、それは始まる。

 ポオは考えることによつて新奇さや独創性を得られるものと思つていた。彼は間違つていたのである。新しくなることの唯一の方法は、たえず自分自身が変化することであり、独創的になることの唯一の方法は、自分の個性を強く大きく深くすることである。

作品番号(6)
『作家の手帖』
W・S・モーム/中村佐喜子訳

新潮社 1977年7月刊 

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira


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