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No.07『コインロッカー・ベイビーズ』村上龍 石田衣良「小説家・石田衣良を育てた50冊」

子供の頃から無類の本好きだった小説家・石田衣良。小説家になり、ついには直木賞作家へと駆け上がった彼がこれまで読んできた中で特に影響を受けた作品50冊を、人生の思い出とともに紹介する書評エッセイ。
[毎週金曜日更新]

photo:大塚佳男


 1980年代の10年間(ということは多感な20代のすべてにおいて)、ぼくが読んでカッコよさに震えた本は2冊しかない。
 ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』と、これから紹介する村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』だ。
『ニューロマンサー』は誰も想像さえしていなかった革新的な電脳世界の表現によって、84年の発表以降SFだけでなく映画・アニメ・マンガなどポップカルチャー全般に、巨大なインパクトと影響を及ぼした。『攻殻機動隊』『マトリックス』シリーズ、その他数百本のB級SFサスペンス映画を思いだして欲しい。ブラウン管に緑のカーソルが点滅していたコンピュータの石器時代に、フルカラーフルダイブのバーチャルリアリティを描いたのだから当然である。この半世紀で出版された小説では、並ぶもののない最大の影響力だ。ボブ・ディランではなくギブスンにさっさとノーベル文学賞を与えるべきだったと思うけれど、芸術性だけに目を奪われていると、文化史レベルでの正当な作品評価は難しいのかもしれない。

 村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』(1976年)は、芥川賞を受賞したうえ、単行本は130万部超の大ベストセラーとなった。天邪鬼あまのじゃくなぼくは、皆が読んでいるならと、いつものようにスルーを決めこんでいた。もともと売れている本が苦手なのだ。ただし村上龍という存在は、あの不機嫌そうなポートレートの印象もあり、意識のどこかにいつもあったのは確かである。
 3作目の勝負作『コインロッカー・ベイビーズ』が4年後に登場したとき、ぼくは20歳の大学生で、かなり高価だったけれど上下巻の単行本を手に入れ、ひと晩で読み切ってしまった。日本の小説では見たことのないカッコよさだと興奮に震えたのを覚えている。それまでの現代文学は旧社会への違和感や反抗、私小説的な男女の交情を描いて秀逸だったけれど、ポップなカッコよさという評価基準を初めから持っていなかった。採点するための項目さえなかったのである。

 デビュー作は米軍基地の街で暮らす若者の無軌道なドラッグ乱用とセックスを鮮やかに描いた中編だった。イギリスの「怒れる若者たち」という新人作家群やアメリカ製の『ライ麦畑でつかまえて』『ブルックリン最終出口』など、新世代をショッキングに描く作品をいくつか読んでいたので、素晴らしいけれどそのライン上の作品だというのが、ぼくの認識である。
 けれど『コインロッカー・ベイビーズ』はまったく違う。青春の反抗という内側に向かうベクトルではなく、外側に飛びだし旧社会を徹底的に破壊する暴力とテロに舵を切ったのだ。くよくよ、うじうじ、なんてしていられない。重苦しく湿度の高い日本文学への鮮やかな決別だった。主人公のハシとキクは、ほとんどの赤ん坊が遺体となって発見されるコインロッカーへの遺棄という過酷な状況を、並外れた生命力と盛大な泣き声によって生き延びる。九州にある廃坑となった炭鉱の島に住む里親にもらわれていき、そこで高校まで伸びのびと過ごす。成長したふたりの軌跡は対照的だ。素晴らしい歌声をもつハシは上京して怪物的なプロデューサーのもと歌手として成長していく。強い暴力衝動を持つキクは刑務所のなかで仲間をつくり、米軍が廃棄した禁断の向精神薬ダチュラを探し求める。

 精神深部に潜む破壊と殺人の衝動を解き放つ向精神薬のモデルは、覚醒時に暴力的な副作用を引き起こすことがあるPCP=エンジェルダストだが、作中では副作用は極大化され、使用者はフットボールを素手で握り潰すほどの怪力を発揮し、誰かに殺されるまで周囲にいる人間を殺すのをやめない殺人マシーンへと変貌するのだ(「週刊少年ジャンプ」の異能バトルものへも多大な影響を与えたと、ぼくは秘かに考察する)。南洋の小島の沖合でダチュラを回収したキクは東京を終わらせるためにダチュラを散布し、中心のない万人の万人によるテロを誘発。血まみれのパニックのなかで、美しいだけの声を変えるため舌の一部を切除したハシは新たな歌に目覚める。
 ロムルスとレムスはローマを建設するが、ハシとキクは東京に滅亡をもたらすのである。ほとんど神話的な物語だが、その細部は研究所レベルの光学顕微鏡でのぞきこんだように、すべてにフォーカスが合焦した凄まじい描写で書き尽くされている。『コインロッカー・ベイビーズ』は基本的には近未来の日本を舞台にしたSFアクションといっても、さしておおきな間違いにはならないが、若き村上龍から噴出したダイヤモンドエッジの描写力と圧倒的な破壊衝動で、一気に世界文学の第一線に躍りだすことになった。『ニューロマンサー』という次の衝撃に出会うまで、ぼくは5年という歳月を要したのだから。

 村上龍はこれ以降、旧社会へのテロと破壊の物語を、いくたびも変奏して書き継ぐことになるだろう。30代には『愛と幻想のファシズム』、40代に『五分後の世界』『希望の国のエクソダス』、50代で『半島を出よ』。テロと破壊の規模は拡大し、キクの単純な暴力衝動は政治や経済を巻きこんで理論化、組織化されていくけれど、核心にある怒りは変わることがない。最高到達点は『愛と幻想のファシズム』だが、ぼくは衝撃力と圧倒的なカッコよさで『コインロッカー・ベイビーズ』を読むべき最初の一冊に推したい。
 とあるテレビ番組で、好きな小説の舞台にどこでもいいから連れていってやるといわれ、ぼくが選んだのはハシとキクが子ども時代を送る島のモデルになった長崎・軍艦島だった。誰もいない小学校の校庭には夏草が繁り、日本初のコンクリート製高層住宅は空爆を受けたかのように窓ガラスが一枚も残っていなかった。廃墟になった無人の島を歩きながら、ずっと『コインロッカー・ベイビーズ』のことを思いだしていた。荒れ果てた廃坑の島をさまよい、ぼくは確かに新しい歌を聴いた。といえば、すこし筆の滑り過ぎになるのだが、この本のおかげで忘れられない旅になったのは間違いない。

 もう一方の作品系列として、性を中心に据えた作品群が村上龍にはある。ぼくの好きな『テニスボーイの憂鬱』『トパーズ』『エクスタシー』といった、生殖という本能から遠くはずれた性の在りかたを描いた作品だ。ここでも作家は、ぎりぎりのエッジを攻める。SMや売春、乱交など、愛の果てにある悲しくも強度の高い性と快楽を、無敵の乾いた文体でガラス板にでも彫りつけるように描くのだ。湿度のまったくないエロスの表現は凡百ぼんぴゃくの性愛小説から隔絶している。ぼく個人としては70代になった作者のこちらのラインの作品を心待ちにしているところ。村上龍の文体で書かれた『瘋癲ふうてん老人日記』を読みたい読者は、決してすくなくないはずである。
 破壊衝動や殺人、対米従属コンプレックス、極右運動、愛国主義さらにSM、乱交、援助交際といったエクストリームなセックス。村上龍はいつの時代でも、日本人の心の奥深く隠された傷をスキャンダラスに作品化することにかけて、飛び抜けた創造者だった。古傷のかさぶたを無理やりはがし、ここに今も出血する傷口があると高らかに警報を発するのだ。
 そんなことはすこし目端の利いた書き手なら、誰でもできるだろうというのは素人の考えで、試しに新自由主義以降の現代ニッポンで人気となった右傾エンタメ小説をいくつか読んでみるといい。そこに広がるのは『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』には遥かに及ばない、雨ざらしの湿った畳のような昔ながらの旧日本的な小説世界である。

 時代が変わり、若者たちがみな優しく、センスよくなり、誰とも争わなくなった。もう第二の村上龍があらわれることはたぶんないのだろう(ハルキ・フォロワーはすくなくないのだが)。
 けれども、それは別にかまわない。バブルの生成と崩壊の過程を背景に、日本人であることのいらだちと怒りをこれほどの精度と鮮度で描いた村上龍の作品が、光り輝くまま残されているのだ。
 第二の村上龍がいないなら、第一の村上龍を読んでいれば、それでいいのである。

作品番号(7)
『コインロッカー・ベイビーズ 上・下』

村上龍
講談社 1980年10月刊
 

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【小説家・石田衣良を育てた50冊】
毎週金曜日更新

石田衣良(いしだ・いら)
1960年、東京生まれ。1997年「池袋ウエストゲートパーク」でオール讀物推理小説新人賞を受賞し、続編3編を加えた『池袋ウエストゲートパーク』でデビュー。2003年『4TEEN』で直木賞、2006年『眠れぬ真珠』で島清恋愛文学賞、2013年『北斗 ある殺人者の回心』で中央公論文芸賞を受賞。著書に『娼年』『夜の桃』『水を抱く』『禁猟区』などがある。
Twitter: @ishida_ira

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